星が降る
-1-
上田次郎×山田奈緒子


「俺には俺のロンリーでスライムな生活があるからね」
「なんだそれ」

あいつはいつでも簡単に押し掛けてこようとする。俺の高級マンションに。
静かで快適な俺の場所に、行き場のない山田が逃げ込んでくる。
アパートを追い出されるのは家賃を滞納するからだ。
成年に達している社会人としてどうなんだ。自分のだらしなさを呪うべきだ。
来るな。来るんじゃない。俺はいつでも気が進まない。

山田は俺の牛乳を飲んでしまう。
張り紙をしても口で言っても、いつの間にやら飲んでしまう。
それに、あいつは寝相が悪いし、自分の物をシスティマティックに片付けようとしない。
浅はかな色のステージ衣装がいつかのようにそのへんの壁や椅子の背に翻る。
想像するだに悪夢のような光景だ。
可愛くないあいつの亀だって早晩来るに違いない。どうせこっそり持ち込むんだろう。
それに一体どこに寝る場所がある。
ゲストルームはひとつしかないし、そこは俺の職業柄多くの本を詰め込んだ書庫になっている。
せいぜい足の踏み場くらいしかないんだぞ。

そう言うと山田はエヘヘッといつもの不気味な笑顔を見せた。
私スリムですから足の踏み場があればって、ただ躯つきが貧相なだけだろうが。
本は気になりません、か。そりゃそうだろう。普段youは本など読まないからな。
上田さんの本でなければもっと平気です、だと。失敬な。
地震が起きたらどうするつもりだ。本棚は勿論対策を施しているが本は別だ。
あの重量だと確実に命に関わる。
そう言うと、上田が助けにくるしと山田はまたエヘヘッと不気味に笑った。

──馬鹿を言うな。地震は惑星のくしゃみのような現象だ。いつ起こるかわからない。
いくら慈悲深く勇気と博愛精神に溢れた俺でも咄嗟に駆けつけることなんかできないぞ。
俺はただの天才物理学者で、youの好きな暴れん坊将軍でも水戸黄門でもないんだ。

そう言うとあいつはまた笑った。愛想笑いのつもりなんだろう。
いつもいつも仏頂面のくせに。…不気味だから笑うな。

あいつはいつでも俺に向けた側とは反対側の手を差し出してくる。
おずおずと、気付かれないように、でも疑うことなく指を伸ばして。
きっと、何度か行き掛りでうっかり助けたのが悪かったんだろう。

そして山田はついに俺の聖域に転がり込んできた。
案の定、大家さんから取り戻した亀とステージ衣装を抱えて。
図々しいにも程がある。来るなとあれだけ言ったのに。
だが今回だけは無碍に追い出すわけにもいかなかった。
池田荘は本当に取り壊されたからだ。



「住まわせてやっとられるそうですなセンセ。山田を」

俺は回覧文書から目をあげ、椅子を廻して、なぜかソファで油を売っている矢部警部補を眺めた。

「それをどこでお聞きに」
「蛇の道はヘビ…いうのは嘘でしてね、先日バッタリ道であいつに出くわしたんです」

──えらいツヤツヤして元気そうやないか。あのボロアパートからついに追い出されたんやて。
お前、今どこに住んどんねん。なにかまたちんけな犯罪に手ぇ染めとるんやないやろな。
──なんでだっ。違いますよ、どうしても来てほしいって頼まれたから、上田のマンションに住んでやってるんです。

「矢部さん。その山田の発言は全面的に誤りです」
「意外でしたなぁ」

矢部さんは茶を啜り、俺の顔を上目遣いにじっと見た。

「てっきりセンセは、もっとこう、バーンと巨乳で色気のあるタイプがお好きだとばかり」
「聞いてらっしゃいますか、矢部さん」
「いやいや、山田いうのは意外でしたけど、何も恥ずかしい事やないですよセンセ」

矢部さんは掌をあげて俺を遮り、ニヤニヤしながら立ち上がった。

「で、秋葉の奴がそりゃあ落ち込んで。…ま、ついに高村光太郎卒業できて良かったやないですか。ね」
「いや、あいつとは一切そういう関係では」
「またまたぁ。あ、お茶をごちそうさまでした、今日はこのへんで失礼します」

矢部さんはさっと敬礼をし、ウィンクをひとつ残した。

「確かセンセは山田とは随分年が離れてましたな。……躯壊さない程度にがんばってくださいね」
「どういう意味ですか。待ってください」

俺は誤解を訂正しようとしたが、不自然な頭髪を抑えながら、矢部さんは風のように研究室を去ってしまった。

「………」

俺は溜め息をついて回覧文書を持ち、立ち上がった。
部屋を出たところで隣の研究室の主任教授が扉を避けてのけぞるのに出くわした。
ちょうどいい。俺は書類を突き出した。

「回覧です。至急らしいので早めにお願いします」

扉を閉めようとすると、彼はなんだか慌てふためいて俺を見上げた。

「ちょ、ちょっと。今の話は本当かね」
「何の話ですか」
「悪いとは思ったんだが、偶然聞こえてしまったんだ。若い巨乳の女性と一緒に住んでいて躯を壊しそうだと」
「……」

俺は眉をしかめた。確かに山田は若い女性の範疇に入るが残りの部分に真実はひとかけらも無い。

「愛人かね」
「違います!」

まさか。俺の口元はひきつった。

「ふしだらな関係は一切ありません。アレはただの居候で奉公人で、そう、いわば奴隷のようなものです」
「そりゃまずいよ、君。君のような若くて独身で人気者の有名教授が」

主任教授は嬉しそうにねちねちと言った。

「ただでさえ学内で君は目立つ。妬みや中傷や風当たりも強い。なにかと噂されるような事は避けなくちゃ」

妬んでるのはあなたでしょうなどとは口が裂けても言わない人格者の俺は頷いた。

「ご忠告感謝いたします。あの女は早々に追い出しますからご安心ください」

主任教授は目を剥いた。

「ええっ。そりゃもっとまずいんじゃないのか、君。奴隷のように弄んだ女性を捨てるというのは」
「そんなんじゃないと言ってるじゃないですか」

俺の口元はもっとひきつった。一度耳鼻科に行ったほうがいいのではないか、この男は。

「いやいや。まあね、男女間にはいろいろあるけどね…身は慎んだほうがいいと思うんだよ、私はね」

主任教授は俺の顔を嬉しそうに見上げ、小躍りしながら自分の部屋に去って行った。

「……」

胸が悪くなり、さっさと扉を閉めようとして俺は複数の視線に気がついた。
目をあげると、階段の角や廊下の隅から学生や院生や講師たちが好奇心剥き出しでこちらを見つめている。
じろりと睨むとさっと顔をそらしたり会話を始めるそのわざとらしさに、もっと気分が悪くなる。

「………」

さっきの主任教授の妄想を、全部聞かれたらしい。

あっという間に淫らでふしだらな上田教授の噂が学内を駆け巡るに違いない。
俺は机に戻り、電話線のプラグを抜いた。
今日ばかりは電話になんか出たくない。



「なんでだ上田!」
「うるさい。即刻出て行け!」

俺は手当たり次第に中身を突っ込んだ山田のトランクを抱え、貧乳の肩を掴んで玄関に連行した。

「金はやる。どこか別のアパートを借りろ」
「居ていいって言ったじゃん!」
「撤回する。俺の教授生命に関わるかもしれない事態になったんだ」

電話線を抜いたにも関わらず、今日はあれから仕事になんかならなかった。
とっかえひっかえ同僚や学生や学食や生協の職員が覗きにきて根掘り葉掘り俺の『スキャンダル』を暴こうとする。
最後に事務長や学長まで相次いで現れたのでこれはいかんと俺も腹を括ったというわけだ。

「…馘になりそうなのか」

山田の声が神妙になったので俺は頷いてやった。

「学内はいかがわしい噂で持ち切りだ。この俺が、若い愛人を奴隷のように調教して散々に弄び挙げ句の果てに何度も妊娠させたとか堕胎させたとか客をとらせたとか乱交パーティーを開催したとか隠し子がいるとかだな…!」

俺は甦る怒りに拳を握った。

「事務長なんか、精力増進のいい薬があると販売会社の電話番号を置いていった。学長は君はSMクラブというものには興味ないかねと耳打ちしやがった」
「それ単に遊ばれてるだけなんじゃないか、上田」

山田は急にリラックスした表情になり、トランクをとんと置いた。

「もともとお前のような嘘つきを教授にしてるような大学だぞ。今さら言動を問題にするとは思えない」
「君は何もわかっていない」

俺はいらいらと髪を掻きむしった。

「優秀ゆえに敵の多い俺のような人間は、それだけ慎重にならなければならないんだ!」
「小心者め。自意識過剰ですよ、だいたい、何もないじゃないですか、上田さんと私」

山田の呑気な台詞に俺は顔をあげた。

「俺たちだけ知ってたって世間には通用しないんだよ!」
「あ、焦げそう」

山田は身を翻し、キッチンに走り去った。
後を追いかけ、平鍋の蓋をあけている山田に俺はくどくどと続けた。

「とにかくもうここにyouを置いておくことはできない。俺は静かな環境で研究に没頭したいんだ」
「私、科技大に行きましょうか」

山田は食器棚から皿を出し、料理を盛りつけながら言った。

「上田さんとは何もありませんって、説明をしに」
「来るんじゃない!」

俺は叫んだ。

「余計に事態が混乱する」

山田はこれまでに数限りなく、何度も何度も俺の研究室を訪れている。
警備員達とは顔なじみだし学生達だって彼女の顔は知っている。
超常現象の謎解きを手伝わせてやっているただの助手だと説明していたのに、その彼女と同棲していると知れれば噂に尾ひれがつく事間違いなしだ。

──数年越しの爛れた関係。
清廉高潔でクールでダンディな俺を慕っている教え子たちがどんなに心に傷を負い、深く失望することか。
今の噂だけでも大ダメージなのに、主任教授や事務長や学長のイヤらしいニヤニヤ笑いが目に浮かぶ。

「出来た。上田さん、御飯にしましょ。今日はカレイの煮付けです。ぼけっとしてないで、皿、運べ」

山田はさっさと炊飯ジャーを開けた。

「御飯どころじゃないだろ!…ん?カレイの煮付け…」

俺は操られるように皿を見た。
山田は時々きてれつなものを作るが、基本的に料理の腕が悪い訳ではない。魚の煮付けなんかはうまい。
煮汁の照りもつややかなふっくらと身の厚いカレイの、食欲をそそる匂いが鼻をつく。
俺の財布だと思ってか、貧乏人のくせにいい食材を買ってくるから余計に美味い料理になるのだろう。
これを食ってから追い出す事に決め、俺は自分の皿を運んだ。

「アパート借りろっていうけど、そんな急には無理ですよ」

山田は、漬け物を挟んだ箸を振った。

「明日から探しますから、決まるまではここに置いてください」
「……いいのか」

俺は意外の念に打たれてカレイの皿から顔をあげた。
もっとごねるかと思っていたのだ。違約金とか慰謝料とか迷惑料とか。
勿論払うつもりはないが。

「はい。新しいアパートの敷金礼金に当座の家賃さえ戴ければ、私のほうは問題はありませんから」

山田はカレイの身をむしった。

「………」

俺は茶碗を突き出した。

「おかわり」
「自分でやれ」

席をたち、茶碗をよそいながら俺は言った。

「家賃だけどな、今度はちゃんと払えよ。また泣きついてきても知らないからな」
「わかってますよ」

御飯を口に含んだ山田のもごもごとした声がする。

「だから、家賃は絶対に、月に一万円位のとこ探そうと思ってるんです」
「有り得ないだろ」
「池田荘は一万円も後半だったからきちんきちんと払うのは正直キツかったんですよ」
「払ってないじゃないか」

席に戻ってみると俺のカレイが小さくなっていた。

「食ったな」
「いいえ」
「わかるんだよ!この生姜の切れの位置が違う」
「細かいぞ上田!……だから、ちょっと時間かかっちゃうかもしれませんけど、いいですか」
「有り得るのか、一万円なんて」
「根気よく探せばきっと。…あっ!私のカレイ!」

俺は箸を伸ばして素早く山田のカレイをほぐし、奪い去った。
口の中に放り込む。脂がのっていて美味い。

「わかったよ。東京全域を探せばどこかにあるだろう……それまでは居ていい」
「あ、でも。花やしきにも近くないと困るんですよね」
「贅沢言ってるといつまでたっても見つからないぞ」

山田がこっそり伸ばして来た箸を俺は素早く箸で防いだ。

「安心したよ、あっさりとyouが承諾してくれて」
「何言ってんですか。私だって不本意だったんですってば、ここに住むの。上田は威張るし浅草は遠すぎるし」

「そうか…。これでやっとそれぞれの人生に戻れるというわけだな」

残り少ないカレイに集中しながら俺は呟いた。
山田は箸を戻して立ち上がり、皿を手にしてエヘヘッと笑った。

「…実は、おかわりあるんです。カレイ。三枚組だったからあと一枚だけ」
「何だと」

俺は慌てて皿を掴み、立ち上がった。キッチンに走り込んでいく山田を追う。

「待て、you!!金を出したのは俺だ。つまりそのカレイは俺のものだ!」
「何言ってんだっ。料理したのは私だぞ!」

……散々もめたあと、半分に分けるという事でなんとか事態は収束した。
なぜ山田に半分もやらなければならないんだ。
食費だけじゃない。ただで居候させてやってるんだぞ。
変な噂は流れるし、カレイは美味いがあまりにも理不尽だ。

……だがこんな、やかましくて気忙しくて油断のできないせこくて俗悪な日々とももう少しでおさらばだ。
俺はようやく、自分だけの世界を取り戻せる事になったのだ。
ロンリーでスライムな、上田次郎の世界を。



翌日から山田はせっせと部屋を探し始め、俺は帰宅すると不動産屋のちらしを見せられるのが日課になった。

「これなんかちょっといいなあって思うんですけど」

山田が指差す物件を見て俺は眉をしかめる。

「六畳一間か。風呂もトイレもついてないじゃないか」
「別にそれは構わないんですけどね。月一万八千円なんですよ。微妙だなぁ」
「構わないのか」
「ガス代や水道代かかんなくていいじゃないですか。掃除もしなくていいし」

山田は溜め息をついた。

「でも周りの環境が今ひとつですね」
「物騒なのか?」
「大きなスーパーばっかで安売り店や商店街がないらしいんですよ」
「どこが駄目だ」
「だめですよ。毎日の買い物で負けてもらえないじゃないですか」
「買い物を『毎日』した事がそもそもないだろう、you」

貧乏人山田のチェックは厳しく、一週間たってもアパートは見つからなかった。

「上田さん。これ見てくださいよ。今日不動産屋さんにお薦めされちゃって」
「なんだ。…おおう!月五千円!?」
「礼金も要らないんです。どう思います?」
「素晴らしいじゃないか」
「よし決めた。電話貸してください」
「返した事があるか──待て。まてまて。なんだこれは」
「何ですか?」
「お祓い済って小さい字で書いてあるぞ」
「ああ、そこ昔から出るっていうんで超有名な物件らしいんですよ」
「何っ。…ハハ。こ、怖くはないが、そんな部屋にはどうも顔を出しづらいな。いかがわしすぎる」
「来なくていい。でも、ねっ、五千円なんですよ!五千円!!」
「youはつくづく貧困だな」
「こんな部屋、きっともう二度と巡り会えません」
「敷金と当座の家賃のスポンサーは俺だ!駄目だ、許さない」
「信じてるんですか?」
「まさか。俺は理性と知性を重んじる科学者だ。幽霊なんか……ハ、ハハッ」
「じゃあその理性と知性で正体を暴いてみたらどうだ。次の本のネタになるぞ」
「……とにかく、駄目だっ」

アパートは見つからない。二週目が過ぎ去った。

「山田、この広告欄を見ろ」
「月一万五千円でルームシェア?巣鴨か、うーん…」
「単独じゃ無理だぞ。この際妥協しろ」
「人見知りするんですよね、私。繊細だから」
「どこがだ。…ほら、よく見ろ、ペット可だ。youの亀も大手を振って飼えるだろう」
「不可でも、黙って持ち込んじゃえば平気ですけどね。吠えないし。エヘヘッ」
「おい」
「あっ。条件がついてる」
「おう?…本当だ。なになに…『寝言歯ぎしりしない人』……」
「……」
「……」
「嫌がらせか」
「違う」

東京はこんなに広いのに、山田の厳しい条件を満たす物件はどこにも無い。
このまま見つからないんじゃないだろうか。
そう思い始めた三週目。

「上田さん、聞いてください!」
「どうした」
「今日電話があったんです。いつも行く不動産屋さんから」
「いい物件か」
「とっておきの部屋を特別に安くして紹介するからもう二度と来ないでくれって」
「なにかやらかしたのか、you」
「いいえ。毎日毎日朝から晩まで無料のお茶や飴玉や風船やティッシュ貰いながらカウンターで調べてるだけですよ。一万円の部屋を」
「迷惑だろうが!」
「明日来てくれって。案内しますって。でも遠くて…根津なんです。電車代が、今ちょっとですね」
「今だけじゃないだろう。明日か、土曜だな…いいぞ。連れていってやる」



そういうわけで俺と山田は次の日、不動産屋のおっさんと一緒に根津の町に立った。
落ち着いた感じの町並みを通り過ぎ案内された路地に入る。
目の前に、昭和初期にタイムスリップしたような構えの木造アパートがあった。悪くない風情だ。
玄関は古いが掃除がしてあり感じが良い。手入れの行き届いた鉢植えが塀に並んでいる。
部屋は二階の三番目、畳も替えてまだ二年くらいの清潔な部屋だ。
トイレは共同だが小さな流しがついていて、近くに銭湯もある。
山田の大好きな商店街には徒歩五分。それに当然、浅草にも近い。

「住人が急に国に帰ることになったって言うので」

不動産屋は嬉しそうに説明した。

「普段留学生同士の紹介で借り手がつく物件なんですけどね、今回は運がいいんですよ、お兄さん」
「お兄さん…?」

俺はじろりと山田を睨んだ。
山田は知らん顔で押し入れを確認している。

「決めた。ね、次郎にーさん。ここがいい」

それほど不気味ではない愛想笑いを浮かべている山田の顔から目を逸らし、俺はおっさんに言った。

「環境のほうはどうなんですか。痴漢や通り魔や下着泥棒などは」
「ああ、お兄さんとしてはその点ご心配ですよねえ」

不動産屋は窓を開けてみせた。

「大通りからちょっと離れてますけど商店街からの流れで人目がありますからね。女性の一人暮らしでも不安はないです」

「あの。ここに住んでる留学生って、例えばバングラディシュから来た歌好きな男の人とかじゃないですよね」

山田が口を挟んだ。おっさんは首を振った。

「今回は特別に妹さんにご紹介してますが、ここは本来留学生の、それも女性専用でしてね。大家さんが日本舞踊の師匠をなさっている方で、国際的な文化交流に熱心で…」
「女性専用?という事は──」
「男性の訪問は一切禁止です。大家さんがきちんとした方で、家族や親戚といえども特に夜間は厳禁です。どうです。ご安心でしょう、お兄さん!」

おっさんはあははと笑い、山田もエヘヘッと笑った。
俺は口元をひきつらせながら追求した。

「家賃は。結構お高いんじゃないですか、こういう穴場的な部屋は」
「それがですね、本日は特別御奉仕価格の月一万二千円で」
「安い!」
「お願いします!」
「待て山田っ」

山田はじろりと俺を見た。

「なに、次郎にーさん」
「…じゃなかった、な、奈緒子。もうちょっとよく考えて、だな……」
「なんで」
「すみません」

俺はおっさんに向き直った。

「前向きに検討しますので。返事は明日でもいいでしょうか」
「いいですけど」

不動産屋は不審そうに俺と山田を見比べた。

「ご要望にぴったりじゃないですか。ここ以上の物件は絶対にありませんよ、断言しますが」
「ともかく明日。明日お返事します」

俺は何か言いたげな山田の首根っこを掴み、愛想笑いを浮かべながらそのアパートを後にした。



「最高じゃないですか、あのアパート」

山田は興奮気味だった。

「あーあ、長野から出て来たときからあそこに住んでられてれば余計な苦労しなくて済んだのに!」
「余計な苦労?」
「無闇に上田が入り浸れないじゃないか、あそこなら」

俺は眉間に皺を刻んで次郎号のハンドルを左にきった。

「部屋に帰って上田さんがいると怖いんですよね」
「何が怖い。俺は不審者じゃないぞ」
「充分不審者だっ。勝手に入ってるのに鍵かけてたり、いつだったか、電気消してじっとしてた事あっただろ」
「あれはyouに仕掛けを見せようとして」
「洗濯物取り込むし。なにが下着泥棒はどうですかだ、自分だろ」
「親切心で取り込んでやってるんじゃないか。下着泥棒なんか断じてしない!」
「黙って人のブラ持ってった事あったじゃないですか」
「あれはちゃんと返したはずだ」

訂正しながら横目で見るが、山田が怒っている気配はなかった。

「ねえ上田さん」

彼女はにこやかに言った。
にこやかな山田──天変地異が起こる前触れのようだ。

「ちょっとつねってくださいよ。ほっぺ」
「なんで」
「夢じゃないかと。エヘヘヘッ」

俺は無言で左手をあげ、思い切りおでこをしっぺした。

「いったあっ!………エヘヘ。夢じゃないですね。エヘヘヘヘ!」
「………」

不幸でいるのが当たり前という人間に千年に一度レベルの幸運が来るのも考えものだ。
長い付き合いだが、こうも見苦しくはしゃぐ山田を初めて見た。
あまりの浮かれぶりに眉間の皺が深まるのを自覚せざるを得ない。

「you」
「なんですか上田さんっ」

ぱあっと光溢れる笑顔で山田がこっちを見た。
語尾にハートマークがつきそうな勢いだ。

「随分嬉しそうだな」
「そりゃあ。理想通りですから。二千円高いけど、エヘヘヘ」
「俺には見えるぞ。youが家賃を滞納してあのアパートを追い出される姿が」

ぴきっ、と音がした。いや実際には音はしなかったが、空気がこわばった。

「……どういう事だっ」

また横目で見ると、いつものように眉間に皺をよせている山田が見えた。俺はほっとした。
やっぱり山田はこの顔だろう。

「フッ…。あの低家賃で、二千円高いとか言っている時点でもう駄目じゃないか」
「そんな事ありませんよ」

山田は気を取り直すように明るい声をはりあげた。

「前の時よりほんと安いですもん。そのぶん生活費に廻せるし、浅草にも近いからバイトだって」
「それにあのアパートは随分きちんとしていたな」

山田の言葉を無視して俺は容赦なく指摘した。

「前の鷹揚な大家さんやぼろアパートならともかくだ。だらしのないyouがあのこぎれいな環境に馴染む事ができるのか」
「うっ…」

……かなり動揺しているな。

「ゴミをちゃんとまとめられず、厳しい大家さんに日本舞踊の扇子で叩かれているyouの姿も目に浮かぶようだ」
「ま、前の大家さんにだって叱られてましたよ!大家さんの性格は関係ないと思いますっ」
「あのな、you」

俺は微笑を浮かべてやった。

「それは安心する要素になるのか?」

マンションの駐車場に滑り込む。

「とにかく明日までもうちょっとよく考えたほうがいい。これを機会に未熟で至らない破綻した性格を猛反省するんだ」

シートベルトを外しながら説教をしていると山田が俺をちらちらと見ているのに気がついた。

「何だよ」
「上田」

山田は何か言いかけて、ふいにそっぽを向いた。

「何なんだよ」

山田の横顔はなんだかうらめしそうだった。

「──先にそっちが言ったんじゃないですか。ここを出てけって」

早口にそう言って、彼女は急いで助手席から降りていった。

「………」

俺はとっさに何も言い返せなかった。



「だから、上田さん」

山田はソファから立ち上がった。うんざりした表情が険しい。

「この部屋から早く出てけ、でも安くてきちんとしたアパートはやめとけって。わけわかんないですよ」
「そうとは言ってないだろ」

俺は苛々と牛乳を飲んだ。

帰って来てからずっと俺と山田は言い争っている。

「あのな、物事は何でも一面だけ見て納得してちゃいけないって言いたいんだよ、俺は」
「へー」

山田は気のない相づちをうつ。

「そりゃ確かに安くて商店街が近くていいアパートかもしれない」
「浅草にも近いですよ。上田もいないし」
「だがな、例えば隣の部屋の留学生が……ある日いきなり貧乳の歌を歌いはじめたらどうする」
「有り得ません」

山田は一言の下に切り捨てた。

「上田が入ってこれないんだから誰も教えることはできないだろっ。エヘヘヘッ」
「……わからないぞ」

俺は牛乳パックを置いた。

「俺は『お兄さん』だから昼間は侵入できるはずだ」
「侵入って何だ!この変質者!」

山田は唇の端を曲げ、軽蔑したように俺を見た。

「あれは不審に思われないように不動産屋さんに言っといただけですよ。大家さんにはありのままを伝えます」
「ありのまま?」
「お前が赤の他人のストーカーだって」
「違うだろうっ!……しかし。不便じゃないか。ほら…焼肉を奢ってやってもいいという慈悲の心が俺にふと湧いた折などにだな」
「電話すればいいじゃん。23区内ならどこでも歩いていきますよ」
「…だが、世にも不思議な話を聞き及んだ時などには」
「電話っ!!…大体、それって嬉しくないんですってば。迷惑なんだ、変な事件にばかり巻き込むから」
「だが」

「上田さん」

山田がずいとテーブルの上に身を乗り出した。

「じゃあ聞きますけど、上田さんはどんなアパートならいいと思うんですか?」
「そうだな…」

俺は再び牛乳をとりあげ、飲みながら考えた。

「もっと近くに駐車できる場所があったほうがいい。東尾久の高架下のように、気楽にな」

山田はソファに戻り、じろじろと俺を眺めている。

「大家さんはあまりきちんとしてないで、懐柔しやすい人がいい。顔見知りには簡単に合鍵を渡してくれるような」
「……」
「近所には歌好きのバングラディシュ人がいると最高だ。嫌がらせの歌を教えられる」
「……」
「もちろん昼も夜も、気が向けばいつでも自ら出向けて」
「……」
「戸棚のパンの耳を食っても茶を飲んでもメイクをしても、本人以外の誰も咎めない」
「……」
「貧乏な奇術師が家賃を滞納できるくらいの絶妙な額の家賃。肩代わりして利用する事ができるから都合がいい」
「……」
「…あのアパートが取り壊しになったのがつくづく惜しいよ」
「上田っ!」

山田が鬼のような顔で再び立ち上がった。

「黙って聞いていればお前…要するに私を苛めたいだけなんじゃないか!」
「え?そんな事一言も」
「自覚がないのか!」

自覚はある。山田を苛めるのは楽しい。
つかずはなれず適当な場所で、いつまでもこいつの困った顔を眺めていたい、そういうささやかな楽しみはある。

「さびしい奴だな。お前って」

ぽつんと山田が呟いた。
俺は牛乳の残りを飲み干した。

「寂しくなどない。俺は人気者で困っているんだ。この三週間というもの俺が同棲しているという噂で女子学生達が…」
「友達いないくせに」
「いるよ。それにyouに言われたくない」
「どうせ上辺だけの付き合いだろ。この部屋に連れてきたの、私と、長野の母と、あとなんとかいう犯人だけじゃないですか」
「youだって、話し相手は亀と俺しかいないじゃないか」

山田は俺を見下ろした。
その目にはなんとも奇妙な色が灯っていた。
あまり見たくない類の色のはずだが、山田が浮かべているそれはあまり気に障らなかった。
きっと俺の目にも同じ色が滲んでいたのかもしれなかった。山田の表情で俺にはわかった。

「亀のほうがお前より大事だ」
「何言ってんだ。俺だって、youより」

言いよどみ、言いよどんだ事にちょっとうろたえて俺は咳払いした。

「──次郎号のほうが」
「生き物ですらないじゃん」
「悪いか。俺とあいつは一心同体なんだよ」
「……じゃあ」

山田は溜め息をついた。

「いつまでも次郎号と幸せに暮らしてください。私、あのアパート気に入りましたから」
「………」

軽くなった牛乳パックが、山田の溜め息でかすかに揺れた。

「何溜め息ついてるんです」

俺か!?

「これは溜め息じゃない。深呼吸健康法だ」
「……………」

山田の目がとても……この感じは、あれだ…いや…。
寂しそう……?
それとも…切なそう?
…怒っているのか?
いや、悲しんでいるんだろうか…?

「…上田さん」

どれでもあって、どれでもない。

「上田さんって、本当に──意地悪な人です」

山田はくるりと向きを変えてリビングから出て行った。

「you」
「明日不動産屋さんに電話しますから。おやすみなさい」

小さな声は閉まっていく扉の隙間から聞こえた。



サハラ砂漠は地球で一番広大な乾燥地帯だ。その70%が岩石と礫から構成されている。

荒れ地がどこまでも続く静かな世界。
広過ぎるため、入り込んだ人間は空間を把握する感覚が麻痺してしまう。
ただ風が起こってはかすかな水気を奪いさり、別の場所へと消え失せていく。
前後左右の認識もすり減っていく。あるのは天地の区別と自分だけ。
一人きりの旅人の道しるべと慰めは、遥か頭上の大パノラマだ。
地平の果てから昇る太陽、薄れては強まる月、季節を数えて煌めく満天の星。
それらの光は旅人の目の上に惜しげもなく溢れ、乾いて縮んだ躯の影を埋め尽くす。
星は天に微動だにせず、そして無言で。雨の代わりに降るように。

──寝室の天井を見上げ、俺は砂漠の夜空について考えていた。
就寝前にぼんやりと眺めたテレビの特集のナレーションが耳に残っている。
そういえば以前山田のいる場所でタクラマカン砂漠に関係した何か──なんだったかな、ともかく数多い俺の武勇伝の一つを語ってやった事があった。
細かい事は省略するが、あいつ、いつもの如く全然聞いちゃいなかった。

──ふっ。
迷い込んだら出て来る事のできない『死の砂漠』タクラマカンを構成しているのは礫じゃなくて砂だけどな。
おっとまた豊かな知識と教養がはからずも証明されてしまった。
これだから天才は困る。

寝返りをうつ。
眠れない。
一面の砂、あるいは礫。

…いや、いい話じゃないか。
決めるのはあいつなんだし。あいつもいい大人なんだし。
一万二千円。いくらなんでも大丈夫だろう。時給のいいバイトを探せばそれなりに稼げるはずだ。
いざとなれば一度か二度なら貸してやっても──いや、あまり甘やかしちゃためにならないよな。
部屋に入れなければ呼び出せばいい。あいつが言った通り、電話でいつでも呼び出せばいい。

ただし、山田が作る魚の煮付けがもう二度と食えなくなる。それだけが残念だ。
あいつ、居候している弱みがあるから料理していただけだからな。
そういえばこれまで何年もあいつの手料理なんか食った事など無かったのだ。
最初に食うのは勇気が要ったが。何か入っているんじゃないかと──。
いや、全くいい話じゃないか。








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