ここにいること
-1-
瀬文焚流×当麻紗綾


特に何もしてやないのに泥の中へ沈む倦怠感だけがあって、
何処までも落ちてゆく眠りの中、自分はそれを自然に抱きしめたのだ。

『……、さん』

鈍く打ちつけられたような背骨の痛みとともに、
優しくさすられる手の温度。
手で手を抱きしめられる安堵感の後に、はっとするような感触が頬に触れる。

無意識に手を伸ばし、もっと求めようとして
ドシン!という物のぶつかる音で現実に引き戻される。
縫われたように重い瞼を渋々開くと、ドアの反対側で、擦りガラスに
不気味なものが張り付いていた。

「……当麻」
「はい」

ドアの向こうでべったりと存在を主張する白い手のひらは、
消えたかと思ったら乱暴に扉を引いて、そのまま視界に飛び込んでくる。

見上げた先には、さっきまで夢に出て来た
見た目も中身もおかしな女が立っていた。

「何でまた、来る」
「瀬文さん、今日寝るの早いっすねー。電気消えてて焦りました」

しかも、人の話は聞きやしない。
夢でも現実でもこいつの相手をしなくてはならないという
力の入った悪夢には、どんな呪文もスペックの類も通じないだろう。

何をどうすればそうなるのかわからない不気味な動きをつけて
その左手は当然のように電気を点して、
消灯を過ぎた病院の廊下までを図々しく照らしている。

その指先があまりにも自然で、ほっとするのは気のせいだ。
瀬文は当然のように入ってくるその姿を咎めるが、
存在そのものが図に乗っている――としか思えない――当麻は、
仮にどこか一カ所を押さえつけようとしても無駄に終わってしまう。
例えばこうやって、言葉で諌めようとしても。

「だからお前、何でそう、毎日来る」
「だってぇ。もぉあたしたちぃ、ただならぬ関係じゃないっすかあ」

ああ、聞くんじゃなかった。

「言わせたいんですかぁ?」

と片目を閉じ、甘ったるくしなを作る当麻を、
瀬文は馬鹿言うなと殴るどころか、その言い分を
まるで否定できずにいることがたまらなく呪わしくなる。

出会った当初はまともに打ち解けることすら
到底あり得ないと思っていたはずの瀬文と当麻は、
一月前に起きたとある大きな事件をともに乗り越え、
生き延びたことがきっかけで、一週間前、はずみで
男女の関係になってしまった。

「ただならないので、添い寝しにきました。おかしいっすか?
おかしくないっすよね。何罪でもないっすもんね。
それじゃあ、お邪魔しまっす」

はずみで、というだけで信じられないのに、
相手が『この』当麻であることが、瀬文は未だ信じられない。

確かに瀬文は自らの意思で当麻を抱き、当麻と他人でも単なる同僚でもない
関係になってしまったのだが、今でもそれが、
当時毎晩のように見ていたふしだらな夢の一部であったような
気がしてならない。

「いいから早く消せ電気。見つかる」
「あ、そおでした危ない危ない。
見つかったら瀬文さん、あたしと一緒に寝られなくて淋しいですもんね、ね」
「殺すぞ」
「んふふ。おやすみなさぁい」

大怪我をして、警察病院で、全てが片付いた訳でもないのに、
半ば成り行きで、恋人でもない女――しかも処女だった――と。

瀬文にとって、あの行為には信じられなさと、
それでも後悔していないと主張する気持ちと、
深い後ろめたさが混在している。

こんな時に、こんな場所で、こんな自分とこんな相手が。
こんな、真っ当じゃない関係のまま。

「ああ。おふとん、いいなあ。あったかいなあ」
「……廊下が寒みいんだろ」

後ろ暗い事実しかないこの現実に対して『巻き込まれた』『ありえない』
と子どもっぽく叫びたくなる一方で、そうさせない何かを
強く感じていて、それが罪悪感とそれ以外の感情に変わる。

