喪失 ミニコンサート後編19
千秋真一×野田恵


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「ふぉぉぉぉ〜!!のだめ、こっから落ちたんデスか〜……。」

目の前には大きな大きな白樫の木。口をあんぐりと開けたまま、私は茫然とその木を見上げていた。

「オレもおまえが落ちた場所は、初めて見たけど……。」

千秋先輩が同じ様に、私の隣で木を見上げながら呟いた。
よく見ると白樫の枝が一箇所途中で裂けていて、中の生木の部分が剥き出しになっている。おそらくあそこから私は落下したのだろう。

「のだめ、本当によく無事でしたね〜……。」
「ああ……。っていうか、多分あの下の茂みが、落下時にクッション代わりになったから、おまえ大した怪我がなかったんだろな。
ほら見ろよ。あそこが“のだめ型”になってンぞ!」

そう言って千秋先輩が指し示す先には、しっちゃかめっちゃかに私の身体の形に押し潰された、見るも無残なブッドレアの木があった。

「はぅぅぅ〜……。ごめんなサイ。」

私は“のだめ型”にくり貫かれてしまった可哀相なブッドレアの前にしゃがみ込むと、頭を下げて心からお詫びをした。

「そう言えば、山口先生から落木した場所をおまえに見せるなって言われてたけど……。まぁ、もう大丈夫だよな?」
「山口…センセ??」
「おまえの主治医の先生。すっげー世話になったンだぞ?」
「はぅっ!のだめ、この10日間、本当に全然記憶がないんですヨ!!」

今朝目が醒めたら、いつの間にか時間が一週間以上も経過していた。
私の中では、今日朝一の飛行機に乗って、福岡から横浜の三善さんちに行く筈だったのだけど……。
けれど実際には……私はすでに三善さんちにいるこの不可思議さ―――先輩から何度説明を聞いてもやっぱり理解できない。

「さっき先生に電話したら、検査したいから早く病院に来るようにってさ。
おまえの記憶が戻ったって聞いて、先生すっげー驚いてたけどね。」
「そですか……。山口先生…山口先生…やっぱりのだめ、全然思い出せないデス……。」
「今度はおまえ、記憶を失ってた事を忘れるなんて、な……。」

千秋先輩は物憂げな表情で、遠くの方を見つめている。
私は立ち上がると先輩の隣に寄り添って、その眼差しと同じ方向に視線をやる。
私達の間を、一陣の朝の爽やかな風が通り抜けていった。
すると、流れてきた風にのってきた甘い芳香が、私の鼻腔をくすぐった。

「むむん!何かいい香りがしマス!!」

いい匂いがする方へ鼻をクンクンとさせながら、わたしは歩いて行く。

「おまえ…犬みたい。」

呆れた様に苦笑しながら、千秋先輩は私の後についてきた。

「あっ!!先輩!!この香り!!この花の香りですヨ!!」

私の目の前には、すっと伸びた花茎の先に、ピンクがかった紫色の小花が、密集して咲いている植物があった。
それらがあたり一面に群生していて、ガーデンを華やかに彩っている。

「綺麗なお花ですネ!すっごく甘くていい香りがしマス!」
「ああ。ヘリオトロープか……。ここ、千代さん自慢のハーブガーデンだからな。」
「ヘリオトロープ?」
「ん。別名香水草って言ってな。その名の通り、このバニラにも似た甘く強い芳香から、香水がとれるんだ。」
「ふぉぉぉぉ〜!!香水!千秋先輩って物知りですネー!薀蓄王?」
「いや、オレも千代さんから聞いた話。しかし…近くだと、胸につくほど甘ったるい香りだな。」
「千秋先輩!この甘い香りといい…花の色といい…このヘリオトロープってターニャ!って気がしまセン!?」
「タ、ターニャ!?」

先輩は私が言った言葉に一瞬目を丸くするが、次の瞬間大笑いした。

「はははははっ!おまえうまい事言うなー!確かにターニャ!!」
「でショー?でも、お菓子みたいに甘くて良い香りですよネ〜コレ。」

私は少し屈むと、可愛い小花に鼻をクンクンとさせながら、思いきりその匂いを吸い込んだ。

「ん〜〜!のだめ、このお花好きデス!」

そう言って私の真横で花を見ていた先輩に顔を向けると、いきなりちゅ!と唇を奪われた。

「!!」
「……何?」

一瞬先輩から何をされたのか分からなくて、私はとてもアホっぽい顔をしてしまった。
頭がキスされたのだと理解した瞬間、自分の間抜け顔がかぁぁぁ…と真っ赤になる。
とにかくそんな自分が情けなくて恥ずかしくて、私は白目で千秋先輩に猛抗議した。

「んもぅっ!先輩はいつもどうしてのだめに、いきなりちゅーするんデスかっ!!」
「え?」
「これからは、不意打ちちゅーは禁止!!デスっ!!のだめがイイって言わない限り、もうちゅーしちゃイケマセン!!」
「は?何で?」
「ムキャーー!!先輩は女心を全然分かっていまセン!!のだめ今、ものすご〜くお間抜けな顔してましたヨ!!」

私は先輩から顔をふんっと逸らすと、ふくれっ面でぼやいた。

「……女の子だったら可愛い顔をして、好きな人からちゅーされたいんデス。」
「よくわかんねーけど、要するにキスの前に予告すればいいんだろ?」

喉の奥をくつくつとならして、先輩は笑っていた。

「じゃあ、のだめ。今からキスしてもいい?」
「……はぅっ!?」

先輩は私の頬にそっと手を添えて自分の方へ向かすと、頤を軽く持って私の顔を上を向かせた。

「……じゃあ、今からキスするぞー?」

そう言って私の至近距離まで顔を寄せてくると、悪戯っ子なような表情をして楽しそうに笑っている。

「せ、先輩……チョ、チョト!!」
「了解とってキスしろって言ったの、おまえだろ?」
「そ、そですケド……。」
「ほら、早く可愛い顔しろよ。」
「ムキャーーーー!!」

先輩に促されるように瞼を閉じると、私はキスの形に唇を尖らせ、一生懸命可愛い顔をした(つもりだった)。
甘い吐息がふわっと顔にかかったと思うと、先輩の優しくて熱い口付けがゆっくりと降りてくる。

「…ん…んん……。」

上唇をやわやわと食まれながら、上の歯列を先輩の甘い舌でゆっくりとなぞられる。
私がおずおずと舌を出すと、先輩は待ってたとばかりにそれを絡めとリ、思いきり吸い込んだ。

朝から…それもこんな外で熱烈なちゅーをされた事のなかった私は、少し引き気味になってしまう。
けれども、先輩はそんな私にお構いなしに、上から覆いかぶさるようにして、どんどん深いキスをしてくる。
情けない事に私は途中から腰が抜けてしまい、先輩の腕で崩れ落ちる寸前だった身体を、慌てて支えてもらった。

「あへ〜〜……。」
「くっくっく。のだめ、腰抜かすほどよかったんだ?」
「ムキーーーー!!千秋先輩のスケベ!カズオ!!朝からこんなちゅーは、反則デス!!」
「何だよ。おまえの言うとおり、ちゃんと了解とってしただろ?」
「バっ…バカぁ!!!」
「ははは!」

私が真っ赤になって怒っても、先輩はどこ吹く風だった。

「じゃあこれからは、今からするのがフレンチかディープか、キスする前に予告するか?」
「むきゃーーーー!!えっち!」
「……だって了解とれって言ったのおま」
「もうっイイです!!も、もう……のだめの了解をとらないでいいデス…から。」

どう見てもこのちゅーの駆け引きは、先輩の勝ちだった。私は素直に降参した。

「ちゅーされる前にそんなコト言われたら、のだめの心臓が幾つあっても持ちませんヨ……。」
「……そう?」

私の頬っぺたにちゅ!と音をたててキスをすると、先輩は満足げにニヤリと笑った。

「……さ、もうそろそろみんなも帰って来る頃だし、病院に行く準備をしないと。オレも付き添うから。」

私達は自然に手を取り合うと、お互いにしっかりと指を絡めてつないだ。
そうして裏のハーブガーデンの小道を散策しながら、ゆっくりと玄関に向けて歩き出す。

「でものだめ……。何か損した気分デス。」
「損?」
「だって、松田さんと先輩の競演、すっごく楽しみにしてたのに……聴けなかった。」
「でもおまえ、ちゃんと聴いてンだぞ?」
「記憶になかったら、意味ないじゃないデスか……。」

私が頬を膨らませながら呟くと、何故か先輩が嬉しそうに一人でくすくす笑っている。

「千秋先輩?何が可笑しいんデスか?」
「いや…オレは得したなーと思って。」
「得?何がデスか?」
「だってほら…おまえの“初めて”、二回も貰っちゃったし?」
「ぎゃぼーーーーー!!」

その発言に私は手を離すと、先輩の前に仁王立ちになった。

「先輩のどスケベ!!えっち!!カズオーー!!」
「昨夜ののだめ、オレのベッドの中で初々しく恥らったりして可愛かったなー。そのくせすっげーやらしかったし?」
「ムキャーーーー!!」

先輩のセクハラな暴言に、私の頭はプツンと切れた。

「千秋先輩のエロ親父!!先輩って、ただの処女好きだったんデスね!!」
「っは?しょ、処女好き……?」
「だってそうでショ!!先輩、今までの彼女で、“初めて”じゃなかった人、いましたかっ!?」
「あ。」
「ムキーーーー!!やっぱりそうなんデスねっ!?とんだバージン・キラーの毒牙に、のだめはかかっちゃいましたヨ!!」
「バ、バ、バージン・キラー……?」
「千秋先輩は、のだめの“初めて”が目的だったんデスね!!」
「っな……!!ンな訳ないだろーがっ!!」
「どうせのだめは“初めて”でしたよっ!!経験豊富な千秋先輩と違って、のだめは先輩しかしりませんヨ!!」

怒りで全身を震わしながらそう絶叫すると、先輩は何とか私を宥めすかそうと思ったのか、私を抱きしめようと腕を伸ばした。
私はその手をバシッ!と、はたいた。

「痛っ!」
「のだめ、今は先輩しか知りませんけどっ!!この先はわからないんですからネっ!!」
「おい、こら、ちょっと待て!!それはどういう意味だーー?」
「それにっ!!自惚れないで下さいネ!!ちゅーまで自分がのだめの“初めて”の相手だと思ってるなら、大間違いですヨ!!」
「えっ!?な、何だって?」

私は先輩に『いーーっだ!』と言いながら舌を出すと、玄関に向かって猛スピードで走り出した。

「っちょ!のだめ!待てって!今の話、どーゆー事だよ!…って、おい聞けって!」

先輩が慌てて後ろから追いかけてくるが、私は振り向きもせずにそのまま走り続けた。

「おいっ!のだめっ!そんなに急に走ったらっ…身体に良くないだろーがっ!!!」

先輩が後ろで何やら大声で叫んでいたが、私は完全に無視をした。
私達はしばらくの間、三善さんちの広い庭中を、二人で追いかけごっこをして息を切らしていた。

**********

のだめの検査が終わるまで、オレは病院のロビーの一箇所にある待合室で、手持ち無沙汰で過ごしていた。
一応テレビの方へ視線は向けるが、朝のワイドショー関係の番組らしく、あまり興味もなかったので、ただぼんやりと見ていた。



『のだめちゃんの記憶が戻ったーーー!?』


オレ達が走り回って玄関の前へ出ると、ちょうど竹叔父さんや母さん達がタクシーから降りる所だった。
どうやらみんなのだめの事が心配で、朝食も取らずに朝一でタクシーをかっ飛ばして帰って来たらしい。


『本当なのっ?のだめちゃん!記憶が戻ったって!!』

『えと、ハイ。そうみたいデス。』

『うえーーーーん!!のだめちゃん!!良かったよぉーーーー!!』


由衣子が大声で泣きじゃくりながら、のだめにしがみついた。のだめは少し困ったような顔をして、由衣子を抱き締めていた。
竹叔父さんも母さんも面食らった顔をして、お互いを見合っていた。


『その代わり、記憶がなかった間の事を忘れてんだ、こいつ。』

『ええっ!?そうなの?のだめちゃん!怪我した事、忘れちゃったのぉーー??』

『全然憶えていないんデス。朝起きたらのだめ…いつの間にか三善さんちに居たんデス。』


のだめは困惑した表情で、母さん達に状況を説明しているが、みんなあっけに取られたまま固まっていた。
オレも先程まで同じ気持ちだったから、母さん達の心理状態が手に取るように理解できた。


『でも……。何で、のだめちゃんの記憶が、今朝になって急に戻ったのかしら?』

母さんの鋭い質問に、オレはドキリ!とし、冷や汗が背中をつつつ…とつたった。
“セックスしたら次の日、のだめの記憶が戻っていました。”とは、口が避けても……絶対に言えない。
流石に今、オレのベッドシーツやカバーを丸洗いしてるから、千代さんにバレてるのは間違いないけれど……。
でも自分の家族に…しかも年頃の俊彦や由衣子にそういうのが知られるのは、非常に気まずいし教育上良くない事は明らかだ。


『きっと昨日の真兄ちゃまの公演を聴いたからじゃないっ!?きっとそうよっ!!』


その時、由衣子が上手い事を言ってくれた。オレは小さな彼女のその発言に感謝しつつ、加勢するように付け加えた。


『思えば昨夜、のだめの体調が悪くなったのも、この予兆だったのかもしれないな。』

『……のだめは憶えていないから、よ、よく分からないんですケド。』


のだめは顔を真っ赤にさせながら、俯いて呟いた。瞬間、オレはしまったと思ったが、もう後の祭りだった。
こいつの表情にピン!ときたのか、竹叔父さんと俊彦が真っ赤になって、オレ達から目を逸らした。
母さんといえば……物凄いジト目で、オレを凝視していた。


『ま、そ、そういう訳だからっ!今から病院に、こいつの検査に行って来るから……。』

『あ、そ、そうなんだ。気をつけてね、真兄。』

『わ、私達は…まだ朝食をとっていないから……。久しぶりにみんなで朝ごはんをた、食べるか……。』

『きゃーーー!由衣子、今日学校お休みして得しちゃった!のだめちゃんも記憶が戻ったし!!』


これから朝食にすると言う母さん達と玄関で別れ、オレ達は簡単に準備をすませると、病院に向けて三善の家を後にしたのだった。

―――あー……由衣子には気がつかれてないのが救いだけど……
―――竹叔父さんや母さん、それに俊彦にまで知られるとは…情けねー……。

オレが待合室のソファに座りながら、赤くなったり青くなったりと百面相していると、後ろから看護士に声を掛けられた。

「千秋さん。山口が、のだめちゃんの検査が済んだので診察室へお入り下さい、と申しておりますが。」
「あ、そうですか?すみません。今行きます。」

オレは慌てて腰をあげると、山口先生の診察室に向かった。








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