シチュエーション
![]() ・・・彼は、自分がどのような状況に陥ったのか、まるで分からなかった。 地下道を歩いていた時、突然現れた何者かに薬らしきものを嗅がされ、 気を失ったのは確かなのだが、今は厚みのある敷物の上に仰向けになり、 両手両足それぞれに鎖がつながっていて、動きを封じられている。 石の壁に覆われた室内の灯りは蝋のみで、それも迷い込む風に揺られて、 今にも消えそうだ。自分の、いつの間にか一糸まとわぬ、 あられもないことになっている姿を見下ろしている人影は二つ。 いずれも彼の知る人物だった。知りすぎているほど。 二人は、彼が何故目覚めたのかを話しているようだった。 内の一人が口を開く。 「薬が切れてしまったようです。どうやら中途で目覚めるほど軽いとは 思うに至らず、申し訳ありません」 中年で、白髪混じりの小柄な男が一礼する。彼はこの国の臣でも実力、 地位ともに頂点にある男だ。現在の王の伯父にあたり、 その即位に関する内外の争乱で、人知れず敵の首を掻き斬り、自らも又、 多くの者を闇で手にかけたと聞く。その彼が礼を取る相手といえば、 城はおろか、国でも一人しかいない。 「構いません。嗅ぐ者にしてみれば、軽いに越したことはないのですから。 強いものでないと分かって、却って良かったぐらいです。 それより、この者ですけど」 通りの良い声とともに、その人の顔がこちらに向けられる。大きな緑色の瞳、 雪よりも白い肌に細い顎、赤い、形良い唇。背は女性達より頭半分は出ているが、 夜会のための服を着込んだ姿は、どのような貴婦人よりも華奢に見えた。 それでいて、その手で数知れぬほどの人を斬り捨ててきたことを、 国中が知っている。 事実、側の卿は彼女を「陛下」と呼んだ。 「三年前に近衛となった者です。父は先の第五十七領主で、彼は現領主の弟かと」 まさか卿のような人に自分のような端の者が、覚えられているとは 思いも寄らなかったので、確認のためか向けられた視線に「恐れながら、 その通りです」と即答してしまった。口にしてから、後のことを考えると 汗が引くのが分かったが、親が誰かも含めて覚えられているのでは、 虚偽を口にしたところで彼に有利になることは何もないのは明白だった。 「それだけ分かっているのなら、良いでしょう」 そう言って、彼を見やってくる。その緑の瞳の輝きに息が漏れた。 王家最後の人間として、戦場でその手を血に染め、王都でも辣腕をふるった女。 その怒りを買った者で涙を流さずに済んだ者はなく、ある臣などは 背いたことが発覚したその場で斬り捨てられ、斬った本人は返り血を浴びても 眉一つ動かさなかったと聞く。それでいて、この王はまだ、二十の半ばであった。 彼より年が二つも下なのである。 「後はどうとでもなるのだから」 その目を彼から話さずに、そう口にする。彼も又、その瞳から目をそらせずにいた。 そして少し、恐れを感じた。自分が全裸であることを思い出したのだ。 王がさして気にしない様子である分、余計に気まずい。 不意に、その口が笑みを浮かべた。 「その格好が恥ずかしいのかしら。服を着たい?」 尋ねられたのにどう答えるべきか悩んでいると、近寄ってきて膝をつき、 左の腕を掴まれた。・・・たちどころに、鼻先に柔らかな線を描く体と、 えもしれぬ芳香とがあり、彼を刺激する。何より、手袋をはめているとはいえ、 側に近寄ることもかなわなかった人に手首を握られるのは、 目眩さえ引き起こしかねない。 「答えなさい。沈黙を許した覚えはない」 微笑みはそのままに、何度も腕を撫で下ろしてくる。絹と思われる肌触りに、 更に目眩が起きかねなかった。 しかし今は、答えを口にする方が先だった。 「私はこの国と、陛下に仕える身です。・・・陛下が望まれる姿になっていることを、 どうして恥じましょうか」 「躾通りの言葉はいい」 唐突に、腕を恐ろしい力で締めつけられた。女性のものとも思えぬそれに、 体が自然と震え出す。 「嘘でしょう」 「虚偽でありましょうな」 卿が答えたことで、口の笑みが更に広がっている。腕が赤黒く染まるのでは、 そう思ったとき、耐えきれずに彼は口を開いた。 「恥、・・・ずかしい、です」 途端、呆気なく腕が解放された。腕が落ち、鎖が一つ、大きく鳴る。 思わず息を吐くと同時に、自分の息が荒いことに気付く。普段は滅多に 荒くならないのに。 その顔を王が見下ろしている。 「そうね、気付いているかしら。お前、卿からでも分かるぐらい、 顔が赤くなっているのよ。ねえ?」 卿が頷くのを見ると、満足そうに頬に手が伸びてきた。それで更に 顔が赤くなるのを感じる。先ほどまで腕を締めつけていたのが 信じられないぐらい、指先から受ける力は繊細なまでに弱い。 「精悍な顔ね。荒々しい、怒ったときが絵になるような」 頬をさすられながら言われたことが、誉められているのか、よく分からなかった。 彼の顔は整っているとは思っていない。四角い顔に大きな各所が乗っているような顔で、 誉められたのは親からで、それも少年の頃の出来物の跡が残らなかったことぐらいだ。 今まで誉められたことなど一度もない。それを。 「でも、さっきの顔がもっと絵になるでしょうよ。何かを耐えるときのお前」 指が、頬から離れた。首を伝い、胸元へと続く。 「そして、この体。岩みたい」 すべてが信じがたい。柔らかい布越しに、王の指が胸部を伝う。体がひくつく。 しかし、更に衝撃が襲った。二本の指が離れたかと思うと、あらぬところを挟み、 ゆっくりとさすり上げたのだ。 「・・・!!・・・」 そうと気付いたときには遅く、声を挙げることもできなかった。彼の体は 大きく跳ね、瞬時にすべてを解き放った。己を抑えることもままならなかった。 震える体を必死におさめようとする、自分の息の音だけが聞こえる。 恐る恐る目を上げると、王は瞬きを二、三、するのみであった。 すると卿がどこからともなく手巾を取りだし、「陛下」と王に手渡すのが見えた。 受け取ったそれで己の腕や肩を拭いた王は、 「どうしたのかしら、彼は」 とつぶやいた。「恐れながら」と卿が答える。 「彼には刺激が強すぎたのかと」 「というと」 「はい。彼のような近衛は特にでありますが、己で慰めることは 禁じられております。それでも、普通は人の目を盗むなり、娼館に通うなりして ある程度の楽しみを覚えるものでしょうが」 「彼はそれすら己に許さぬまま、私に触れられてしまったと」 「はい」 「そうね。こんなに大きな体では、娼館に行けば目立ってしまうでしょうし」 そう言って、自身の手袋に目を落とす。それも又、水滴が滴っていた。 その目が彼に注がれたかと思うと、舌先がわずかに出て、その水滴を舐め取った。 今、起こった衝撃も冷めやらぬ内に、その仕草で再び何かを覚える。 そして手が又、彼の頭に触れた。 「それに、こんなに綺麗な髪ではね」 少し伸びてきたそれを手に取られる。髪や瞳の色は焦げたような茶色で、 面白味も何もない、と思っていた。王はそれを何度も何度も撫でた。 指の感触が心地よい。 夢のようだ、と思った。 卿の推測は当たっていた。幼い頃に受けた、母や乳母からの親しみある抱擁以外で、 彼は一度も女性に触れたことがない。本来ならば成人した折りに家族の誰かが 娼館へ連れていくものだそうだが、彼の亡父は厳格な人で、息子たちに そこへ行かせることばかりか、男女で行う舞踊すら、快楽の行為として固く禁じた。 当然ながら十代に母と結婚した父や、父の後を継いで領主となった折りに 妻をめとった兄とは違い、彼は三十も近い今日に至っても、浮いた話の一つすらない。 それは父の教えを、彼ももっともだと思って生きてきたためであり、又。 王の体が目の前にあった。ふと、目前にある曲線の正体が何であるかに気付き、 目をそらす。腕を掴まれた箇所が、ジワジワと痛み出す。しかしその痛みに何か、 堪えきれぬものではなく、むしろ、締めつけから解放されたのを感じる心地良さもあった。 髪が握られる音がした。 「綺麗な髪は、かき乱してやりたくなるのよ」 むしられこそしないが、そうされる可能性はいつでも感じていたし、 この人からならそうされてもいい、と思えた。 けれどむしられなどされず、一つ、問われただけだった。 「ところで卿を下がらせた方がいいかしら」 言われて初めて、卿が最初から彼を見ているのに思い至って、 一気に肝が冷えた。本来ならば、王から受けた行為を理性的に受け止めるべきものを、 恥ずべき反応を示してしまったのかもしれない。 王は、卿へ向けた彼の表情に気付いたのか、両者を交互に見やり、 彼に笑いかけた。 「気にすることはないから。卿が気にするのは私が愚かな傷を負わないか、 それだけ。後はお前が何度果てようと、私が散々お前に蹂躙されようと、 卿は何ら気にしない」 言葉の意味がはっきり分かったとき、自分がこれからどうなるのか具体的に 分かって、血の気まで引いた。 だから、彼が大きく首を横に振ったところで、誰が責められようか。 「恐れ多いです、私のような者が今日のような方について何かを願うなど」 頬に、手の甲が触れた。それで数度、軽く叩かれる。 「お前ぐらいの者の本音など、私たちにはいくらでも見破れるのだからね。 もう一つ言っておくけれど、卿は私がいつ、どんな危険にさらされるか、 いつもいつも不安で仕方がないから、こんな所まで来ているの。娘同然の女の 秘事など見て、何が楽しいかは分からないけど」 「楽しいなどと申し上げた覚えはございません。いつも、これが最後であって欲しいと 申し上げているはずですが」 「そうでしょうね。さて、どうしましょうか」 頬から離れた手が、腹へと移る。「う」と短くうめいた彼を見て、 声を挙げて笑った。 「もうやめましょうか。それとも続けましょうか」 その手がもたらすものは拷問に近いのに、わずかな間でもその動きを緩めずに、 彼に尋ねてくる。へそ周りと脇が特に弱い自分を、彼は否が応にでも知らされた。 ただ、首を振ることもできない。 しばらくして、「そうだ」と、空いた方の手が彼の前に差し出された。 「外しなさい。上手くできれば、鎖のどれかを外します」 手袋は、はめるだけの簡素なもので、本来ならば簡単に外れるものだった。 しかし、今の彼は神経を高ぶらされている上、手足の自由が効かない。 どうにか思案を巡らせた末、鎖の許す限り頭を起こし、手袋に唇を挟むことが出来た。 破れないように、又王の手を噛むことがないように、祈りながら引くと、 ほんのわずかながら弛みが出来た。 更に身を起こして、甲の側にも口をつけ、同様のことを行おうとしたとき、 軽く手が動き、彼の顔が払われた。 「挟んだ」 たった一言、そう口にして、元通りに手が同じ位置に置かれたが、 彼の顔から再び血を引かせるには十分だった。頭をもう一度持ち上げ、 今度は慎重に唇を挟む。王は何も言わなかった。 時折、頭を床に寝かせて休みながらも、わずかずつだが引いていった。 背は汗ばみ、息は荒い。その間、王は彼がまた肌を挟みそうになって、 顔を払ってきたとき以外、指一つ微動だにしなかった。 やがて、三分の一ほどめくれたとき、少し、指先に隙間が出来ているのを見た。 ためらう余裕などなく、思い切ってその隙間を唇の先に挟む。唇から、 血が出そうなまでに痛みを覚えたが、それでも離すまいと、渾身の力を持って引いた。 一度動くと、後はこれまでの苦労が嘘のように、手袋はあっさりと抜けた。 最後に、手袋の口の方を顎で挟み、もう一度引くことで、 不格好に縮んでいた箇所が直ったのを確認して、ようやく崩れ落ちた。 その口から、王は手袋を取り上げた。その指は武器を持つ者のそれで、 細くはないが長く、そして手袋の布地よりもなめらかに見えた。その指が、 今度は直接、彼の頬に軽く触れた。熱いその先に触れられたとき、 無意識のうちに頭を起こし、指と手の平に口づけた。我に返り、 今度は強く払われるのを覚悟したが、王は彼を払うことなく、今度は手の平で頬を撫でた。 呆気に取られる間もなかった。身をかがんできた次に、耳朶を軽く噛まれた。 全身の肌が逆立ったかのようだった。生温かく、柔らかな物体が、 耳の奥に入ってくるのを受け止めている耳は、今まで、無造作に洗うとき以外は 何とも思っていなかった存在から、全く別の器官に変わったかのようだ。 更には、通常ならば結わえられている金色の髪が流れるまま、彼の体にかかり、 頭のどこかが呼吸音を大きく聞きつけている。 そこへ、手が胸の上に置かれた。耳の中を下が這い回ると同時に、胸の上を手が撫でていく。 どちらも彼がどうすれば耐えられなくなるかを測っていた。確実に彼の弱い箇所は探り当てられていき、 出来ることといえば先ほどの失態を繰り返さないために歯を食いしばることだけだった。 しかし円を描くようだった指先が何もしてこなかった胸の先に触れ、強くつままれたとき、 「は・・・!」 と、体中に痺れが走った。それは一瞬で去ったが、息を肩でしてしまっていた。 よく見えないがまだ、我を忘れるに至ったのではないようだった。 かなり、そこへ近いところまで迫ったが。 王はまた、胸をさすり上げていたが、もう一度耳たぶを、今度は強く噛むと、離した。 「卿」 「はい」 返事が側から聞こえたのに、彼は頭を動かすこともできず、固まった。 確かにそうやって人に近付く以上のことをしてきたのだろう、 足音もなく彼の右側まで来ていた卿は、跪くと、彼の右手を掴んだ。 取り出したのは小さな鍵で、それが金属の音を鳴らすとともに枷が外れ、 あっさりと落ちる。汗ばんだ手首に微かな空気の流れがあたった。 「では、陛下」 もう一つ、小さな瓶を取り出すと、こちらは王に手渡し、卿は何処ともなく部屋を辞した。 ただし消える前、もう一度彼の右手を、全身に走るほどの痛みをもって掴むと、彼の耳元に、 「陛下の御身を傷つけること以外は、いかなる命にも従うように」 と囁いて。 卿が下がると、「さて」と王は微笑んだ。 「いい顔をしてきている。汗と熱で紅くなった顔と」 両手で、自由になった彼の右手を取る。 「大きな手ね。たくましい手。これで、自分に触れたことが無いのでしょう」 言葉の意味に気付いて、「ありません」と答えると、王は彼の右手を動かして、 彼に触れさせた。驚いて起きようとすると、左手の鎖がそれを制した。 それでも起きようとしながら、 「陛下、何を」 「今から教えます。左手はまだ動かせないから私がしますが、 ・・・これからは日に一度はなさい。一度だけですから、できるだけ長く。 では、まず上下に」 手の甲を抑えられて、外すことはかなわない。これまで厳しく己に 課してきた制約を破るのは、彼に葛藤を強いたが、どうにか動かした。 更に硬くなるのを己の手で感じるのは、なんとも奇妙な気分だったが、 先端を何かが掠めるのを感じて、その気分も飛んでしまった。王の手の平が、 彼のどこが窪み、どこが膨らんでいるかを調べているように動いている。 「く、う、う」 危うく我を忘れそうになるが、それに気付いたのか、王は自身と、 彼との手を離れさせた。汗が流れるのを感じる。熱はだんだんと引いていったが、 引ききる前に、また手が動き、触れられるのを感じた。また一定以上に高まってくると 手が離れる。これを何度も繰り返し、彼が王に命じられて己に触れ回っている間、 王の左手は彼を蹂躙した。 「何度も何度も止めなさい。本当に我慢できなくなったら、終わらせてもいいけれど、 ・・・そうね、何かほかの事を考えるのも手ね。何故、ここに来たの」 「ここ、とは」 「地下道以外の何があるというの。地下水路と間違えて、お前のいたところまで 迷い込めるはずが無い。持っていた中には、明らかに地下道が目当てで来たと 思われるものもあったし」 答えられないでいると、左手が激しく蠢いた。かと思うとまったく動かなくなるのを 交互に繰り返された末、「答えなさい」と言われながら首根をつかまれるままに、 彼は必死に頭を動かし、口を開いた。 「地下に、・・・亡霊が出る、と聞き、ああ、真相を、知りたいと」 「亡霊?どのような」 「じょ、女性と、聞きまして、それで、興味を、持ち、まして」 「興味だけで、お前のような人間が禁じられた場所まで来るとも思えないけれど」 「・・・も・・・もう、おやめ、下、さ、い」 「それだけ?」 「わ、わ、わた、た、あ、あ」 王は手を離した。面白そうに眺めていた表情を消し、息を弾ませている彼を、 ただ、見下ろす。彼は、長い間それを見つめ返していたが、やがて、観念して目を閉じた。 「・・・陛下に、似ているかと思ったのです。その亡霊が」 「私に似ている、というだけで、遭いたくなったと」 「はい」 「お前は私を怖がらないのね」 額に濡れた感触がしたので目を開けると、目の前に顔があった。 「理由は自分でも分かっているけれど、卿を除けば、私に少しでも怯えた目を 向けない者はいない。お前は緊張はしているけれど、痛い思いをしたとき以外は まったく怯えていない。どうしてかしら」 ××× 父の領で生まれ育った彼は、少しでも外を駆ければすぐに熱を出すほど、 病弱な幼少期を過ごした。 寝込んでいる間の楽しみといえば母や乳母の語る物語、兄が語る外での出来事、 そして父が持ち帰る、王都の話だった。父は厳格な人だったが、二人の息子が 子供だからといって、生々しい話を隠すようなことはしなかった。 「王女殿下が、家臣の首をはねてしまったよ」 「まあ・・・」 「元々、評判の悪い者でね、近々王から位を返上して、後進の者に譲るよう命が 下されるはずだったが、それを逆恨みして、事もあろうに殿下を背後から 斬り捨てようとなさったらしい」 「恐ろしい。殿下は、本当にその者の首をおはねになられたんですか」 「いや。でも、背後から斬りつけてきた奴の剣を奪い、ご自身の身を護られたらしい。 止めの一刀をくれてやったのも、殿下だそうだ」 「・・・ご果敢だったのですね」 「ああ。御年、十におなりだということだが、陛下も王太子殿下も、 どう思われたことやら」 話を聞いた母や兄は怯えているようだったし、父は渋面を作ったままだったが、 彼は、怖いとか気持ち悪いとか感じる前に、その王女への憧れと、 己の身の情けなさに挟まれることとなった。彼は十二で、ろくに邸宅の外へ 出られぬ身だった。それに比べて、十の王女は刀を操り、大の男を殺したという。 (どんなに大変だったことだろう) 父に、王女の肖像画をせがんでも、別に不審には思われなかった。 少々どころではなく変わっていても、王女は王女なのであって、 姿を見たいと思うものなのだろう、父もかつてはどこかの王女の肖像画を 欲した過去があったので息子のそうした要求も嬉しく思えた、 と、後で聞かされた。 国の王族の姿を知りたいという思いは民の誰もが抱いており、 肖像画は安価で流布されていたので、父は毎年、王女の肖像画と、 血生臭い話とを持ち帰った。王女はあらゆる所へ向かい、あらゆるものに交わることで、 あらゆる人間の血を流させた。彼も大きくなるにつれ、人を多く斬った者が より英雄とされるものではない、ということを理解していったが、 それでも悪辣な者と、腑抜けた者を踏みつけて回る王女への思いは弱まりはしなかった。 やがて、王女の周囲で次々と人が死んでいった。中には王女の実兄である 王太子が毒殺され、母である王妃はその死による嫌疑をかけられ、 悲観して自ら命を絶った。一連の死の最後となったのは、王妃の兄である卿が 黒幕として捕らえられた翌日のことで、罪を解かれた卿は、新王の前に膝を屈した。 ・・・王女が王の下へ出向いたとき、偶然、王が急な病で伏せられ、 そのまま身罷られた、というのが表向きの見解だった。形の有無に関わらぬ反論は、 瞬く間に封じられた。 その間、彼は変わりつつあった。少しでも王女の、いまや王となった人の下へ 向かいたい一身で、わずかずつだが体を鍛えていった。激しい剣術の訓練や、 馬での遠出に耐え、領の誰よりも強靭となっていったが、 それでも近衛に加わることを許されたのは、新王が即位した数年後、 ほんの二、三年前だった。式で王の剣が彼の肩に触れたのが、 二人の唯一の接触となるはずだった。 「地下に亡霊が出るらしいぞ」 そんな噂が仲間の中で流行ったのは、半年前のことだった。 「何の話だ」 「噂だよ。夜な夜な、庭に現れては男を引きずり込むらしい。美しい、女の亡霊だと」 「あれ、俺の聞いた話では、王族の亡霊だという話だが」 彼が問うと、仲間は次々と答えを返し、そのまま他愛の無い議論を始めてしまった。 加わる気になれなかった彼は、下らない、と言い捨てて、その話を忘れるつもりだった。 地下とは、数代前の王が造らせた、巨大な地下迷宮のことだった。 造らせた理由は、いまや内部構造とともに闇に葬られており、 危険なため入ることも禁じられていた。そこに亡霊が出るというのは、 いかにも似つかわしい話だった。 忘れようとして、だが、と彼は思った。もし、本当に亡霊か、 もしくは生者が迷宮に人間を引きずり込んでいるとしたら。 近衛といっても、王の御座とはかけ離れた箇所を回る日々だった。 かといって彼は気を抜くどころか、気を抜いている同僚に怒って喧嘩となり、 隊長に「少し肩の力を抜け」と注意されてばかりだったが、それでも、 王に近しいところにいるのに、逢えぬ現実を紛らわせる役には立たなかった。 迷宮の探索は、その苦しさを紛らわせてくれそうに思えた。 子供の冒険めいた行為だが、同年代の少年たちに混じって遊べなかったことが、 心のどこかで引っかかっていたのかもしれない。それにその亡霊が本当に王族で、 もしも王にどこかに通っている方ならば。 入るのを禁じられていたが、入り口は無数にあり、人目を盗んで入ることは容易かった。 数週間に一度訪れる丸一日休みの日と、就寝前の半刻に満たぬ時間が、 探索にあてられた。少し進んでは戻り、隠し持った巨大な紙に図を記すことを繰り返した。 亡霊の噂はそのうち消えたが、図はだんだんと広がり、亡霊に逢えぬまでも、 迷宮の図の完成という達成感は得られそうだった矢先、 現れた何者かに薬をかがされた彼は倒れ、そして。 ××× 話をしている間でも、彼はまだ許されていなかった。体は許しを欲して焦がれるほどなのに、 王は黙々と、短く、彼に己を慰めることを許しては、離した。 けれども彼が口を閉じると、すべてを止めてしまった。 「ここは、迷宮の最も奥深くにある」 上気した顔を自覚しながら見上げている彼を見つめ、淡々と語る。 「そして、王の寝所には最も近い場所だから、ここへの道を知るものはごく僅かで、 見つけるにはお前のように、地道に迷宮全体を探索する以外に無い。 ・・・五代前の王は、愛妾を逃がさないためにこの部屋に閉じ込めて、 迷宮を造らせた。寂しい話でしょう」 両手が頬に伸びた。 「造らねばならないほど、悲しいことがあったからですか」 「違う。こんなものを造らなくても、こうすればその愛妾もお前も縛られたのに」 更に返答することをする前に、唇を塞がれた。少し緩められた隙に舌で唇を舐められ、 角度を変えられて何度も吸われた唇の間から、舌が歯を割り込んで入ってくる。 その舌の動きは、耳の中に入ってきた時以上で、彼は己の舌を、 絡まれるままにされていた。手は頬から髪とうなじとへ移り、彼の頭をかき回す。 耐え切れなくなったところへ、足の間を何かが割って入った。 「!・・・ぅ、っ!」 声も呑まれるかのようだった。王の膝が直ちに彼を捕らえ、 翻弄するように動いているのだ。同時に口を強く塞がれた。 駄目だった。もう一度叫んだ筈だが、舌で嘗め尽くされていたので分からない。 ・・・気がついた時、足の間にはもう、何も無かったが、口は塞がれたままだった。 しかし彼は塞がれた口の中から、声を発そうとした。王が、喉の奥で笑った気がした。口が離れる前に、もう一度、唇で軽く、触れられた。 「どうしたの」 「服が、・・・服を、汚してしまったのでは」 「そうね。お前の体も汚してしまった。でも、構わないでしょう?」 少し休みましょう、といった口で、再び塞がれた。しかしそれは緩慢な動きで、 彼も同じ速さで絡ませられるものだった。ふと気付いて、彼も、 動かせる右手を王の頭に添えて、その体を支える。やっと気付いたことをからかうように、 指で軽く、うなじをつつかれた。 手の中の髪を、そうされているように指でさすってみると、心地よさそうに目を閉じた。 嬉しかった。 しばらくすると、口内を緩やかに動いていた舌が彼の舌に絡み、唇の向こうに 引き込もうとしてきた。その動きの真意に気付いて、目眩を覚えたが、 絡んでくる舌が強引に己の方へ引き込もうとせずに、一旦離れたり、 また絡まれてきたりを繰り返すので、思い切って従った。唇は薄く開いており、 通ろうとする舌を軽く挟んで、離した。 口内は彼のものよりも小さく、至るところで迎え入れられるように 舌に触れてきたが、その中を彼の舌がはい回るのは暴力とさえ思えて、 主にもう一つの舌と戯れる方を選んだ。しかしそれはそれで王の舌を痛ませないかと 不安に駆られながら、出来るだけ力を抜きながら舌の表面をはい回ったり、 側面をなぞり、裏側をつつく。それから他に手が思いつかなくなってきたのに困りながら、 ゆっくりと舌先同士を撫で合わせた。 その時、右手の中で何かが動いたように感じた。耳も何らかの声を聞き取っており、 知らず知らずの内にどこかを噛みでもしてしまったのではと、一度引いたが、 目の前の人は瞼を閉じて、何も訴えようとはしない。それどころか、 噛みつかれるように彼の唇を捕らえて、再び彼の中に舌を入り込ませてきた。 ようやく、彼にも先ほどの意味が分かって茫然となったが、今度の奔放な動きに対して 出来ることといえば、むしってしまいそうになるのを耐えつつ、 必死に髪にしがみつくことだけだった。 彼をかき回す唇と舌は、どこまで強くすれば己の、今にも溶けそうな柔らかさを 保てるかを知っているだろう上、今では彼の口内も隅々まで知ってしまっている。 どのような動きをするのか彼には予測がつかず、どうにかその内の二、三が どのようなものか、理解できただけだった。 それからは彼に選ばせる余裕など与えず、舌を引き込まれたが、 今度のそれは彼の舌を伸ばして細部に渡って丹念に触れるためのものだった。 触れてくる舌は互いの口内を行き来しながら彼の舌を翻弄し、唇はしぼませることで 舌を上下から撫でてきた。もはや彼が出来ることは、唇が重なったときに返すことだけだった。 やがて動きをゆるませながら唇が離れたとき、どちらからともなく溜め息が漏れた。 「・・・いいことを教えましょうか」 首筋に、溜め息混じりの声がかかってきた。王は彼の横で寝そべっていたのを、 身を起こし、彼の顔を見下ろすようにして座り直す。彼が右手を髪から背に移すと、 王は喉の奥でもう一度、声を漏らしてから、身につけていた服に手をかけた。 細部までは知らないが、女性が夜会に着る服といえば上下が一繋ぎになっており、 留め金が後方についている仕組みの筈だ。しかし目の前の服は繋ぎ目を 飾りなどで隠してあったらしい。前方の飾りに手をあて、ほんのわずかに 指を動かすと、あっさりと服が開いた。 上下も分かれていたらしいその服がはだけそうになるのところで、 ようやく彼は顔を背けようとしたが、見つめている両の目がある手前、 動かすこともままならない。幸い、王はそれ以上服を脱ごうとはしなかったが、 彼の右手にもたれように、やや体を横に傾けて、微笑んだ。 「左手を解放する鍵は、私のどこかに隠してあります。お前が探しなさい」 傾いた際、更に服がはだけて、彼は灯りからは影になった箇所に僅かな間、 目を奪われたが、そこにあったものに気付くと慌てて目を背けた。 王は服の下は、何も身につけていなかったのだ。 ・・・とはいっても足下では服の裾から白い下履きが覗いていたので、 下着を全く身につけていない訳ではないだろうが、上半身は服と、 先ほど片方を彼が外した手袋の他は、何も身につけていない。 ふと、卿が部屋を辞する際に言い残した言葉を思い出した。鍵がどのようなもので、 どこに隠されているかはまだ分からないが、探す過程で王の肌を傷つけることは あってはならない。卿の言葉が、もっと重い、深い傷の場合であることは分かっていたが、 彼はどんなに浅い傷でもつける気はなかった。 となると、慎重に探していくしかないが、服の上から押さえつけるように 調べるのは少し危険があるので、残された方法を試すしかない。 王の服に手をかけた。生地は薄く、指で弄ぶことでためらいをごまかしていたが、 いつまでもそうする訳にはいかない。口を開く前に息を三度、吐いた。 「御身に触れます、どうかお許しを」 目が伏せられると黙って肩に手が置かれ、身が寄せられたのを了承ととらえ、 手を差し入れていく。とはいえ最初から肌に触れるようなこともできず、 服の内側に手の平をすべらせていった。熱を吸った布地は彼の指を くるむように受け入れるが、留め具を除けば金属らしきものはない。 実を言うと先ほどからずっと服の内部を見まいと顔を背けているが、 目に入った光景には、肌に鍵のようなものをくくりつけているようには思えなかった。 では、腕の中か、背か。それとも更に他の箇所か。どれにせよ、 服を脱がさなければならないし、脱がす際に鍵が肌に引っかかるようなことが あってもならない。まず可能性は低いが、服を脱がさなくても調べられる背の方向へ、 服の上をすべらせる。すると手の甲に柔らかな感触がした。 服はそもそも体の線が浮き出るような作りなので、手の甲に体が触れるのは当然で、 そこに思い至らなかったことを恥じていると、さらついているのに一度触れると 離れそうにないその肌が、彼に動くことを命じているかのように揺れた。 王が自身の手で、彼のうなじを掴んだのだ、と理解したときには、 背けていた顔をこちらに向かされた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |