シチュエーション
![]() それから美香は、なんとかして家路につくことができた。 頭の中を、多くの考えが浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。 なんとか、電車を乗り継ぎ、歩いて自宅マンションへ辿り着く。 あまりにもさまざまな思考を巡らせすぎて、それだけで精神的に 消耗してしまう。 けれど、忘れることはできなかった。 濃密すぎる一夜を過ごした後での、奇妙な高揚感が、身体にも 精神にも残されている。 その直後、別れ際のあのときに…黒澤が私立探偵とわかり、美香の 現住所はもちろん、勤務先も、自宅の電話番号も把握済みで いたことは衝撃的だった。 まさか、彼自身がその手の調査を生業にしているとは……。 これではまさしく、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のようなものだった。 逃れられることなど、できはしない。 彼は美香の心を惹きつける存在となってはいたけれど、もしも そうでなかったら……。 全く美香の好む容姿でも、性質でもなかったとしたら? それこそストーカー紛い、いや、職業柄の特権をすべて利用して それ以上の行為で彼女を追いつめるような真似をされたら? そんな偏執的な人間に狙われていたら? ……想像することさえも、おぞましかった。 おそらく、彼はそんな人間ではない…そう願うばかりだった。 最初の夜の痴漢行為も、美香が無防備になるのを待っていて それを狙って仕掛けてきたのかもしれない。 そして、まんまと彼の罠にはまった。 避妊を徹底することで彼女を安心させ、犯されることへの恐怖心を とりのぞいた。 さんざんに嬲りぬき、美香をよがり狂わせ、快楽に溺れさせながら 美香の精神を、肉体を淫乱な雌へと変質させた。 二重、三重に仕掛けられた巧妙な陥穽に弄されてしまった…… 昨夜のことも、美香が自ら訪れて来るのを確信していたようだった。 それほど、初めての夜に黒澤に施された数々の性戯は素晴らしかった。 彼の虜になり、囚われていることへの歓びがすべてだった。 こうして目を閉じると、あの夜を、今日の朝を思い出して、濡れるほど。 これから先、ひとりで慰めるときのときの回想にも困らないほど。 それなのに……。 美香は大きく、深く溜息をつくとピンクのスーツを脱ぎ、部屋着の 水色のワンピースに着替えようとした。 ブラも外し、濡れたショーツも取り替えて、身体をゆったりさせたい。 黒澤に会うために選んだ、シースルーに近いセクシーなショーツを 脱いで、コットンの実用的なものに替える。 ブラジャーを外し、白のキャミソールを手に取り、ふとドレッサーの 鏡に映る自分の裸体を見つめる。 身体のあちこちに…それこそ全身に、赤い小さな内出血の痕跡が 残っていた。 黒澤が宣言した通り、多くのキスマークが残されている。 両方の乳房はもちろん、腹部にも…内もものきわどい部分にも、 背中にも、そして豊かな尻にも、いくつもつけられているのを 鏡で確認した。 行為に夢中になっている間に、確かにそんなことをされていたかも しれない。 ……おまえは、俺の女だ。それを、わからせてやる…… そう言われたのを、今になって思い返す。 俺のことが、また欲しくなるように、身体に刻みつけてやる…… そうとも言っていた。 そして文字通り、しるしを刻み込まれている。 新たにつけた下着が、じわりと濡れていってしまう。 あんなに抱かれ続け、数え切れないほどいきまくったのに… それなのに、今……。また……… なんて、淫らな女になってしまったんだろう……。 美香は、自分自身の底の知れない欲情の深さに、ふるえがくるほど 戸惑っていた。 少なくとも、1年以上つきあった恋人……二ヶ月前、海外勤務で 泣く泣く別れた恋人とは、そんなことはなかった。 ごくノーマルなセックスしかしていなかったし、それで充分に 美香は満足していた。 男の体は今までに3人知っているが、黒澤という男に比べれば みな児戯に等しいとさえ思えた。 それに、淡泊に過ぎる、とも。 黒澤との密度の濃い時間を過ごしたばかりで、まだ余韻の残る せいもある。 でも恋人とのセックスを思い出そうとしても、浮かぶのは今朝までの 悶え狂う自分の姿と、それを見下ろして笑う黒澤の顔だった。 体は激しいセックスの連続で、重く疲れが残っている。 昼間の光が眩しく部屋を照らすのを、遮光カーテンを引いて暗くする。 電話は留守セットし、インターホンも切って外界の音を遮断する。 とにかく、眠りたい…なにも考えることなく、眠りに落ちたかった。 そのまま土曜日の夜まで眠り、日曜の友人と会う約束を 断る電話を入れた。 外へ出て、無理にはしゃぐ気分にもなれない。 繰り返し、淫らな悪夢が美香を苛む。 黒澤に言われた言葉、された行為だけでなく、さまざまな 情景が夢に現れた。 夢から覚めた時、その内容などほとんど覚えていなくても 濡れて股間にはりつくショーツが、淫夢の証拠だった。 それでも、美香はこらえた……。 指が夢の後を追って、濡れた部分に触れようとすることを。 普段は飲まないアルコールを、美香は欲した。 いつか飲もうと思っていた杏露酒を、サイダーで割って 思いきり薄く、甘くしてから煽る。 そうでもしないと、アルコールに弱い美香の体は受け付けない。 酔うと眠くなる自分の体質を知っているから、軽い夕食を つまみにしながら、普段飲む時よりもハイペースで煽った。 すると案の定、胸の動悸とともにふらつきと、眠気が襲う。 これでやっと、眠れる……。 美香は安堵して、ベッドへ潜り込んだ。 酔いの中で見た夢は、昨夜の夢よりも遙かに鮮明だった。 黒澤が美香の唇を塞ぎ、手早く彼女の手足を縛り上げる。 体の自由を奪い、抵抗できない美香の全身を舐める。 乳房を揉まれ、広げられた足の間に指を入れられ、弄ばれる。 指についた愛液を舐めさせられ、そのままクンニされる。 美香はただ黒澤のなすがままにされ、声をあげ続けた。 やがて、股間に男のものがあてがわれる。 待ち望んだそれを、美香は素直に口に出して「ほしい…」と言った。 その唇へと、熱いものが当てられ、「しゃぶりたいか?」と訊かれる。 またしても正直に、積極的に「おしゃぶりします」と答え、ためらわずに 愛おしく舐めはじめた。 いつのまにか、縛めはほどかれている。 「どこへ出してほしい?」 と黒澤は笑みを浮かべながら訊いた。 「胸へ…かけてください」 美香は密かに望む行為を頼んだ。 いく寸前までしゃぶらされ、射精の瞬間に熱い液をどっと浴びた。 胸にたっぷりと男の精液を浴びて、美香は恍惚としながら 自分の手で乳房へ、腹部へと塗り広げた。 硬さを失わない男根を進んで口に含み、精液を舐め取って味わう。 そしてあろうことか、自分からうつぶせになって腰を上げる。 「ちょうだい……お願い。もう、我慢できないの……」 現実には絶対に口にすることもない、こんな淫らなセリフも躊躇わずに 言ってのける。 「ああ……」 言いながら、こらえられずに自分で両方の乳房を揉む。 「犯して……!おねがい、後ろから……。思いきり、犯して……」 黒澤に向かって、哀願する。 やがて、熱いものが膣の中に入ってくる。 「あああ……。はああん………」 大きく喘いで、自分から腰をゆすりはじめる。 「ああ……。いいの……。あなたの、すごい……。 はじめてよ……。こんなに、感じるの……。あなたが、はじめて……」 臆面もない赤裸々な感想を述べて、美香はバックから突かれている。 「ああ……!すごい……。好きよ……。あなたの、好き……」 恥じらうことも忘れて、美香は黒澤の与える快楽にただ酔いしれていた。 「ああ……いきそう。……ねえ、いっしょにいって。あなたも、出して……」 ともに絶頂に達したい、これも美香の望みだった。 「いいぜ……。いくぞ。出すぞ、おまえの中に……」 黒澤の動きも、激しさを増した。 「ああ……ああ!きて……。ああ、いく。ねえ、いっちゃう……。 ああ……。あなたも、きて……!」 そう叫ぶと、美香はまもなく全身をふるわせて達していった………。 はっと、美香は目を開けた。 夢の中なのか、現実に黒澤に抱かれていたのか、一瞬わかりかねた。 それが夢とわかったのは、自分の部屋の見慣れた風景が目の前に あったからだった。 夢の中で自分がイった瞬間、現実にイってしまった……。 まだ、あそこがひくついて、激しく蠕動を続けている。 手も触れることもなく、夢の中でイってしまった。 現実には、そこに指も這わせずにイクことなどできない。 現実との境目があいまいになるほどのリアルさで、美香は激しく 黒澤を求めて抱かれていた。 絶対に性行為の最中にも言えないようなことを、夢のセックスの 中ではたやすく言っていた。 しかもそれを、夢では不思議と恥ずかしいとは思っていなかった。 恥ずかしいのは、むしろこんな夢を見て、耐えきれずにうずく秘唇を 慰めようとしていることだった……。 ああ………。 もう、だめ……耐えられない。 水色のフレアワンピースの裾を、そろそろとまくり上げる。 白いショーツを少し下へずらし、指を入れやすくさせる。 そうしておいてから、指先でショーツの上から股間をそっとまさぐる。 そこはびっしょりと濡れそぼっていて、滲む愛液で重く、冷たくなっていた。 自分の指を布の中に忍ばせ、潤む膣へとすべりこませる。 右手の中指を使って、クリトリスのふくらみを上から押しつぶすように こすりつけ、そのまま下へ下ろして膣の中に浅く指を入れる。 膝を立てて、足を開くという淫らなポーズをとって自慰にふける。 「あ、あ………」 いつもの美香なら、恥ずかしさで声を押し殺す場面だった。 でも、今日は…今は、声をあげずにはいられない。 どんどん、愛液があふれ出てきてとまらない。 指が膣と小陰唇を往復するときに、ショーツの中で粘った水音が 響いてくる。 “こんなに濡らしてるのか…いやらしい女だな” 頭の中で、そう嘲るような声が響く。 それを否定するかのように首を振りながら、美香は恥ずかしい 行為を続けている。 指でクリトリスを刺激しながら、そのまま指先だけを膣の入り口に そっと入り込ませる。 「はぁ……ん………」 感じる………。 クリをむき出しにさせると、触っただけでもじんと痺れて、痛いような 妙な感覚になってしまう。 そうさせないように、指先だけの繊細な動きでクリの左右の部分を 行ったりきたりを繰り返す。 「ん………」 “気持ちいいか?感じるんだろう?” 黒澤の声を思い出しながら、美香はこぼれてくる愛液をすくい クリトリスに塗りつけた。 ワンピースの前ボタンを外し、ブラをつけなくても形良く盛り上がった 乳房を、左手で愛撫する。 白い乳房の内側に、そして外側にも、男の唇の痕がついている。 幾度もきつく吸い、多くのキスマークを残したことが、黒澤の 美香に対する強い執着心、所有欲を示している……。 もうすぐ、いきそうになるほど高まっている…… “犯してほしいか?犯されてるのに、気持ちよくてたまらないんだろう。 そういう女なんだよ、おまえは……” 「あぁ………」 顔を反らせ、立てていた膝を伸ばして身体を突っ張らせながら クリトリスの上から指でこすり、膣へぬるりと入れる。 そうよ……私は、あなたに抱かれて感じてたの。 ずっと、ずっとこうされていたいと思ったの。 犯されてるのに感じてる、淫乱な女なの。 おねがい…… ………犯して……………! 心の中で、そう念じた瞬間……美香はイった。 「はあっ………」 快感のあまりに、つい声をもらしてしまうほどの強烈なよさだった。 クリトリスで一度イっても、またすぐに二度目がほしくなる。 どんなに深く長い快楽があっても、それはいつもと同じに すぐに二度目の絶頂感が近づいてくる。 一度昇りつめたあとは、間をおかずにすぐイける。 今度は、クリトリスは少し触っただけで、あとは指を膣口に入れた ままの状態で、いきそうになった。 “一度だけじゃなく、何度でもイかせてやる……” 黒澤の淫猥なセリフと、表情が頭に浮かぶ。 ああ……いかせて! お願い、何度でもいかせて………! 「ああっ………」 途端に、美香は急激に突き上げられていった。 しばらく乱れた吐息をつきながら、美香はぐったりと力を抜いて ベッドに横たわっていた。 あんなにいかされた後だっていうのに…… いくら、あんないやらしい夢を見たからといって…… オナニーの後に味わう、奇妙な背徳感が美香を責めはじめた。 ゆっくりと身を起こして、乱れた長い髪をかきあげてみる。 ふと部屋の片隅のドレッサーを見ると、そこに映る美香の姿は なんとも扇情的なものだった。 服の胸元を開けて乳房をむき出しにさせて、ワンピースの 裾は太ももまで押し上げている。 途中、邪魔に感じたショーツも膝近くまで押し下げ、濡れきった 股間を惜しげもなくさらしている。 まるで、ほんとうに犯されたあとのような乱れた格好をしている。 遠くて見えないが、きっと頬は紅潮し、瞳は潤んでいるに違いない。 こんなあられもなくひとりで慰める姿を、もしも黒澤に見られたら…… 彼は嬉々として、美香を望むままに嬲るだろう…… 美香は、ほんとうに自分が色情狂になってしまったような気がした。 いつまでも、股間の甘いうずきが止まらない。 あまりに卑猥で強烈な淫夢を見たせいか、まだその世界に漂っている ような気さえしてくる。 いったい、いつになったらこんな淫らな気持ちと身体が醒めるんだろう。 冷たいものでも飲んで、頭を冷やしたかった。 ダイニングの小さなテーブルに、きのう黒澤から渡された名刺が 置いてあるのに気づいた。 そういえば、その探偵事務所はどこにあるんだろう……。 名刺の住所は、豊島区池袋となっている。美香の住む吉祥寺からは そう遠くもない距離といえる。 電話帳で調べるのも面倒なので、ノートパソコンを開いてネットで 検索してみることにした。 すぐにヒットした。住所からすると、池袋のサンシャイン方面に あることがわかった。 ……そんなことを知っても、どうしようというのだろう。 会いに行くつもりは、今のところない。 顔を合わせることさえも、躊躇ってしまう。 抱かれた記憶は、こうして美香を自慰に向かわせるほどの余韻を 残して、甘く、激しく美香の中に刻まれている。 けれど………… 気が付くと、日曜の昼過ぎになっていた。 美香は風呂を沸かし、思いきり熱くした。 バスバブルを入れて、泡が立つ感触を楽しむ。 身体じゅうをよく洗い、熱い湯に浸かり、ぬるめのシャワーと 熱めのシャワーを交互に浴びる。 そして身体にまつわりついて離れなかった、欲情の名残りを なんとかして振り払うことに成功した。 その後、友達に電話して他愛のない恋愛相談を受けて、笑って、 そのおかげでだいぶ気が晴れた。 ネットで遊び、本を読みふけり、美香の休日は終わろうとしていた。 月曜の朝。いつもなんとなく憂鬱な気分になるけれど、今回は やはり気が重かった。 首筋に、あからさまに見えるところにいくつもキスマークを 残されている。 タートルネックのセーターを着ても隠しきれない、頬やあごの線の すぐ下にも、複数の赤紫のあざがついている。 どう見ても、男につけられたとしか思えない、位置と形をしている。 念入りに化粧下地を塗り、リキッドファンデーションとパウダーを 巧みに混ぜ、重ねて、なんとか不自然にならないようにごまかした。 あとは、首の上までを覆うタートルネックのセーターを着る。 これが、今は真冬だからいいものを…もし、夏だったとしたら…… 汗や紫外線を気にしつつ、かなり厚塗りをしなければならない。 ふうっと大きく息を吐くと、美香はなるべく空元気でも頑張ろうと 大きく足を踏み出した。 美香の勤め先、お茶の水の中堅の画材店に着く。 まず先週までの在庫チェック、納品チェック。 店内の掃除をして、品出しを始める。 10時に開店しても、まだまだお客はまばらなことがある。 美香の担当は本格的な油彩や水彩、アクリルなどの 画材、消耗品その他を扱うことだった。 美香自身も美術専門学校を出て、ここで二年勤めている。 画材を扱いながら、自分で趣味の範囲で絵を続けている。 専門的な知識を持ったうえで、売り物のモニターとして 絵の具や紙、ボード類を使用して、お客に相談されたり するときに大いに役立つ。 美香の担当売場は地下一階だった。 それに、美香の愛らしさが固定のファンともいうべき客層を 呼んでいるのも確かなことだった。 男子校生が数人でやってきてなにごとかはやし立てたり、 電話番号を書いた紙を握らされたりということもあった。 店が終わるのを待っていて、告白されたこともあるが 美香が呆然としている間に、それが断りの沈黙と思ったか すぐに立ち去って行った若い男性もいた。 レジのすぐ側の電話が、内線呼び出し音を響かせる。 「はい、地下ですが」 「美香ちゃん?」 一階担当の由理が笑いを含んだ声で言った。 「船村さん、そっち行ったわよ」 「…はい、わかりました」 美香が内線を切るとほぼ同時に、螺旋状の階段を下りて ひとりの若い男がやってきた。 「こんにちは。先週頼んだもの、入ってるかな?」 「はい、ただいまお持ちします」 この男の場合、美香のファンという次元でなく、率直に 好意を抱いているのを、ありありと感じる。 男は、若手新進イラストレーターとして最近売り出し中の 船村誠一といった。 セールスポイントのイラストは特に目新しいものでもない。 24の時にデビューし、28歳の今若くして知名度はかなりあった。 しかも、彼の甘いマスクが女性向け雑誌などにイラストとともに 紹介されて、20〜30代の若い女性に人気が出ている。 従業員のほとんどが、彼が美香を特別ご贔屓なのを 知っている。 ただ、皆の気づかないような、彼の視線の意図を美香は 察している。 美香を見つめる目は、単に好意というよりも…もっと 生々しい、性の対象として見つめるような粘い視線だった。 仕事着の、ぴったりとしたジーンズの尻に、舐めるような 視線を感じる時もある。 それに気づいていない素振りをして、美香は鮒村の注文品を 確認した。 「ああ、ちょっと…それも、取ってもらえるかな?」 美香の手では届かない、高いところに置いてあるキャンバスを 指さされた。 「はい、ちょっと…待ってください」 踏み台をレジ奥から取り出し、そこに登ってキャンバスを取り出す。 きっとまた、ヒップラインを眺めているに違いない……。 美香はそう思っただけで、濡れていきそうな予感をこらえた。 「F6一枚でよろしいですか?」 「ええ、それでいいですよ」 レジに立ち、注文した絵の具とキャンバスの料金を打ち込む。 船村は、美香の顔をまじまじと見つめた。 美香が気まずさを感じ、 「なんでしょう?私の顔に、何かついてます?」 と作り笑いながら尋ねた。 「朝倉さん……あごの下のそれ……キスマーク?」 こちらの様子をうかがうような、上目遣いで見つめられる。 「えっ!」 とっさに、美香はあごに手をやった。 「ほら……。ここ」 言いながら、男の指が美香のあごを上向けさせ、赤あざをつついた。 そのからかうような指の動作に、美香はぎょっとして顔をふるわせた。 「わかりません…ちょっと、待って…」 レジから少し奥に入ったところの、従業員用トイレに駆け込み 鏡を見た。 船村の指摘通り、あごのすぐ下の部分にキスマークがついていた。 ここだけは盲点で気が付かず、カバーすることを忘れてしまっていた。 でも化粧はあとまわし、彼の応対をしなけらばならない。 レジに戻ると、船村は整ったハンサムな顔を、どこか下品な笑いで 崩していた。 美香が船村をあまり好きになれないのは、そのにやけた顔つきが 品性を感じさせないせいだ。 「美香さん……きのうはお楽しみだったの?」 口調までもなれなれしく変化する。 黙殺しようとして、美香は素早くレジを打ち、商品を包む。 「お待たせしました。15750円です」 「いいなあ……。彼氏、いるの?妬けるな、その人……」 美香の唇がひきつったことで、感情を害したのを察したのか 船村はそそくさと帰るそぶりをみせた。 「じゃあ…どうも。また来ますね」 「ありがとうございました」 美香は固い声を出して形ばかりに答えた。 私が金曜にセックスしたから、なんなのよ。 そうよ、抱かれたわ。あの人に。 全身に、キスマークをやたらと付けられた。 だからってなんで、あんな下品なこと言われてからかわれなきゃ いけないの? 美香は憤然として、地階の掃除を始めた。 その後は昼休み時になり、学生たちがばらばらと店に入る。 混み始めた一階の文具売場のレジを手伝ったりして、あっと いうまに時間が過ぎる。 遅いお昼を午後二時にとっているとき、4階のロッカールームに 由理がやってきた。 「おつかれ!ねえねえ、船村さん美香ちゃんになんか言ったの?」 いつもの弾んだような由理の明るい声が、少しうっとうしい。 「なんかって……別に、なにも」 そっけなくあしらう美香に、由理は無邪気に続けた。 「そろそろ告白かな〜って、いつも思うのになぁ…。 美香ちゃんだって、好かれてるの悪い気しないでしょ? なんたって、話題の人が美香ちゃんに会いにここまで来てるんだから」 ふう、と小さく溜息をついて美香は食事を終えた。 「美香ちゃん、ほんと好きな人、他にいるの?」 なぜか今日に限ってやけに絡む由理に、美香は苛立ちを覚えた。 「なんで?船村さんに、リサーチしろとでも言われてるの?」 「え、え……?あ、あたしは…べつに、そんな……」 おかしいほどのうろたえぶりが、図星を突かれたことを物語っている。 「そうなのね。やっぱり」 美香は席を立つと、すっとエレベーターに向かう。 「ごめん…美香ちゃん、怒った?だって、画集にサインしてくれて うちに置かせてくれるっていうから……」 そういえば、こう見えても由理は社長の姪なのだった。 一応は、ここの店の経営も考えているつもりなのか。 「好きといいきれる人なんて、今……いないわ」 ふとしたことで浮かびそうになる、黒澤との情交シーンを断ち切る ように、美香はきっぱりとそう言った。 「そうなんだぁ……船村さん、残念だけど仕方ないね」 「早く仕事に行かないと、また一階込むわよ。社長が午後に 来るらしいけど」 「やっばー…おじさんが来るの?」 二人はエレベーターで下りていった。 それからは、いつものようにルーティンワークが繰り返される。 注文を出し、受け取り、品数のチェック。 一生懸命、仕事に精を出していたほうがいい。 忙しいほうが、かえって気持ちは救われる。 くるくると立ち働く間は、なにも余計なことを考えずに済むから…… 夜の7時に会計を締めて、レジのチェック、帰りの掃除。 8時前に店を出、お茶の水の駅まで由理やバイトの子たちと帰る。 笑いさざめく一団から離れ、ひとりで中央線に向かうと、途端に 美香の気持ちは落ち込みそうになる。 船村に、黒澤につけられたキスマークを指摘されたこと。 そして船村は由理と取引?していて、美香からの好意の 有無をさぐらせていたこと。 色と恋と、欲…… みんな、それだけのために動いているような気がした。 自分も、もしかすると既にそうなっているのかもしれない。 電車を降りて、バスに乗り、自宅マンションへたどりつく。 熱いシャワーを浴びて、簡単な夕食をとり、さっさと眠りに就く。 留守セットしっぱなしの電話に、非通知で着信があるのを 知らずに眠る。 非通知は自動応答で、通知し直してからかけ直すように アナウンスが流れる。 この電話のベルは鳴らないで応答しているので、液晶画面を 見るまでは美香も気づかない。 夜九時頃に二回、着信が弾かれた。 あとでそれを美香が見ても、別段不思議とも思わなかった。 このくらいの時間に勧誘電話が来ることもあったからだ。 まだ、この時はそれから先に起こる事態を、美香は予測し得る こともなかった……。 次の日…火曜の夜には、その非通知の着信が、9時・10時・11時と 1時間おきに二回ずつあった。 水曜の夜になると、10時・11時・12時…深夜2時まで続き、 しかもほぼ30分おきに2回ずつかかってきていた。 合計で10回かかってきていることになる。 さすがにこれは不審だし、気味が悪い。 一体誰が、何の用事でこんな時間、繰り返しかけてくるのか…。 電話機が自動的に切断してくれるとはいえ、非通知の着信記録は しっかりと電話機に記録されている。 それが不快だった。いっそ、かかってきていることもわからずに できないものか……。 そうしたら、こんなにいやな気分を味わわずにいられるのに。 木曜の夜となると、それまでの非通知に加え、公衆電話からの 着信もあった。それも、公衆電話だけで10回も。 非通知で電話を受けてもらえないと知ると、今度はそういう手で くるつもりらしい。 美香の使っている電話機は、公衆電話からのイタズラ電話も防ぐ 機能もついている。 公衆電話からの着信は、まずかけてきた相手の自宅などの 電話番号の入力を促すアナウンスが流れる。 その番号が、電話帳に記録されていれば着信を許可し、繋がる。 相手が電話番号を入力しなかったり、入力してもその番号が 電話帳になかった場合、強制切断される。 美香の友達が以前イタズラ電話の被害を受けていて、この機種に 買い換えたらイタ電も止んで、安心できるようになったという。 でも、たとえ直接電話を取ることができなくても…… 見えない誰かが、なんらかの意志を持って美香に接近を試みて いるということだった。 それが、好意によるものか、そうではないのかがわからない。 ……一度非通知拒否と、公衆着信拒否を解除して、かかってくる 電話に出てみようかともちらっと思った。 でも、やっぱり気味が悪いし……怖い。 もしも悪意に満ちたものだったらと思うと、不安感で身体が 冷たく感じてしまうほど、すくんでいる。 まさか、黒澤からかかってきているってことは…… でもよくよく考えれば、黒澤はわざわざ非通知にしなくとも、 携帯の番号も、事務所の番号も美香に予め知らせている。 だとすると、やっぱり他の人間か…… これが、一週間続くようなら…… そして頻度がもっと増えたら、いよいよ黒澤に相談してみよう。 そう決心すると、美香は溜息をつきながら掃除を始める。 美香は、イライラするとほこりをやたら拭きたくなったりする癖がある。 髪が脇の下より長いので、ちょっと油断するとフローリングの床に 髪の毛がたくさん落ちているように見える。 実際はそれほど抜け毛が多いわけではなく、長いから余計に 目立つだけだった。 床を拭きながら、化粧道具を片づけていると、窓の際に置かれている ドレッサーの後ろになにか落ちているのを見つける。 見慣れない、白い取っ手つきの紙袋。 ああ……そうだ。これは、土曜に黒澤に渡されたものだった。 窓際に置いたつもりだったが、下に落ちてしまって、そのまま すっかり忘れていた。 だって、自分がはじめから持っていた手荷物ではなかったから。 渡される時に、忘れ物だと言っていたっけ…… ここに、もしもあのバイブでも入っていたら、あの男に叩き返して やる……! そう思ったものの、大きさと形状からいって、その心配はなさそうで 美香は少しほっとする。 紙袋の中に白い包みが入っている。 それを開けると、手のひらほどの大きさの四角い箱が出てきた。 そして、見慣れた黒い親指大の黒い箱…… シャネルの口紅のパッケージ。 まさか……、あのとき、胸とあそこに塗られたもの……? 小刻みにふるえる手で箱から口紅を出し、キャップを外す。 そこには、この前の色とは違う、サーモンピンクの未使用の 口紅が入っていた。 それじゃ、あの赤い方のものは、黒澤が持って行ったのか……? そしてもう片方、握りこぶしより少し小さいくらいの大きさの、 サイコロ状の箱を開けてみることにする。 プレゼント用の赤い小さなリボンがついている。 箱から出すと、さらに小さなハート型の白いプラスチックケースが 出てくる。 ケースの蓋を外すと、美香は仰天して、息を呑んだ。 そこには、いかにも高価そうな、ダイヤのネックレスが入っていた。 中央に、ハート型にカットされたピンクダイヤ。 大きさからいって、0・3カラットほどに見える。 そのまわりを、小さな白いパールが囲んでいる、可愛らしいデザインの 金のチェーンのネックレス。 見た目からして、おそらく10万単位にのぼる代物だろうと考えられる。 なぜ、こんなものを帰り際、ついでのように渡したの…? まだ二回しか会っていないのに、こんな高価そうなものをポンと くれるだなんて、どういうつもり? 黒澤という男のことが、考えるほどわからなくなっていく。 でも、ひとつだけはっきりとしていることがある。 こんなものを、理由もなく受け取る訳にはいかない…… こう考える美香の性格を知った上での行為だとは、彼女にも わかっている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |