喪失 ミニコンサート後編8
千秋真一×野田恵


「これでひとまず表を歩ける顔になった。ほら、化粧室でちゃんと顔、洗って来い。」
「はぅぅ〜。せっかく、先輩のお母さんに綺麗にして貰ったのに……。」

のだめはオレに拭かれた顔が余程痛かったのか、両手で顔を労わる様にさすっている。

「ほーら、早くしろ!……ったく、これ以上オレに恥かかす気か?」

そう言いながら、オレはまだ座ったままののだめに手を差し伸べる。自分としては物凄く自然に…手を差し出したつもりだった。
でもさっきみたいに、のだめにまた…拒絶されたら……。
そんな不安が隠しきれないで、もしかしたらオレは少し乱暴に言ってしまったかもしれない。
のだめはしばらくオレとオレの手を交互に見て、少し逡巡した後、ためらいがちにオレの手を取った。

「先輩の控え室…俊彦くんとか由衣子ちゃんも、みんな待ってますよネ……?」

オレに軽く引っ張られるように立ち上がりながら、のだめは困ったように笑った。
少し強く繋いだ手を引っ張ると、オレは楽屋裏の方へ歩き出した。のだめも後ろから素直についてくる。

「控え室に行く前に、トイレ、行ってこないと……。」

『のだめ今変な顔だし…』と口を尖らせ、何やらぶつぶつと呟いている。

「別に変な顔なのは…今に始まったことじゃないだろ?」

オレがそう軽口を叩くと、途端にのだめは口を噤んだ。

「あ、言い過ぎた。……悪い。」

すぐに謝ったのに、相変わらずのだめは黙ったままだ。
怪訝に思って後ろを振り返ると、のだめは極限まで顔を伏せて、ロビーの床を見ながら歩いている。

「のだめ……?」
「千秋先輩……。みんな、こっち見てますヨ……。」

『だから、手は離した方が先輩の為だと思いマス。』―――そんな事を低いトーンでぼそぼそと言っている。

「……なんで?」

ちょっと不機嫌になりかけたオレの問いに、のだめは慌てたように説明した。

「だって、今、先輩と手を繋いで歩いている女はその、の、のだめなんですヨ?……変態と噂になっちゃいますヨ?」
「はぁ?そんな事気にしてんのか?別に、今更隠すことじゃないだろ。おまえの変態は……。」
「そうじゃなくって……。」
「あ?」
「も、いいデス……。」

そう言うと、それ以上は何も言わずのだめは大人しくオレの後をついて来た。

何故か酷く気まずそうに、下を向いてついて来るのだめが少し気にはなったが……。
一刻も早くこの衆人環視のロビーから半分メイク取れかけののだめを連れ出したかったので、オレはそれ以上は余り気に留めなかった。

**********

「やっぱり少し発熱しちゃっているみたいね。どうする?真一。夜間やっている病院、この近くにあったかしら……。」

―――遠くで、先輩のお母さんの話し声が聞こえる……。

私はぼんやりとした頭を起こすように左右に振ると、体を起こした。

「あ、のだめちゃん?気が付いた?大丈夫?」

私はいつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
確か楽屋裏のトイレに行って顔を洗ったらスッキリして…その後、先輩の控え室へ行って……。
顔が真っ赤だからソファで少し休むようと、みんなに言われて……。素直に横になっていたら、急に眠気に襲われて……。

「のだめ、うとうとしちゃって……。ゴメンナサイ。」
「いいのよ。ほんの20分くらいだから。」

先輩のお母さんは、起き上がろうとする私を制すると、『まだ横になっていなさい。』と優しく微笑んだ。

「さっき、ホールの管理人さんが持ってきてくれた救急箱の中にあった体温計で熱を測ったの。
ごめんなさいね。測りにくかったから、のだめちゃんのボレロ、ちょっと脱がさせてもらったわ。」

……そう言えば、いつの間にか着ていたボレロが胸元に掛けられている。
膝からお腹にかけて掛けられているのは…先輩のフォーマルのジャケットのようだ。

「別にいいデス。のだめの方こそすいませんでした。ご迷惑おかけしました……。」
「のだめちゃん、熱があるのよ……。具合悪いんだったらちゃんと言って?」
「ごめんなサイ。これから気をつけマス。熱…どれくらいでしたカ?」
「今計ったら7度8分。これから夜にかけて、もっと上がるかもしれないねー。」

後ろで俊彦くんが眉をひそめて難しそうな顔で言った。照れ屋の俊彦くんも、私の事を心配してくれてるようだった。

「どうする?のだめ。一応今日は皆、ホテルに宿泊する予定で部屋とってあるって言うから……。
先に由衣子と一緒にホテルに行って休むか?
それとも、今、夜間やっている病院をホールの人に探して貰ってるから、そこへ……。」
「ね。のだめちゃん、由衣子と一緒にホテルに行こう?」

由衣子ちゃんが側に寄ってきて、小さな可愛らしい手で、ぎゅっと私の手を握ってくれた。

「大丈夫。由衣子が側にいて看病してあげるからね。だから、真兄も心配しなくていいよ。」

由衣子ちゃんは先輩に振り返って、可愛く微笑んだ。

「由衣子と僕に任せておきなよ、真兄。」

俊彦くんも由衣子ちゃんに加勢するように、しっかりとした口調で先輩と話をしている。

―――みんな優しくて、とっても嬉しいハズなのに…だけど……。

「あの、のだめっ、ホテルだと良く眠れないタイプなんで…今から三善さんのお家に戻っちゃダメですか?」
「え!?今から横浜のうちに帰るのっ?無理だよ。だってのだめさん、熱があるんだよ?」

俊彦くんが慌てたように口を挟んだ。

「7度8分なら、そんなに高くないですヨ。のだめ、平熱が高い方なんデス!」

フーン!と鼻息を荒くしながら、私は起き上がってなるべく元気な感じで言ってみた。
……本当は頭がぼーっとして、体はフラフラしていた。

「もし具合が悪くなっても、三善さんちなら、朝一番で山口先生の所に行けますし。ダメですか?」
「しかしここからだと、タクシー飛ばしても1時間以上はかかるが……。」

竹叔父さんが腕を組みながら、無理だと言わんばかりの口調で呟く。それを聞いて私は慌てて付け足した。

「大丈夫ですヨ。のだめ、タクシーの中でもぐっすり眠れる良い子ですから!
それに、三善さんちのふわふわベットが眠り心地最高なんデス!
あのベットで寝れば、明日の朝には、元気回復ピンピンしてますから!」
「そこまで言うのだったら……。みんな、のだめちゃんの希望を優先してあげましょうよ。
でも、一人じゃ心配だから、誰か付き添って三善の家へ……。」
「オレ。オレが一緒に行く。」

千秋先輩が真っ先に付き添い役を申し出た。


「だめよ。オケの関係者や、今回のスポンサーになって下さった後援企業の方達との慰労会がこれからあるでしょう?
あなたが出ないで、どうするの。」

ピシャリと先輩のお母さんが先輩を嗜めた。こういう時、先輩のお母さんはビジネスの顔だ。

「そうだ。お前が不在にすれば、現任指揮者の松田さんを始め、オケの皆さんにも迷惑がかかるんだぞ。
真一、お前もプロとしてやっているならそれ位わかるだろう?」
「けど……。」

まだ不服げに言い淀む先輩を、竹叔父さんが遮るようにして言った。

「征子にもこの企画を立てた三善グループの責任者としてのホステス役があるし……。やはりここはこの私」
「ボクが付き添うよ。」

後ろで会話を聞いていた俊彦君が声を上げた。

「父さんだって少なからずこの企画にかんでるんだから、パーティーにいた方が三善グループ的には得策だろ?
それに父さんと二人でタクシーに乗ったら、のだめさん、かえって具合悪くなるかもしれないね。」
「な、なんだと?と、俊彦!」

竹叔父さんは怒ったように声を裏返した。

「俊彦くん。確かに先輩の叔父さんと二人でタクシーは、辛いかも、デス。」

私も笑いながら俊彦君に加勢した。
すると竹叔父さんは、『人の優しい思いやりを、なんて失礼な!』と、ひどく憤慨している。

「えーー。じゃあ、由衣子も俊兄とのだめちゃんに付き添う!」
「子供が二人も、一応は大人といわれる年齢の?女性の付き添いなんて、タクシーの人に不審に思われるだろ。
ここはボクがどう見ても適任だと思うよ。大丈夫、任せておきなよ、真兄。」

由衣子ちゃんは『俊兄のカッコつけー』と、ぶーぶー文句を言っていた。けれど、最後は納得してくれたみたいだった。
私は俊彦くんが付いてきてくれると言ってくれて、とても嬉しくなった。
最初は一人でタクシーの乗って戻ろうと思っていたし、本当は少し心細かったのだ。

「ごめん……。俊彦…面倒かけてすまない……。のだめの事、頼むな。」

千秋先輩が申し訳なさそうに俊彦くんに謝っている。
先輩の思いやりに感謝の気持ちで一杯になったけど、私は内心おおいに安堵していた。

―――これで…少なくとも今夜は千秋先輩と離れていられる……。

今は、先輩の側からなるべく遠くに、身を置いていたかった。

**********

「関係者専用口にタクシーが来ているから、先に行って待ってて。
ボク、クロークに預けてあるのだめさんの荷物とか持ってくるから。」

そう言って俊彦くんが荷物を取りに行っている間、私ははさっきまでいたロビーを一人で歩いていた。
関係者用の出入口はこのロビーの、さっきまで座っていた奥のソファの近くにある扉から通じる通路からが近道という事だった。
先ほどまで公演の興奮冷めやらぬ聴衆で溢れ返っていたこのロビーも、今も誰もいなくなりしんと静まり返っている。

コツーン…コツーン……

ミュールの音を響かせながら、さっき先輩と一緒に辿った道を、今度は私一人で歩く。


『誰?あの女。千秋真一の彼女?』
『ちょっと、手、繋いでる!?やだー信じられない!』
『こんな所まで来て痴話喧嘩?ちょっとがっかりー。千秋真一ってクールな王子様だと思ってたのにー。』


ひそひそ声で女性達が投げかけた言霊達が今でもこのロビーに漂っていて、私を責める様に取り囲んでいる気がした。
千秋先輩はそういう事に、信じられないくらい鈍感だった……。

あの時―――。

ここにいた多くの人から私に投げかけられた、好奇や…非難の視線がとても苦しかった……。
本当に今の私が先輩の彼女だったら、こんな風に思わなかったと思う。
自信を持って一緒に歩いて…むしろ他に先輩を狙っているライバル達へ”見せつけてやりマス!”位の気持ちで……。
でも実際はそうじゃ…ない。

『先輩の大事な人は私であって、私じゃないんデス!』

そう叫んでしまえたらどんなに良かったか……。

そうこう考えている内に私は通用口に出た。右前方にオレンジ色のタクシーが止まっているのが見える。

「あれデスかね……。」

そう一人ごちると、タクシーまで歩み寄り、助手席を軽くノックした。
運転席にいた40代後半くらいの女性が、それに気がついてこちらに顔を向ける。
運転手が女性なのは、手配した誰かが配慮してくれたのかもしれない。
私が少し身体を左によけると、後部座席のドアがすっと自動で開いた。

「あの、すいません。横浜の三善ですけど……。」

おずおずと声をかけると、女性はにっこりと微笑みながら言った。

「お加減は如何ですか?お待ちしておりました。どうぞ。」
「し、失礼します……。」

物腰が柔らかくて、とても感じのいい人のようだ。そう思いながら私は後部座席の左側に座った。

「……もう一人いらっしゃるんですよね?」

その女性は、ルームミラーで私の方を見ながら控えめに尋ねる。

「えと、ハイ。今、荷物を取りに行っていて……。もうすぐ来ると思いマス。」
「そうですか。空調は大丈夫ですか?それとも窓を開けましょうか?
空調も効きすぎてるようなら遠慮なさらずに、すぐにおっしゃって下さい。」
「今のままで、大丈夫デス。ありがとうございマス。」
「しばらくお連れの方がいらっしゃられるまで、どうか休んでいらして下さい。」

どうやら、この女性運転手には乗客の情報が伝えてあって、私に熱があって具合が悪いのを知っているようだ。
母親にも似た優しい声の響きに安らぎを感じて、私は左側の窓にもたれかかるように寄りかかり、瞼を閉じた。

今はただ嫌な事も苦しい事も何もかも忘れて、眠ってしまいたかった……。

**********

車窓の風景が流線型の軌跡を残しながら、光の洪水の中を溺れる様に物凄いスピードで流れている。

気が付くとタクシーは高速道路を走っていた。私はまた眠ってしまったらしい。
ずっと左側に身体を傾けて、不自由な姿勢で眠り込んでしまったせいか、右の首が痛い。
私は身体を前に伸ばすと、強張ってしまった右の首筋を解すように揉んだ。

「俊彦くん、今どの辺りですか?のだめが寝ている間に、だいぶ走ってしまいましタ?」

窓の外を見ても今の所、特に標識が出ていない。規則正しく並んだ距離間を知らせる数字だけが見える。

「もう走って50分か……。もう川崎過ぎて横浜だ。
そろそろ出口だし、そこから三善の家までそんなに遠くないから、気にせず寝てろ。」
「そですか……。」
「着いたら、起こしてやるから。」
「ハイ…って、千秋先輩っ!?」
「何だ。」
「え?え?千秋先輩?って、ホントにホントの千秋先輩?」
「何回も聞くな!それ以外になんかあンのか?」

最初は寝ぼけていて気がつかなかったが、今、私の横の右側の後部座席に座っているのは、紛れも無く千秋先輩だ……。

―――でも、だって、付き添いは俊彦くんが…ってあれ……?のだめ、何か混乱してる……?

「え?何で先輩がここに?と、俊彦くんは?だって先輩、大事なパーティあったんじゃなかったんデスか?」
「一回に全部質問すンな!」

“なんで?どうして?”と、動揺している私に、先輩は溜息を大きくつきながら言った。

「俊彦に言って代わってもらったんだよ。パーティは…今頃松田さんが何とかしてくれてるだろ……。
(まぁ…あれだけ頼んだし…取引させられたし……。)」

最後の方は良く聞き取れなかったが、何か思い出したくない事でもあるのか、先輩は心なしか顔を青くして呟いた。

「でもでもっ、なんで先輩がここ」
「さっき控え室でおまえが変だったからっ!!気になってすっげー心配だったからっ!!」

先輩は怒ったように声を荒げた。

「お前は隠しているつもりでもっ…オレには分かるんだからなっ!!ったく、何年付き合ってると思ってんだ!」
「……え?」
「だからもう、オレに隠し事なんかするなよ!」
「別に隠し事なんてしてませんヨ……。」
「嘘つけっ!じゃあなんで、体調悪くて熱があるのに、急に三善の家に帰りたいなんて言い出すんだ!」
「三善さんちの方が落ち着くからって、さっきそう言ったじゃないデスか!」
「それが嘘だって言うんだよ!おまえあの時、目、逸らしてただろ?嘘をつく時は、おまえはいつもそうだよな?」
「勝手にこじつけないで下さい!」
「こじつけじゃねぇ!前からそうだった!本当の事だろっ!?」
「前からって!!のだめはそんなコト知りませんヨ!!分かりませんヨ!!んもうっ!!それがイヤだって言うんデスっ!!!!」

タクシーの中で大声を出して言い争う私達を、ルームミラーから運転手の女性が気まずそうに見ている。








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