それは当麻へのものだったし、
名前を呼ぶだけで苦しくなる人物たちへのものだったし、
院内・職場にいる全ての人物に対するものだったし、ある意味で、
津田――地居と名乗った津田ではない、自分と契約を結んだ津田だ――
にですら、瀬文は後ろめたく思っていた。

当麻は自分が未詳を離れていたことに対しても、
あの日のことに対しても、何も言わない。
ただこうして毎日変わらずに現れるだけで、
二人の間に起きた様々な事件に関して、一切のコメントを示そうとしないのだ。

それでも平穏な日々はまるで今まで貯金し尽くしていたかのように
信じられないほど長く続き、
瀬文は結論を先延ばしにすることばかりが得意になる。


一体、どうすることが最良なのか。
とっくに出ているはずの答えは、選択を迫るようにこちらを見つめている。
しかし、当の自分は今日も変わることなく
ただ、当麻の望みを聞き入れてしまうのは。

「瀬文さん瀬文さん」
「あ?」

そうやって今日も思い悩みながら、今日も仕方なく
一人分しか眠れない狭いベッドに一人分のスペースを空けてやって、

どうして毎日こんなことをして見つからないのか、何者かの
策略だろうか情報操作だろうかと自らの運命を呪っていたら、
件の当麻がちょいちょい、と指で背をつついてくる。

仕方なく振り向けば、また新しい悪夢の始まりだ。
目の前の女が、目を閉じて唇をとがらせている。

「……一応聞くが。それは何の真似だ」
「何って、ちゅーっすよ。おやすみのちゅー」

一度は見えなくなってしまった目なのだから、
機能回復した後は都合の悪いものは見えないことにしてくれる
新たな力が備わったりしないものだろうか。

「瀬文さん。ちゅ、う」

毎日毎日順調にこいつの頭は悪化している。
当麻は瀬文が自らの思惑通りに行動すると信じてやまないらしく
くいくいと身を乗り出し、こうしてうんざりする間にも
気味悪くじりじりと寄ってくる。


瀬文はこのマヌケな頬を片手でぐっとつかんでやって、
何か一言言ってやりたくなるが、
返ってくる当麻の主張は聞き飽きているからもうそれすらも億劫だ。


『だってあたしたち、もうただならぬ関係じゃないですか』


最悪なのは、その言い分が一応は通るということにある。
『ただならぬ関係』を仮に『恋人』とすれば当麻の思考は、
ここが病院だということを除けばなんら責められることのない
自然なものになってしまうし、

逆に『ただセックスしただけの関係』とすれば
それはあまりにも、と、今度は自分から否定したくなる。

それに、待ちかまえるこの忌まわしい行為から逃れたいあまり、
『あんなのは遊びだ、お前に気持ちなど最初からない』と言うのも
それはそれで不誠実な男のような気がして嫌だった。
自分にとって許せない人間になるくらいなら、
自分にとって信じがたい相手とキスした方がよほどましだ。

どうせ拒んだところで受理されないのを理由に、
追い払おうにも腕が本調子じゃないのを理由に、
毒を食らわば皿まで、の精神の元、
しなくてもいい行為を毎日律儀に続けてしまう自分の馬鹿正直さに
瀬文は我ながらうんざりしながら、早く終わらせよう、と
当麻の前髪を軽くつかんでかき上げると、その額に口づけてやった。

「……おでこ、っすかあ?」

それなのに返ってくるのは、まるで不満という声なのだ。

「言うとおりにしてやったろ。寝るぞ」
「えぇーっ。昨日はしてくれたじゃないですかぁ。
熱くって、なっがいの」
「事実を誇張するなこのトンマ。ひっつくんじゃねえ」
「でも、してくれたのは事実です。
昨日はしてくれたのに、どうして今日はだめなんです?
何でですか教えてくださいよ瀬文さんのハゲ」
「てめえ、」
「ねーお願い。ちゅー」

まったく、こいつの頭はどうなっているのか。
例の一件から、瀬文は当麻に努めて寛大に接していたが、
人の優しさをまるで理解しない目の前の女は増長する一方だ。

あの事件で心を引き裂かれた当麻が、不安のあまり
自分と恋人ごっこがしたいことはわかっている。
勢いだったとはいえ、当麻の言うところの
『ただならぬ関係』になってしまった以上、
少しくらいそれに付き合うのも義務だと思っている。
しかし――しかしだ。

「……ったく」

果たしてこれは『いつ』始まって、『いつ』終わるのだろう。
当麻が飽きたり満足した瞬間、ぷつんと途切れるものなのだろうか。

「んふふ」

仕方なく顎を持ち上げ、仕方なく言うとおりにしてやると、
当麻がまた薄気味悪く声を漏らす。
さっきかき上げたばかりの長い前髪が頬に当たって、少しだけ擦れた。

「瀬文さん、今日もくちびるカサカサっすね」
「うるせぇ」
「んふふ」

触れるだけの簡単なものだったが、それでも当麻は満足したようだった。
瀬文の胸中などまるで察することもなく、
ふんふんと不気味な鼻歌を歌いながらいそいそと布団に潜り込んで
眠る準備を始めている。

「んじゃ、おやすみなさい、瀬文さん。今日もお疲れやまでした」
「……ああ」

そうだ。果たしてこれは『いつ』終わるのか。

当麻はすでに大部屋に移り、それどころかとっとと退院しろとすら言われている。
自分もじきにここを出ることとなるだろう。
そうなればこの奇妙な日課は自然と解消されるし、
さらに退院してしまえば、毎晩顔を合わせることすらなくなってしまうのだ。

そのとき、一体自分たちはどうなるのか。
まるで何事もなかったかのように、また野々村係長を挟んで、
元通りの関係に戻るのだろうか。
あんなに沢山のことが、あったというのに。


電気の消えた部屋で当麻はすっかり所定の位置に収まって、
瀬文の身体に左手を回して、服の裾をゆるく握り締めている。

瀬文も同じように、その上に自らの手を重ねてやる。
非常に不本意な話だが、この部屋で自分は、当麻の部屋にあるという
気味の悪い抱き枕と同列にされているらしい。
この上なく不快だが、なぜかその手を払うことはできなかった。
最初にその手を握ってやったのは自分だったからだ。

閉じたドアは張り詰めた冬の空気をたたえて
世界はまるで、何もかもが眠っているかのようだった。

瀬文は今夜も日課として、記憶を整理した。
奪われることのないよう、刷新し続けた。


『ここしか行くとこ、なかったんです』

あの日、自分の腕の中で、当麻はそう言った。

同時に、事件以来初めてこの部屋に来た晩のそれはひどい姿の当麻が浮かび、
ふらふらとおぼつかない足取りでドアを開けた当麻を、
瀬文は追い出せなかったのを思い出す。

命が助かったのが奇跡に思えるくらいの満身創痍となり、
毎晩よろよろと現れては、ぼろぼろの身体で構う当麻を
瀬文はとても追い返せなかったし、
当麻が弱いところを隠し切れなくなって、
何処かに隠れたいと願っているのなら、力になろう、と思った。

その結果がセックスだったのは、偶然と誤算の結果だったように思える。

瀬文は当麻に絆を感じていたが、それは、自分たちは
男女であるにも関わらず、性のしがらみを持たない関係にあると
自負するたぐいのもので、
肉体関係を結ぶこととは真逆の位置にあるのだと信じていたし、
当麻もそう思っていると疑わなかった。


しかし、実際はそうではなかったということだ。
現実は色気のかけらもない――と、表層意識では思いこんでいた――
はずの当麻に毎晩添い寝されるうちに
瀬文は毎晩おかしな夢を見るようになり、
結果自らのものは当麻の前で簡単に勃ってしまったし、

当麻のことを『仲間として大切にしたい』という
自分なりに用意した精一杯の誠実さは、挑発された途端
あっさり崩れさってしまった。


望むような冷静さを持てなかった己の情けなさに呆れる一方で
それでも、抱いたのは性欲を発散させるためではなく、
もっとましな気持ちからのものであったと、
――それを当麻に伝えられるかはさておき――
瀬文は断言することができた。

当麻がどう思っているかは知らないが、瀬文としては、
あの行為は遊びのつもりでは毛頭なかったし、
そもそも、遊びたいのなら最初から当麻など選ばない。

だから、『当麻を愛していない』と言えば確実に嘘だったのだが、
かと言って、愛していると言うには、自分のしたことはあまりにも不透明だ。

ただ、ひとりではいられなかったから。
当麻も、同じように感じていたから。

認めざるを得ないことだ、自分は当麻に甘えていた。
話さなくてはいけないことがいくらでもあるのに、そのすべてを
野放しにし、ただ黙って傍に居てくれる当麻の存在に寄りかかっていた。

実に自分たちらしくないことだ。
自分たちは不用意なほどにぶつかり合っては、
常に言いたい放題、やりたい放題で、
お互いにお互いが恐れないのをいいことに、
相当不用意なことを言ったり、したりしてきたはずだ。


例えば美鈴が相手なら絶対に言わないようなことや
しないことを、瀬文は当麻には何度もしたし、
それを正当だったと思うこともあれば、不当だったかもしれないと、
時に後悔することさえもした。
それくらい、互いに我慢しない関係だったはずなのに。

『このままでいたい』当麻もそう思っているだろうか。
未詳を抜けたこと、姿を消したこと。それらについては、
当麻はもう蒸し返す気はないのかもしれない。
しかし、抱き合ったことは?
それさえも、このまま霧散してしまうのだろうか。
それが、本当に正しいことだろうか?

結局のところ、何を言っても、何をやっても、自分は不誠実だ。
動き出すのが怖いのに、何もしないことを恐れている。
学者かなんだかの薄気味悪い抱き枕と同列にされても、
こうして、この細い手を握って、
時々弱い力で握り返される度、当麻が生きていることに安堵している。

成り行きで寝ても責められないことで図に乗っているのは、
本当は当麻ではなく、自分の方なのかもしれなかった。

『せぶみ、さん』

まどろんでくると、今度は夢の中の当麻が瀬文を呼ぶ。

相変わらず、忙しい女だ。
こうなるきっかけとなったおかしな夢は今も見ていて、
しかしその内容は抱き合った日から一変し、今では、
ごく一般的な恋人同士のようなものとなっていた。

『せぶみさん』

夢の中の自分たちは随分穏やかな関係になっていて、
先週まで夢の中で狂ったように繰り返していた
獣じみたセックスを、丸ごと飲み込んだかのようだった。

『瀬文さん!』

それはあんな夢を見続けた罪悪感の反動か、それとも単に
欲求不満が解消されたことによる開放か。

自分の前で心底安心したような笑みを浮かべる当麻を見て、瀬文は
この夢はあまりにも気持ち悪い、と思う一方で
本心では安らいだし、そうさせた自分に誇りを感じてもいた。

夢の中の瀬文にとっても、現実の瀬文にとっても、
当麻の平穏が得難いものであることに変わりはなかったからだ。

『瀬文さん。……――』

夢の中の当麻は瀬文を見て『しあわせです』と言った。

夢は自らの願望を映し出すといい、これまでそんなものが有りうるものか、
断固信じないぞと思うような夢ばかり見ていた瀬文だったが、
その一点に関してだけは、まさに己の願望そのものだと思っていた。

なぜなら、現実の当麻は不幸だからだ。
信じた相手に大切なものを根こそぎ奪われ、途方もなく傷つき、
だのにその悲しみを表現するすべも持たぬまま
自分の隣に眠ることだけを選んだ孤独な女だからだ。

並の女、いや、並の人間ならば、何もかも信じられなくなって、
絶命を選んでもおかしくない精神状況に、当麻は今も立っている。

それを思うだけで、瀬文は今も腹の奥が燃えるような怒りに襲われる。
あの男と当麻の、そしてニノマエと当麻の真実の関係を知ったとき、
瀬文は当麻が人前で泣きもせず、それどころか傷ついたそぶりも見せない、
憎らしい程強い人間であることを、どれだけ苦々しく思ったことだろう。

どうせ当麻は泣かない、それどころか瀬文に、
思いのたけを打ち明けることすらしないだろう。

瀬文はそれがもどかしかったし、虚しかった。
それが当麻の人間性だということはわかっている、けれど、
それでは自分のしていることが、結局はすべて当麻には届いていなくて、
意味のないことであると言われているように思えたのだ。

それにどうせ、当麻のことだ。
今こそこうして瀬文の背中に隠れて眠っているが、ある日突然
『もう平気っす』なんて言って、それっきりになるに決まっている。

そして次の日には、かつて男女の関係になったことすら忘れ、
何事もなかったかのような振る舞いをするのだ。
それが起きれば、すべては振り出しだ。
そのとき自分は、一体どうすればいいのか、受け止めるのか。
或いは、そうならないために、どう働きかければいいのか?

「瀬文さん。起きてます?」
「……寝てる」

結局瀬文にとって当麻の考えていることはまるでわからないし、
わからない故に持て余して、思うままの行動が取れなくなっている。
なるようになればいい。そう捨て鉢になる一方で、
それを口惜しく思い、不安に感じる自分がいる。
当麻を独りにすることが、たまらなく恐ろしい自分がいる。

「起きてるじゃないっすか」
「寝言だ」

どうやら眠っていなかったらしい当麻は、
瀬文の背中に鼻先をあてたまま、くすくすと笑っている。

「しあわせっす。あたし」
「……そうか」

そうして飛び込んできた思いがけぬ言葉に心臓をつかまれたような思いがして、
見透かされるはずがないと、瀬文は居心地の悪い思いを抱えたまま目を閉じる。

幸せ?
これが?
何もかもがなあなあで、曖昧で、不透明のままでいることが?
恋人でもない男と、何のけじめもつけないまま一緒に眠ることが?

一瞬前まで眠気に和らいでいた全身はカッと熱くなった後急速に冷えて行き、
瀬文はどす黒い絶望感に襲われた。
当麻と自分の間に、ぞっとするような温度差があるような気がして、寒気がする。
そのギャップに、今すぐ何かに当たりたい子どもじみた衝動に駆られた。
どうして、自分は、今も。

「当、麻」

しかし、せめて何かを伝えようとしたその前に
思いもよらぬことが起きて、瀬文は跳ね上がりそうになった。
いつの間にか自分の手を離れていたその左手が、別の場所に伸びている。

「……てめえ、どこ触ってる」

かろうじて声を荒げずに済んだことに、自らのことなのに
ホッとしてため息をつきそうになる。

「瀬文さんの、」
「正直に答えてんじゃ、ねえ」

それでも瀬文の逆鱗に触れたらしいと知った当麻はほんの少し驚いたようだ。
何も言わず、入院着ごしに性器を撫でていたその手を、
すっと戻し、こちらを見上げている。
――一体、何のつもりなのか。

「だって」

振り向くと、当麻はいつもの平静な表情を浮かべて、臆することなく瀬文を見上げている。

「だって、あれからしてないですし。
瀬文さん、まだ自分じゃ思うように触れなさそうですし」

ほんの数十秒前、瀬文に触れてきた当麻の手は優しかったし、
その手が不自由だった頃が信じられないほどにしっかりと動いていたが、
瀬文は少しも嬉しくなかった。

もしこれをただ喜んで受け止める男が居たら、それはどれだけバカなのか。
当麻は何度も瀬文をバカだと言ったが、バカなのは自分だと思わないのか。

「たまってません、か?」

今の自分がどんな顔をしているかは当麻にも見えているはずなのに、
当麻はまだ可愛いぶったような声を投げかけてくる。

自分は真面目にお前のことを考えてやっているというのに、
どうして、そう、下劣なのか。
どうしてそう、人の気持ちを逆撫でするようなことばかりするのか。

瀬文は頭に激しく血が上り、いよいよ手を上げたくなったが、
同時にとてつもない悲しみも感じ、震える拳を握り締めた。
まるでわからないことがひとつあるからだ。

「一応、聞くが」

「はい」
「お前は俺とどうなりたいんだ」
「特に考えてないです」

ようやく搾り出した問いに、当麻は、しれっと答える。

「じゃあ、」

答えが返ってきてからすぐ、質問に失敗したと思った。

ゆえに瀬文は、二度目は包み隠さず疑問を口にしてみる。
どうせ当麻相手に気を遣ってみたところで、まるで意味などはない。
いちいち遠回しにする方が、よほど時間の無駄に思えた。

「好きだからセックスしてえのか。それとも一人で寝るのが嫌だから
俺の機嫌取ってるのか。答えろ」

二度目の問いに、暗闇の中、当麻がぎょっと瞳を見開くのが見える。
しかしそれはかつての、たとえば日本語の間違いを
指摘してやったときのような類のものではなく、明らかに演技だった。
その証拠に、きょときょととわざとらしく瞬きをしている。

「瀬文さん。なんか案外ふつうのこと聞くんすね」
「はっきりしておかねえといけないことだ」
「そうっすか」

暗闇の中で、当麻が、すう、と息を吸う。

「じゃあ」

くい、と顔を起こし頬杖をついて、値踏みするようにこちらを見てくるので、
瀬文もはっきりと見つめ返してやった。

暗闇にいる当麻はいつもの通り憎らしいほど冷静で、
切り返しに戸惑っているような素振りはまるでない。
むしろ、いい機会だ、という顔をしていた。

「じゃあ、あたしからも質問です。やったら情が沸きましたか。
それともあたしがあんまり可哀想だから、
こんなことされても拒否らないんすか」
「何だと」

当麻の声は平然としていて、瀬文がどう答えたところで、
何の感情もないかのようだった。
言葉に詰まったのは、やはり瀬文の方だ。
今もただ怒りが沸いてくるばかりで、まともな返事ができなくなっている。

「……お前、ふざけて言ってんのか」
「ふざけてないっす」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ」
「馬鹿なことなんて言ってないです」

それでも、その質問だけで、どれだけ自分が見くびられているのかよくわかる。

「馬鹿でふざけたことだろ。そんなこともわからねえのか」

もし今のどちらかを選ぶようなことがあれば、その瞬間すべては終わりだ。
それらの気持ちが一切ないといえば嘘になる、しかしそれはすべてではない。
故に答えず睨みつけると、意外にも、先に声を荒げたのは当麻だった。

「じゃあ、瀬文さんもふざけて言ったんすか。
機嫌取るとか、どうなりたいんだとか、ふざけて言ったんすか。……あたしは。あたしは、」

真夜中の病室で、静寂を貫くように当麻が声を上げる。
瀬文は当麻が怒り出すのを久しぶりに見たような気がしたが、
それ自体がこの一ヶ月近くの異常性をそのまま表していて、
どうしたらいいか、ふいにわからなくなった。
入院して以来、自分たちはずっと、『いつもどおり』を見失っていたからだ。

「変なとこさわったのは謝ります。でもあたしは。瀬文さんが。
ほっといたらまたクソみたいなくっだらねえこと考えて、
また急に何処か行っちゃいそうで嫌なだけです。
確かに毎日こんなことして、実際甘えてんなって自分でも思います。
でも同じくらい、瀬文さんが心配なんです。いなくなってほしくないんす。
そう思うのもいけないんですか。
あたしが瀬文さんに何かするのは、全部だめなんすか」
「おい、」

いつからそんな話になった、と諫めようとしたが、言葉にはならなかった。
当麻はすぐに人の意見に噛み付くが、
原則それが子どもの駄々同様のものであるのに対し、
今はそれがひどく切実に聞こえて、胸が締め付けられたのだ。

それは言う通りだったからだ。
当麻の言っていることは相変わらずめちゃくちゃだが、言うとおり
最初に姿を消したのは自分だった。
瀬文はそれを何度も責められたが、
それが当麻にどんな影響を及ぼしていたか考えたこともなかった。
当麻以外のものを見て、当麻以外のことを考えていたからだ。
瀬文は当麻をあてにするだけあてにして、
都合のいいようにその力を借りていたからだ。

「瀬文のバカ。勝手に人のこと可哀想扱いしやがって。何様だよ。神様か?坊さんか?
可哀想なのはおまえだろうがよ。人の気持ち何も知らないで。
ハゲのくせに。バカのくせに。奥歯ねぇくせに。むかつく!」
「てめえ、」
「バカ。瀬文さんのバカ!」

答える前に、右側から顔面に握り拳が飛んで来る。

「おい、」
「うるせえ!」

難なくかわすと、今度は両手が同時にやって来たので、手首をつかんで受け止めた。

「……っう……」

たった二度の攻撃でいともたやすく自由を奪われた当麻は、
ますます腹が立ったらしく、髪の毛を振り乱したまま、
何度も瀬文にごんごんと頭をぶつけて来た。
そのうちの一発が思い切り鎖骨に当たって、痛みを感じる。
当麻はつかまれた両手で、尚も殴ろうとしてきた。

「離せ。ハゲ。瀬文さんのバカ」
「ハゲじゃねえ」
「バカ!」

反撃されぬよう手首をぐっと押さえつけると、押さえつけた力の
半分以下の力が戻ってきて、瀬文はその腕力のなさに、改めて驚く。

こうなる前まで、瀬文にとって当麻は不遜で、生意気で、
得体が知れなくて、それ故に何とかしてくれるのではないか、と
思わせる何かを持っている気がしていた。

しかし現実はただの一般的な、それどころか片腕が使えないために
一般的な女よりもよほど非力な、ただの女だ。
ずっと一緒にいる気がしていたのに、瀬文は今、初めてそれを実感していた。
ひどく遠いところから、ようやく自分が帰ってきたような感覚に陥った。

「……すまん、俺が悪かった」

だからそんな風に当麻に素直に頭を下げたのは、二度目だった気がする。
結局瀬文は己の考え通り、当麻を何もわかっていなかったということだ。
勝手に不幸扱いして、その先の思考を停止していた。
そのことだけでも、謝る理由は充分にあった。

「…………っ」

瀬文が言い終えた途端、当麻はぜんまいが切れたようにおとなしくなり、
つかんでいた手を離しても、もう殴りかかってこなかった。

代わりに瀬文は手を伸ばして、
骨のくっきり浮かび上がった、痩せぎすの背中を撫でてやった。
結果的に、当麻を抱きしめる形になり、
あの日からいつこうなってもおかしくないとは思っていたが、
この瞬間にこうなるのは、とてもおかしなことのように思えた。

「……そうっすよ。何もかも瀬文さんが悪いっす。諸悪の根源です」
「だから、悪かったっつってんだろ」
「これだからバカは嫌いなんです。これだから、もう……」

チッ、と聞き慣れた舌打ちの後に、入院着ごしに当麻の心音が伝わってくる。

心臓同士がぶつかって、そのせいで
鼓動が早くなっているのかと思うほど、その音は近かった。
耳を澄ますうち、それはお互いのペースに合わせるような速度となり、
瀬文は自然と呼吸が楽になるような感覚に浮かんだ。

今まで苦しさに気づかないほど、
自分は追い詰められていたのかもしれなかった。








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