喪失 ミニコンサート後編20
千秋真一×野田恵


ドアを軽く三回ノックすると、『どうぞ、お入り下さい。』という、山口先生の穏やかな声が扉の向こうから聞こえた。

「おはようございます、山口先生。」
「おはようございます、千秋さん。公演が終わったばかりでお疲れの所、朝早くから、無理を言って申し訳ありませんでした。」
「いえ、そんな事は!こちらこそ、先生にはご迷惑をおかけしてばっかりで…本当に申し訳ありません。」

山口先生から『どうぞ、お掛け下さい。』と勧められた椅子の隣にはのだめが座っていて、オレをニコニコと笑いながら見上げていた。

「失礼します。のだめ、検査は無事に済んだのか?」
「ハイ!もう終わりましたヨ〜!」

オレ達の他愛もない会話を聞きながら、先生は机の上に置いてあった書類をまとめると、封筒の中に入れている。

「検査の結果、やはり今の所、のだめちゃんには特に異常等は見受けられませんでした。ご安心なさって下さい。」
「そうですか……。それは良かったです。先生には何とお礼を申したらいいか…本当にありがとうございます。
ほら、のだめっ!おまえからもちゃんと先生にご挨拶しろっ!」
「あ、ありがとうございましタ。や、山口先生。」

のだめはおずおずと、お礼の言葉を先生に伝えている。
しかしのだめには山口先生との記憶がないから、正直何の事だかさっぱり分からない…と言うのが本音のようだった。

「ふふふ。いいんですよ。でもせっかく千秋さんがいらっしゃるから、ちょっと最後の確認をしてみましょうか?」

先生は肩を竦めながら微笑すると、のだめの方へ向き直った。

「最後の…確認デスか?」
「ええ。のだめちゃんリラックスして、今から私がする簡単な質問に答えて下さいね。」
「えと、ハイ!」
「ではまず、のだめちゃんは今、どちらに留学されていますか?」
「のだめですか?パリのコンセルヴァトワールって所ですヨ?」
「そこで、何の勉強をされているのですか?」
「のだめはピアノの勉強デス!」
「お一人で留学されているのですか?」
「いいえ、違いますよ〜!隣にいる、千秋先輩と一緒に、デス。ぎゃはぁっ!」

のだめは頬を紅潮させるともじもじして、照れたようにオレを見上げた。

「では、千秋さんとのだめさんのご関係を教えて下さいますか?」
「むきゃ!!のだめは千秋先輩の妻、デス!!先輩のかわゆ〜い愛妻デス!!」
「えっ!?妻っ!?」
「あの先生……こいつ、変態で妄想癖があるんで、適当に流してくれませんか……?」

オレがそう言うと、先生は吃驚した顔をして、次の瞬間盛大に笑い出した。

「あはははは!有り難うございました。のだめちゃん、もう結構ですよ?」

山口先生はクスクス笑いながら、先程から整理していた封筒をオレの前にすっと差し出した。

「これを……。一応のだめちゃんの今回の事故後の病状の経緯や、処方した薬等をフランス語で書いておきました。」
「えっ?」
「脳の障害は、時間が経過してから後遺症が現われる事も多いので、最低半年は様子を見て下さい。
何かありましたらすぐに、病院で受診される事をお薦め致します。この書類はその時にでも御活用頂ければ……。」
「……すみません。山口先生、本当にありがとうございます。」

オレは先生に深く頭を下げながら、その封筒を受け取った。

「それより、今度は私がのだめちゃんに忘れられちゃうとは……。残念ですね。」

山口先生は悪戯っぽい眼差しで、のだめの顔を覗き込んだ。

「ぎゃぼっ!!ごめんなサイ!」
「いいんですよー?私はのだめちゃんの事、しっかり憶えていますからねー。
あなたが私に弾いて下さったあのピアノ……一生忘れません。」

先生はそう言いながらのだめの手を取ると、大きな手で柔らかく包み込んでぎゅっと握った。

「本当にありがとうございました、のだめちゃん。」
「ふぉぉぉぉ〜!のだめ、先生にピアノを弾いてあげたんデスか?」
「ええ。とっても素敵なリストを、ね?」

先生はオレに思わせぶりに目配せした。

「むーーーー!のだめちっとも思いだせないですヨ……。リスト…リスト……。」
「はぁ……。ったく、日本に帰ってから、ずっとおまえに振り回されっぱなしだった……。最悪だ。」

オレがそうぼやくと、山口先生がのだめにヒソヒソ声で耳打ちしている。

「そうそう、のだめちゃん。のだめちゃんが記憶を失っている間ですけどね……?」
「むきゃ……?何デスか……?」
「千秋さんはそれはそれは、とろける様にのだめちゃんに甘々でしたよ〜?いつもそうなんですか?」
「ええええっ!?この隣に座っているカズオがデスかっ!?」
「おい、こら、誰がカズオだーーーー!!」
「ぎゃぼーーーー!!」

先生の目の前では、オレがのだめの頭をはたくと、のだめが白目になって抗議する…といういつものパターンが繰り広げられていた。

「またのだめ……記憶なくしちゃおっかな……。」
「あーーーー?おまえ、ふざけてンのか!!冗談じゃねぇっ!!絞め殺すぞっ!!」
「ぎゃぼーーーー!何ですカ!それがカズオだって言うんですヨ!!」
「どこがカズオ!!大体、おまえがややこしい事になるから、オレがどれだけ大変だったか!少しは反省しろっ!!」
「ムキーーーー!!先生は先輩はのだめに甘々だったって言うけど、ハッキリ言って、それは何かの勘違いですネ!!」
「何だとっ!?」
「ふふふ。お二人はいつもこうだったんですねー?」

山口先生はオレ達の会話を聞いて、お腹を抱えて笑っていた。
確かにこれは他人からみたら、いちゃついたカップルの痴話喧嘩みたいに、聞こえなくも無い……。

「すみません。最後までお騒がせして……。」
「いいんですよ?今まで通りが一番良いのですからねー?」

オレは恥ずかしいやらみっともないやらで、先生の前で大いに恐縮した。

「そういえば、千秋さんとのだめちゃんは、もう明日にはパリへ戻られるのですか?」
「はい。のだめの事を考えたら、もう少し日本でゆっくりした方が良いのですが……。僕も向こうで大事な仕事が控えていまして。」
「先生?先輩は飛行機が苦手なんデス。だから、長時間のフライトはのだめなしだと乗れない、甘えんぼさん♪なんデス!!」
「へー!そうなんですか、千秋さん!」
「……飛行機が苦手なのは本当ですが……。別に一人でも大丈夫です……。」
「うきゅきゅ〜♪またまた先輩、強がり言っちゃってー!!この前のだめにしがみついて、子犬のように震えてたのは誰ですカー?」
「ばっ…馬鹿野郎!!ンな事、先生に言うんじゃねーーーー!!」
「ぎゃぼーーーー!!」

結局オレ達の会話は最後までこんな調子で、先生を笑わせてばかりだった。

「先生、本当にお世話になりました。」
「あ、ありがとうございましタ。」
「いえ、私は医師として、職務を全うしただけの事です。お二人のこれからの益々のご活躍を、心からお祈り申し上げております。」

山口先生がオレに手を差し出してきたので、オレは先生の暖かい手をぎゅっと握り返した。
続いてのだめも、先生としっかりと握手をしている。

「では先生。失礼します。」
「山口先生。またね!」
「ええ、またね!のだめちゃん!」

優しく手を振って見送ってくれた先生を残して、オレ達は診察室を後にした。

*****

次の患者の準備をしながら、山口は看護士の持ってきたファイルを、診察順にきちんと並べていた。
ふと、窓の外へ視線をやると、千秋とのだめが、病院のカーポートをぐるっと回って、駅の方向へ歩いて行く後姿が見える。
二人の手はしっかりと…俗に言う“恋人つなぎ”をしていて、遠くから見ても分かる位、甘い恋人達の雰囲気を醸し出していた。

―――千秋さん、のだめちゃん。良かったですね……!

山口は心の中で呟いた。のだめに自分を忘れられた事は悲しかったが、二人のこんな睦まじい姿を見れたなら、それも本望だった。
彼は二人のシルエットに、自分自身の思い出を重ねつつ、医師としての充足感をひしひしと感じていた。

―――私はこれからも…脳神経外科医として職務を果たしていければ……!

新たな誓いを胸に、彼は受付の看護士に声を掛けた。

「次の患者さんを呼んで下さい。」

**********

千秋はのんびりと歩いていたつもりだったが、駅まであっと言う間に着いてしまった。
駅のターミナルを抜けて改札の前に来ると、混雑する切符売り場から少し外れた所で、二人は立ち止まった。

「千秋先輩はこれからどうするんデスかー?」
「オレはこれから、R☆Sの公演終了後のミーティングがあって…それから夜は打ち上げだな。」
「ふぉぉぉぉ〜!!打ち上げ!!」
「明日パリに帰るって言ったら、オレのお別れ会も兼ねて盛大にやるって峰が張り切ってな。お別れ会って……ったく子供かよ。」
「えーーーー!!いいじゃないですか、楽しそうで!!峰くん達、きっと寂しいんですヨ!!」
「……おまえはこれからどうすンの?」

千秋が訊ねると、のだめは思案げな表情をした。

「むー!のだめ、日本に帰る前に、かおりちゃんに遊びに来てネ!って言われてたんですケド。」
「かおりさんに?」
「マラドナコンクルでのだめが借りたかおりちゃんのドレス、もう着ないからのだめにくれるらしんですヨ〜。」
「うっ!……あのヴィヴィアン・リーのかっ!?」
「いえ、アレじゃなくて、その前の予選で着たのですケド?」
「……あ、そ。」
「でも明日パリに帰るのに、荷造りとか色々準備しなくちゃいけないから……。
のだめ、今回はかおりちゃんち行くの止めて、このまま三善さんのお家に帰りマス。」

のだめはそう言うと、目的地までの切符を買おうと案内板をじっと見上げている。

「先輩は東京の方へ行くんでショ?のだめとは反対方向だから、ここでお別れですネ?」
「あ、ああ。そうだな……。」
「のだめ、切符買ってきますネ!」

のだめは人ごみの中を歩いて行こうとしたが、ある事に気がついて歩みを止めた。

「先輩。手を離してくれないと、のだめ、切符買えないデス!!」
「あ、ああ……。」

千秋は反射的にそう言うが、相変わらずのだめの指にしっかりと自分の指を絡め、ぎゅっと握り締めたまま、一向に離そうとしない。
「千秋先輩?」
「え……?」
「んもう!だから手!ちゃんと聞いてマスか〜?のだめの話!」
「ああ、そっか……。」

千秋は口篭るがやはり手を離そうとしないので、さすがののだめも、千秋の様子を不思議に思った。

「どうしたんデスか?千秋先輩?」
「うん……。」

のだめは千秋を次の言葉を、辛抱強く待っていた。

「あのさ……。お前も一緒に来ない?」
「一緒にって……。R☆Sのミーティングと打ち上げにデスか?」
「うん。」
「ダメですヨー!のだめ、全然関係ないんですから!変に思われちゃいますヨ?」
「そ、そうだよな……。」

千秋はそれだけ言うと、気まずそうにのだめから顔を背けた。

「千秋先輩?本当にどうしちゃたんデスか?」
「……。」
「のだめに何か話したいことでも?」
「……いや、そーゆー訳じゃないンだけど……。」
「けど?」
「何かここで手を離したら…別れたら…またオレの事を忘れてしまったおまえに戻ってしまいそうで、怖くて……。」

千秋は耳まで真っ赤になって、俯いた。

「んもー!そんなコト、ある訳ないじゃないですカー!」

のだめも真っ赤になって、千秋の胸を甘えるようにトンと押す。

「千秋先輩は、時々本当に甘えんぼさんですヨ?」
「うるせー……!」
「大丈夫です。のだめ、もう千秋先輩の事、忘れたりしませんから……。」
「……本当?」
「勿論デス!」
「うん……。」

ようやく千秋は安心したのか、繋いでいたのだめの手をゆっくりと離した。

「先輩!今日は帰って来るのは何時頃になりますかー?」
「なるべく早く帰るよ。明日のフライト、早い時間だし……。11時頃までには戻れると思う。」
「そですかー!じゃあーのだめ、先輩が帰って来るまで、寝ないで待ってますネ?」
「うん。待ってろ、ちゃんと……。」

のだめが記憶をなくしてから、千秋はずっと『オレの帰りを待っていないで、早く寝ろ。』とのだめにいい続けていた。
だから今日初めて、その彼女に『待ってろ。』といえた事が、彼にはとても嬉しかった。

「先輩!また後で!」
「ああ。気をつけて帰れよ。」
「先輩こそ飲み過ぎないで下さいヨ〜?あっ!後、可愛いオケのコと、浮気は絶対にダメですからネ!!」
「……何言ってんだ。」
「それじゃー!先輩またねー!」
「ん!」

改札の中で二人は別れると、
のだめは三善の家に帰る為に左の階段を、千秋は東京方面の右の階段を降りて行った。
のだめがホームに降りると、ちょうど線路を挟んで向こう側にに、千秋が立っているのに気がついた。

「千秋先輩!!」

そうのだめが声を掛けると、千秋が“何だ?”という表情をしてこちらを見た。


《まもなく、一番線に下り電車がまいります。白線の内側に下がって―――》


「大好きっ!!」

のだめがそう叫んで千秋が真っ赤になった瞬間、線路に電車が猛スピードで入ってきた。
のだめはすぐに電車に乗り込んで、反対側の扉へ行って向こうのホームを見る。
すると千秋がゆでだこの様に真っ赤になりながらも、怒った顔をしてこっちを睨んでいた。


「(あ・と・で・ネ!)」

少年の様な千秋の可愛い仕草に笑いを堪えながら、のだめが口だけでゆっくりと伝えると、
彼も恥ずかしそうに周りを見回しながら(あ・と・で!)と口を動かした。

そしてプシューという音と同時に扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出す。
のだめが千秋にバイバイと手を振ると、彼は目を逸らしながらも、手を上げずに小さく二回ほどバイバイと手を振った。
照れ屋の彼なりの精一杯の愛情表現に、のだめは幸福な気持ちになった。

そうしてのだめは、そんな千秋の姿が見えなくなるまで、ずっと窓の外を見続けていた。








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