次郎号走る
-1-
上田次郎×山田奈緒子


山田奈緒子。
乱暴者で大食いで、性格にも根性にも対人関係にも経済状態にも常に問題を抱える、人を人とも思わない強欲でくそ生意気な貧乳へっぽこ奇術師だ。
顔立ちは、まあ二目と見られぬという程悪くはないほうだろう。
奴が口を閉じている時に眼鏡を外してよくよく見れば、そして一万歩ほど譲れば、美人といって言えなくもない。
俺は世界一頭が良くしかも百人中百人が振り返るほどのいい男というのみならず、鷹揚かつ心の広い人格者だ。
そこまでは渋々認めてやってもいい。

それにこいつは、動物の本能を発揮して驚くほどの頭のひらめきを見せることもたまにある。
勿論俺の足元にも及ばないし、まあ、そもそもひらめくこと自体ごく稀なのだが。
そうだ、山田が持ってるもので役に立つといえばそのひらめきくらいしかないだろう。
だからこそ俺はこいつを身近に置いてとことん利用──じゃなかった、食事を奢ってやったり、家賃の払いをしてやったり、温泉に連れ出してやったり、亀とネズミしか友達のいないこいつに物理学の定理を説明してやったりするのだ。
ボランティアだ。
それ以外に何がある。

ただあまりに身近すぎて、俺は山田が女だという点をついうっかり忘れていた。

俺たちは時折依頼される事件の解決のため、一緒に旅に出ることがある。
いちいちこいつを連れていきたくなどないのだが、まあ助手という事にしてやっているからな。

同じ部屋に泊まり──経費削減のためだ、私費だから──布団を並べて健やかに眠る。
おそらく世界で一番か二番目に寝言と寝相のひどい山田だが、慣れとは恐ろしいものだ。
最初のうちこそ気になって一睡もできず体調を悪くしたものだが、今では特には気にならない。
無論ふしだらな関係を結ぶ事など一切ない。
俺はベリージェントルな名門大学教授だ。
並の男なら相手がいくら貧乳でもついムラムラとして手を出してしまうシチュエーションだろうが、俺に限ってそのような過ちは起こさない。
なぜなら俺は過ちは嫌いだからだ。
男女が結ばれる理由としてはありふれすぎて夢がない。
女性と躯を重ねるには、まずそこに愛がなければいけない。
それがこれまで俺が童貞──いや、女性を抱く機会を自ら捨て去ってきた理由なのだ。
もちろんこれまで、到底隠しきれない俺の魅力に抗えず、物陰から熱い視線を送ってきた美しい女性は数多い。
だが俺はためらいもせず彼女らにお引き取り願ってきた──彼女らに告白の機会を与えぬまま。
それもこれも、男女関係における理想の結びつきを、俺は決して妥協したくなかったからだ。
決して、実はもてないからとか性行為に不適切な大きさの器官を所有するとか経験皆無ゆえに馬鹿にされるかもしれないのが我慢できないとかそういったやむにやまれぬ理由からではない。



夜中にふいに目が覚めた。
山田の寝言のせいだ──いつもなら全く気にならないはずなのに、今日の寝言はおかしかった。
いつもの時代劇シリーズじゃない。
山田の寝言の常連は助さん角さんやうっかり八兵衛、暴れん坊将軍などだが、今夜の彼女の寝言には──。

「んー……上田……」

俺か?

珍しいな。こいつの寝言では久しぶりに聞くような気がする。
以前、次郎号の助手席で寝言に俺の巨──くそ、どうせ今回もろくな夢は見てないに違いない。
俺は躯の向きをかえ、山田の顔を見た。
まだ枕のあたりにあるだけ今日の寝相はまともじゃないか。
山田の眉間には皺が寄っていて、なんだか苦しそうな寝顔だった。

「上田……危ない」

なんの夢を見ているんだ?
寝言に返事をしてはいけないらしいが、好奇心にかられて俺はつい声をかけた。

「you?」
「死ぬな…上田。だめだ」

俺が死にかけている夢か。
案の定だ、山田め。

たとえ山田の夢でも自分が危険な目に陥っていると思うと気分が悪い。
俺は軌道修正のため、言葉を続けた。

「大丈夫だyou。俺は無敵だ、死ぬわけがない」
「上田……上田……」

山田がいい加減に閉めていたカーテンの隙間越しに漏れる月光に彼女の頬が濡れている。
ん?
いや、濡れているのは月光にじゃなくて──。

「……泣いてんのか?」
「いやだ、上田…」

俺は枕元の眼鏡をとり、眠りながら泣いている山田の顔を観察した。
眉間の皺は別として、涙の伝う頬は白く、震える唇は愛らしい。泣いているからそう見えるのか?

「おい」

手を延ばし、指先で軽く頬をはたく。

「you」
「私をおいていくな」
「…え?」

山田の唇から漏れたのは普段のこいつから絶対に聞くことなどない、殊勝な台詞だった。

「ひとりにするな……上田……」
「……」

ひとり…だから、どういう夢を見ているんだ、山田。
俺は起き上がり、身を屈めた。

「山田?」
「上田……死なないで……」

温かい息が顎にかかった。

だから、死んでないって。
寝言とはいえ、縁起でもない事を口走るんじゃない!

俺は顔をよせ、さらに山田に近づいた。
奴の耳に覆い被さった長い髪をぐしゃぐしゃと掻きあげ、あらわれた耳朶に小さく怒鳴る。

「泣くな!俺はちゃんと──」

ぐらっときて俺は急いで肘をつく。
温かくて柔らかいものが俺の肩に巻きついている。

や──山田?

「上田、上田さん…」

これが他の女性なら、俺は誘惑されているのではと瞬時に考えた事だろう。
だが、コレは山田だ。
抱きつかれても、俺は絶対にその時点では不届きな気持ちになどなってはいなかった。

「山田!しっかりしろ!」

とりあえずこいつが見ている変な夢から起こしてやる事が先決だ。
そう考えた俺は山田のかぼそい躯を──俺が恵んでやる食事以外は普段からろくに食ってないからだ──わし掴みにして揺さぶった。

「起きろ、おい」

力一杯がくがく揺さぶると、山田が小さな息を吸った。
大きな目がゆっくり開き──俺を認めてさらに大きくなった。

「う──えだ……?」
「そうだ、youは…」

言葉を続けようとした俺の頸すじに猛烈な手刀が叩きこまれた。
俺はそのまま布団に顔をめり込ませる勢いで沈みかけた。この体勢から、すごいスナップだ。
やるな、山田──そう思ったのは二瞬くらい後で、打撃の凄まじさにその瞬間、目の前に火花のようなものが散った。

「ぐおっ!」
「なにしてる上田っ!」

涙目で見上げると、山田が貧弱な胸元をかき寄せながら──何もしてないぞ!──俺を睨みつけている。

「な、なんでそんなに近づい──まさかお前──」

「違う!」

親切で起こしてやったのに、なんという理不尽な言われようだ。
俺は頸を抑え、よろよろと顔を振った。あ。眼鏡がどこかに飛んでいる。
ようやく状況への怒りが湧き、俺は説明の気力を取り戻した。

「…誤解するんじゃない。youが泣いているから、図らずも起こしてやろうとしただけだ!」
「泣いて?」

山田が手をあげ、ぱっと自分の頬を触った。
涙が伝っている事に気付いた彼女の頬が月光の下でも染まったのがわかった。

「泣いて──ないっ!」

山田は小さく叫び、俺の肩を押しやった。

「とっとと戻れ上田!」
「待てよ」

俺は起き上がった。嘘付け、泣いているのは明白なんだ。
いつもの事だが、俺を殴ったことへの謝罪の言葉ひとつもないのか?

起き上がった俺から山田が微妙に顔を背けた。
怒っているのがわかるらしい。

「何言ってるんだ。泣いてるじゃねぇか」
「うるさい」
「怖い夢見てたのか」
「え」

山田は虚をつかれたように目を伏せた。

「……別に…たいした夢じゃ…」
「俺が出てただろ。死ぬな上田とかひとりにするな上田とかおいてくな上田とか言ってたぞ」
「なっ……!」

山田がまた赤くなった。

「え、どんな夢なんだよ。俺が死ぬのが泣くほど辛いのか?ハハッ」
「……」

山田は顔をあげ、憮然として俺を睨みつけた。心底嫌そうな表情だった。
大した意味もなく、俺はふいにからかいたくなった。

「好きなのか、俺が」

本当に意味は無かったんだ。
今までも同じようにからかった事が何度もあって、そのたびに山田は無視したりムキになったり…。
そういうの、面白いじゃないか。だろう?

「………」

山田は肩を揺らせた。何か言いかけ、それを抑えるように呼吸を整えている。

「……………」

……間が長くないか。無視する時の反応とも違うし、変だぞ、山田。
俺は不安になって山田の顔を覗き込んだ。
山田は、ぱっと髪を打ち振り、布団に埋めるように顔を背けた。
頬を隠して添えた細い指が震え、その指もさらさらと流れ落ちた髪が覆い隠していく。

「……you?」

なにかいけない事をしたような気がして、俺は小声で囁いた。
これは、そう、触っちゃいけないものに触ってそれを落っことしてしまった時の気持ちに似ている。どういうわけだ。

「ど、どうした」
「………」

山田は顔もあげずにイヤイヤをするように肩を竦めた。

「なあ、どうしたんだよ。気分でも悪いのか」
「………バカ上田っ」

山田がいきなり顔をあげたので、近づけていた俺の顎にきれいに頭突きがヒットした。

「…ふッ!」

さっきの二倍増しの花火が宙を舞い、悶絶した俺は山田の上に倒れ込んだ。
舌を噛まなかったのが奇跡だ。
きっと俺の日頃の聖人君子のような言動を天が見ていて、咄嗟に庇護をもたらしたに違いない。
図らずも人徳を証明する結果となってしまったが、それにしてもさっきから山田の振る舞いは極悪非道じゃないか。

「な、ななな!どけろ上田!」

しかも、倒れた俺の躯をぎゅうぎゅうと、山田は鬼のような形相で押しやろうとする。
やめろ、痛い!顎はよせ!
俺は溢れる涙をふいている暇もなく、来襲する山田の手を撃退せざるを得なかった。

「you!俺を殺す気かっ」
「お前が襲うからだ!放せ!」
「襲ってない!誰がyouのような貧乳を──」
「やめろ!…あ」

むに。

自分の目が見開くのがわかった。恐る恐る手を見る。

山田のパンチを封じ込もうとして指を鈎状に広げた俺の右手の下に、山田の胸があった。
下……というか、中、というか…つまり、乳を握っているんだよな、これは。
貧乳と本人も認め、俺を含む周囲の人間も固くそう信じていただけに、掴めるだけの質量がちゃんとあった事に俺は呆然とした。
山田も驚いたような隙だらけの顔で、掴まれた自分の胸を眺めている。
いや、掴めるか掴めないか、そういう点はどうでもよくて、そうじゃなくて。

俺は、山田の乳を揉んでしまったのか。
なんという……なんというか……なんか…気持ちい───違う!!
俺の人生の予定表にはないぞ!山田の乳を…って、ああ、なんだこれ……この感触…って、おい!?

俺が呆れて見守る中、右手の指はゆっくりと縮まった。
腹の減った尺取り虫並の緩慢な動きだったが、その目的とするところは伝わってきた感触で明らかだ。
俺は──俺は、揉んでるのか。山田の胸を。貧乳を。

むにゅむにゅとした魅惑的な、指がどこまでも──ってほど容量はないに決まってるが──溶け込んでいきそうな、優しくて柔らかな感触。

初めてだ。こんな手触りのものが世の中にはあったのか。
なんて、なんて気持ちいいんだ。

「……おおぅ」

思わず漏らした声に、山田が我を取り戻した。

「上田っ!」
「あ」

俺は慌てて右手を退こうとした。

退こうとしたんだよ。
誰にも信じてもらえなくてもいいが、俺は確かに一度はやめようとしたんだ。

そしたら、今度は左手が──。

「上田っ…」

山田が身を捩っている。怒ったふうに眉をしかめて、でもなんだか変な顔で。
唇が小さく震えていて、でも困ったような、現実が信じられないとでも言うような不思議な表情で、山田は俺を見た。

「…………」

誰かが唾を呑み込む音が響いた。山田か?

いや、俺だ。
左手の指が勝手に…いや、正直に言う。
俺はまたさっきの感触を味わいたくて、そう、ついうっかり──全然正直じゃないじゃないか。
俺は、俺は……。

「you。教えてくれ」

気付けば俺は山田の耳に囁いていた。

「女って、なんとも思ってない男の名を寝言に呼びながら抱きついて泣くものなのか?」

山田は目をうろうろと泳がせ、俺の質問を無視した。

「さ、触るなってば」
「ただ触ってるんじゃない。……揉んでるんだ」
「もっと悪いじゃん!」

だよな。
こうやって胸揉んでちゃいけないよな。
山田だって、ソレ相応に可愛くて、嫁入り前の、妙齢の女性……なんだし……。

「上田。鼻血出てる」

山田の冷静な声で俺は我にかえった。

「嘘だろ!?」
「嘘」
「………」

小さな溜め息がして、山田が困ったように、両手で俺の左手首を掴んだ。

「だから、そんなに揉むなってば…痛い」
「…す、すまん、だが……」
「………」
「………」

何か言わなければと俺は思ったが、何を言えばいいのかわからなかった。
仕方なく、俺は頭に浮かんだわずかな言葉を──なんでだ、いつもはいくらでも出てくるのに、たったこれだけなのか──呟いた。

「キスしてもいいか?」

華奢な肩が突っ張った。

……って。
待て、今俺は何と言った。

キ、キス?

山田に?山田と?むしろ山田だから──というよりも、おい。
おいおい、落ち着けよ次郎。な、落ち着け。
ちょっと待てって。
この胸の高鳴りはなんだ。喉から心臓が飛び出そうだ。息が苦しい。
キス。キス。キス。
し、したい。
山田にキスしたい。

ばんなそかな。どういうトリックだ!

回りくどく肯定してしまった己の欲望に衝撃を受け、俺はまじまじと綺麗な顔を眺めた。
そうだ、今ここにきて俺は認める。
山田は女としてもかなり綺麗な顔を持っている。
初めてこいつが研究室に現れたときから俺はちゃんと知っていた。
なんで認めようとしなかったか──こんなはめになるのが嫌だったからに決まってるじゃないか。
普段から互いに利用しあってる相手と、もっとややこしい関係になりたがる奴がいるものか。
しかもこいつはくそ生意気で、天才の俺を尊敬ひとつせずいつも小馬鹿にしてくる奴で──。

山田の、呆然と見開いていた目がまたもやきょろきょろと何かを探すように泳いだ。
その目は俺の視線に捕まり、頬が染まり、唇が震えた。
そして彼女は子どものような表情を浮かべた。
どうすればいいのかさっぱりわからない、とでも言いた気な不安げな。

こんな顔をさせてしまった。

「……」
「上…」

籠った声がばかに心もとなかった。
山田の唇は柔らかかった。
不器用に押し付けた俺の唇を受け止めて、かすかに弾む。
しっとりと、温かく震えていた。
甘いような、とてもいい匂いが鼻孔をくすぐる。

これは──吐息か?
それとも髪や肌の匂いなのか?

「ん…ふ…」

ぴったりと合った唇に、俺ははむはむと力を入れた。
伝わってくる柔らかさに背筋がぞくぞくする。
ただくっついているだけでは物足りない。だが、いきなり舌を入れたり──待てよ。
舌、入れたいのか、俺は。

混乱して唇を離し、俺は山田を睨みつけた。
山田は上気した顔で俺を見上げた。
目が、涙とは別に、潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
たぶん、しばらく俺は山田を見つめていたのだと思う。長い時間だった。
山田は何も言わずに、じっと俺の凝視を受けていた。
いつもは身動きできなくたって殴ろうとするのにな。
たぶん、そのせいだ。
俺は顔をさげた。月光をはじいてつややかに流れる髪に沿って。
びくんと肩を竦める山田の耳のあたりに俺は囁いた。

「you」

なぜなら、これも正直に言うが、その時にはもう、もっと山田に触れたくて仕方なかったからだ。
キスはうっとりするほど気持ち良かったけど、これだけじゃ物足りない。
欲が深いと自分でも思う。
だが、ああ、そうだ。
たぶん、その場で触れなければ死んでしまいそうな気がするほど、俺は山田に近づきたかった。

「you…?」

山田が身じろぎした。そのわずかな動きが、切ないぐらい躯に響いた。

「もう一度」
「……駄目」
「どうして」

俺の口調は懇願めいていたに違いない。山田が可哀相なものを見る目で俺を見た。

「どうしてって…決まってるじゃないか。だって、上田となんて」
「そうだよ。youとだ」
「む、胸揉んだりキスしたりするような…」

山田は消え入るような声で語尾を濁した。

「you。人間関係は常に固定されているわけじゃない。刻々と変化するものなんだ」

なんでこいつは焦らすんだ。
キスさせておいて。

「わかった!……セックスしたいだけだろ、お前。欲情したんだ!」

いきなり山田が決めつけた。

「…そうかもしれない」

俺はできるだけ正直に答えた。
そうさ、セックスはいつだってしたかった。
ただ、こんな相手に恵まれなかったんだ。

「ええっ?…そ、そうかも…って上田、お前」

山田の目が急に曇った。
声に勢いがなくなり、目尻にじわりと涙が浮かび上がっていくのがつぶさにわかった。
俺は不思議でたまらなかった。
山田はこんなにわかりやすい奴だったか?

「……じゃあ別に私でなくてもいいんじゃないですか」

山田の涙目に不穏な光が灯った。

「最低ですよ……したいだけだなんて」

おい。

「しかもそれを面とむかって言えるのか。私、そんなふうに上田さんに思われてるんですか?」

何怒ってるんだ…?
しかも俺はまだ何も言ってないじゃないか。

「そんなにしたいならどこかそういう場所に行け!止めないからっ」

何だと。
俺をどういう男だと思ってるんだ。

「俺は、金を払えばできるセックスがしたいわけじゃない」

きっと山田が睨みつけた。

「私ならタダってわけですか」
「…………」

時々、人を怒らせる事にかけては山田は天才だと思う事がある。

「いたっ」

(それでも手加減して)腕を捻り上げると、山田は大げさな悲鳴をあげた。

「…痛いじゃないか、上田!」
「わかったよ、youはそんな安い女じゃない」

俺の声は氷のように冷たかった。怒りのために加減できなかったのだ。

「金を払えばいいんだな。いくらだ」
「…………」

山田の綺麗な目が極限まで開いた。

「家賃半年分。いや、一年分でどうだ?」
「上…」
「なんだよ、その目は」
「お金って」
「巨根がいやなのか?安心しろ、迷惑料も上乗せしてやる」
「違……」
「もっと高いのか?……ああ、そうか。どうせ処女だよな、you」

山田は震えていた。
その原因は怒りとか羞恥じゃなく、俺の態度と言葉にあるのは明らかだったがここまでこじれてくるともう俺にはどうしようもなかった。

こんなのは厭だ。厭なのに。
俺はとてつもなくバカな事を言っている。

「じゃあその特別料金も含めて家賃二年分。文句はないな」
「い」

俺は山田の言葉を奪った。
彼女の唇が漏らす拒絶がいちいちナイフのように胸を刺す。
今夜初めて触れた唇を舌でこじ開けた。
出会ってからこのかたほとんど俺への罵詈讒謗しか漏らしてこなかった唇はなかなか開こうとしなかったが、鼻を摘んでしばらくするとその抵抗もやんだ。

でもこの柔らかな唇と舌は一度は紡いでくれたはずなのだ、あなたに会えて良かったと。
山田にとって俺は何だ。
ただの知り合いではない事は確かだが、そう言った時の彼女の心に確たる男女間の感情があったとも思えない。
友達ではなく、兄妹でもなく、恋人でも敵でもない、なにか微妙な関係。
なのに俺は今、彼女の認めたその特別で不思議な地位を自ら投げ捨てようとしている。
実際に行為をしようがしまいが、こんな事してちゃもう駄目だろう。

山田の躯は小さくてどこもかしこも華奢だった。
必死で抵抗しているのだろうが、俺とは力も体格も差がありすぎる。
腕をまとめて手首を掴み、頭の上に押し上げてから、頭突きを警戒して顔をあげた。
脚も腿で押さえ込んだ。

もうあとは、どうしようと俺の思うがままだ。
くそ生意気なこいつを手に入れるのは、こんなに簡単な事なのか。
……躯だけならな。

「やめて…嘘だろ、冗談だよな、上田…」

そんなに怯えた顔をするな、山田。
youはいつも俺の嘘なんかすぐにわかると言ってたじゃないか。
本当に金で買われそうだと思っているのか。

なぜだ。
こんな安っぽくて情けないいやがらせを真に受けてるのか。
俺をそこまで最低の男だと思っているのか?
君は本当は本当に本当の馬鹿だったのか。…まあ、人の事は言えないな。

山田ばかりを責められない。
もしこれが他人事なら、きっと俺は俺たちのこの状況を、ひどく滑稽だと考えた事だろう。
だが、悲しかった。
俺はこれまでで一番山田に近づきながら、一番寂しい気持ちだった。

「う、上田。今ならまだボコボコに殴るだけで許してやらなくもない…放せ!」
「いやだ」

俺は意固地になっている。自分でもわかる。だが山田への嫌がらせをやめられない。

「俺はyouが欲しいんだ。欲しかったんだ、今気がついた」
「それ、全部そっちの都合じゃん!」

山田の、強気にきりっと睨みつけた目がその影で死ぬほど怯えている。
俺にはわかる。
本当に、最低だ──俺は笑った。

こんな時、悪役に相応しいほかの反応があったら教えてもらいたいものだ。

「何がおかしいんだ、上田」
「だっておかしいじゃないか。youも笑えよ、ハハハ、ハッハッハ!」

ひとしきり笑い、それから俺は黙り込んだ。
すんなりとした細身の躯も、怯えた目も、強がる視線も、なぜこんなに俺を追いつめるんだろう。

「……you」
「やめて」

怒りよりも、悲しみを滲ませた声。
俺だって悲しいよ、山田。
どうしてこうなるんだ。
義務を果たすような気持ちで俺は彼女の唇を指先で確かめた。
柔らかくて温かくて、でもこわばっている。
細い腕は、寝ぼけていたさっきのように俺を抱き締めてはくれなかった。
山田の温もりが欲しかった。
でもキスはもうできない。

握っていた手首を放した。
たぶん指の形に赤くなっているかもしれない、それだけの力で掴んでいたから。

「……?」

山田がとまどった気配がした。
俺は端っこにずれていた布団の端を掴み、彼女の上に引っ張り上げた。
ぽんぽん、と襟もとを乱暴に叩いた。

「──馬鹿め。冗談だよ」
「!」
「真に受ける奴がいるか。馬鹿だ馬鹿だと思ってたが本当に馬鹿だな」
「……」

山田の表情がこわばった。
怒ったんだな。
怒るよな。

……どうでもいいや。

「冗談で……キス、したのか」

低く、山田が言った。氷どころか、液体ヘリウム並の、凍り付きそうな声だった。
俺は肩を竦めた。

「おう」
「じょ、冗談で、押し倒したのか」
「……そうだ」

平手じゃなくて拳が来るな、確実に。
俺は、震えている山田の唇を眺めながらそう思った。

「冗談で、ほ……欲しい、って言ったのか!」
「………悪かったな。もう、寝ろ」
「………」

山田はわなわな震えながら、俺を見上げた。
目いっぱいに涙が溢れて、いまにもこぼれ落ちそうだった。
俺は無表情のまま、そんな山田を見下ろしていた。

溜め息をつき、俺が視線を外すと彼女は布団を押しやった。

「帰る!」
「山田?」
「お前となんか一緒にいたくない。顔も見たくない。帰る」
「おい」

俺はあっけにとられた。

「今からか?」

もう深夜だというのにこれから帰るってのか?電車もバスもない田舎だぞ。

「歩いて帰る」

山田は部屋の片隅のトランクに跳びついた。

「危ないだろう。どうしても帰るっていうのなら……送るよ」
「いらない」

山田は手当たり次第トランクにそのへんのものを放り込み、ハンガーにかかっていたカーディガンをむしり取った。
蓋もきちんとしめてないトランクを抱え、ずんずんと畳を踏みならし、戸口に突進していく。

「おい──」

思わず手を伸ばした俺に、山田はきっと振り向いた。

「死んじゃえ、バカ上田!!」

一声叫ぶと、さよならも言わずに山田はふすまを開け、飛び出していってしまった。

「……………」

自業自得って言うだろう?
その時の俺はまさに、この言葉にどっぷり全身浸かっていたに違いない。
とても長く思えたけど、頭を振って我を取り戻すまでの時間はきっと二・三秒くらいのものだっただろう。
まだ間に合うかもしれない。
もう間に合わないかもしれない。
だが、このままじゃ。

「──you!」

俺は、座敷机の上からキーをつかみ取り、跳ね起きた。

吹っ飛んだ眼鏡を探すのに意外に手間取り、宿屋の外に出たときには山田の姿はとうに消えていた。

俺は左右を見回した──あいつ、どっちに行った!?

とりあえず来た方向から探すのが筋だろう。
俺は、宿屋の庭でひっそり控えていた若草色の愛車に駆け寄った。

「行くぞ、次郎号!」

狭いベンチシートに滑り込み、イグニッションをまわす。
エンジン音を響かせ、俺はパブリカを発進させた。

最初、俺はそんなに心配してはいなかった。
山田がどんなに怒りくるっていても所詮は女の足だ。車に勝てるわけないじゃないか。
だが、次郎号を走らせているうちに俺の眉間の皺は徐々に深まっていった。
ライトに照らされた夜の田舎道に、山田の姿はどこにもない。
七百メートルほどいったところで俺は諦めた。
山田はいない。こっちじゃない。
反対側から山を越えたのだろうか?
俺は宿屋まで戻り、逆に次郎号を走らせた。
だがそちらにも山田の姿はない。
宿屋の前には道は一本だけだ。この道のどこかに絶対に山田はいるはずなのに。

諦めきれない俺はもう一度最初の方角に車を向けた。
どこかに隠れてるんじゃないかと思い当たったのだ。
薮とか。電柱とか納屋とか。大きな木とか。
ゆっくりと流しながら、疑り深く道の端を調べていく。
宿屋から三百メートルほどの開けた地点で俺は怪しい地蔵を発見した。
本物の地蔵の横に、ちょこんと、トランクを抱えて目を閉じて──長い髪で色白の──馬鹿か、あいつは。
物陰伝いにこそこそ歩いていたところ戻ってきたパブリカを見つけ、逃げ場がなくて咄嗟に固まったに違いない。

「おい!」

次郎号を急停車させ、俺が飛び出すと山田は性懲りもなく逃げようとした。

「待てよ!」

コンパスなら俺のほうが長い。十メートルほど追跡したところで片手を伸ばし、首根っこを余裕でふん捕まえた。
山田はトランクを振り回して暴れようとする。

「放せ上田!…絶対に戻らないぞ!」

そのトランクをたたき落とした。

「な、ななな」

目を白黒させている山田の肩を掴む。
ヘッドライトの逆光で俺の顔は影になって、山田にはよく見えないに違いない。
眩しそうな山田の顔は困惑の表情を浮かべたままだった。

「…悪かった」
「………」
「あんな事はもうしない。だから一緒に戻──」

山田が、ぎっと音をたてそうな凄い迫力で俺を睨んだ。
仕方なく、俺は言い直す。

「──大きい駅まで送ってやるから、乗れよ。歩いてたら朝までかかるぞ。な」
「………」
「タヌキが出るぞ。ニホンカモシカやクマもいるかもしれない。危険だ」
「…クマは……いやだ」
「だろう」

山田は俯き、肩を揺らせ、ぎこちなく俺の手を払った。

「……上田」

山田がぽつりと呟いた。

「ん」
「本当に反省してるのか?」
「…おう」

俺は少しほっとして頷いた。山田は一応口は利いてくれるつもりのようだ。

「もう二度と、冗談でああいう事はしないな?」
「しない」

トランクを拾い上げ、俺は山田を促した。

「さあ──」

即座に奪い取られた。

「持てます」
「……」

俺は夜空を見上げた。月が涼やかに照っている。

二人で次郎号に乗り込み、俺はハンドルを握った。
この時間に動いているような電車が入っている駅なんて、ここからじゃ急いでも二時間はかかるだろう。
気のせいかもしれないが、トランクをしっかりと抱えた山田と俺の間の空間はいつもより広い。
いや、たぶん気のせいじゃない。
山田の横顔はまっすぐ前方に向けられて、完全には怒りが解けてない事を示している。
長いドライブになりそうだった。









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