千秋真一×野田恵
![]() ドアを軽く三回ノックすると、『どうぞ、お入り下さい。』という、山口先生の穏やかな声が扉の向こうから聞こえた。 「おはようございます、山口先生。」 「おはようございます、千秋さん。公演が終わったばかりでお疲れの所、朝早くから、無理を言って申し訳ありませんでした。」 「いえ、そんな事は!こちらこそ、先生にはご迷惑をおかけしてばっかりで…本当に申し訳ありません。」 山口先生から『どうぞ、お掛け下さい。』と勧められた椅子の隣にはのだめが座っていて、オレをニコニコと笑いながら見上げていた。 「失礼します。のだめ、検査は無事に済んだのか?」 「ハイ!もう終わりましたヨ〜!」 オレ達の他愛もない会話を聞きながら、先生は机の上に置いてあった書類をまとめると、封筒の中に入れている。 「検査の結果、やはり今の所、のだめちゃんには特に異常等は見受けられませんでした。ご安心なさって下さい。」 「そうですか……。それは良かったです。先生には何とお礼を申したらいいか…本当にありがとうございます。 ほら、のだめっ!おまえからもちゃんと先生にご挨拶しろっ!」 「あ、ありがとうございましタ。や、山口先生。」 のだめはおずおずと、お礼の言葉を先生に伝えている。 しかしのだめには山口先生との記憶がないから、正直何の事だかさっぱり分からない…と言うのが本音のようだった。 「ふふふ。いいんですよ。でもせっかく千秋さんがいらっしゃるから、ちょっと最後の確認をしてみましょうか?」 先生は肩を竦めながら微笑すると、のだめの方へ向き直った。 「最後の…確認デスか?」 「ええ。のだめちゃんリラックスして、今から私がする簡単な質問に答えて下さいね。」 「えと、ハイ!」 「ではまず、のだめちゃんは今、どちらに留学されていますか?」 「のだめですか?パリのコンセルヴァトワールって所ですヨ?」 「そこで、何の勉強をされているのですか?」 「のだめはピアノの勉強デス!」 「お一人で留学されているのですか?」 「いいえ、違いますよ〜!隣にいる、千秋先輩と一緒に、デス。ぎゃはぁっ!」 のだめは頬を紅潮させるともじもじして、照れたようにオレを見上げた。 「では、千秋さんとのだめさんのご関係を教えて下さいますか?」 「むきゃ!!のだめは千秋先輩の妻、デス!!先輩のかわゆ〜い愛妻デス!!」 「えっ!?妻っ!?」 「あの先生……こいつ、変態で妄想癖があるんで、適当に流してくれませんか……?」 オレがそう言うと、先生は吃驚した顔をして、次の瞬間盛大に笑い出した。 「あはははは!有り難うございました。のだめちゃん、もう結構ですよ?」 山口先生はクスクス笑いながら、先程から整理していた封筒をオレの前にすっと差し出した。 「これを……。一応のだめちゃんの今回の事故後の病状の経緯や、処方した薬等をフランス語で書いておきました。」 「えっ?」 「脳の障害は、時間が経過してから後遺症が現われる事も多いので、最低半年は様子を見て下さい。 何かありましたらすぐに、病院で受診される事をお薦め致します。この書類はその時にでも御活用頂ければ……。」 「……すみません。山口先生、本当にありがとうございます。」 オレは先生に深く頭を下げながら、その封筒を受け取った。 「それより、今度は私がのだめちゃんに忘れられちゃうとは……。残念ですね。」 山口先生は悪戯っぽい眼差しで、のだめの顔を覗き込んだ。 「ぎゃぼっ!!ごめんなサイ!」 「いいんですよー?私はのだめちゃんの事、しっかり憶えていますからねー。 あなたが私に弾いて下さったあのピアノ……一生忘れません。」 先生はそう言いながらのだめの手を取ると、大きな手で柔らかく包み込んでぎゅっと握った。 「本当にありがとうございました、のだめちゃん。」 「ふぉぉぉぉ〜!のだめ、先生にピアノを弾いてあげたんデスか?」 「ええ。とっても素敵なリストを、ね?」 先生はオレに思わせぶりに目配せした。 「むーーーー!のだめちっとも思いだせないですヨ……。リスト…リスト……。」 「はぁ……。ったく、日本に帰ってから、ずっとおまえに振り回されっぱなしだった……。最悪だ。」 オレがそうぼやくと、山口先生がのだめにヒソヒソ声で耳打ちしている。 「そうそう、のだめちゃん。のだめちゃんが記憶を失っている間ですけどね……?」 「むきゃ……?何デスか……?」 「千秋さんはそれはそれは、とろける様にのだめちゃんに甘々でしたよ〜?いつもそうなんですか?」 「ええええっ!?この隣に座っているカズオがデスかっ!?」 「おい、こら、誰がカズオだーーーー!!」 「ぎゃぼーーーー!!」 先生の目の前では、オレがのだめの頭をはたくと、のだめが白目になって抗議する…といういつものパターンが繰り広げられていた。 「またのだめ……記憶なくしちゃおっかな……。」 「あーーーー?おまえ、ふざけてンのか!!冗談じゃねぇっ!!絞め殺すぞっ!!」 「ぎゃぼーーーー!何ですカ!それがカズオだって言うんですヨ!!」 「どこがカズオ!!大体、おまえがややこしい事になるから、オレがどれだけ大変だったか!少しは反省しろっ!!」 「ムキーーーー!!先生は先輩はのだめに甘々だったって言うけど、ハッキリ言って、それは何かの勘違いですネ!!」 「何だとっ!?」 「ふふふ。お二人はいつもこうだったんですねー?」 山口先生はオレ達の会話を聞いて、お腹を抱えて笑っていた。 確かにこれは他人からみたら、いちゃついたカップルの痴話喧嘩みたいに、聞こえなくも無い……。 「すみません。最後までお騒がせして……。」 「いいんですよ?今まで通りが一番良いのですからねー?」 オレは恥ずかしいやらみっともないやらで、先生の前で大いに恐縮した。 「そういえば、千秋さんとのだめちゃんは、もう明日にはパリへ戻られるのですか?」 「はい。のだめの事を考えたら、もう少し日本でゆっくりした方が良いのですが……。僕も向こうで大事な仕事が控えていまして。」 「先生?先輩は飛行機が苦手なんデス。だから、長時間のフライトはのだめなしだと乗れない、甘えんぼさん♪なんデス!!」 「へー!そうなんですか、千秋さん!」 「……飛行機が苦手なのは本当ですが……。別に一人でも大丈夫です……。」 「うきゅきゅ〜♪またまた先輩、強がり言っちゃってー!!この前のだめにしがみついて、子犬のように震えてたのは誰ですカー?」 「ばっ…馬鹿野郎!!ンな事、先生に言うんじゃねーーーー!!」 「ぎゃぼーーーー!!」 結局オレ達の会話は最後までこんな調子で、先生を笑わせてばかりだった。 「先生、本当にお世話になりました。」 「あ、ありがとうございましタ。」 「いえ、私は医師として、職務を全うしただけの事です。お二人のこれからの益々のご活躍を、心からお祈り申し上げております。」 山口先生がオレに手を差し出してきたので、オレは先生の暖かい手をぎゅっと握り返した。 続いてのだめも、先生としっかりと握手をしている。 「では先生。失礼します。」 「山口先生。またね!」 「ええ、またね!のだめちゃん!」 優しく手を振って見送ってくれた先生を残して、オレ達は診察室を後にした。 ***** 次の患者の準備をしながら、山口は看護士の持ってきたファイルを、診察順にきちんと並べていた。 ふと、窓の外へ視線をやると、千秋とのだめが、病院のカーポートをぐるっと回って、駅の方向へ歩いて行く後姿が見える。 二人の手はしっかりと…俗に言う“恋人つなぎ”をしていて、遠くから見ても分かる位、甘い恋人達の雰囲気を醸し出していた。 ―――千秋さん、のだめちゃん。良かったですね……! 山口は心の中で呟いた。のだめに自分を忘れられた事は悲しかったが、二人のこんな睦まじい姿を見れたなら、それも本望だった。 彼は二人のシルエットに、自分自身の思い出を重ねつつ、医師としての充足感をひしひしと感じていた。 ―――私はこれからも…脳神経外科医として職務を果たしていければ……! 新たな誓いを胸に、彼は受付の看護士に声を掛けた。 「次の患者さんを呼んで下さい。」 ********** 千秋はのんびりと歩いていたつもりだったが、駅まであっと言う間に着いてしまった。 駅のターミナルを抜けて改札の前に来ると、混雑する切符売り場から少し外れた所で、二人は立ち止まった。 「千秋先輩はこれからどうするんデスかー?」 「オレはこれから、R☆Sの公演終了後のミーティングがあって…それから夜は打ち上げだな。」 「ふぉぉぉぉ〜!!打ち上げ!!」 「明日パリに帰るって言ったら、オレのお別れ会も兼ねて盛大にやるって峰が張り切ってな。お別れ会って……ったく子供かよ。」 「えーーーー!!いいじゃないですか、楽しそうで!!峰くん達、きっと寂しいんですヨ!!」 「……おまえはこれからどうすンの?」 千秋が訊ねると、のだめは思案げな表情をした。 「むー!のだめ、日本に帰る前に、かおりちゃんに遊びに来てネ!って言われてたんですケド。」 「かおりさんに?」 「マラドナコンクルでのだめが借りたかおりちゃんのドレス、もう着ないからのだめにくれるらしんですヨ〜。」 「うっ!……あのヴィヴィアン・リーのかっ!?」 「いえ、アレじゃなくて、その前の予選で着たのですケド?」 「……あ、そ。」 「でも明日パリに帰るのに、荷造りとか色々準備しなくちゃいけないから……。 のだめ、今回はかおりちゃんち行くの止めて、このまま三善さんのお家に帰りマス。」 のだめはそう言うと、目的地までの切符を買おうと案内板をじっと見上げている。 「先輩は東京の方へ行くんでショ?のだめとは反対方向だから、ここでお別れですネ?」 「あ、ああ。そうだな……。」 「のだめ、切符買ってきますネ!」 のだめは人ごみの中を歩いて行こうとしたが、ある事に気がついて歩みを止めた。 「先輩。手を離してくれないと、のだめ、切符買えないデス!!」 「あ、ああ……。」 千秋は反射的にそう言うが、相変わらずのだめの指にしっかりと自分の指を絡め、ぎゅっと握り締めたまま、一向に離そうとしない。 「千秋先輩?」 「え……?」 「んもう!だから手!ちゃんと聞いてマスか〜?のだめの話!」 「ああ、そっか……。」 千秋は口篭るがやはり手を離そうとしないので、さすがののだめも、千秋の様子を不思議に思った。 「どうしたんデスか?千秋先輩?」 「うん……。」 のだめは千秋を次の言葉を、辛抱強く待っていた。 「あのさ……。お前も一緒に来ない?」 「一緒にって……。R☆Sのミーティングと打ち上げにデスか?」 「うん。」 「ダメですヨー!のだめ、全然関係ないんですから!変に思われちゃいますヨ?」 「そ、そうだよな……。」 千秋はそれだけ言うと、気まずそうにのだめから顔を背けた。 「千秋先輩?本当にどうしちゃたんデスか?」 「……。」 「のだめに何か話したいことでも?」 「……いや、そーゆー訳じゃないンだけど……。」 「けど?」 「何かここで手を離したら…別れたら…またオレの事を忘れてしまったおまえに戻ってしまいそうで、怖くて……。」 千秋は耳まで真っ赤になって、俯いた。 「んもー!そんなコト、ある訳ないじゃないですカー!」 のだめも真っ赤になって、千秋の胸を甘えるようにトンと押す。 「千秋先輩は、時々本当に甘えんぼさんですヨ?」 「うるせー……!」 「大丈夫です。のだめ、もう千秋先輩の事、忘れたりしませんから……。」 「……本当?」 「勿論デス!」 「うん……。」 ようやく千秋は安心したのか、繋いでいたのだめの手をゆっくりと離した。 「先輩!今日は帰って来るのは何時頃になりますかー?」 「なるべく早く帰るよ。明日のフライト、早い時間だし……。11時頃までには戻れると思う。」 「そですかー!じゃあーのだめ、先輩が帰って来るまで、寝ないで待ってますネ?」 「うん。待ってろ、ちゃんと……。」 のだめが記憶をなくしてから、千秋はずっと『オレの帰りを待っていないで、早く寝ろ。』とのだめにいい続けていた。 だから今日初めて、その彼女に『待ってろ。』といえた事が、彼にはとても嬉しかった。 「先輩!また後で!」 「ああ。気をつけて帰れよ。」 「先輩こそ飲み過ぎないで下さいヨ〜?あっ!後、可愛いオケのコと、浮気は絶対にダメですからネ!!」 「……何言ってんだ。」 「それじゃー!先輩またねー!」 「ん!」 改札の中で二人は別れると、 のだめは三善の家に帰る為に左の階段を、千秋は東京方面の右の階段を降りて行った。 のだめがホームに降りると、ちょうど線路を挟んで向こう側にに、千秋が立っているのに気がついた。 「千秋先輩!!」 そうのだめが声を掛けると、千秋が“何だ?”という表情をしてこちらを見た。 《まもなく、一番線に下り電車がまいります。白線の内側に下がって―――》 「大好きっ!!」 のだめがそう叫んで千秋が真っ赤になった瞬間、線路に電車が猛スピードで入ってきた。 のだめはすぐに電車に乗り込んで、反対側の扉へ行って向こうのホームを見る。 すると千秋がゆでだこの様に真っ赤になりながらも、怒った顔をしてこっちを睨んでいた。 「(あ・と・で・ネ!)」 少年の様な千秋の可愛い仕草に笑いを堪えながら、のだめが口だけでゆっくりと伝えると、 彼も恥ずかしそうに周りを見回しながら(あ・と・で!)と口を動かした。 そしてプシューという音と同時に扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出す。 のだめが千秋にバイバイと手を振ると、彼は目を逸らしながらも、手を上げずに小さく二回ほどバイバイと手を振った。 照れ屋の彼なりの精一杯の愛情表現に、のだめは幸福な気持ちになった。 そうしてのだめは、そんな千秋の姿が見えなくなるまで、ずっと窓の外を見続けていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |