千秋真一×野田恵
![]() ********** 日曜日も午後7時を過ぎ、いよいよ開演時間まで間もなくとなる。 のだめは征子と由衣子の間の席に座ると、やや緊張した面持ちでその時を待っていた。 「のだめちゃん……。今日の松田さんのプログラム…シューベルトの《未完成》…聴けなくてごめんね?」 のだめの右隣に座っている由衣子が、申し訳なさそうに彼女に謝った。 「え、いいんデスよ!由衣子ちゃんは、のだめのお洋服を選んでくれたんじゃないですかー! それに、松田さんのベトベンの5番は聴けましたし……。のだめ、先輩のベトベンも聴いてみたかったデス。」 「真兄ちゃまってベートーヴェン好きだからね。昨日の真兄ちゃまのベートーヴェン、とっても素敵だったよ!」 「ほわぁぁ〜…そなんですか〜!聴けなくて残念デス……。」 「でも今日のBプログラムも……楽しみね。」 左隣にいた征子が、ふんわりと微笑してのだめに話しかけた。 「今日の曲目は……どちらが考えたのかしら?」 「えっ?」 「ほら、一曲目の―――《モーツァルト・交響曲第31番 ニ長調 K.297 "Paris"》……。」 「あーー!それ、絶対真兄ちゃまよぉーー!!だって、真兄ちゃま、今、パリが拠点だし?マルレ・オケの常任だし?」 「あらでも、松田さんだって、R☆Sオケの前はパリのR管で振っていたじゃない?」 「あっ!そっかー!」 「松田さんと真兄の共通の音楽のフィールドって事で、この曲に決めたんじゃないかな?」 由衣子の隣にいた俊彦が、口を挟んだ。 「俊兄、スルドイ!」 「別に……普通に考えたら、分かる事だろ。」 二人の会話を聞きながら、のだめは征子に訊ねた。 「あの、先輩のお母さんは、昨日の松田さんのBプログラムも聴かれたんですよねネ?どでしたか?」 「そうね……。松田さんの《パリ》―――華やかでとても素敵だったわ。松田さんらしい“軽み”もあって……。 それに所々、モーツァルトがこの曲に込めた“毒”もしっかりと散りばめられてて……。素晴らしい演奏だった。」 「ふぉぉぉぉ〜!!華やかで毒なモツァルト!のだめもしゅごい聴きたかったデス〜!!」 「真一は……どんな《パリ》を聴かせてくれるのかしら……。のだめちゃん、楽しみね?」 「ハイ!」 「でもそうなると、もう一曲の方は……どっちが決めたんだろ?」 俊彦が、公演のパンフレットを見ながら難しそうに眉を寄せている。 「《チャイコフスキー・交響曲第4番 ヘ短調 op.36》―――確かにこの曲、若い指揮者が振ると見栄えがするけどね。」 「……真一には得意なタイプの曲の様な気がするけど?」 「確かに、重厚な出だしの第1楽章とか、真兄が振ったらきっと―――」 その時、オケのメンバーが続々とホール中央へと入ってきた。 俊彦はおしゃべりを辞め、身を正して前方に向き直る。 ―――あ!萌ちゃん、薫ちゃん…黒木君…みんないる……!! 入院中に見舞いに来たメンバー達が、フォーマルを身に纏い颯爽と入ってくる姿は……今ののだめにはとても眩しかった。 千秋の音楽を聴くのも初めてだったが、彼らがその手に持っている楽器を、どんな音色で奏でるのかも、のだめはとても気になっていた。 ―――いいなぁ…オケストラは楽しそうで……。 ―――……ん?って……あれ……? ―――なんかこの気持ち……前にも思った事があるような……? のだめの胸が急速に高鳴りはじめる。 ―――もしかしたら……昨日のミニコンサートの時にように…… ―――先輩の音楽を聴いて…それがきっかけになって……記憶が戻るかもっ!? そう思った途端、のだめの全身はかーっと火のように熱くなった。 「のだめちゃん?顔がちょっと赤いけど、大丈夫?」 由衣子がのだめの変化に気がついて、小さな声でそう囁くと、心配げに彼女の顔を覗き込んでいる。 「のだめ、チョト興奮しちゃって……。先輩の音楽、どんなのかなって思ったらドキドキが止まらなくて……。」 ヒソヒソ声でのだめが由衣子に伝えると、『わかる!わかる!』という風に由衣子は同意を示す仕草をした。 「あっ!!真兄ちゃまよ!!」 その瞬間、ホールから一斉に、盛大な拍手が巻き起こった。 黒い燕尾服姿に髪を上げた千秋が、大きなストライドで風を切るように舞台中央へと歩いてくる。 「やっぱり千秋真一、素敵……!」 「……かっこいい〜……。」 割れんばかりの拍手の中から、女性達が零す溜息の様な千秋への賛辞が、あちらこちらから漏れ聞こえてくる。 『のだめ……オレの音楽を聴いて欲しい。 今オレが出来る事は、それだけだから。それが今のオレの持ってる、全てだから。 ―――だからこそ、おまえに聴いて欲しいんだ……。』 ―――のだめ、千秋先輩の音楽……ここでちゃんと聴いています……。 指揮台の横で観客に優雅に挨拶をする千秋を見ながら、のだめは心の中で彼に話しかけていた。 ********** Bプログラム前半は、モーツァルト・交響曲第31番 ニ長調 K.297 《パリ》―――。 第一楽章、ユニゾンの主音が4回繰り返され、ニ長調の音階が軽やかに駆け上がった瞬間……。 ―――若葉の香り……? のだめはそこに、自分にふわりと吹き付けた薫風を感じた。 新緑の萌える緑を下から見上げれば、眩しい光が射し、まるでエメラルドのように葉脈が透き通っている。 二階のカフェの出窓からは、燃えるような真っ赤なアイビーゼラニウムが通る人の目を楽しませて……。 頬を撫でる、清清しい風……一斉に咲き乱れる色とりどりの花々―――そんな生命感溢れる、一年で最も美しい季節。 千秋の奏でるモーツァルトの《パリ》は、どこか爽やかで、若々しい瑞々しさで溢れていた。 ―――これは…初夏の《パリ》……? ***** ―――オレが描きたいのは……あいつと初めて過ごした、初夏の《パリ》。 指揮を振りながら、千秋は思っていた。 二人が留学した最初の年、千秋はコンクール後すぐに、シュトレーゼマンのワールドツアーについて行ってしまった。 だから昨年のこの季節―――千秋とのだめは離れ離れのままだった。 そして今年初めて……二人は美しい初夏のパリを共に過ごした。 『千秋先輩!せっかくいい季節なんだから、どこかにお出かけしましょうヨ〜!』 『デート!デート!』とせがむのだめに、千秋が苦笑しながらも、甘える様に絡めてくる彼女の腕を幸福に感じていた。 二人が出かけたのは、ローズガーデンで有名な―――パリのパガテル公園。 けむるような甘い芳香を漂わせる、一面の薔薇の花々の中…… のだめは嬉しそうに飛び跳ね、薔薇の香りをかいでは、キラキラと瞳を輝かせて千秋に振り返る。 千秋もそんなのだめを、眩しそうに目を細めながら、優しく見詰めていた。 『おい。子供じゃないんだから、少しは落ち着け!!』 『あっ!先輩!!見て下サイ!こっから全部、ピンクの薔薇のチュパチャプスですっ!!』 『はぁ?チュパチャプスぅ!?』 スタンダード仕立ての淡いピンクの薔薇の列を見て、のだめはそれを有名なキャンディーに例えた。 何でもすぐ食べ物に連想する食い意地の張ったのだめに呆れながらも、千秋は彼女の手を取り指を絡める。 『のだめ、チュパチャプス舐めたくなりましタ。先輩、パリでも売ってますかネ?』 『あー?モノプリにでも行けば、あるんじゃねー?』 『ムキャーーーー!!じゃあ帰り、買って帰りまショーーーー!!』 そんな他愛もない会話が、二人にとっては日常であり…そして宝物のような時間だった事を、今回の事で千秋は初めて知った。 ―――のだめ……聴いてくれているか?これはオレ達の《パリ》だ……。 モーツァルトの《パリ》には、千秋のそんな想いが込められていた。 ***** 一曲目のモーツァルトが終わると、プログラム後半のチャイコフスキーへの編成変更のため、小休止が入った。 「真兄ちゃまの《パリ》……素敵だったねー!」 うっとりとした表情で、由衣子が隣ののだめに話しかけた。 「そうですネー!」 「きっと……真一はのだめちゃんと一緒に過ごした《パリ》をイメージして振ったのね……。」 征子が悪戯っぽい瞳をさせてのだめに笑いかけると、彼女は頬を紅潮させた。 「そ、そですかネ……?」 「ふふふ。のだめちゃんが一番よく分かってるんでしょ?」 「えと、あの……。」 返答に困っているのだめを優しく見詰めると、征子は話を変えた。 「昨日の松田さんが、言うなれば“華やかなモーツァルト”だったのに対して、今日の真一のは“爽やかなモーツァルト”。 なかなか面白い対決になったと思うわよ?」 「由衣子は今日の真兄ちゃまの《パリ》の方が好きーーーー!」 「しかし本当にいい演奏だったな!この後のチャイコフスキーも楽しみだ。」 竹彦が満足げに頷きながら言うと、その場にいる全員が同意を示す。 「あ、そろそろ始まるよ……。」 俊彦が小声で囁いた。 両方の舞台袖から続々とオケのメンバーが入ってきて、観客の拍手の中、各々定められた位置に腰を下ろしはじめている。 準備が整い全員が揃った所で、指揮台左前にいたコンサートマスターの高橋がすっと立ち上がった。 A〜♪ 調律の為の音を弦が奏で始めると、それに合わせる様に各パートから一斉に同じ音が鳴り響く。 再び高橋が席に着いて、ピタリとオケの音が止まった。 「もうすぐだね……!」 由衣子が小さな声でのだめに囁いた瞬間、千秋が再びステージ上へと姿を現した。 ホール中を埋め尽くした満杯の観客は、割れんばかりの拍手で、才能溢れる若きマエストロを迎え入れる。 ―――どうか神様……先輩の音楽で、のだめの記憶を……!! のだめは自分自身をも励ましながら、千秋が指揮台に上るのを見守った。 ***** 千秋は指揮棒を構え、知的な眉根を寄せると、白い軌跡を残しながらそれを振り下ろした。 その瞬間、ホルンからトランペットに引き継がれながら奏でられる、重厚にして荘厳なあのモティーフ―――。 「“運命の動機”……。」 のだめは無意識に口に出して呟いた。 やがて嘆きの第一主題がホール全体を満たすと、そこはもうチャイコフスキーの絶望の中だった。 哀しいまでの弦の旋律の美しさが鳴り止み、木管楽器がその運命に抗おうと情熱的に高まり始めると、 再びまたあの“運命の動機”が立ちふさがり、それを阻止する。 人は誰も、運命の前になすすべもなく翻弄され、そして涙し、打ちのめされる事を暗示するかのように……。 ―――先輩の“運命の動機”……一体何だろう? 千秋が感じている“運命”や“絶望”を、のだめは必死になって感じようとしていた。 いつの間にか第2楽章に入り、黒木のオーボエのソロが、悲哀に満ちて辺りを包んでいる。 ―――記憶を失って自分の事ばかり考えてしまったけど、そういえば先輩の気持ち……ちゃんと考えた事なかった……。 のだめは千秋の演奏を聴きながら、初めてその事に気がついた。 恋人に自分を忘れられた千秋が、その事でどれだけ苦しんだかという事も、のだめはそれまで考えもしていなかったのだ。 ただ自分の中に、千秋が時々、失ってしまったもう一人の自分を見ているのだけは、彼女も気がついてはいたが……。 ―――先輩も……同じ様に苦しんでいた……? そう思った瞬間、激しく感情的な第4楽章の出だしの旋律がのだめを襲った。 迸る様な情熱、歓喜、希望、再び“運命の動機”……追いかけ追いかけられながら加速的に高まるオーケストラの響き。 千秋もそれに煽られるように、いつもの理性的な彼の演奏が信じられないほど、熱く情熱的な指揮をしていた。 彼が今表現しようとしているのは―――それは運命に翻弄されながらも、それでも生きていこうとする人々の生命力の美しさだ。 終楽章最後のコーダから、信じられない程のスピードと迫力で千秋が振り切ると、残響を聴衆の胸に残し演奏が終了した。 『ブラボッーーーー!!』 『ブラーーーボーーー!!!』 その瞬間、観客から次々と声が上がり、感動を表す拍手がドッと鳴り響いた。 観客に振り返った彼は、一瞬、自分でも吃驚したような表情を見せたが、すぐにいつもの端正な面差しで微笑すると一礼をし、 お互いの労をねぎらう様にしっかりと高橋と握手をした。 そして再び、盛大な拍手に対して感謝を述べるかのように優雅に挨拶をすると、舞台袖へと消えていった。 のだめは千秋の音楽から溢れ出た、押し寄せるような感情の洪水に流され、一人茫然としていた。 「きゃあっーーーーー!!今夜の真兄ちゃま、すっごく格好良かったーーーー!!!」 「本当に今夜の真兄は最高だった!ボク、真兄のこんなチャイコが聴けるとは思っていなかったよっ!」 興奮気味に俊彦と由衣子が次々と口走ると、竹彦も頬を紅潮させて叫んだ。 「ブラボーー!真一!今回の公演は大成功だっ!!!」 未だ鳴り響いている拍手の中、千秋が再び舞台袖から登場し、R☆Sオケを称えながら、観客に挨拶をしている。 「真一が…1楽章を暗澹たる感じで表現するのは予想がついたけど……。 それ以上にあんなに終楽章の“歓喜”の方を強調するとは……思いもよらなかったわ。」 征子は、息子がまた新しい音楽を表現しはじめた……そんな嬉しい変化を感じて、喜びの表情を見せた。 「のだめちゃん……?どうしたの?ボーっとして……。」 落ち着きを取り戻した由衣子が、一人会話に加わっていなかったのだめの事に、ようやく気がついた。 「……あ。えと……。感動しちゃって……。」 のだめは未だ胸がつまって、それだけ言うのが精一杯だった。 「あれ?のだめちゃん……顔、真っ赤だよ?」 「えっ?ホントですか!?……やだ、のだめ…興奮しちゃったんですかネ?」 「あはは〜!!今日の真兄ちゃまは、素敵だったからね〜!!」 先程引込んだ千秋が、観客の拍手に後押しされるようにまた舞台袖から登場し、これで本日3回目の挨拶をしている。 「そろそろ…次辺りかしら……?」 「アンコール……昨日と同じ曲なんだろうか……?」 拍手に混じってざわざわと、聴衆の囁き声が聞こえてきた。 挨拶を終えた千秋が再び舞台袖に下がる。しかし今度は、オーケストラのメンバーが席に着かず立ったままだ。 「あ、のだめちゃん!次、アンコールだよ!」 由衣子がのだめに、はしゃぐように囁いた。 「来たーー!真兄ちゃまだよっ!!って…あれーーー!?」 アンコールの為に舞台袖から現れた千秋は、何故か手にヴァイオリンを持っている。 すると千秋のすぐ後から、見覚えのある人物が、同じ様に黒い燕尾服姿で続いて来た。 「えっ!?あれ、松田幸久じゃないっ!?」 「どうして、千秋のアンコールに…彼が??」 観客からも一斉にどよめきの声が上がる。 「真兄……まさかっ……!!」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |