千秋真一×野田恵
![]() 「それがイヤ…って。のだめ、昨日怒った理由って……これだったのか?」 「別に!先輩が女の子に体重の話をするからイヤになっただけで、深い意味はありまセン!」 「何だよ!人がちゃんと話を聞こうとしているのに、その態度はないだろっ!?」 「それはそれは…どうもスイマセンでした!」 「くそっ!!もう勝手にしろっ!!」 「言われなくても、勝手にしマスっ!!」 私達はお互い顔をフン!と背けると、タクシーの中でぎりぎりまで離れて座った。 「はぁっ……!はぁっ……!」 熱があった上に、先輩と激しく口論して酷く興奮したせいか、暫く経っても私の呼吸はいつまでも荒いままだ。 「っは…っはぁっはぁ……ひっ…っひ……!!」 ―――……あ、あれ……?う、うまく呼吸ができ…な……! 「の、のだめっ!?」 ヒクヒクと上半身を痙攣させてる私に、先輩はすぐに気がついた。 「おまえっ…過呼吸っ……!!」 先輩が慌てて私を抱き寄せようとするので、苦しい呼吸の中でも私はそれを抗った。 「このバカっ!!何、意地はってんだっ!!」 先輩はもの凄い力で私を抱き寄せると、大きな手で私の鼻と口を覆い、もう一方の手で背中を上下に優しくさすった。 「落ち着いて…息をゆっくり吐いて…ゆっくり…ゆっくりだ……そう…大丈夫だから……。」 先輩に促されるように息を吐いていたら、だんだんと呼吸が楽になってきた。 私の鼻と口を覆ってた手を外すと、先輩は今度は両手でわたしの背中をいたわる様にポンポンと軽く叩く。 「大丈夫か……?息苦しいの、おさまったか……?」 先輩が優しい声で、心配げに訊ねる。私はコクリと頷いた。 「はぁー……。よかった……。」 先輩が一息つくのを確認して、その腕の拘束を解こうと、先輩の胸元を両腕でぐっと押した。 けれども先輩は、私の背中に腕を回してがっちりとホールドすると、私がそこから抜け出そうとするのを阻止する。 「のだめ、言えよ。言うまでこの腕、離さないからな……。」 「横暴デス……千秋先輩……。」 「横暴!?人を横暴にしたのはおまえだろ?」 「もう…もう……のだめの事は放っておいて下さい……。」 「何だよ!さっきから何だよっ!?勝手に一人だけ、被害者気分になりやがって!! おまえが記憶を失って、辛いのは自分だけだと思ったのか?バカ野郎!!もっと辛かったのはオレの方だ!!」 「え……?」 「惚れた女に忘れられる事が、どんなに苦しい事か、おまえに分かるか!? おまえ、女友達は覚えてるのに、オレの事は綺麗さっぱり忘れてンだぞ!!オレの事はっ!! オレの愛は、おまえにとってそれ位でしかなかったのかって…… 一緒に過ごしたあの日々を、かけがえのないものに思っていたのはオレだけだったのかって…… その事でオレがどれだけ傷ついて悩んでいたのか―――おまえは知らないだろっ!!」 「……せ、先輩……?」 「のだめ…お願いだから……。もうこれ以上オレに隠し事しないでくれ……!!前にも言っただろ。ちゃんと話して欲しいんだ……。 それにオレ…お前に避けられるの…結構こたえてンだから……。」 「千秋先輩……。」 「あーくそー…かっこわりぃー……。」 先輩はそう言うと、顔を真っ赤にして目を逸らしてしまった。 何だかそれを見たら、さっきまでイガイガ尖っていた気持ちが、やわらかく解けてい丸くなっていく気がした。 私が先輩のあの眼差しで苦しんだように、先輩も私の態度で苦しんで……。 ―――私達、ずっとお互い……同じ気持だった……? 「千秋先輩……ごめんなサイ。」 「……オレが聞きたいのは“ゴメン”じゃない。今のおまえの、本当の気持ちだ。」 逸らしていた顔を再び私に向けると、先輩は真剣な目で私を見つめた。 それを見て、私は出来るだけ正直に、今の自分の胸の内を話そうと決意した。 「……探さないで欲しいんデス。」 「探さないで……?」 「先輩、時々のだめを見て、のだめを見ていませんでしたよネ……?」 「え……?」 「先輩があの瞳をする時は、先輩はのだめを通して、いつも別の人を見てました……。」 「別の……人?」 言ってる最中に泣きそうになって、私は慌てて俯いた。 「だってそれは今ののだめじゃないから“別の人”です。 先輩は…先輩の大事な“もう一人ののだめ”を、いつも探していましたよネ?“今ののだめ”の中に……。」 「あ……。」 先輩は私の言ってる事に思い当たったのか、息を呑んだ。 「のだめ……多分もうこれ以上、記憶は戻らないと思いマス。だからもう、探さないで欲しいんデス。」 「……そういう事か。」 先輩はようやく私を、その腕の拘束からゆっくりと開放してくれた。 「おまえ……オレのあのメール…読んだんだな?……ごめん。嫌な思いさせて……。」 「いいんデス。のだめも先輩にイヤな思いさせましたから……。おあいこデス。」 私達はお互いに俯くと、暫くの間そうやって無言でいた。 「なぁ……のだめ。」 「……ハイ?」 千秋先輩は座席の背もたれに深く身を委ねると、どこか遠くを見るような眼差しで言った。 「パリに帰ったら……オレも出来るだけおまえに協力するから、な?」 「え……?」 「ほら、語学とか…初見とか……。」 「……。」 「フランス語も、アナリーゼも、初見も、学校が始まるまでに、オレがちゃんと叩き込んでやる。」 千秋先輩は私の頭に手をやると、自分の左肩に預けさせた。 「だからおまえは心配しないで、パリに戻るんだ。わかったな?」 「……ハイ。」 先輩の左肩に寄りかかりながら、私はそう返事をした。 ―――これは今の私への同情から?……それとも前の私への愛情から? 先輩の気持ちがよく分からなくて、私は寄りかかりながら再び目を閉じた。 三善家に着くまで、私達はそれから一言も口をきかなかった。 ********** 再びタクシーの中で眠り込んでしまったらしく、気がつくと千代さんが心配げに私の顔を覗き込んでいた。 「あれ……?」 「もう着きましたよ?のだめさん降りられますか?大丈夫ですか……?」 千代さんに支えて貰いながら、わたしはふらつく足取りでタクシーから降りた。 「千代さんすみません。こいつを二階の客間まで連れて行って、寝かしてやってくれますか?」 千秋先輩が会計を済ませてタクシーから出てくると、千代さんに話しかけた。 「かしこまりました、真一さん。」 「あ、千代さん。のだめ、その前にお風呂に入りたいデス……。」 「え……?でも、のだめさん、熱があるんじゃ?」 「のだめ、熱があるんだから、風呂は今日は止めておけ。」 千代さんと先輩が私の身体を気遣って、入浴を止める様に説得をする。 「でも…のだめ、さっきから何回も寝たせいか、寝汗をぐっしょりとかいてて気持ち悪いんデス。それにこの髪も、崩したいし……。」 先輩のお母さんが綺麗に巻いてくれた髪だけど、今の私には何だか不釣合いな気がして、お風呂に入ってサッパリしたかった。 「そうか……?じゃあ、千代さん、すみません。こいつの入浴を手伝ってやってくれませんか?」 千秋先輩が申し訳なさそうに千代さんに頼んだ。 「私は構いませんよ?あ、先にのだめさんからお風呂に入られますか?」 「そうして下さい。オレはもうシャワーだけでいいので、二階のシャワー室の方を使います。」 先輩はそう言うと、私を千代さんに預けて自室の方のある二階へと階段を登って行った。 ***** 千代さんに入浴を手伝って貰ったおかげで、お風呂上りさっぱりとした私は、さっきよりも随分と気分が良くなった。 しかし今夜の着替えの服をホテルに置いてきてしまった為、私はバスローブ姿のちょっとはしたない格好のままで客間に戻った。 背中の方も、今まで湿布を貼ってくれていた由衣子ちゃんがいない為、今日は素肌のままだった。 荷物の中から下着は見つけたが、部屋着になりそうなものは見当たらない。 しょうがないから普段着のワンピースでも着て寝ようかと思った時、私はある事を思い出した。 ―――あ!!そういえば、入院のお見舞いでパジャマ貰ったんだっけ!! 峰くん達がお見舞いに来た時、萌ちゃんが、『これ、寝間着だけど、良かったら着てね?』と言っていた。 慌てて荷物の脇にあった紙袋を見る。するとそこには、綺麗に包装された化粧箱が入った袋が、何故か2つあった。 ―――あれ?どっちだっけ?って言うか、もう一個は何が入ってるんだっけ? ひとまずクリーム色の包装の方から開けると、中から高級そうなヨーロピアンリネンのナイトドレスが出てきた。 裾にはカサブランカの大きな刺繍がぐるっと施されていて、たっぷりとしたギャザーから、それが優雅に覗いている。 ―――むきゃー!しゅごい!外国のお姫様みたいデス!! 着てみると、洗いざらしのリネンの肌触りが最高に心地よかった。 きっとこれは、薫ちゃんと萌ちゃんの趣味なんだろう。さすが美人双子は素敵なセンスをしているなぁ…と、私はひとしきり感心した。 ―――で、もう一個の方は……? こちらはブルーの包装紙で包まれている。 慎重にその包装を開けると、箱の中から白い不織布で包まれた男性の白いフォーマルシャツが出てきた。 シャツの上には大きなカードが置いてある。 ―――何だろ? そう思って開けてみると、見覚えのある字が次々に目に飛び込んできた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 千秋くんへ 真実一路!!息子よ!また飲もう! 野田辰男 千秋くん、よかったら凱旋コンサートで着て下さいネ。 洋子 義兄さん!また遊びに来て下さいね!! 今度は新作・海苔点心をご馳走します。 佳孝 恵のこと、いつも大事にしてくれて、本当にありがとう。 洋子 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ―――お父さん…お母さん…よっくん……!! 千秋先輩が自分の家族から、こんなにも受け入れられている事を、私は初めて知った。 確かに私も、先輩のお母さんの実家である三善家の皆さんから、とても大事にして貰っていて……。 先輩も同じように、私の家族から愛され信頼されているという事実が、今の私にはとても嬉しかった。 ―――今なら、素直に言えるかもしれない……。 自分の家族が先輩に宛てたカードの寄せ書きを見て、何故だか急に私はそう思った。 さっきはうまく伝えられなかったけど、今ならちゃんと先輩に話せるかもしれない。いや、話せる気がする。 私は洋子が先輩の為にあつらえた白いシャツの入った箱を持つと、先輩の部屋へと向かった。 ********** いつもより熱めのシャワーを浴びると、オレはタオルで頭を拭きながらキッチンへ行き、缶ビールを冷蔵庫から取り出した。 そしてそれを手にして、自分の部屋へ戻った。 公演の疲れを気だるく感じながら、缶ビールを開ける。喉をごくごくと鳴らしてそれを飲み干しながら、ソファに身体を預けた。 ―――はぁー……。何とか、終わったか……。 今までずっと張り詰めていた糸が、急に切れた訳ではないが、それでもやはり少しは緩まった気がする。 今回のR☆Sの公演で自分の満足のいく結果を残せた事が、今のオレの救いになっていた。 ―――のだめとの事は……まだまだ問題山積みだけど、な……。 それでもさっきタクシーの中で、オレに寄りかかって眠ってくれてたのだめを……今は信じたい。 トントントン…… 控えめにドアをノックする音がした。 ―――……?千代さんか? のだめの事でも、オレに報告しに来たのかと思い、オレはドアを開けた。 しかしそこには居たのは千代さんではなく……白い箱を持ったのだめだった。 のだめのクルクルと巻いた髪も、元通りのサラサラのバージン・ボブになっており、 頬の赤みはまだうっすらと残っていたものの、先程に比べれば顔色はずっと良かった。 「どうした……?」 「千秋先輩、チョトいいデスか?」 「ああ、もちろん。入れよ……。」 オレが扉を大きく開いてのだめを部屋へ迎え入れると、ドアはこのまま開けたままがいいのか、それとも締めた方がいいのか、一瞬迷う。 しかしかえって開けたままの方が、こいつに余計な気を遣わせるかと思い、オレは普通にドアを閉めた。 のだめは部屋の中央にあるソファの手前で止まると、ドアを閉めてるオレに振り返った。 「先輩、コレ……。遅くなっちゃったけど……。」 のだめから白い箱を手渡される。オレは少し面食らいながらも受け取ると、そのふたを開けた。 中にはオレにも見覚えのある、フォーマルの白いシャツが入っていた。 「……おまえの母親の?」 「ハイ。」 よく見るとシャツの上に大きなカードが置いてある。オレは箱をテーブルに置くと、カードだけを取り出して開いた。 「……相変わらずおまえの家族はスゲーな。」 「先輩、のだめの実家に来たコトあるんですネ?」 「ああ、一回だけだけど。おまえの親父さんにしこたま酒を飲まされた……。まぁ、楽しかったけどな?」 オレが笑いながらそう言うと、のだめも嬉しそうに笑顔を見せた。 「これ…今回は着れなかったけど、次のマルレの定期公演で着させて貰うよ。ありがとう。 おまえのお母さんのシャツ、すっげー着心地いいンだよなー。明日にでもお礼の電話、オレからしておくから。」 「洋子もきっと喜びマス!」 そう言ってにこにこと笑うのだめが、見た事もない上品そうな夜着を着ているのが、オレはさっきから気になっていた。 「おまえ、それどうしたの?自分で買ったのか?」 「あ、コレですか?峰くん達から貰った入院のお見舞いですヨ?」 「ああ…鈴木姉妹の趣味か……。」 「千秋先輩、よく分かりますネーー!」 「だっておまえ、あまりそういうの着てなかったし。もっと可愛い感じのパジャマとかが多かったから。」 そう言うと、のだめがきょとん、とした顔をした。 その表情を見て、オレはまた自分がへまをしてしまった事に気がついた。 「あ…ごめん。オレ、また……。」 「いいんデスよ。もう、のだめ気にしてませんから。」 「でも、イヤ…なんだよな?これからなるべく気をつけるから……。」 「本当にいいんデスよー千秋先輩!」 のだめはふんわりとオレに微笑んだ。 「のだめ、あんまり気にしない事にしたんデス。」 「そ、そうなのか?」 「千秋先輩と一緒に居たいから。」 「ふーん。って、え?」 のだめの言葉にあっけにとられ、オレは口を開いたまま固まった。 「先輩、その顔…かなりお間抜けですヨ?」 「今、おまえ何て言った?」 「え?お間抜け……。」 「そうじゃなくてっ!!その前!!」 せかすつもりじゃなかったが、思わずのだめの両肩を強く掴んでしまった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |