喪失 ミニコンサート後編3
千秋真一×野田恵


……気がつくと、私の頬を滂沱の涙が濡らしていた。
病院で夢見るように永遠の眠りにつく君を見ながら泣いた、あの時と同じように……。

のだめちゃんの演奏は……いつの間にか絹のように細い、消えていくような小さな旋律を奏でている。
それはまるで…先程昇華させた切ない愛のエネルギーを、再び鎮魂し再生していくかのようだった……。
私の心も……のだめちゃんのピアノの響きに同調するように……慰められ、静かな穏かさを取り戻す。

そうして最後の和音は、エントランスホールにそっと余韻を残して、天に還っていった……。

私も…あの日以来一度も口しなかった彼女の名をそっと口ずさみ……
その最後の音にのせて、彼女への想いをそっと天へと解放した……。

「ブラボーーーーー!!!」
「ブラボーー!!」

ピアノの音が消えると、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
すると、のだめちゃんは思わぬ大歓声に驚いたのか、どこかぼんやりとした表情でピアノから立ち上がった。
そしてはっと気がつくと、慌てたようにお辞儀をする。

「のだめさん、本当ににありがとうございました!では、ここで次の劇の準備のため少しお時間を頂きたいと思います。
30分後に再開しますので、またその頃になったら皆様こちらへお戻り下さい。
劇に出る子供達は着替えがありますので、担当のお姉さんの所へ―――」

「山口先生……。」

エントランスホールの隅に居た私を見つけると、
のだめちゃんはさっきと同じように、少し茫然とした表情のままこちらに近づいてきた。

「あれ……先生、泣いているの?」

ステージから降りてきたのだめちゃんは、どこか夢見るようなとろんとした表情のまま言った。

「ええ……。」
「のだめの演奏…どでしたかー……?」
「とっても……素晴らしかったですよ……。のだめちゃんのおかげで…私は胸につかえていたものが取れました……。」
「胸につかえていたもの……?」
「……私は彼女と再び邂逅して……そしてようやく…その呪縛から彼女を解き放ってあげられたのです……。」
「……呪…縛?」
「……本当にありがとう……。ありがとうございます…のだめちゃん……。」

私は感極まって、華奢なのだめちゃんの身体を胸の中に抱きしめた。

「……先生?どうしたんですかー……?今日は感動屋サンですかー……?」

私にじっと抱かれたまま、のだめちゃんはあやす様な優しい口調で訊ねた。

「のだめちゃん、あなたはこれからもピアノを弾き続けて下さいね……。」
「ハイ……。モチロンですヨ……。」
「大丈夫ですよ……。あなたは闇を恐れても、その中へ自分一人で飛び込んでいける勇気を持った人ですから。」
「先…生……?」
「ピアノがきっと……あなたの道標になってくれるでしょう……。
あなたのピアノには……それだけ凄い力が秘められているのですからね……。」

私はそこまで一気に言ってしまうと、のだめちゃんを抱く腕をゆっくりと解いた。

「あのね?山口先生。先生の言った通りでした……。」

のだめちゃんは私の顔を見上げながらそう囁くと、涙ぐんだ。

「ピアノがね…ピアノがのだめにチョトだけ教えてくれたんデス……。」
「……え?」
「でもピアノはケチだから…出し惜しみするんですよー……。全部教えてくれればいいのに……。」
「のだめちゃん……もしかして……?」
「のだめ……思い出したんデス……。昔、同じ事があったなぁって……。」

のだめちゃんは俯くと静かに泣き始めた。

「のだめ…やっぱり憶えていたんですネ……。ひっく…ちゃんと憶えていたんです……。
前もこんな風に、たくさんの人の前でピアノを弾いたんデス……。それが何処だったかはまだ思い出せないんですけど。」

「うん……。」

「一生懸命弾いたらたくさんの人が、『すごいねー!素敵な演奏だったねー!』っていっぱい拍手をくれたんデス。
のだめ…それがとても嬉しくて……。のだめのピアノでこんなに大勢の人が喜んでくれるんだーって……。」

「ええ……。」

「のだめもピアノを弾いててとっても楽しかったんです。
ピアノを弾いててこんなに素敵な事があるんなら、もっともっとたくさんの人に、のだめのピアノを聴いて貰いたい!って。」

「きっとあなたはそう思って、パリにまで留学したんでしょうね……。」

「ハイ……。のだめもさっきそう思ってました。
パリにまで行って頑張ろうとした、前ののだめの気持ち…チョトでも思い出す事ができてすごく嬉しいデス……。
山口先生が、のだめにミニコンサートを任せてくれたおかげデス。先生…本当にありがとうございました……。」

今度はのだめちゃんの方から、私にぎゅっと抱きついてきた。

「お礼を言うのは私の方ですよ、のだめちゃん。私もあなたのピアノで、救われた一人なのですから……。」

そういって背中をさすってあげると、のだめちゃんの嗚咽が大きくなる。

「ううっ…のだめ、例えこれ以上思い出せなくても…ひっく…今日のこの気持ち、絶対忘れません……。」
「大丈夫ですよ。きっとまた、ピアノ教えてくれますから……。」
「のだめ、先生との約束が守れて良かったデス。」
「そうでした。指きりしたんでしたね、のだめちゃんと。約束…守ってくれて本当に有難うございました。」

ようやくのだめちゃんは私から身体を離すと、照れたように笑った。

「そうだ。お礼に何か甘い物でも如何ですか?休憩時間はまだありますから、是非、ご馳走させて下さい。
気持ちを落ち着かせるには、甘い物が一番良いのですよ?」
「ムキャーー!甘い物!のだめ、大好きデス!!」
「ふふふ。私も甘い物に目がないのです。2階の喫茶室のプリンパフェ、私はあれが大好物でしてねー。」
「はぅっ!プリンパフェ!!」

のだめちゃんはそう叫ぶと、口元に幸せそうな笑みを浮かべた。

「じゃあ、行きましょうか。こちらですよ。」
「モキャーーーー!!」

そうして私とのだめちゃんは連れ立って、二階の喫茶室へ向かった。

**********

公演終了後、都内のホテルに宿泊予定だったのをキャンセルして、オレは三善の家へ戻った。

朝早く慌しく外出してしまったから、今日はまだ一度ものだめの顔を見ていなかった。
だからどうしてものだめの顔が見たくて、オレは無理をおして横浜まで帰ることにした。

公演後の、どこか高揚感の残る気だるい疲労感が…今のオレには何故か心地よい。


『千秋君、食事会でも顔色悪かったし、それでテレビ出演の時、松田さんのあの発言でしょう!
今日の君の演奏を聴くまで、僕がどれだけ心配していたのか君は分かっているのかい?
全く……僕は君と松田さんに、担がれたのか!?』


……佐久間さんはそう言って拗ねたように笑っていたっけ。

今日の演奏―――自分でも納得いくものを創りあげられたと思う。
一昨日までの散々オレを悩ましていた虚無感が…一体なんだったのかと可笑しくなる位に……。

三善の家に入ってすぐに入り口の飾り時計を見ると、時刻はちょうど11時半だった。
一階からは物音らしい物音が一つも聞こえてこない。
ここにいるのは、のだめと俊彦と千代さんの三人だけだから、この家もいつもより深い静寂に包まれている気がした。

―――あいつ…もう寝たのか?

寝顔だけでも見たくなって、オレは荷物を手に持ったまま、客間がある二階へ階段を静かに登っていく。
客間の前に立つと、ドアを軽くノックした。

……返事が無い。

オレは寝ているであろうのだめを起さないように、そっと扉を開く。
……部屋の明かりは灯っている。しかし肝心ののだめの姿が、ベッドにも何処にも見当たらない。

―――何処に行ったんだ……?

客間から出ようとした時、テーブルの上にあった、オレがあいつに贈ったトイピアノが目に入った。
何となく興味を惹かれてオレはそれに歩み寄る。そして戯れに、ドの音を指で軽く押さえてみた。

トーーーーーン……

トイピアノの蓋の間から、白い紙が僅かだがはみ出しているのにオレは気がついた。

不思議に思って蓋を開けてみると、中に小さく折り畳まれた白い紙が入っている。
オレはそれを中から取り出し、丁寧に広げてみた。
見ると、それはオレが数日前に取材を受けた、新聞社のインタビュー記事のコピーだった。

―――どうしてのだめがこんなモン…持ってるんだ……?

もう一度トイピアノの中に視線を落とすと、そこにはオレにも見覚えのある…“ある物”が入っていた。
それはオレが上海で“ただの土産”として買って、去年のノエルにようやく渡せた、あのルビーのネックレスだった。
そういえば事故があった日から、あいつがこれをしているのを一度も見たことが……無い。

……パリに居た時、のだめの白い喉もとの窪みに、これがちょこんと納まっているのを見る度に、
オレは何となく面映いようなくすぐったいような……そんな幸福な気分になった。

これを購入する時、Ruiに可愛い飼い猫の首輪だとか独占欲の表れだとか、散々からかわれたけど……
今思えば確かに、おまえがオレのものだって証が……欲しかったんだと思う。

―――でもどうして…トイピアノの中に?これはオレが贈った物だって事…あいつは気がついて……?

のだめの真意が測りかねて、オレは暫くの間そこで考え込んでいた。

〜〜♪〜〜♪〜〜♪〜〜♪

その時、サロンのピアノの音が遠くから流れてきた。

―――のだめか……?

オレはコピーを再び小さく折り畳んでトイピアノの中にしまうと、ネックレスだけを取り出し蓋をパタンと閉めた。
そしてネックレスをジャケットの内ポケットにしまうと、客間を後にしてサロンに向かった。








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