上田次郎×山田奈緒子
![]() 数時間ぶりに研究室の扉に手を掛けるのと、中から電話の呼び出し音が鳴り響くのはほぼ同時だった。 俺は小さく息を吐き、科技大で唯一安らげる場へと足を踏み入れる。 この数週間俺は多忙を極めていた。 近く開かれる学会での論文の制作、また、運悪くそれに重なってしまった試験の問題作成。 加えて、朝からぎっしり詰まった学生達への講義。 試験前ということもあり、暇ができたと思えば勉強熱心な学生に質問責めに合う…まぁ、丸毛典子くんのような生徒ならそれも苦ではないのだが。 とにかく、どこぞの誰かは俺のことを暇人だと責め立てるが、少なくともここ何日かは睡眠もまともにとれない多事多端ぶりだった。 そして今、やっと休めると研究室に戻ったところでこの電話だ。 俺は正直辟易していた。 持っていた書類を机に投げやり、けたたましい音を立てる機械に手を伸ばす。 「………上田ですが」 受話器を耳に当て発した声には、存分に機嫌の悪さが滲み出ていた。 電話先も相手もそれを察したのか、一瞬の間が生じる。 「……あの、山田です」 この声を聞いたときの俺の気持ちを何と表現したらいいだろう。 まず驚き、焦り、力が抜け、ガクリと椅子に腰を落とした。 今まで体にのし掛かっていた重圧がスッと取れ、安心感や幸福感といったものに包まれる。 そして何よりも、嬉しかった。 彼女は、声だけで、俺を幸せにしてくれるとても大切な存在だと思い知らされる。 誰も見てはいないのだが、にやけそうになる口元を咄嗟に押さえた。 「…えっと、今時間大丈夫ですか?」 先の俺の声色に恐縮したのか、いささか緊張した声が耳に響く。 「あ、あぁ……久しぶりだな」 緊張させてしまった謝罪の意味も込め、努めて柔らかい声で話しかけた。 「そう…ですね。………寂しかったか?」 彼女も俺の意を介したのか、いつも通りふざけた調子で返してきた。 「いや?忙しくて君の事などすっかり忘れていた」 俺も合わせていつも通りに返す。 もちろん返事の内容は全くのでたらめだが。 「な…!?……き、奇遇ですね。私も手品のショーが忙しくて、 上田さんのことなんかこれっぽっちも思い出す暇なんかありませんでした!」 尖った声に、笑みがこぼれる。 「そうか?じゃあ何で今電話掛けてきたんだよ」 「そっ!それは、その、ほんのちょこっとだけ時間ができたから…」 愛しい声に耳を傾けながら、突然の電話の理由を思案する。 はっきり言って奈緒子からの電話はかなり珍しい。 緊急の用件でもなさそうだし、やはり憎まれ口を叩いていても、寂しかったのだろうか。 それほど奈緒子を放っておいてしまった事を内心すまなく思う。 だが、相手に会いたかったという気持ちでは存分に勝つ自信はあった。 「……だから、今もお客さん待たせて……って上田さん、聞いてます?おい!上…」 「寂しかった」 「えっ…」 「俺は、君に会えなくて寂しかった。連絡しなくて悪かったな」 電話だと、俺も幾分か素直になれるらしい。 今の奈緒子の表情を想像すると吹き出しそうだ。 「……わ、私…も……」 そこで口ごもる奈緒子が可愛くて仕方がない。 一度開き直った俺は、どうもかなり重症のようだ。その先を聞かずとも十分に満足できるのだから。 「…あの、実は今、大学の近くまで来てるんです。今からそっちに行ってもいいですか?」 その言葉に少し驚いたが、嬉しさの方が多いに勝った。 「あぁ、もちろん。だが珍しいな…君が突然大学に来るなんて」 そう言いつつ前にも同じようなことがあった事を思い出す。 『あなたに…逢えてよかった』 そう言って俺の元を去った奈緒子を、俺は黒門島まで迎えにいった。 思えば、この時から俺は奈緒子に惹かれていたのかもしれない。 「えへへ…実は報告したいことがあって」 だが今回はあの時と違い、喜ばしい訪問だということが奈緒子の声から明らかだ。 「報告?」 「そう。上田!覚悟しとけよ!」 「覚悟?」 「じゃ!」 「あ、ちょっと待った、待たせてるお客さんはいいのか…?」 その質問への返事は荒々しく切れる受話器の音だった。 受話器を置き、椅子に深く腰掛けたまま、無意味に回ってみる。 久しぶりに奈緒子と会えることが嬉しくて落ち着かないのだと自分でも分かった。 奈緒子を待つ間も、俺は電話で聞いた“報告”の意味する所を考えていた。 …報告、声色から察するに嬉しい報告、そしてそれは俺が覚悟しなければならない内容。 「……なんじゃそりゃ」 さっぱり検討が付かず首を捻っていると、丁度背中を向けた瞬間に、扉が大きく開く音がした。 「!!…って、早いな!まだ一分も…」 慌てて椅子ごと体を扉の方に向け、視界に入った人物に、俺は固まった。 「……センセ、何してはるんですか?独りでクルクル回って」 「…遠心力の実験か何かですか?」 そこにいたのは異様に不自然な頭をした男と、それに付き従う自尊心の固まり男。 見慣れた刑事二人組だった。 状況に順応できず固まっている俺を余所に、刑事二人はズカズカと部屋に入り込み、悠々とソファーに腰掛ける。 「いやー、やっぱりいいですなぁ、ここは…涼し〜!!」 「確かに、最近真夏日が続いて…って何普通にくつろいでるんですか!!」 慌てて立ち上がり、俺は動揺した声をあげる。 そんな俺をチラッと見ただけで、矢部さんは近くにあったファイル済の書類で顔を扇ぎ出した。 「まぁ、堅いこと言わんといて下さいよ〜。センセと自分の仲じゃないですかぁ」 猫なで声でそんな事を言われても、はいそうですかと納得するわけにはいかない。 「矢部さん、悪いんですがもうすぐ来客が…」 「どうせ山田でしょう?」 速攻図星を言い当てられ、一瞬口ごもる。 「…っ!…ち、違うんですよ、今日は。本当に大事な来客があるんです!!」 「え〜ホントですかぁ?」 不審や不満の篭もった目で俺を見上げる矢部さんに、引きつった笑顔を向ける。 もう一人の刑事はと言えば、さっさと冷蔵庫から取り出した飲み物をコップに注いでいた。 その時、矢部さんが手に持つ書類が偶然目に留まり、俺は慌てて駆け寄りそれを取り上げた。 「ちょっ!…これは今朝やっと完成した論文で…」 団扇替わりに使われたせいで付いた皺を涙目で伸ばしながら、それを机の引き出しにしまう。 「あれ?大事なもんでした?すいませんな〜」 怒鳴りつけたくなる衝動を必死に押さえつつ、穏便且つ性急に、刑事達をこの場から去らせる策を巡らせた。 「あ、そうそう…センセ、今晩お暇ですか?実はいい店見つけたんですよ〜」 小指を立て、厭らしい笑みを浮かべた矢部さんが俺を見上げる。 その挙動だけでどんな店かなど一瞬で想像がついた。 「けど今ちょうど給料日前でなぁ、あ、だから金の掛からないここに涼みに来たんですけどね…」 「僕は、お金ありますけど」 「うるさいわ!!」 横やりを入れた部下を、いつものように矢部さんが一喝する。 「えっと何でしたっけ?そうそう、だからセンセも一緒に行きませんか?」 暗に金を貸せ、または驕れと言いたいらしい。 俺は小さくため息を吐き、二人がくつろぐソファーまで移動する。 「結構です。僕はそんな店には行きません」 そう言って菊池さんの手からコップを取り上げた。 「またまた〜、センセもいい加減、花開かせたがいいんと違いますか?」 『花ならこの間開いた!!』 と、声を大にして言いたかったが、理性しか兼ね備えていない人間である俺がそんなわけにもいかず、矢部さんから目を逸らす。 「すみませんが、今晩は予定があって…菊池さんと行かれたらいいじゃないですか」 「僕もそんな店には行きません」 「何?!菊池、お前なぁ…」 刑事達が押し問答をしている隙に時計に目を遣る。 電話を切った時間から考えて、もういつ奈緒子が来てもおかしくない。 もしここで奈緒子と刑事達がはち合わせたらどうなる? 俺の嘘が明るみになるばかりか、奈緒子との二人だけの時間が台無しになるのは目に見えている。 急がなければ…!! 「もうええわ!石原と行くから!…あいつ金持っとるかな?」 「矢部さん!もう本当に時間がないので今日の所は…」 「あー!そうやった!石原で思い出しました!!」 矢部さんの大きな声で再三の願いもまたかき消され、俺はガクリと肩を落とす。 「……何ですか?」 「実は面白い報告があるんですわ」 「“報告”?」 その言葉に俺は顔を上げた。 「山田の話なんですけどね」 「山田の?」 話に食い付いてきた俺に矢部さんが満足そうに微笑む。 「お!センセ、気になりますか〜?びっくりしますよ〜」 今から聞く話の内容は先に奈緒子が言っていた“報告”の内容と同一のものなのだろうか。 興味の無かった矢部さんの話も、奈緒子の事となるやいなや、俺の中で鮮明な色を持つ。 「あ、でも、もしかしたら、ちょっとショックかもしれませんな〜」 そう言う矢部さんのにやけ顔に焦燥が募る。 「矢部さん!早く教えて下さい!」 「え〜実はですね、山田のやつ…なんと…」 屈んだ俺の顔に矢部さんの顔が近づいてくる。 「男!!…ができたらしんですわ!!」 「何?!おと………え?男?」 …一瞬驚いた。 が、それは、もしかせずとも俺のことじゃないのか? 俺は脱力して矢部さんから顔を離した。 矢部さんはまだ俺の興味を惹きつけているものだと思いこみ、興奮したように話を続ける。 「何か最近山田の様子がおかしいってあのボロアパートの大家さんから聞きましてな、そりゃ警察として調べなあかん思て、 事務仕事で暇してる石原に調べさせたんですわ。そしたらもう、怪しい証拠が出るわ出るわ…」 日本の公務員は余程暇らしい。いや、こう言っては真面目に働く公務員に失礼か。 呆れつつも話の続きを待つ。 矢部さんは懐から手帳を取り出し、そこに書かれているのだろう、山田奈緒子恋人発覚事件の証拠を読みあげ始めた。 「えーと、まず、明るくなった。部屋から聞こえる変な鼻歌や突然のスキップがその根拠。次に、優しくなった。 これはジャーミー君…あの外人さんやね、への寛容な態度などから明らかやそうです。そして、お洒落になった。 箪笥の奥から普段は着ないような服を取り出して着てみてたらしいですわ」 「石原さん…覗いたのか…」 複雑な思いを抱えて小さく呟く。おそらくその思いの大半は嫉妬なのだが…。 「あ〜、もう石原字汚いわ!!次いきますよ〜、えっと、楽しそうにしとったのに突然暗くなることがある。 電話の前で三時間ほど体育座り、その後涙ぐむ。…何やこれ、訳わからんな」 ……いや。 いいや、俺には訳分かる。 そうか、たとえ少ししか話せなくても電話するべきだったな。 俺はただ、声を聞いたら会いたい気持ちが我慢できなくなると思って…。 あいつ、そんなに待ってたのか。俺の、電話を。そうか。………だめだ、にやける。 口元を押さえつつ再び意識を話に集中させる。 「それから…あ〜こりゃ決定的やな。綺麗になった。まぁ…元々あいつ、顔だけはよかったけど、色気が出てきたらしいですわ。 この二週間、家とバイト先の往復中だけで8回!男に声掛けられてたそうですわ」 「!!…な!そ、それで…山田はどうしたんですか?!」 俺の剣幕に矢部さんは驚いたような意外そうな顔をして、もう一度手帳を見た。 「さぁ?それは書いてないなぁ」 弛んでいた顔の筋肉が一気に引き締まる。ぜひ、あとで奈緒子に問いつめなければ。 そういえば、奈緒子の言っていた“報告”は矢部さんのものとは違うみたいだ。 じゃあ一体何なんだ?奈緒子の言う報告とは。 奈緒子の口から聞けば分かることとは言え、それだけの長期間奈緒子を調べていた矢部さん、いや、石原さんか? とにかく彼ならその内容を知っているかもしれない。 奈緒子が何を俺に言うつもりであれ、俺が先に言い当てたら驚くだろう。 最近気付いたのだが、俺は奈緒子を驚かすのが大好きらしい。 残念ながら大抵失敗に終わるのだが、今回はうまくいきそうだ。 「まだあるんですよ、これ極めつけやな!あのですね…」 「あの!話の途中ですみませんが…実は先程山田から電話があって、どうも僕に報告したいことがあるらしいんですが、 矢部さん何か見当つきませんか?」 俺の言葉に矢部さんは不思議そうに首を傾げる。 「へ?だから…それこそ、男が出来たってことちゃうんですか?」 ふっと口をつきそうになった。それだけはありえない理由が。 …俺が、その、男なんだ。 否定する理由を考えている俺に、それまで興味なさげに話を聞いていた菊池さんが助け船を出してくれた。 「それはないんじゃないですか?」 「なんで?」 菊池さんが俺をチラリと見て、矢部さんに視線を戻す。 「すこし考えれば分かることだと思いますけど。まぁ当のご本人が言いたくないのであれば僕の口からは言いませんが」 「はぁ?」 さすがと言うべきか、意外と言うべきか、菊池さんは矢部さんほど鈍感では無いらしい。 「上田教授は山田さんからどのような報告があると、お聞きになったんですか?」 矢部さんを置き去りにしたまま菊池さんと俺との会話は進む。 「あ…そうですね。察するに、喜ばしいものだとは思いますけど。あぁ、あと覚悟するようにも言われたな」 「覚悟?」 菊池さんがその言葉に反応し、しばらく考えるような表情をした後、真剣な顔で俺を見上げてきた。 矢部さんはそんな菊池さんと俺の表情を交互に見遣る。 「上田教授、統計学的に見て、女性にとっては喜ばしく、男性は覚悟を要する内容の話題はそう多くないと思います」 「本当ですか?例えばどんなものが?」 「そう、ですね…」 なぜか、菊池さんが言いにくそうに目を背け、言葉の続きを口にした。 「……妊娠、とか」 その言葉の意味を認識するのに、数秒掛かった。 ちょ、待て待て待て…頼む、待ってくれ。 計算しろ、俺。 彼女に妊娠するきっかけをそう多くは与えてない…よな? まだ2回、いや、3回くらいか?…いや待てよ、1ラウンドを1回と数えるのか? 続けてしたりもしたしな…ちょっと待て、そもそもラウンドってなんだ?どこで区切るんだ? まずい、混乱してきた。落ち着け、要は何回出したか…だよな? ん?そもそも問題は回数じゃないのか。ってちょっと待て、俺ちゃんと避妊したよな。 うん、したしたした。え?避妊しても妊娠するのか? だめだ、冷静にならなければ。そうか、物理的に考えよう。 避妊具というのはそもそも膣内での…… 「あの、上田教授…」 固まったままの俺を申し訳なさそうに見上げる菊池さんと、俺同様状況を飲み込めず呆然とする矢部さん。 俺が冷静さを取り戻すのはその矢部さんよりも遅かった。 「えーーー!!山田の奴、妊娠しとるのか?」 矢部さんの大声でやっと現実に引き戻される。 「いや、あくまで可能性ですから、早計なさらないで下さい」 尋ねてきた矢部さんではなく、俺の方を見て菊池さんが答える。 そ、そうだよな。俺の避妊は抜かりなかっ………!! どうして、このタイミングで。 俺の脳裏に焼き付いてい離れない光景が鮮明に思い出された。 『…どうして中で出させたんだ』 俺の質問に紅潮した表情で答える奈緒子。 『自分でも分からないんです。安全日でも中で…その、出すのは危険だって分かってはいたんですけど、 なんか上田さんの切なそうな顔見てたら、まだ離れたくない…って思って、気が付いたら…』 「あの時の…」 忘れもしない。忘れるわけがない。 俺と奈緒子が初めて結ばれた時だ。 あの時、そうあの時だけ、俺は確かに奈緒子の中に精を注いだ。 ふと壁に掛かったカレンダーに目を遣る。 あれから約三ヶ月だ。 妊娠の兆候が出始めるのはまさに今頃だろう。 「い、いやー、やるなぁ、相手の男」 「だから、まだそうと決まったわけじゃ…」 矢部さんも動揺しているのか、先程の覇気が今は感じられない。 そんなことを思うほど俺はどこか冷静だった。 「…矢部さん、時間も押してるので今日は…」 「あ、そ、そうやな」 俺の申し出は、今度は驚くほどスムーズに通った。 「上田教授、本当に僕の早合点かも…」 そう言う菊池さんに軽く愛想笑いを浮かべる。 とにかく、今は奈緒子と二人きりで話し合わなければ。 まだ奈緒子がここに来ていないのが不思議なほど、あれから時間が経ってしまっていた。 立ち上がった二人より先に、扉の方へ歩む。 先導することで、より早くここから去って貰うためだ。 「あ…けど、上田センセはご存じじゃないんですか?相手の男」 「……さぁ」 とにかく早く会話を切り上げて、奈緒子を迎えなければ。 「矢部さん…」 止めようとする菊池さんの言葉は矢部さんの耳には届かなかった。 「一体どんな奴なんですかねぇ、あの山田を妊娠させる男なんて」 焦る俺は、矢部さんの何気ない質問を容易くかわすことができなかった。 「知りませんよ!山田がどんな男の子供を孕もうと僕には関係ないですから!!」 なぜこんなことを言ったのか。 一刻も早く矢部さんたちをこの場から追い出したかった。 堪っていた焦燥がつい口を突いた。言い訳はいくらでもできる。 その言葉に本心など微塵もなかったのだから、言い訳という表現を俺は是としないが。 「さあ、今日はもう帰ってください!」 さっさと彼らを追い出そうと、俺は思いきり目の前の扉を開けた。 同時にガンッ!!と大きな音が響き、途中で扉が止まる。 瞬間サッと血の気が引き、しまったという思いと共に、俺は開いた隙間から首を出し、外を見た。 「山田!」 予想通り、そこにいたのは頭を押さえ蹲る奈緒子だった。 中で矢部さん達が息を飲む気配がする。 「だ、大丈夫か?」 体の通らない隙間から、慌てて奈緒子に声を掛ける。 先の音は奈緒子の額と扉が勢いよくぶつかる音だったのだ。 見守る俺に、奈緒子からの返事はない。 数秒後、額を押さえたまま奈緒子が立ち上がってくれたおかげで、やっと扉を充分に開けることができた。 「山田…」 その小さな肩に伸ばそうとした俺の手は、いとも容易く振り払われた。 俯いたまま俺を見ようとしない奈緒子。 「山…」 それでももう一度伸ばそうとした俺の手は、今度は自らその動きを止めた。 奈緒子の、強く、鋭く、そして涙でいっぱいの目に見すくめられたからだ。 「………馬鹿か、お前ら」 奈緒子が小さな震えた声で呟くように言った。 「…妊娠、なんて、するわけないだろ。馬鹿」 奈緒子が、自分のスカートを握りしめるのが視界の端に映る。 「馬鹿、まぬけ、この…巨根が!」 奈緒子がいつ涙がこぼれてもおかしくない程潤んだ目で俺を睨みつける。 「ばーーーーか!!!」 精一杯の憎まれ口を叩き、精一杯の力で俺を突き飛ばし、奈緒子はそこから走り去った。 矢部さんは、頭をぶつけたのが泣くほど痛かったのかと思っただろうか。 菊池さんは、どこまで理解したのだろう。 俺には、すぐにわかった。奈緒子は、俺の言葉を聞いてしまったんだと。 もちろん、すぐに追いかけた。 だが生じた一瞬の間を埋めるのは容易くなかった。 奈緒子の足は意外に速く、俺の体は連日の睡眠不足で予想以上に疲労していた。 それでも俺から逃げようと走る奈緒子に、やっと手を伸ばせる距離まで追いつくことができた。 「山田!待て!」 俺の言葉を無視し、振り返りもせず走る奈緒子。 俺は強引にその腕を掴み上げた。 急に止められた反動で倒れそうになる奈緒子の体を、もう一方の手で支える。 大学の入口まで全力疾走して、二人ともかなり息があがっていた。 「は…離して、下さい」 二の腕を優に一回りで掴める俺の手から逃れようと、奈緒子が必死に藻掻く。 奈緒子を、そして自分を落ち着かせるよう、俺は諭すように話しかけた。 「山田、話を聞いてくれ」 「うるさい、上田。…離せってば」 奈緒子は体全体で俺を拒否する。目も、決して合わせようとしない。 「…頼む、奈緒子」 その言葉で奈緒子の抵抗が止む。 力の抜けたその腕を離すことなく、俺は返事を待った。 奈緒子は小さく呟くように言葉を吐いた。 「……上田さんは、ずるい。私のこと、こんな時だけ名前で呼んで。そうすれば落ち着くとでも思ったんですか?」 事実そうなのが自分でも悔しいのだろう。 渇いていた涙が再び奈緒子の目に溜まっていく。 「人の前じゃ絶対呼ばないくせに」 しゃくり上げそうになるのを押さえているのが、掴んだ腕越しに伝わる。 「心配しないでください。本当に妊娠なんてしてませんから」 「山田…俺は…」 「本当に、離してくれませんか?すっごい見られてるんですけど」 そこでやっと、ここが大学内だということを思い出した。 数人の学生達が好奇の目で俺達を見ていたことに、改めて気付く。 だが、俺は奈緒子を離さなかった。 そのまま奈緒子を連れて咄嗟に思いついた目的地へと引っ張って行く。 後ろで奈緒子の文句が響いていたが、気には留めなかった。 目的地こと、次郎号の駐車場に連れていき、車に奈緒子を乗せるまでが大変だった。 厭がる奈緒子を、強引に押し込む形で助手席に座らせた。 だが発車させてからは諦めたのか、黙って俺の謝罪に耳を傾けてくれた。 「………だから決してあの言葉は本心じゃないんだ、慌てていただけで…、だな」 そう言いつつ奈緒子を一瞥するが、窓の方に顔を向けているせいで表情を伺い知ることはできない。 「お…俺がYOUのことを関係ないと思うわけないだろう?は…ははっ」 試しに笑って誤魔化してみると、奈緒子は少し項垂れやっと俺の方を見た。 「……別に、上田さんが言ってたことがショックだったわけじゃないですから」 「え…?」 奈緒子の意外な言葉に、運転中にも関わらず、助手席の方に何度か目を遣る。 「どうせ、私が妊娠したかも…何て勘違いして、焦ってたんだろ!この…へっぽこ次郎が」 あまりの図星ぶりに俺の表情が固まる。 「はぁ…もういいです。上田さんの言いたいことは分かりましたから、そろそろ降ろしてくれませんか?」 そう言って上目使いで見つめてくる奈緒子に、俺は簡単に首を縦に振るわけにはいかなかった。 「じゃ…じゃあなんで怒ってたんだよ。まさかぶつけた頭が泣くほど痛かった訳じゃないだろ」 「な!泣いてなんか…」 そこで奈緒子が口ごもり、頬に付いた涙の跡を拭う。 俺は目的もなく車を走らせながら、奈緒子が言ってくれるのを待った。 「………恥ずかしい、ですか?」 小さな、本当に小さな奈緒子の声を聞き逃すまいと、奈緒子の方に体を傾ける。 「何、だって?」 「だから!……そんなに、私と付き合ってるって矢部さん達に言うの…嫌ですか?」 なるほど。奈緒子が怒ったのはそれでか。 体を戻し、何と返すべきか思案する。 表情の変わらない俺を不満に思ったのか、奈緒子が俺を見上げながら、声の調子を荒らげた。 「そりゃあ!今までさんざん一緒に私のこと馬鹿にしてたんだから…その私と、付き合うことになった、 なんて言うの……恥ずかしいかもしれないけど……でも、私……」 「言って欲しいか?」 言おうとしていたであろうことを先に口にされ、奈緒子はばつが悪そうに顔を背ける。 「……別に」 今更誤魔化しても、そこまで言ってしまっていたら、奈緒子の本心は手に取るより明らかだった。 その時偶然運転中の俺の視界にあるものが入り、俺はその横に車を止めた。 「ちょっと待ってろ」 不審そうに俺を見上げる奈緒子をそのままに、俺は車から降り、横にあった電話BOXの中へと入る。 睨むように俺を見続ける奈緒子を見つめ返しながら、俺は目的の番号を押し始めた。 「どうしたんですか?急にUターンなんかして」 「行く場所ができた」 車に戻った俺が急に進路を変えたことで、奈緒子は少し狼狽えた。 「行く場所?」 奈緒子の質問に答えず、黙って車を急がせる俺を、奈緒子は不満げに見上げ、やがて諦めたように窓の方へ顔を戻した。 不慣れな道に入り、先程電話で聞いた場所に車を走らせる。 チラリと奈緒子を見るが、俺の視線を知ってか知らずか、俺の方を見ようとはしない。 やがて目的の通りを見つけ、その狭い路地に入った所で、奈緒子は驚いたように俺を見た。 「う、上田さん?!」 奈緒子を無視し、その通りで一番大きな建物の、地下駐車場へと入っていった。 空いていた場所へ車を止め、降りようとする俺の腕を奈緒子が掴む。 「ちょっ!な、何考えてるんですか?!上田!!」 易々とその腕を振り払い、車から降りた俺は助手席の方に移動し扉を開けた。 顔を赤らめ、自分から座席を離れようとはしない奈緒子に顔を近づける。 「し、信じられない…」 困惑と軽蔑の目で俺を見上げる奈緒子に、俺は作った笑顔を浮かべてみせた。 「別に信じなくても結構だが、恥ずかしいから抵抗するなよ。ただでさえこんな所は不慣れなんだ」 俺は強引に、奈緒子を車から引っ張り出した。 初めての場所、初めての経験で右も左も分からなかったが、奈緒子が大人しく付いてきてくれたことで、 その後何とか二人きりになれる場へとたどり着くことが出来た。 そこへきて久々に奈緒子の口から出た言葉は、先と同じものだった。 「信じられない」 そう言われるのも無理はない。 想像していたよりは普通の、そして広いものだったが、部屋の真ん中で堂々とその存在を主張するベッドが、 ここはどういう場所かをはっきりと示している。 先に部屋に入らせられた奈緒子はそれを見て足を止め、俺はその後ろで立ち止まった。 「どうして今!こんなとこに来ようなんて思えるんですか?!もう…本当に…」 怒りというよりも戸惑いを多分に含んだ声で奈緒子が俺に訴える。 諦めたように部屋の中へ入っていく奈緒子に俺は黙って付き従った。 「上田!何か言え!」 ベッドの手前まで来たところで、初めて奈緒子が俺の方を見る。 俺は黙って、顔を赤らめ捲し立てる奈緒子を見下ろす。 その頬には、もう涙の跡は残っていない。 額を見ると先程の衝撃でまだ赤く腫れていた。 手を伸ばし、額にそっと触れると、奈緒子が言葉を発するのを止める。 「悪かったな」 腫れた額を軽く撫で、そのまま髪を梳く。 「…や、やめて下さい、この馬鹿上……っ!!」 唇で、奈緒子の言葉を遮った。 逃げられないように頭を押さえ、軽く啄むように何度も口づける。 「んっ…上っ!…田さっ…!やっ…んっ!」 奈緒子が持っていたバッグを床に落とし、俺の体を必死に押し返そうとしてくる。 「奈緒子っ…!」 奈緒子の抵抗などお構いなしに、俺は久々の愛しい唇を貪る。 「やぁ!…や、だっ…んんっ」 隙間を舌でこじ開け、奈緒子の口内を蹂躙する。 奥に逃げる奈緒子の舌を追い、からめ取り、俺の方へ引き込む。 どこまでが自分のもので、どこからが奈緒子のものなのか分からなくなるほど、舌を絡ませる。 口の端からはどちらのものとも分からない唾液が零れ、ピチャピチャと音を立てる。 この場に相応しいその音が、否応にも俺の興奮を高めていった。 「んっ…ふあっ…」 俺を押し返そうとしていた奈緒子はすっかり力を無くし、反対に、俺の方へ体を預けてくる。 存分に奈緒子の舌を吸い尽くした後、唇と、体を支えていた両腕を離すと、奈緒子はガクリと後ろのベッドに倒れ込んだ。 「はぁ…はぁ…」 息を荒らげ、紅潮した顔で、それでも俺を睨み付ける。 そんな奈緒子見下ろし、軽く苦笑しながら、俺は自分のシャツのボタンに手をかけた。 その意味する所を察したのか、奈緒子は力の入らない体で、ベッドの奥の方へ後ずさっていく。 「やっ…やだっ…本当に、何考えて…」 「何って…」 脱いだ上着を床に置き、奈緒子が逃げられないようゆっくりと覆い被さり、その顔の横に両手をつく。 一気に近くなった奈緒子の顔を見ながら、俺は続きを口にした。 「君とSEXすること」 濡れて光る唇にもう一度口づけながら、奈緒子の服を脱がせにかかる。 奈緒子は懸命に首を横に振って俺から逃れようとする。 「上田、さんは!…んっ…結局、SEXが…したい、ふあっ…だけなんですか?!」 唇が離れた隙に懸命に訴える奈緒子から顔を離し、軽く口端を持ち上げる。 「……そう思いたいなら勝手にしろ」 どうやって説明できるだろう。何て言えば解ってもらえるだろう。 俺がこの数週間どれほど君に会いたかったか。どれほど君を抱きしめたかったか。 久しぶりに愛しい顔を見て、愛しい理由で泣く、愛しい女を見て抱きたくならない男がいたら是非ともお目にかかりたい。 俺の中で奈緒子は、いったいいつから、これほど大きな存在になってしまったのだろう。 この気持ちを少しでも伝えるすべを、俺は一つしか知らない。 「やっ!やだっ…やめっ!!」 俺の言葉をまともに受け、奈緒子はより強く抵抗してくる。 そんな彼女をいなしながら、その体を俺の目から覆い隠していたものを取り除く。 一枚一枚脱がす度に、俺の手からそれを取り戻そうと奈緒子の手が伸びてくるが、只でさえ体格差がある上に、彼女は寝転がり、 俺は彼女に覆い被さるように膝で立っている。取り戻せるわけがない。 からかうように脱がせた服を目の前で振りかざしてみると、奈緒子は真っ赤な顔で俺を睨んでくる。 その表情さえ愛しく思いながら、俺はあっという間に奈緒子の着ていた全てをはぎ取った。 明るい部屋に、白い肢体が煌めいて俺の目に映る。 細い両腕で胸を隠しながら、奈緒子は唸り声のようなものをあげて俺を見た。 「う〜〜!!もう、最悪!ばか!ばか上田!」 「…YOU、少し静かに出来ないのか?」 「できるか!この……やっ!やだっ…う〜っ!!」 胸の上の邪魔な手を退かそうとしても奈緒子はきつく自分を抱きしめ離さない。 やれやれとため息を吐き、奈緒子の腕から手を離す。 俺が諦めたと思ったのか、すこし安堵したような奈緒子に、俺は意地悪く微笑んだ。 「そっちがそのつもりなら、俺にも考えがある」 一瞬意味が分からなかったのだろう、きょとんとした後、慌てて俺の体を突き飛ばそうとしてきた。 が、一足も二足も遅かった。 奈緒子の体の横に膝をついている俺に取って、その上半身を触るのも、下半身を触るのも、同じくらい容易いことだった。 「あっ…だ、だめっ!」 奈緒子が力無く上半身を起こしながら、自分の秘部に伸びて来る俺の手を見る。 変化を見逃すまいと、表情を見守りながら、俺はそっと奈緒子の秘部に触れた。 「っ!んっ…!」 軽く顎を引き、眉間に小さく皺を寄せ、奈緒子は熱い息を吐いた。 小さな肩が小刻みに揺れ、震える手で俺の体を押し返してくる様が、何とも可愛らしい。 「だっ…めっ!んんっ…!」 クチュリと響いた音に奈緒子が何度も首を横に振る。 「やっ!やぁ…」 …何時からこんなに。 俺でも驚いてしまうほどそこは濡れていた。 裸を見られて?それとも、あのキスで?もしかして、その前から…? 奈緒子が何時からこんなに厭らしい液を垂れ流していたか考えるだけで、俺の下半身は信じられないほど熱を帯びていく。 太股と言うには細すぎる足を持ち上げ、秘部を明るみに晒す。 真っ赤になり抵抗する奈緒子を意にも留めず、俺は奈緒子の足の間に体を割って入らせた。 「いやっ!お願…やめて下さっ…!」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |