喪失 ミニコンサート後編23
千秋真一×野田恵


*****

深夜3時、のだめは目を覚ました。
先程まで千秋が自分の胸に顔を埋めていたはずなのに、
いつのまにか千秋に抱きしめられていて、のだめの方が彼の胸元に頬を寄せるようにして眠っていた。

――珍しく、先輩がすぅすぅと寝息を立てて寝ている……。

毎日R☆Sの公演のために走り回り、おまけに記憶を失った自分の面倒まで見ていたのだ。
彼がここ連日ずっと徹夜だった事を、のだめは千代から聞いていた。疲れが溜まっていて当然である。

「千秋先輩、お疲れサマ…。ゆっくりと眠って下さいネ…。」

のだめは頬を薔薇色に染めたまま囁いた。そして千秋の額にかかった、さらさらとした前髪を少し掻き上げてみる。
無防備な程に穏やかな表情で眠る千秋が、いつもより幼く見えた。
自分しか知らない彼の表情が、どうしてこんなにも満ち足りた思いにしてくれるだろう。のだめはうれしくてくすくすと笑った。

千秋はのだめの細い腰を抱きしめたまま眠っていたので、のだめが笑って少し身体が動くと、彼の身体が僅かに身じろいだ。
のだめは一瞬起こしてしまったかと焦ったが、ぐっすりと眠り込んでいる彼は一向に起きる気配はなく、
無意識にのだめの腰に回した両腕を動かして、自分に引き寄せるように強く抱きしめ直した。

のだめは引き寄せられるまま、千秋の胸に顔をうずめた。
そして、夢の中を旅する彼を追いかけるように、彼の胸に頬を寄せ、幸せそうに瞳を閉じた……。

**********

成田空港、朝9時半―――

「みんな、見送りまで本当にありがとう。」
「ありがとーデス!」

千秋とのだめの見送りに、峰や鈴木姉妹、真澄も来ていた。
三善家からは、征子と学校が試験休みだった俊彦の二人が、空港まで二人に付き添っていた。

「しかしのだめ。おまえ、本当に千秋に迷惑かけたんだぞ?おかげでオレ達の公演まで、ヤバい所だったんだからな!」
「うぎ!ス、スイマセン……。」
「でもよかった〜!のだめちゃんの記憶が戻って!」
「うんうん。千秋さまも嬉しそうよね。やっぱりのだめちゃんはのだめちゃんじゃないと!」

鈴木姉妹がにっこりとのだめに笑いかけた。

「萌ちゃん、薫ちゃん。のだめ、今度は絶対二人の演奏聴きますからネ!」
「ふふふ。待ってるね〜!」

その時後ろから暗黒の影が忍び寄ってきたと思うと、折り畳んだ新聞で思いきりのだめの頭をはたいた。

「ぼへーーーー!!!!」
「何、和やかに別れの挨拶してんのよぉーーーー!!このひょっとこバカ娘ぇぇーーーー!!」
「真澄ちゃん!イキナリ酷いですヨーー!うー痛い!痛いデスーー!」
「ふんっ!!あんたのその頭の痛みなんて、千秋さまのこの10日間の苦しみから比べれば、屁みたいなもんよ!」
「ぎゃぼっ!」
「言っておくけど、今度こういう事があったら、殺ス……わよ……。」(←死んじゃえ委員会再興)
「ひぃぃぃ……!」

鈴木姉妹と真澄が、のだめと盛り上がっているのを横目で見ながら、峰はすっと千秋の側に寄った。

「おい、千秋。」
「あ?」
「おまえも色々大変だったな!」
「ああ、まぁな。峰にも色々気を遣わせたみたいで、悪かった。それと…本当にありがとう。」
「いいっていいって!!オレ達親友だろっ!!っな!」

峰はそう言うと、今度はニヤニヤしながら千秋の耳元に顔を寄せた。

「……で?」
「で?」
「何だよー照れることないだろ?親友っ!!昨日の夜はどうだったんだ?スッキリしたか?」
「な、ななな何言ってんだ!このバカっ!!」
「きひひひひ。その様子だと、久しぶりに熱〜い夜を過ごしたようだな?」
「ンな訳ねーーーー!!!!」
「照れるな照れるな!!」

峰はニタニタ笑いをしながら、千秋の背中を例の如くバンバンッ!と叩いていた。

「峰くーーん!峰くんも入りませんカーー?」

鈴木姉妹がデジカメを持ってきていて、のだめ達はそれで記念写真を撮っていた。

「おー!写真か!」

峰もいそいそとのだめたちの中へ行くと、ポーズを決めている。

「千秋先輩も〜!!」
「ん。ちょっと待て。後で行くから。」

千秋は征子と俊彦の方へ顔を向けた。

「母さん、俊彦、朝早くからありがとうな。」
「いいのよ。気をつけて…二人とも仲良くね!」
「由衣子も来たがってたんだけど……。ボクだけでも来れてよかったよ。」
「みんなには…今回の事で色々迷惑かけて…本当にすまなかった。」

千秋は頭を下げた。

「ふふふ。真一の可愛いのだめちゃんの為ですもの。大した事ないわよ、そんな事。」
「そうそう。真兄がのだめさんにベタ惚れなのは、よぉーく分かったよ。」
「う…例えそうだとしても、あいつには言うなよ?」
「はははっ!」

「千・秋・く・ん♪」

男の声を裏声にしたような気持ちの悪い呼び方を後ろからされて、千秋は一瞬背筋がぞくりとした。

―――この嫌な感じは……。

「ひどいなー!僕が入院してるって知ってる筈なのに、お見舞いにも来ないなんて!」
「っげ!松田さん!?ど、どうして……。」
「もちろん!可愛い後輩の見送りに決まっているじゃないか。」

千秋が後ろを振り向くと、松田がポロシャツにチノパンというラフな格好でこちらに歩いてきていた。

「はぁー!僕って本当は偽悪者だからね。今回はついつい、後輩育てをしちゃったよ〜!」
「……“偽善者”の間違いじゃないですか?」
「千秋君、もうパリに帰っちゃうなんて寂しいねー。君とはゆっくりと飲みたかったのに。」
「松田さん…過労で倒れたんじゃなかったんですか……?」
「そうだよ!君が僕一人にパーティーを押し付けたりするから。」
「そ、その節は申し訳ありませんでした……。」

千秋が恐縮して松田に頭を下げると、彼は不敵な笑みを浮かべながら身を屈めて、千秋の耳元に囁いた。

「……勿論、忘れていないよな?」
「……うっ。」
「その事を君に確認させる為に、態々こんな空港にまで出向いてやったんだ。」
「……勿論です。松田さんと約束した事は絶対守ります。」
「そう?それなら、いいんだけど?」

松田は身体を起すと、すぐにいつもの飄々とした雰囲気に戻っていた。

「さて、と。そろそろ行くかな?」
「松田さん、これからどこかに行かれるんですか?」
「いやなにね、君のミューズの所へでも、ご挨拶に……。」

そう呟く松田の視線の先には、峰と楽しく談笑しているのだめがいた。

―――ヤバイ!!

千秋は冷静に状況判断すると、鈴木姉妹を呼んだ。

「おーーい!薫ーー!萌ーー!松田さんが話を聞いてくれるってさーー!」
「えーーーー?本当ですかーーーー?」
「松田さん、二人が話したい事があるんだそうです。聞いてやってくれませんか?」
「え?別にいいけど……。」

嬉しそうにやって来た鈴木姉妹に松田を押し付けると、千秋は急いでのだめの所へ行った。

「の、のだめ。もう行こう。」
「えっ!?まだ時間ありますよ?もうチョトみんなとお話していたいデス。」
「……免税店で、何でも好きな物買ってやるから、行こう。」
「別にのだめ、欲しい物なんてないデス!」

意外に強情なのだめに痺れを切らして、千秋は次の作戦に出た。

「オレ、もうラウンジでゆっくりしたいんだよ……。」
「ムキャーーーー!千秋先輩、飛行機に乗る前から、酔っ払うつもりデスかっ!?」
「違う……。やっぱり飛行機に乗る前だから…何だか気分が悪くて……ラウンジで横になって…休んでいたいんだ……。」
「ぎゃぼっ!?先輩、気分が悪いんですか!?大丈夫。のだめが一緒ですから心配いらないですヨ?
じゃあ早く、ラウンジに行きましょうネ。」

千秋の“気分が悪い”作戦は功を奏し、彼はのだめと一緒に手荷物検査に向けて歩き出した。

「じゃあねーーー!!のだめちゃーーーん!!」
「今度パリに遊びに行くからなーー!!」
「千秋さまに迷惑かけるんじゃないわよっ!!」

「ハイーーー!!皆さんもお元気でーーー!!」

すると何故かのだめは急に方向転換し、ゲートに向けて歩き出している千秋の後を追いかけないで、俊彦の方に駆け出した。

「俊彦くん!俊彦くん!」
「はい?」
「昨日頼んだ、プリごろ太のフィギュア…よろしくお願いしますネ!」
「はいはい。用意が出来たら、すぐにのだめさんに送るから安心してよ。」
「むきゃーー!!絶対ですヨ?絶対の絶対ですか」
「おい!こら!いつまで待たせるんだ!!」

のだめの後ろで、千秋が仁王立ちになって怒っていた。

「もう!ほらっ、来い!行くぞっ!」
「ぎゃぼっ!?」

千秋はのだめの手を取るとしっかりと指を絡め、彼女をぐいぐいとゲートまで引っ張って歩いて行く。

「きゃーーーー!!千秋さまがのだめちゃんと手を繋いでる!!」
「おーー!すげーー!あの千秋がなぁーーーー!!」
「恋人つなぎ…恋人つなぎ…恋人つなぎ…恋人つなぎ……殺ス……。」
「あっ!!写真撮らなきゃ、写真!!」

萌がデジカメのレンズを二人に合わせると、液晶画面には手を繋いだ二人が見つめあって、睦まじくゲートに歩いていく姿が映っていた。

*****

…ポン!

『只今当機は、大変気流の悪いところを―――』

シートベルト着用を知らせる音とランプが、先程から何度もついたり消えたりしている。

「せ、先輩…大丈夫ですか?」
「……うぅっ。」

飛行機がユーラシア大陸の上空にさしかかると、台風の影響からか機体は常に揺れている有様で、オレはみっともない程震えていた。
もちろん隣に座っているのだめに、恥ずかしいほど、ひしとしがみ付いて……。

最近は一人でも飛行機に何とか乗れるようになったけれど……。
でもさすがにパリまでの12時間、こう揺れ続ける飛行機の中にずっといるのは、オレにとってはもはや地獄での拷問に等しかった。

「今回は揺れますねー。でも大丈夫ですヨ。のだめもいますから。」
「うわぁ!」
「先輩、もっとのだめにくっついてもいいですヨ?」

のだめはそう言うと、オレが抱きつきやすいように体をずらしてくれた。
オレは甘えるようにのだめの胸元に顔を寄せ、全身でこいつにもたれかかる。

「もう…千秋先輩は本当に甘えんぼさん♪ですネ……。」
「…のだめ、あと何時間?」
「まだ後9時間です。もうちょっと我慢して下さい、真一くん。」
のだめのたっぷりとした胸の膨らみを堪能しつつも、オレは早くパリに無事に着くことだけを祈っていた。

「スミマセン〜!そこのお美しい方〜!
これと同じものを、後ろで恋人にいちゃこいてる、あの男にも持っていってくれまセンか〜?」
「かしこまりました……。」

―――ん?今の声…どこかで……?

「お客様。あちらに座っていらっしゃられるお客様から、これを……。」

客室乗務員がおずおずと、オレ達の前に身を屈めて、ワインボトルを差し出した。








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