喪失 ミニコンサート後編4
千秋真一×野田恵


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「どうしてそんなに無口なんですか?もっと、のだめとお話しましょうヨ〜!」

二階の吹き抜けからサロンを見下ろすと、のだめはそんな事をぶつぶつ呟きながらピアノの周りをグルグルと回っている。

「……何の話をしているんだ?」
「っきゃ!あれー!?千秋先輩っ!?」

サロンに続く階段をゆっくり下りながら声を掛けると、吃驚した顔をしてのだめは立ち止まった。

「先輩、お帰りなさい!!今日は由衣子ちゃん達と、東京に泊まるんじゃなかったんデスか?」
「ただいま……。まぁ…ホテルよりこっちの方が落ち着くから。それよりおまえ、何してンの?」
「ピアノとお話デス。」
「はぁ!?」

一瞬のだめの言葉が理解不能だったオレだったが、すぐにそれが何の事か思い当たる。
昨日の電話で山口先生が言っていた『ピアノが教えてくれる。』を、どうやらのだめは実践している最中らしい。

「……もう遅いから、話は明日にすれば?」
「そですネ。あ、先輩。今日の凱旋公演は上手くいきましたかー?」
「ん…まーな。おまえの方こそ病院でのミニコンサート、すっげー評判良かったんだって?さっき先生からメールが入ってた。」
「えへへ〜!のだめ、皆サンからたくさんの拍手を貰いましたヨ〜。」

のだめはくすぐったそうに笑った。

「先生のメール……随分と熱い文面だったけど。おまえのピアノに感動したって書いてあった。」
「フーーン!のだめ、先生泣かしちゃったんですヨ!」
「……へぇ。」

鼻息荒く自慢するのだめに、オレは言った。

「オレにも聞かせてくれない?その…先生を感涙させたピアノ。」
「えっ?でも、もうこんな夜遅くですヨ……?」
「今うちに居るの、俊彦と千代さんだけだし。周りからこの家は離れてるから、別に問題ないだろ。」

それを聞いて納得したのか、のだめはピアノの前に腰を下ろした。

「のだめのピアノは安くないですヨ?おおまけにまけて、一曲あたりプリごろ太フィギュア1個で、手をうちましょう!」
「おいこら……絞め殺すぞ。」
「ぎゃぼ!冗談の通じない先輩ですねー。……やっぱりカズオ。」
「ああっ?」
「いえいえ、何でもありまセン。では。先輩のリクエストにお答えして……。」

のだめはふぅと一息つくと、静かにピアノを奏で始める。

―――この曲は…リストの《愛の夢・第3番》。
―――こいつがこんな甘ったるいリスト……?

リストと聞いて瞬間的に、オレはあの超絶技巧練習曲のエピソードを思い出し、内心苦笑した。
のだめのピアノは技巧的な面も持ち合わせているから、のだめとリストの組み合わせは別に意外ではない。
けれどこいつが、こんな官能的で甘く激しいリストを弾くとは、オレは想像だにしていなかった。

「ふーー!先輩どでしたか?」

のだめは若干飛ばし気味に《愛の夢》を弾ききると、こちらに振り返った。

「おい……。所々に“のだめ節”を紛れ込ませンな!」
「の、のだめ節ぃー!?」
「おまえちゃんと楽譜見て弾いてンのか?音多い!勝手に作曲!勝手に転調!……以上が“のだめ節”。」
「ぎゃぼっ!!のだめ、ちゃんと楽譜も見たし、CDだって何回も聴きましたヨ!失礼なっ!」
「失礼なのはおまえの方だろっ!?どこが楽譜を見た、だ。間違いだらけじゃねーか!
いいか?ちゃんと楽譜通りに弾けっ!そこに込められた作曲者の意思をないがしろにすンなっ!」
「がぼーん……。先生は感動してくれたのに……。」

オレのキツイ叱責に、のだめは頭を垂れてうな垂れた。
つい、いつもの調子で言い過ぎてしまった……。
今ののだめには少し酷だったかな…と反省し、フォローの意味も込めてオレは演奏部分について触れた。

「でもまぁ…演奏自体は確かに良かったけど。なぁ…おまえはこの曲、“夢”というよりも“憧憬”と解釈したのか?」
「へ……?」
「今のおまえの弾き方…なんか懐かしい感じというか…“過去”のイメージのする曲想だったから。
これは誰かの……“忘れられない思い出”?」

オレがそう訊ねると、のだめは全開の笑顔を見せた。

「ムキャーー!!サスガ千秋先輩!!その通りですヨ〜!これは山口先生とマドンナとの愛の思い出の曲です。」
「は?……マドンナ?」
「ほわぁ〜。やっぱり聴く人が聴くと、曲のイメージってちゃんと伝わるものなんですねー!ふむふむ。」
「んー……でも途中から、何かまた、少し曲想に変化があった気も……。」

オレが頭を捻りながらそう呟くと、のだめは息をのんだ。

「先輩…しゅごい……。まさにその通りデス……。のだめ、後半の部分は、先輩を想って弾いてみたんデス。」
「……え?オ、オレを想って?」

“それってどういう意味……?”―――オレはそう言おうとして、その言葉を飲み込んだ。
目の前ののだめは、オレがここに居るのを忘れたかのように、物憂げにじっと鍵盤を見詰めている。

「ねぇ……。あんまりお話してくれないのは、のだめに感じろ、って言ってるんデスか……?」

どうやらのだめはまた、ピアノと会話しているようだった。
オレは小さな声でぼそぼそとピアノに話しかけているのだめを見ながら、ぼんやりと考えていた。

―――“オレを想って”……か。こいつはこの曲に、オレへのどんな想いを込めて弾いたんだろう……。

《愛の夢》は原曲は歌曲で、フライリヒラートの詩に付曲したものだ。それをピアノの魔術師・リストがピアノ曲に編曲した。

―――そういえば、第3番にはフライリヒラートの有名な詩句があったよな。確か……

《 愛しうるかぎり愛せ 》―――"O lieb,so lang du lieben kannst"


「……おまえがそれを望むなら。」
「えっ?千秋先輩?今、のだめに何か言いましたかー?」
「……いや、別に。」

オレは頭を振ってのだめにやんわりと笑い、その告白をごまかした。


『今回のミニコンサートがきっかけになって、のだめちゃんは僅かですが過去の記憶を取り戻したようです。
まだおぼろげな輪郭部分しか、思い出せていないようでしたが、
本人は随分とそれに勇気付けられたようでした。
のだめちゃんの記憶が戻る為には、音楽が一番良い刺激なのかもしれません。』


さっき見た山口先生からのメールの文面は、のだめだけでなくオレにとっても勇気付けられる内容だった。
オレの音楽を聴いて、もしかしたらのだめはオレのことを思い出してくれるかもしれない、と……。

のだめが《愛の夢》に込めたイメージを、オレが感じられたというのならば……。
もし…オレが明日の公演で、のだめへの想いを込めた演奏をすることができたなら、あいつはそれ感じ取ってくれるだろうか……?

―――神様……願ってもいいですか…?オレの音楽が…愛が…のだめに届くように、と……。

「なぁ、のだめ。」
「……ハイ?」

オレの声が何時になく真剣な調子だったのに気づいたのか、のだめは緊張してピアノチェアの上で身をただした。

「明日は……オレの音楽を聴いて欲しい。」
「え?」
「今オレが出来る事は、それだけだから。それが今のオレの持ってる、全てだから。
だからこそ、おまえに聴いて欲しいんだ。……オレの言ってる意味、分かるか?」
「……ハイ。」
「そっか。ならいいんだ……。」

オレはのだめの事をじっと見つめて微笑した。
のだめもオレの眼差しに吸い寄せられるようにこちらを見上げると、見つめかえす……。

オレ達の間に、あの朝の出来事以来失われていた、穏やかな時間が動き出し、再び時を刻みはじめる―――。

「明日の先輩の公演、のだめ、楽しみにしてますネ。」
「……うん。」
「先輩の奏でる音楽、ちゃんと聴きますから……。」
「……がんばるよ。」

こいつにも、一昨日のあのわだかまりが、ゆっくりととけてなくなっていくような感じがしたのだろう……。
のだめは今の気持ちを、素直に口にしてくれた。

しばらくオレ達は見詰め合っていたが、のだめはずっと自分を見つめ続けるオレの視線を、気恥ずかしく感じたのだろう。
目を伏せると急に立ち上がろうとして、椅子の脚に躓いて体勢を崩した。

「ムキャ……!」
「おっと!」

のだめが前方に崩れ落ちる瞬間、床とのだめの間にオレはすばやく身体をいれ、自分の胸の中にのだめを受け止めた。

「大丈夫か?」
「す、すいませ……。」
「いや、いいけど……。気をつけろよ。」
「ハイ……。」

オレは思わずしっかりとのだめを抱きしめてしまったことに気づき、慌てて腕を離す。
しかし、久しぶりに胸の中に感じたのだめの感触に、オレの身体は少し違和感を覚えた。

―――あれ……?のだめってこんなに骨ばっていたか……?

オレの腕は無意識にそれを確かめようとして、またのだめを抱き締めなおそうとした。
するとのだめはそれを察知し、二の腕をオレの胸元に棒の様に突っ張って、信じられないほど強い力でオレを押し返した。

「あ、ご、ごめん……。」
「いえ……。」

二人とも気まずくなって、お互いに顔を逸らしたまま俯いた。
さっきまで流れていた穏やかな雰囲気は一転し、辺りには重苦しい緊張が張り詰める。
オレはこの状況を何とか打破しようと、努めて平静を装ってのだめに話しかけた。

「なぁ…おまえちゃんとメシ食ってるのか?」
「え?ご飯ですか?ちゃんと食べてますヨ……。」
「そっか。ならいいんだけど……。」

再び会話が続かなくなる。
すると今度はのだめの方が気を遣って、オレに話かける。

「……何でそんな事聞くんですか?」
「いや…なんかおまえ…少し痩せたみたいだったから……。」
「のだめが?……痩せた?」
「その、何ていうか、今おまえを抱きとめた時の感触が、だな。ちょっと前のおまえと違うかなって……。」
「……。」
「違うんだったら別にいいんだけ」
「知りませんヨ!!そんな事!!」

オレの言葉を遮るようにして、のだめは叫んだ。

「痩せたとか太ったとかっ!のだめに分かる訳ないじゃないデスかっ!!」
「なっ……?」

非常に興奮した様子で責める様にオレをなじると、のだめは肩を怒らせて二階へと続く階段を猛スピードで駆け上がっていく。
あの事故以来、こいつが初めて見せた猛々しい挙動に、オレはうろたえた。まるで逃げるようなのだめの背中に慌てて声を掛ける。

「ちょ…おい!のだめっ!」
「おやすみなサイっ!!」

そう一方的に言い放つと、のだめは廊下の先へ姿を消した。

―――あいつ、どうしたんだ……?女に体重の事聞くのは…禁句ってヤツか……?

自分がのだめの機嫌を損ねたらしいのは分かる。
しかしさっきの発言の一体何に、あいつがそんなに激怒したのかさっぱり見当がつかない。


“近づいたと思えば離れていく……。”


あの大ゲンカした去年のノエルに、あいつから呟かれた言葉が何故かオレの心に浮かんだ。

―――今のオレ達は…まさにそうだな……。

オレは深く嘆息しながら、ジャケットの内ポケットからあのネックレスを取り出して手のひらにのせた。
先程まであった、未来への希望や確信はあっという間にうすれ、
のだめの強い拒絶の態度によって、再びオレは漠然とした不安の中に引き戻される。

オレはネックレスを強く握り締めながら、また溜め息をついた。

日曜日午前8時15分―――俊彦がリビングでウロウロと歩き回り始めて10分経過した。

「遅い!!ったく、のだめさんは何しているんだ?」

そうブツブツと呟くと、テーブルに置いてあった新聞を取り、ソファにどかっと座りながら紙面を乱暴に開いた。
俊彦はもう何度目か分からない朝刊の記事を苛立ちながら目で追っていると、
ようやくリビングの入り口に、待ち人が立っているのに気がついた。

「遅いよ!のだめさん!今日は早めにホテルのラウンジで皆と落ち合うから8時には出るよって、
さっき朝食の時に、ボク、のだめさんに言ったよね?」
「ご、ごめんなサイ……。」

ひどく申し訳なさそうに身を縮こまらせて、のだめは謝った。

「せっかく早めに朝食済ませたのに……。どうして女の人ってそんなに準備がかかるの?」
「あの、ですね……俊彦くん、その事なんですが……。」

言い辛そうに目を逸らしながら、のだめはもじもじとしている。

「何?」
「本日ののだめの格好なんですが……。」

のだめにそう言われたので、俊彦は彼女の全身を上から下まで見回す。
ガラス玉の様なラインストーンが贅沢に散りばめられた、ボディラインが綺麗に見える、紺色地のワンピースをのだめは着ていた。
童顔の彼女がいつもよりずっと大人びて見えて、俊彦は内心赤面した。

「……いいんじゃない?その丈の長さなんか、真兄が好きな感じだと思うけど?」
「それがですネ……実は……。」

そこまで言うとのだめは、くるっと後ろ向きになった。

「うわぁっ!」
「……という訳なんですヨ。」

のだめの身に纏っているワンピースは、前からは分からなかったが、背中が大胆にV字にパックリと開いていた。
落木した時に負った、背中のどす黒い紫色に変色した内出血の痕が、そこからはっきりと見えている。

「のだめ…コレ着るまで、後ろが開いてるって気がつかなかったんデスよ……。
やっぱり目立ちますよネ……?昨日の白い方を今日着ればよかったのに…のだめ…バカですね……。」
「何か上に羽織ったら?そうしたら目立たないんじゃない?」
「のだめもそう思って荷物の中を探したんですけど、このワンピースに合うのがなかったんデスよ……。」

どうしたらいいものかと二人して無言になる。

「あっ!そうだ!征子ママのクローゼットにそういうのあるかも!」

俊彦は手をポンと打つと、のだめを連れて二階の征子の部屋へ行った。

「か、勝手に先輩のお母さんのお洋服…物色しても平気ですかネ……?」

ウォーキングクローゼットの入り口で、のだめは中でごそごそと服を探している俊彦に、窺う様に声を掛ける。

「緊急事態だから仕方ないでしょ?あ!コレなんかどう……?」

俊彦は薄い水色のパシュミナを見つけると、のだめにあててみた。

「うーーん。やっぱり季節がもう夏だし……。コレだと暑苦しいか……。」

そうやって俊彦は、次々に羽織るものを見つけてはのだめの服にあててみるが、
生地の感じが合わなかったり、昼間のコンサートには華やか過ぎたり…となかなか合うものが見つけられない。

「ああっ!もうっ!ありそうなのに何でないんだ!!」
「ス、スミマセン……。」

そうこうしているうちに、時刻はもうすぐ9時を過ぎようとしている。

「もうのだめさん!このワンピースはやめてコレ!コレ着てみたらどう!?」

俊彦はシンプルな白いジャケットとロングスカートのフォーマルを取り出すと、のだめの前にぐっとぶらさげて見せた。

「これならのだめさんが着ても変じゃないと思うし。素材も光沢のある白で、夏っぽくていいでしょ?」
「え…そ、ですかネ?」
「時間が時間だし…もうコレに決めちゃいなよ!」
「ハ、ハイ……。じゃあのだめ、コレお借りしマス。急いで着替えてきますから、俊彦くん、もうチョト待ってて下さいネ。」

そう言うとのだめは、征子のフォーマルを手に客間の方へ慌しく走って行った。








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