シチュエーション
![]() 「起きてー!桜花ちゃん起きてよー!!」 布団ごと私を叩く微妙な痛さと、ちょっとだけ怒りの篭った声。 私は全然働かない頭で、うん、ううん、と生返事だけを返します。ただの脊椎 反応かもしれません。 「起きて、ねー、ねーってばぁ!」 「はえ…」 べしべしべし、と叩く音がどんどん強くなって行く。いつもなら、この後は… 確か、布団を剥ぎ取って、のーてんちょっぷかだぶるちょっぷが… 「起きんかーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!!」 がすがすがすっ。 …布団を剥ぎ取って、まっはちょっぷが来ました。 「もうっ、明日は絶対早起きするって言うからチーズオムレツ作ったのに」 「ごめんなさい…」 痛む頭を押さえながら、私はさくらちゃんの作ったチーズオムレツを食べます。 トロトロで、とてもおいしいです。 「んーっ、おいしいです」 「そりゃどうも。でも桜花ちゃんの方が料理上手なんだからさ…たまには桜花ち ゃんの作った朝ごはんが食べてみたいよ」 うっ…と、私は言葉に詰まってしまいました。 私は、朝が弱いです。とてつもなく弱いです。ですから、2人暮らしの私とさ くらちゃんは家事を交代制でなく朝・晩制でやっています。言い訳になりますが、 私は会社で夜遅くなる事が多いので…結局、夜もさくらちゃんがやってくれる事 が多いのですが。 溜息をつきながらトーストにイチゴジャムを塗るさくらちゃん。私はキウイの ジャムを塗ります。ジャムはさくらちゃんの手作りで、このキウイのジャムは私 の大好物です。さくらちゃんは私の方が料理が上手だと言いますが…そんな事は ありません。 「でも、もう無くなるね。作ろうか、その内」 瓶を手に持って揺らしながら、さくらちゃんは言いました。そう言いながら、 少し頬が赤くなったような気がしました。 「あの、さ。次…バナナのジャム作りたいんだけど」 「え?それは美味しそうですね」 考えただけで、涎が出てしまいそうです。でも、さくらちゃんは慌てて訂正し ます。 「あ、違うの。友達にあげるの。友達がバナナ大好きだって言うから、あの、ジ ャム作れるって言ったら、くれくれって…だから…」 さくらちゃんが、真っ赤になってしまいました。 「でも、桜花ちゃんが食べたいなら家用にも作るし」 可愛いな、そんな事を思いました。 私は、2年程前に両親を事故で亡くしました。独りで途方に暮れていた私に、 一緒に住もう、と言ってくれたのが、さくらちゃんでした。 小さな頃からどんくさくて、身体が弱かった私は、いつもさくらちゃんに助け て貰っていました。私をからかったりする男の人にも、年下なのに食って掛かっ て私を庇っていてくれました。 私は、ずっとさくらちゃんと一緒にいました。 4つも年下なのに、さくらちゃんはしっかりしていて、よく私は自分が情けな くなりました。けれど、さくらちゃんの笑顔を見ているとそんな事がどうでもよ くなるくらいに元気になれました。 ずっと、一緒だと思っていました。 ずっと、2人でいれると思っていました。 「さて、と」 ごはんを食べ終わって、食器を片付けたさくらちゃんはエプロンを取って私の 方を向きました。 「じゃあ、私出掛けるよ。桜花ちゃんはどうするの?」 さくらちゃんは、2週間後に旅行に行きます。今日はお友達とその為の相談と 細々した物を買いに行くそうです。 「んー…どうしましょうね」 「出ないなら、私ごはんの材料買ってくるし」 「いえ、いいです。ゆっくりして来て下さい。夕ごはんも外で食べるんですよね? 私もそうしますし、ついでにお買い物もして来ます」 そう言うと、さくらちゃんは笑顔になりました。ありがと、と言って行ってし まいました。 私もさくらちゃんから15分程遅れて外出しました。 2人でお出掛けをするのも好きですけど、1人でのんびりとウインドウショッ ピングも楽しいです。 可愛いぬいぐるみとか、綺麗なアクセサリーとか、新しい対の食器とか、面白 そうなゲームとか…見たいものがたくさんあります。 そうそう、そういえば見たい映画もありましたよね… 無計画に出て来た事自体が面白くて、素敵な一日になると思っていました。 ―――この瞬間までは。 「ちょっと、アンタ!そこのアンタ!!アンタだよ!!」 後ろから、声を掛けられます。けれど、その呼び方では誰の事かはわかりませ ん。それに自慢ではありませんが、男性の親しい友達は私にはいません。ですか ら、関係無いと思い、そのまま歩きました。けれど。 「ちょっ…無視やめてよ!アンタだよ、ねぇってば!!」 「えっ!?」 いきなり肩を掴まれる。うう、周りの人がみんな注目しています。目立つのが とても苦手なので、物凄く居た堪れない気分になります。 私はその人の手を振り払って逃げようとしました。でも、その人の放った言葉 で私は動けなくなりました。 「逃げたら、泣くぞ!大の大人が転がって泣いてやるぞ!?」 「ええええっ?」 困ります。もっと恥ずかしいです。私は泣きそうになりながらその人を見まし た。 笑顔が、印象的な人でした。こういう事を言っては何ですけど、胡散臭いまで に爽やかに笑う人、という印象です。 「立ち話もなんだかさ、こうお茶でもどうかな。抹茶啜りつつヨモギ団子でも」 「渋い趣味してらっしゃいますね…」 年齢は…私より下でしょうか。きっと、さくらちゃんと同い年くらいでしょう。 大学生ですかね?もしかして私…誘われているのでしょうか?だとしたら、大変 です。私、この人と行く気はありません。全然ありません。断ろうにも、下手な 回答をしてしまうと本当に往来で泣かれるかもしれません。 その時でした。 「あ、悪い。逃げちゃやーよ」 男の人の携帯電話が鳴り、首を傾げながら出ます。出た瞬間、私にも聞こえる 程の大きな声が。 『アホかお前はーーーーーーーっっ!!』 女の人の、声です。 物凄く、怒ったような…朝、私が聞いたような声です。恋人でしょうか。男の 人は見る見る内に蒼褪めて行きます。 「すっ…ご、すいませんっ!俺が悪かったですっ!!あ、おっ、奢りますっ!! あ、勿論、2人分…え、あいつも来てない?あ、よかっ…良くないです!すいま せん!!すぐ行きますっ!!」 呆気に取られる私に、男の人は紙切れを突き付けます。 「これっ、俺の携帯の番号。気が向いたら掛けて!その内デートしよっ!!じゃ ねっ!!」 そう言うと、もと来た(と思います)道を全力で疾走して行きました。 私は1人でそこに残されて、立ち尽くすしかありませんでした。 「ただい…えふっ。桜花ちゃん、胃薬出して…」 青い顔をしたさくらちゃんが、帰って来ました。どうしたんでしょうか。 「はい、どうぞ。どうしたんですか?」 聞いてみると、食べ過ぎたそうです。さくらちゃん、少食なのにカレーを大盛 り、おまけにデザートを2つも食べてしまったとか。 「っ…水沢め…なんで豚骨ラーメンとチョコケーキ同時に食えるんだよ…」 「え?」 一瞬、物凄く恐ろしい事を聞いてしまったような気がして、聞き返してしまい ました。 「あ、いや、なんでもないよ。単なる独り言」 多分、さくらちゃんも思い出したくなかったんでしょう。私も忘れる事にしま した。 お風呂から上がると、いい匂いがしました。きっと、さくらちゃんがジャムを 作っているんでしょう。私も台所に足を運びます。 「んー…」 ク○キング○パを片手に、さくらちゃんは唸っています。そうです、さくらち ゃんはその本を読んで料理に興味を持ちました。 「ねぇ、桜花ちゃん。とうとうえっちゃんがまことに告白したよ…!」 「え、ホントですか!?」 私はあまりにびっくりして駆け寄ります。さくらちゃんからもいい匂いがしま した。楽しそうに話をするさくらちゃんの笑顔が、私は大好きです。 小さい頃から、よくこう思っていました。 『自分が男の人だったら、きっとさくらちゃんを好きになっていたのに』 可愛くて、ストレートで、料理上手で…着痩せするタイプですから、私以外に 知っている人はいないと思いますけど、胸が大きくて…うう、羨ましいです。私 は胸が無いですから… 「あ、やっば。焦げる焦げる!!」 本を私に渡すと、慌てて鍋の方に走りました。どうやら最悪の事態は免れたよ うです。出来立ての熱いジャムがとても美味しそうです。 「食べる?私は無理だけど」 おなかを擦りながら、さくらちゃんは尋ねます。勿論、食べます。私はパンを トースターに入れました。味見するのは、新作・バナナです。 「おーいしーい!」 「ホント?よかったぁ!」 あまり甘過ぎなくて、結構さっぱりしていて、本当に美味しいです。さくらち ゃんも嬉しそうですが…あれ? 「さくらちゃん、どうしたんですか?」 「え…え、あ?あ、別にっ、なーんでもないよぉ?」 少し動揺しながら、さくらちゃんは私から離れます。何故でしょうか、最近こ ういう事が多いような気がします。私に、必要以上な隠し方の隠し事をしている ような…(普通にしていればいいと思うのですが)なんだか、拒絶されているよ うな気がして、たまに胸が痛みます。 しつこくしたら、きっとさくらちゃんに嫌われてしまいます。私はあっさり引 き下がり、ごちそうさまをして台所を出ました。 ベッドの中で、ひとつの答えが頭に浮かびます。 …きっと、好きな人が出来たのだと思います。その人に、ジャムをプレゼント するのでしょう。それをきっかけに告白して、さくらちゃんはその人の恋人にな るんでしょう、きっと。 嬉しい筈なのに。大好きなさくらちゃんが好きな人と恋人同士になるのは、喜 ばしい事なのに。何故でしょう、胸が痛いのは。 私は、女の人が好き…所謂レズの人では無い、とは一応断言出来ます。好きに なったり、ポーっとなったりしたのは、いつも男の人でした。それに、さくらち ゃんを見て、そういう…身体の関係を持ちたいと思った事もありません。 「子供っぽい、独占欲…という事ですかね…」 私ももうすぐ四捨五入したら三十路、という年齢です。さくらちゃん離れをし た方がいい、というのはもう10年近く思っている事です。 こうなったら、私も好きな人を作った方がいいのでしょうか。でも、私には男 性の友人がいません。会社の人は…奥さんやお子さんのいる人が多いですし。 「あ」 がば、と起き上がって、バッグを探ります。そして目当ての物を見付けると、 机の上の携帯電話も取って、昼間の事を思い出します。 激しいまでのハイテンション、後先考えない引き止め方、胡散臭さ漂う爽やか な笑顔。悪い人では無さそうだ、と直感で思いました。 安直過ぎではないか、とは思います。けれど、出会いなんて自分から探しに行 かなければ巡り会えません。実を言うと、少しだけ気にはなっていました(会っ た事の無いタイプという事に間違いは無いので)。 私は勇気を出して、電話を掛けてみました。 呼び出し音が3度程鳴ってから、相手が出ました。 「あっ…あの…」 『はぁい、どなたですかぁ』 …アレ?と私は一瞬言葉に詰まります。電話に出たのは、とてもテンションの 低い、間延びした声の人でした。 「すっ、すいません、あの…」 『あ、俺違いますよぉ?シローさん、電話…』 『お前、勝手に取んなよ!』 …何やら、争うような音が聞こえます。そして『去ね!このメガネ!!』と叫 んだ後、走って、ばん、ばん、と乱暴に戸を開くような音がして、そして荒い息 遣いだけが聞こえて来ます。 「大丈夫ですか…あの、シローさん…」 『シロ…まぁいいや。あの、もしかして、今日の…』 嬉しそうな声。何故か、私も少しだけドキドキして来ました。はい、と返事を すると、更に興奮したような声が。とても素直な方のようです。 『え、でもマジで?軽く番号渡した俺に馬鹿じゃねーのって女子数人で電話掛け て後ろで笑ってるとかじゃねーよな?』 なんですか、そのネガティブ思考。 「違います。気が…向いたんです」 『マジっすか!?うっわ、すっげ嬉しい。俺30メートルくらい先からアンタの 事見て、来たっっ!!て思ったもん。運命?これが運命ってか!?って』 なんでしょう、この人は可愛いです。ストレートに思った事を言ってくれる感 じで、とても好感を持てます……って。 「30メートル!?」 『…そこ?反応そこなの?』 驚いた私の声に、戸惑ったようなシローさんの声。それから、笑い声。 『シローさん、キモいですよ』 『うるせぇ!黙れ!!帰れ!!!』 『ここ、俺の家ですよぉ』 うがーーーー!!と、また争うような声。シローさんをからかうような、間延 びした声。何かが落ちる音。笑い声(シローさんじゃない人の)。 楽しそうだな、と思いました。 『あ、あの、は、また、あの、電話…すっから。アンタ、自分の携帯から、掛け てるよね?…っじゃあ…あはははははははははははははっっ!!』 ぷつ。つー、つー、つー。 くすぐられたんでしょうか。断末魔のような笑い声がして、切れました。 楽しかった…のでしょうか。私は『シローさん』の番号を登録して、つい顔が 緩んでしまいました。 夜中にトイレに起きると、台所の灯りが付いていました。まだ起きているんで しょうか… 「で、お前飛び蹴られたの?馬鹿じゃねー!?」 明るい笑い声。覗いて見ると、机の上には綺麗にラッピングされたジャムの瓶 が。電話の相手は、さくらちゃんの好きな人でしょうか?私は、さっきのような 胸の痛みを感じなかった事に、ちょっと驚いてしまいました。 それから、シローさんとは何度も電話をしたり、メールの遣り取りをしました。 シローさんは面白い人です。 基本的にテンションが高い人だと思っていましたが、どうやら違うようでした。 友人の『ダイスケさん』という人がいない時は、落ち着いた声で、私の話を聞い たりしてくれました。シローさんの話も、たくさん聞きました。 困るのは、好きだ好きだと臆面も無く言って来る所でしたけど…どこが好きな のか、正直私には謎です。 「…ねぇ、さくらちゃん、私に魅力ってありますか?」 キウイのジャムを塗りながら、ある日不意に訊ねてみました。ぶほっ、と食べ ていたトーストを吹き出すさくらちゃん。 「桜花ちゃん、それ本気で言ってる?」 「本気です…あの、私、今とある人に好きだ好きだって言われているんですけど、 でも、会った事はあまり無くて…主に、あの、言ってしまえばメル友みたいな関 係なんですけど…」 もしょ、とトーストを口に運びます。さくらちゃんはじーっ、と私の顔を見て います。 「会った事は、一度でもあるんだよね?」 「はい。あります」 なるほどね、と納得したような顔。 「じゃあもういいじゃん。そいつ、桜花ちゃんの綺麗な顔と優しい性格とほわっ とした雰囲気のどれかに惹かれたんじゃないの?言っとくけど、桜花ちゃんって 魅力的なんてなもんじゃないんだからね。私が男で今と同じ生活なら、初日…い や、私が中2辺りで喰ってるよ、桜花ちゃんの事」 平然と言ってくれるさくらちゃん。嬉しいですけど…私だって、同じだと思い ますよ。きっとさくらちゃんが中学生くらいになってた辺りで、こう…まぁ、あ の頃は胸、ちっこかったですけど… 「ま、いずれにしろ桜花ちゃんが好きならいいんじゃない?嬉しいよ、やっと男 出来てくれて。あ、そうだ。今日遅くなるから…また旅行の件で」 「好き…なんでしょうか、好きというより…」 「いや、私に聞かないで」 ぺしょ、と突っ込まれてしまいました。 「えっと、バター、どこ行っちゃったんでしょうね…」 冷蔵庫を探りながら、首を傾げます。もしかして、使い切ってしまったのでし ょうか。 今日はせっかくですから、さくらちゃんの好きな鶏肉のクリーム煮とあさりご はんを作ろうと思っていたのですが… ピンポーン、とチャイムが鳴る音。慌てて玄関に向かうと、そこにはさくらち ゃんのお母さんが。 「あ、おばさん。お久しぶりです」 「お久しぶりね、桜花ちゃん。さくらはいないの?」 さくらちゃんは、旅行についてまたお友達と出掛けています。もうすぐ帰って 来ると思うのですが… 実を言うと、私はさくらちゃんのお母さんが…苦手です。私の事を気に入って くれているのは嬉しいのですが、何故かさくらちゃんの事は、あまり好きでは無 いみたいなんです。しかも、それを隠せばいいのに前面に押し出している所が… 苦手です。 お茶を出して、向かい合って座ると、おばさんは笑った。嫌味のある笑顔だ、 と失礼ながらいつも思います。 「偉いのね、ごはんの準備、いつも桜花ちゃんがしているんでしょう?全く、あ の子ったら桜花ちゃんと一緒に住むなんて、タダで家政婦を雇ったなんて勘違い しているんじゃないのかしら」 この人は、失礼な事をズケズケ言います。勿論、それはさくらちゃんと、自分 の旦那さん限定のお話です。私には優しいのですが、私は大好きなさくらちゃん を当然の様に貶すこの人と一緒に過ごす時間がとても嫌です。 「おばさん、それは誤解です。さくらちゃんとはいつも作業を分担しています。 寧ろ、私の方がさくらちゃんに負担を掛けているようなもので―――」 私が言っても、まともに取り合って貰えません。 「ああ、いいのよ、あんな子。どうせ何もしないんでしょう?あーあ、本当に桜 花ちゃんが私の子供だったら良かったのに」 …私、死んでも嫌です。そう思ったその時だった。 「いいじゃん、別に本当に親子って訳じゃないんだから」 笑いながら、そう言うさくらちゃんがいた。おばさんと話している時のさくら ちゃんの眼は、とても冷たいです。 さくらちゃんの言う通り、おばさんとさくらちゃんに血の繋がりはありません。 おばさんは後妻です。さくらちゃんは私に笑い掛けると、クレープの入った袋を 見せてくれました。 「ごはんの後食べよ。私も手伝うよ」 完全に、無視しています。おばさんがそこにいないかのように。その事に腹を 立てたのか、おばさんはさくらちゃんを睨みます。 「っ、貴方、帰って来たらただいまくらい言えないの!?昔から礼儀を知らない 子だったわよね。桜花ちゃんを見習いなさいよ、親戚の皆だって、いつも桜花ち ゃんと貴方を比べて、私はいつも恥ずかしい思いをしているのよ?」 捲くし立てるように喋りますが、さくらちゃんは涼しい顔をしています。私は、 嫌いです。この人の言葉の暴力が、どれだけさくらちゃんを傷付けているか、考 えもしないこの人が―――大嫌いです。 「おばさん、いい加減にして下さい」 泣いちゃ駄目。私が泣いちゃ、絶対駄目。震える声で、私はおばさんを睨んだ。 「お、桜花ちゃん…ごめんなさい。私ったら」 「ホント桜花ちゃんの前で年甲斐も無く喚いて、恥ずかしい思いをしてるよ、私」 …さくらちゃんは、自分が攻撃されたら軽く3、4倍にして返す人です。おば さんは血管を切らせそうになりながら、でも(何故か気に入っている私の手前) 我慢しながら、立ち上がります。 「帰るわ。あ、そうそう、これ、お見合いの写真なの。見ておいてね」 「桜花ちゃんいる?」 私に渡す前に、さくらちゃんが奪い取ります。あ、またですか。おばさんはよ く私にこの手の話を持って来ますが…私、まだその気はありません。私が返答に 困っていると、さくらちゃんはついっ、とおばさんに返し。 「迷惑だから持ってくるなって。桜花ちゃんを自己満足の道具に使わないでよね」 ストレート過ぎです、さくらちゃん… 「あっ」 おばさんの手が、さくらちゃんの――― ばしん、と派手な音がしました。おばさんが、さくらちゃんの頬を打ちました。 いった、と小声で呟きます。 「うっわ、怖ぁい。そんなんだから親父も浮気し放題なんだよね」 その瞬間、部屋の空気が固まりました。今度はおばさんが泣きそうです。先に 動いたのは、さくらちゃんでした。無言で部屋を出て、そのまま、外に――― 「え…」 外に、出て行ってしまいました。おばさんも眼を潤ませながら、私にごめんな さいね、と呟いて行ってしまいました。 私は、独りぼっちになってしまいました。 …どうして?どうしてこうなるんですか?私は溢れる涙を拭いもせず、立ち尽 くしました。さくらちゃんの為にごはんを作って、おいしく食べて、デザートを 食べれる筈だったのに。 「っ…?」 不意に、鳴り響く着信メロディ。さくらちゃんと、色違いの同じ機種。 「…はい」 相手は―――シローさん。 『やっほ、染井さん…もしかして、泣いてる?』 「っ―――」 見破られてしまいました。私は慌てて否定しますけど、シローさんは突っ込ん で来ます。 『泣いてるっしょ?ね、染井さんなんかあったんでしょ?』 「泣いてません…」 『染井さん、俺、今すぐ会いたいんだけど』 …いきなり、何を言い出すんでしょうか。 『家、どこ。今行く。行ってアンタを抱き締めて、そのまま一気にベッドまで…』 「いりませんっ!」 『まぁ、本気だけどさ。でも、俺が今必死こいて全力で走ってアンタを抱き締め て『俺がいるから大丈夫』って言えば、確実に俺に傾くっしょ!?』 「正直過ぎます…」 あまりの正直さに、私は床にへたり込んでしまいました。なんなんでしょう、 この人… 『そりゃ、正直にもなるよ。後悔したくないから』 「後悔って、どうして貴方が」 意味がわかりません。いつもならハイテンションのこの人も受け入れられます。 けれど、こういう時くらい――― 『する。今ここで染井さんが泣いてるの知ってて、何もしないなんて後から考え たら絶対に自分殴りたくなる!…間ぁ違い無い!!』 「っぶっ…!」 一瞬、心を動かされました。けれど、最後のモノマネで吹き出してしまいまし た。 …気が付けば、涙は引っ込んでいました。笑っていました。それも、全部…シ ローさんが電話をしてくれたから。 『なんか、元気出たな。よかった。でもゴメン、タイミング悪かったよね』 「いいえ、ありがとうございます。あの、シローさん」 今、会いたいと言ったら、この人はどう思うでしょうか。 これは、恋じゃないかもしれません。今、心細いからシローさんに寄り掛かっ てしまいたいだけかもしれません。でも、これはきっかけです。 今私はこの人に会いたいです。会って、本当に抱きしめて貰いたい、という願 望があります。それを直接言ったら、はしたない女だと思われるかもしれません。 でも、それでも。 「…会いたいです」 勇気を振り絞って、言いました。 『マジっすか!?』 「…マジっす」 言ってしまったら、本当に会いたくなりました。私はエプロンだけを取って、 慌てて家を出ました。場所は、近くの大きな公園です。バイクで来てくれるそう です。 そんなに待たずに、シローさんは…ええ!? 「ちょ、シローさん、ノーヘルは…」 普通に髪を靡かせながら、シローさんはバイクを止めて走って来ました。 「わっ…」 そのまま、私を勢い良く抱き締めます。 「ヘルメット被ってる暇なんかねぇよ!ていうかバイク俺のじゃねぇし、無断使 用だし、そもそも中免持ってねぇっつの!!」 私を力の限り抱き締めて、物凄ーくヤバそうな事を言ってくれます。 普段だったら、きっと引いています。怒って、注意してしまうかもしれません。 でも、今は…物凄く嬉しかったです。 「後で、持ち主に一緒に怒られような?」 「…断固、拒否します…」 冷たい身体。冷たい手。私は、今この人の事が好きです。ずっと、こうしてい たいです。 「染井さん…」 一旦、離れるシローさん。私の顔を見て、笑ってくれます。どうして、初めて 見た時胡散臭いなんて思ってしまったのでしょうか。こんなにも、安心出来る笑 顔なのに。私は、そっと眼を閉じます。すぐに、シローさんがキスをしてくれま した。 お恥ずかしい話ですが、ファーストキスです。 大好きです。シローさんの事、とても好きです。 「うわー、すっげ嬉しい」 子供みたいな笑顔になると、シローさんは座ろうか、とベンチの方へ行きまし た。私は座ってから、事の経緯を話しました。 「はぁ、なるほどねぇ。ひっでぇなぁ」 溜息をついて、そう言ってくれました。 「そういうのってさ、ほら、俺はドラマとかでしか聞いた事無いから、どう言っ ていいかわかんないけど…」 「いいんです。お話、聞いて貰っただけでほっとしました」 色々な事はぼかしてしまいましたけど、充分でした。こうやって、話を聞いて、 側にいてくれるだけで… 手を、繋ぎたいな。そう思ったその時でした。 「来たぞーーーーー!!」 泣きそうな顔になりながら、電話に出ます。そして、今にも泣きそうな、男の 人の声が。 「あ、ごめん。でもさ、緊急だったんだよ。な、マジで。いいじゃん。今度大輔 に言って、倫子ちゃんのぱんつ盗って来させるからさぁ」 『本当!?』 あ、納得したんですね。交渉は成立したみたいで、笑顔で電話を切りました。 「よかったぁ。あ、今の俺の兄貴ね。大輔のおかんにベタ惚れなんだよね」 「え?え…あ、そう、なんですか」 なんだか、聞いてはいけないような気がしたので、流しました。でも、シロー さんは小さく溜息をついて、なんだか寂しそうな顔になりました。 「…笑っちゃうんだわ。ガキの頃からずーっと、恥ずかしげも無く好きだ好きだ 言いやがって、すっげ恥ずかしかった。その内、ああいう風にストレートに感情 出すの、カッコ悪いって思うようになって、すっげ損ばっかしてた。周りにもス カした奴だって思われるようになったんだ」 その気持ちは、わかります。私も、似た所はありますから。 迷惑になるから。わがまま言うと、他人に嫌われちゃうから。 恥ずかしい、というよりも、人の評価を気にしてばかりいました。今も、それ は変わらないような気がします。だから、さくらちゃんが羨ましいです。ストレ ートに、思った事を言える、さくらちゃんが。 「抑えるのと、我慢するのと、意地張るのの区別が付かなくなってた俺に、大輔 が素直になる事の大切さ教えてくれたんだよ。そしたら楽になった。だから、今 の俺はこんなんになっちゃった」 おどけてみせるシローさん。確かに、さっきも…まぁ、多少ストレートにも程 がある気はしましたが… 「だから、染井さんにも素直になって欲しいしそろそろ本名教えろよ!!」 …優しさと、本音が出ましたね。実は私、自分の名前が嫌いなんです。ですか ら、せめてこの人には苗字で呼んで欲しいんですけども… 「もう少しだけ、苗字で呼んでいて下さい。良かったら、私も苗字で呼びますし」 そう言うと、シローさんは複雑な顔になります。どうしたんですか、と聞くと、 シローさんは溜息をつきました。 「あのさ、俺、シローって名前じゃねぇんだよ。孝一っていうんだけど」 「え!?」 いきなりのカミングアウトに、私は眼を見開きます。え、だって、ダイスケさ んが最初にシローさんって… 「それ、俺のあだ名。苗字は岸部。OK牧場?」 「…OK牧場…」 納得しました…だからシローさんなんですね。 「じゃあ、引き続きシローさんで…」 「なんで!?」 必要以上に驚くシローさん。いえ、私の中で定着してしまったからなんですけ ども。 「冗談です。ちゃんと普通に呼びますよ、岸部さん」 「…出来れば、名前がいいっす」 「はい、シローさん」 「っ…」 ぎり、と私の肩を掴んで泣きそうな顔をします。そんなに嫌なら、何故最初に 訂正しなかったんでしょうか。 「え?ああ、それはさ。間違ってるけど、いきなり指摘したら気分悪くなるかな って。ガキの頃からのあだ名だから今更いいかと思ったけど、でも染井さんには」 言って、シローさんの…孝一さんの顔が、赤くなります。そして、私の手を握 ります。 「どうしたんですか?」 「え、あ…いや、あの、綺麗だなって、思って」 小さい頃から、その手の事、よく言われました。そう言われて悪い気はしませ んが、ベタベタ触ったり、何度も同じように言われたり、嫌な眼でみたり、そん な必要無いのに、さくらちゃんと比べたりして、桜ちゃんを傷付けたり。正直、 もう嫌になっていました。 けど、この人から言われた言葉は、とても嬉しかったです。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |