千秋真一×野田恵
![]() 俊彦が放心したようにそう呟いた瞬間、指揮台に立った松田を見て、観客も全てを理解した。 「これって、千秋真一のヴァイオリン協奏曲ーーー!?」 「すげーー!!本当にこれこそ“競演”だっ!!」 「きゃー!信じられない。千秋ってヴァイオリン弾けるの!?」 指揮台についた松田が観客に軽く一礼しポジションを取ると、ヴァイオリンを持った千秋が盛大な拍手に応える様に、深々とお辞儀した。 「やっぱりそうよ……!千秋のヴァイオリン・コンチェルト!!何弾くのかしら……。」 「弾き振りじゃないんだ……!」 若き二人のマエストロが用意した“夢の競演”という名の一夜限りのサプライズに、 観客はまだ興奮冷めやらないのか、あちらこちらで口々に囁きあっている。 千秋は、やや緊張した面持ちでヴァイオリンを構えると、松田を見つめた。 すると何故か急に、松田が指揮台からスタスタと降りて千秋の両肩を掴んだ。 そしてまるで「千秋君、リラーックス♪」と言う様に、松田はブンブンと、大げさに千秋を揺すり始めた。 千秋は松田の行動に一瞬目を丸くしてあっけに取られるが、 すぐに松田の意図を理解し、頬を紅潮させて照れたように下を向くと、松田の配慮に感謝するように、はにかんで笑った。 「きゃーーー!やだ!何、あの笑顔!!かわいいーー!」 「千秋真一が……照れ笑いっ!?」 「やんっ!松田さん、お茶目ーーー!!」 二人のやり取りを見た女性達から、そんな黄色い嬌声が次々と上がる。 再びポジションについた松田と千秋が互いに呼吸を整えると、静かにオケの音が鳴り響き始めた。 「あっ……これって……。」 「チャイコフスキーの《ヴァイオリン協奏曲ニ長調》……!」 「また、チャイコ……?」 のだめは音楽が流れてきた瞬間、あの夜の出来事を瞬時に思い出した。 ―――あの時の楽譜……。 千秋が机に突っ伏して不自由な姿勢で眠り込んでいた一昨日の夜、彼の身体の下にあったのがこの楽譜だった。 ―――先輩、この為に…前の日まで一生懸命頑張っていたんデスね……。 のだめは胸がぎゅっと締め付けられるように、切なくなった。 千秋は何時だって、音楽に対して、真摯で、真面目で、妥協を許さなくて……。 誰よりも才能があるのに、それを甘受する事なく人一倍努力し……そしてそれを決して表には出さない。 この1週間、のだめは千秋のそんな姿を、折に触れて見てきた。 たった1週間でも、千秋がどれだけ音楽に対する情熱を持っているのか、のだめには十分感じる事が出来た。 先程の絶望から始まったチャイコフスキーとはうって変わり、千秋は華やかなチャイコフスキーを響かせていた。 指揮の時と違って柔らかな表情でヴァイオリンを弾いており、心からこのアンコールを楽しんでいる様子だった。 音楽を愛し、とても幸福そうに奏でるその姿に、のだめだけでなく、観客も魅了されていた。 松田と息をピッタリと合わせて奏でる、千秋の美しくきらびやかなヴァイオリン・コンチェルト……。 いつしかそれは、キラキラと煌めく光と音のハーモニーのヴェールとなり、ホール中を甘美に包んでいくのをのだめは感じていた。 ―――千秋先輩……とっても…とっても素敵デス……。 のだめはずっと涙を堪えていた。 アンコールが始まる前から、のだめはそれを聴いたらきっと自分は泣いてしまうだろうと予感していた。 泣くのは簡単だ―――でもそれは独りよがりの自己満足で、千秋の真意を理解した事にはならない。 だからこそ、泣いてはいけない……。 のだめは顔を真っ赤にして、震えながら自分にそう言い聞かせていた。 千秋の音楽をちゃんと受け止めて……そうして今置かれている自分の状況を……悲しいけれども認めなくてはいけない。 そうして一歩を踏み出さなければならない時に、自分が直面している事を、のだめは悟った。 ―――神様……イジワル…ですね……。 哀しいくらいに愛しいその人のヴァイオリン・ソロを聴きながら、のだめは自分の記憶が戻らない未来をようやく覚悟した。 彼女の大きな瞳から一しずくの涙がポロリと零れ頬を伝うと、 観客の盛大な拍手と歓声と共に、R☆Sオーケストラの公演は華々しくグランド・フィナーレを迎えた。 ********** 公演が終了すると、オレは次から次へと、大勢の訪問客を楽屋で迎える羽目になった。 「目も眩む閃光の中、ボクはまた君という雷に打たれた――― 鳴呼…君はこんなにも、音楽という名の神から愛され、その祝福をうけているのに…… 何故に天の小鳥を呼ぶ笛を…数多の星屑を瞬かせる竪琴までも…パラダイスから盗もうというのか……!」 「訳:“千秋くん、ピアノだけでなくヴァイオリンまで弾けたなんて知らなかったよ。(チャイコフスキーの感想含む。)”」 一番に楽屋に来てくれた佐久間さんの本日のポエムには、勿論河野さんの通訳をつけて貰った。 今回のオレは、佐久間さんを驚かせてばかりいたから、彼には本当に申し訳なかったのだけれど、 でもやはり、この長々と続くポエムタイムは、勘弁して欲しいのが本音だ……。 「真兄ちゃまーー!!格好よかったーー!!」 「よくやったな!真一!!」 「真兄、パリでもちゃんとヴァイオリンをやってたんだねー!」 「真一、素敵だったわよ!モーツァルトも二つのチャイコフスキーも……。」 竹叔父さんや母さん達もすぐに楽屋にやってきて、オレの公演の成功をとても喜んでくれていた。 「あれ?由衣子、のだめは?……一緒じゃなかったのか?」 楽屋に来ていたみんなの中に、今、一番会いたい人物がいない事に気がついて、オレは由衣子に尋ねた。 「のだめちゃん、ロビーで少し休んでるって!」 「ロビーで……?のだめ、具合でも悪いのか?」 「ううん。のだめちゃんね、急に沢山の人が一杯いる所で大きな音を聞いたから、頭がビックリしちゃったんだって。 由衣子、心配だからついててあげようか?って言ったんだけど……。」 「……それで?」 「のだめちゃんが『心配いらないから』って笑って言うの。だから由衣子、みんなとこっちに来たんだー。 そうそう、のだめちゃん、顔が火照ってて恥かしいから、少し涼んでから楽屋に来る…って、真兄っ?」 由衣子の言葉が終わらないうちに、オレは楽屋を飛び出していた。 ―――もしかして……!! はやる気持ちを何とか抑えながら、楽屋裏からロビーへと続く廊下を猛スピードでオレは駆け抜けて行く。 楽屋通路のあちこちでオケのメンバーやその関係者が談笑している中を、オレは乱暴に掻き分けるようにして先を急ぐ。 誰もが皆、オレのその尋常じゃない姿にあっけに取られ振り返った。 「おいっ!!どうしたんだ、って…千秋っ!?」 そう呼びかける峰にも目をくれず、オレはロビーへと続く扉を勢いよくバンと開けた。 切らした息で胸を大きく上下しながらも、ロビーへと急ぐ。とにかく一刻も早くのだめの元へ!! ―――もしかしたら…もしかしたら、オレが込めた願い通りにのだめの記憶が戻って……。 オレは祈るような気持ちで走り続ける。 今まで…たった一人の誰かの為に、こんなにも気持ちを込めて奏でた演奏会はなかった……! オレの音楽で、お前はきっと目覚めてくれる。オレ達何よりも、お互いの音楽でつながっていたんだから……。 だから神様…どうか……! ***** その頃、私はロビーの一番奥まったベンチで一人アイスティを飲んでいた。 一口……。また一口……。 透明で冷たい液体が喉を通っても、一向に熱っぽさがひく様子がない。 ひとつ溜息をつくと、アイスティの入ったペットボトルを側に置き、両手で頬を冷やすように触れた。 ―――今なら分かる……。 私は心の中でそう思った。自分が何故千秋先輩を好きになって、一緒にパリにまでピアノ留学したのか。 先輩がきっと私に教えてくれた―――音楽は素敵だって事を……。 だから私も、素敵な音楽を奏でたい…先輩と一緒に同じ夢を追いかけたい…そう考えたんだろう。 先輩が奏でる音楽が、ピアノに対して正直になれなかった私を変えたのだ。 そして音楽に対するひたむきで、それでいて情熱的な先輩の姿に、自分は心奪われた……。 ―――でも。 今の私がどんなに先輩の事を好きになっても、先輩の好きな人は別にいるのだ。 だって、先輩の好きな人は今の私でなくて、今はもうここには居ない、失ってしまったもう一人の私なんだから……。 「馬鹿みたい、デス……。」 私は自嘲的に呟いた。馬鹿げている。誰であろう、自分自身に嫉妬するなんて……。 ―――でも私…どうしたらいいんだろう……? 「え!?あれって…千秋!?」 「そうよっ、千秋真一よっ!!」 「うそー!私、サイン貰いたいーー!!」 その時、ロビーの向こうの方から女性達のざわめく声が聞こえてきた。 顔を上げると視界には、息を切らした先輩が、キョロキョロと辺りを見回しながら走っている姿がある。 その姿は、フォーマルのジャケットを脱いでタイを外しただけの、本当に演奏後間もなく飛び出してきたといった感じで……。 何かひどく慌てている様子が一目で伝わり、回りの人間達もヒソヒソと訝しげにそれを口にしている。 「ヤダ……。誰か探しているみたいよ……?」 そう誰かが囁く声が私の耳に入ってきた。その瞬間、先輩が探しているのが自分だと気がついた。 ―――のだめ、由衣子ちゃんと楽屋に一緒に行かなかったから…それで先輩、心配して……。 どうしよう……。 こんなドロドロとした気持ちを抱えたまま、どんな顔で千秋先輩の顔を見たらいいんだろう……。 彷徨っていた先輩の視線は、ようやく探していた私の姿をロビーの一番奥で捉えた。私の瞳と先輩の瞳が交錯する。 ―――あの“瞳”だ……。 「のだめっ!!」 ロビーに響き渡る大きな声で、先輩が私の名前を叫んだ。 先輩が大きなストライドで、こっちに駆け寄ってくる姿が見える……。 ―――やだ、泣いてしまいそう……。 ***** のだめは奥のソファで心許なくぽつんと一人でいた。両手で頬を押さえ、まるで小さな少女の様なその姿に、思わず胸が熱くなる。 オレは息を弾ませながら、のだめの傍に急いで駆け寄ると、目線が同じ位置になる様に膝を折った。そうしてのだめの顔を覗き込む。 「はぁっ…はぁっ…由衣子から聞いた……。のだめっ…大丈夫かっ……?」 のだめの瞳は心なしか潤んでいて、頬は驚くほど真っ赤だった。 「のだめ……?気分が悪いのか?顔が真っ赤だ……。熱は?」 そう言って、オレが熱を測ろうとのだめの額に右手を伸ばすと、のだめは慌てた様に両手でその手を掴んだ。 「だ、大丈夫デスよ。ちょっと、頭がびっくりしちゃっだけですから〜。お茶も飲んだし……。も、平気デス……。」 俯きながらそう言うと、のだめはオレの右手を自分から遠ざけるように押しながら、そしてやんわりと離した。 何故だかそれは、のだめに物凄く拒絶された様に感じて、オレは胸が締め付けられた。 「千秋先輩、こんな所に来たらダメですヨ?オケの皆さんとか関係者の人とか、待っているんじゃないですか? のだめ、本当にもう大丈夫デスから……。」 相変わらず下を向いたままでのだめが言った。その様子を見て、オレは自分の中で何かがプツンと切れるのを感じた。 さっきまでの期待感が大きかった分、この絶望的に裏切られた状況に、オレはついカッとなった。 ―――オレに早くここを去れって言うのか!? ―――おまえの記憶が戻ったのじゃないかと、無我夢中で走ってきたこのオレを……おまえは無かった事にしようというのか? 「別にいいんだ……。そんな事……。」 ”今のオレには、おまえが一番大事なんだ。それなのに、オレがおまえの側にいるのがそんなにイヤか?” ……本当はそう付け加えてなじりたかった。 オレが感情を押し殺したような声で言ったのが、のだめにも伝わったのだろうか。 のだめははっと顔を上げると、泣きそうな顔をした。いや、もうすでに、さっきから泣いていたのかもしれない。 のだめの双瞼はすでに涙で溢れていた。 「ごめんなさい……。ごめん…なさい……。」 そう言ってのだめは顔を両手で覆った。 「千秋先輩の音楽、とても素敵だったのに……。それなのにのだめ…やっぱり何も思い出せなくて……。」 ―――馬鹿だ……オレ。 その刹那、オレは物凄く後悔した。オレは本当に馬鹿だ。何で忘れていたんだ。 記憶を失って一番辛いのは、オレじゃない。のだめ自身だ。 だけどこいつ、そんな素振り…余り見せないから、オレ一人が忘れられた事で、すぐ勝手に被害者気分になって……。 周りに心配かけたくなくて、わざとそんな振る舞いしていたのかもしれないのに……。 だからその裏で、何とか思い出そうと、一人もがき苦しんでたっておかしくないのに……。 もしかして……オレが願ったようにおまえもまた……オレの音楽を聞いて自分の記憶が戻る事を祈っていたのか……? それなのに、オレは……。 「のだめ、ごめん。いいんだ……。いいんだ、そんな事……。」 出来るだけ嗚咽を漏らさぬように堪えて泣くのだめの肩を、オレは優しく抱き寄せた。 こんな泣き方、今までののだめらしくない。 そんな風に泣かせてしまった罪悪感と…… これは男の勝手な感情かもしれないけど、そのいじらしさが堪らなくいとおしくて…オレは胸が熱くなった。 何とか宥めてやりたくてのだめの背中を軽く叩いてやる。するとようやくのだめは小さな声で『本当に……?』と零した。 「もちろん……。」 さっきよりだいぶ落ち着いたのか、のだめは泣くのを止め、黙ってオレの声を聞いている。 「それより…具合が悪いんじゃなくてほっとした。 まだ怪我から何日も経ってないんだから、これ以上このオレ様に、余計な心配させンな……。」 余計な気を使わせたくなくって、オレは態とそんな言い方をした。するとのだめはこくんと頷き、ようやく両手を外して顔を上げた。 「っぷ!」 のだめの顔を見たオレは、思わず噴き出した。 「え……。な、なんデスか!?」 メイクと涙でぐしゃぐしゃにまみれたのだめの顔は、何というか奇妙奇天烈な福笑い状態になっていた。 「言っとくけどおまえ、今すっげーひどい顔だぞ。由衣子が選んだせっかくのドレスも台無しだ。」 「ぎゃぼっ!?だ、誰のせいだと思ってるんデスかーー!」 何か拭く物はないかと、オレはすぐ側に置いてあったのだめのハンドバックの中を開けた。 するとその中にウェットティッシュがあるのを見つけ、すぐに取り出す。 とりあえず一番目立つ、マスカラが落ちてパンダ目になっている目元を、オレはごしごしと拭いてやった。 「うー痛い!痛いデス!先輩、もっと優し……。」 「うるせー!おまえが悪いんだろ。変態がこれ以上目立たない様にしてやってんだから、黙って拭かれてろ!」 「っな!やっぱり先輩はカズオ!!です!!」 口を尖らせ抗議するのだめを無視して、オレは拭き続けた。 ―――しかしこの口、まるでリアルな口裂け女……。 オレは込み上げる笑いを堪えながら、両方の口角からはみ出したピンクのリップも強めにこすって取ってやった。 ―――まぁ、とりあえず…こんなモンだろ……。 前衛美術のようになっていたのだめの顔をひと通り拭き終わると、オレは立ち上がった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |