シチュエーション
![]() …こんにちは。私、鳥居千佐子と申します。目下、拉致監禁中の藤乃原家の次 期当主です。説明臭いとはお思いでしょうが、大目に見て下さい。今、ちょっと 大変なんです。 只今、記念すべき17回目の脱走を試みているんです。 今まで16回、失敗してて、まだ懲りないかと思われているだろうけど、とこ ろがどっこい、私のしぶとさはそれこそゴキブリ並なのだ。絶対、家に帰るんだ から。お父さんの待ってる、家に。 …うまく騙して、1人になれたはいいけど…さて、どこから逃げよう。3階の トイレは…うーん、なんか、落ちたら怪我しそうだし、思い切って正面玄関から …というのももうやったし、ここはいっちょ、男用トイレから… うーん、うーん、と考えに考える。 だだっ広い屋敷の癖に、使用人の数はそんなに多くない。だから、逃げようと 思えば逃げれる筈なのに、いつも誰かに見付かってしまう。こうなったら、いっ その事――― 「…あれ、千佐子様、また悪巧みですか?」 後ろから、穏やかに穏やかでない事を言う声が掛かった。ちょっと、それ酷く ないか?私は抗議しようと思って、振り向いた。 「…伊藤」 のっけから酷い事を言う割には、善人みたいな印象。背が高くて、穏やかに微 笑む、鈴原と同い年くらいの、この家のお抱え料理人。 「光栄ですね、覚えていてくれたんですか」 まぁ、確かに一度挨拶されたくらいだったからな。でも、お前もその割には暴 言を吐くよな。 …正直、伊藤の事はあんまり忘れられないと思う。一応毎日こいつの作った料 理を食ってる訳だし、貧乏舌の私が言っても説得力は無いんだけど―――伊藤の 作るごはんは、すっげぇ美味しいから。あんまり娯楽が無いから、ごはんの時間 はちょっとした楽しみになってる。だから、伊藤の事、覚えてた。 「…まぁ、いいや。別に悪巧みなんかしてないよ。それじゃ」 せっかくのチャンスなのに、潰されて堪るか。私は早々に伊藤の元から立ち去 ろうとする。が、待ったを掛けられる。 「どこへ行くんですか?」 「どこでもいいだろ、お前に関係無い」 …なんだろか、ヤバイ。なんかヤバイ。逃げろ、この笑顔の前から逃げろ、と 頭の中でサイレンが鳴ってる。そんな事を思っている内に『失礼します』と伊藤 が腕を握る。まさか、まさか、まさか。 「千佐子様、捕獲しました」 やっぱり―――!!私は慌てて逃げようとするも、伊藤の力は案外強くて、私 は庭に繋がれているのに逃げ出そうとする犬(雑種)の如くになってしまう。 「残念でした。この屋敷の使用人は全員誠司様の命によって、1人でいて怪しい 素振りをしている千佐子様を発見したらすぐ捕獲し、部屋に戻し、報告するよう になっているんですよ」 げっっ!?誠司の野郎、なんつー事をしやがんだ。 「くっ…くそ!おま、お前、離せ!」 「はい、なんでしょう、何をお話しましょう」 「そういう意味じゃない!てか、お前わかって言って―――?」 ずるずると私を引っ張る。が、向かう先は私の部屋じゃない。階段を下りて、 1階まで来る。伊藤は食堂近くの、使用人の方々の休憩所みたいな所まで私を連 れて来て、座らせる。 「???」 伊藤はテーブルを挟んで向かい合う位置の椅子に座り、備え付けのポットから お茶を淹れて、私の前に置いた。ついでに、自分の分も。 「あ、ありがと…」 とりあえず、お茶のお礼。机の上には袋に入ったクッキーとかも置いてあった ので、軽いティータイムみたいな形になっている。まだ、お腹は膨れてるけど。 にこにこ笑ったまま私を見ている伊藤。なんだ?どういう事だ? 「…あの、どうして?」 「どうしてと言われましても、困ります」 しれっと言い放つこの男。侮れない。ちっ、と舌打ちして、私は睨む。 「だから、お前は私を捕獲したら、部屋に戻して誠司に報告しなきゃいけないん だろ?どうしてこんな所に連れて来てお茶を飲まなきゃいけないんだ」 「別に無理矢理飲めとは言っていません。飲みたくないなら飲まなくて結構です よ。でもこの玄米茶、美味しいですよ」 っ……こいつ、殺してぇ。人の言葉尻ばかり取ってはぐらかしやがって。 がた、と私は立ち上がる。私、完全に馬鹿にされてる。そりゃ、私は利巧かア ホかの二択なら完全に後者だ。けど、よく知りもしないこいつに馬鹿にされる言 われは無い。 「千佐子様?」 愛想がいい分、誠司より質が悪い。ただでさえこの家では神経尖ってるんだか ら、こんな奴の相手はしていられない。無視して、立ち去ろうとする。が。 「―――すいません」 いきなり、謝られた。振り向くと、伊藤は立って、こっちを向いていた。が、 笑顔なのがちょっと気に食わない。でも、謝られるとこっちも無碍には出来ない。 溜息を付いて、また座った。 「失礼しました。貴方に興味があったんですよ」 …それと、その言動には関係があるのか。 「…興味って」 ず、と玄米茶を啜る。あ、ホントに美味い。 「興味は興味ですよ。ほら、今時遺言がどうの血筋がどうのって、珍しいじゃな いですか。そんなの、一昔前の小説とか映画とかの世界だと思ってましたから」 …その点には、同意する。同じ事、私も思ったから。 「伊藤も読むの?そういうの」 「いいえ、一切。イメージだけで喋っています」 …こいつはよ。はぁ、と呆れて溜息をついてしまう。もしかして、単に誠司の 命令で逃げないように繋ぎ止めてるだけなんじゃないか?会話が投げ遣りにも程 がある。忙しいのにご苦労なこったな。 「…なぁ、伊藤、お前ホントは興味無いんだろ?無理して喋らなくても逃げない から、せめて黙っててくれないか?」 溜息をついて、伊藤から視線を外した。でもって、頭の中から完全に伊藤を排 除する。眼の前にいられる以上、完全には無理だけど、飽きてどっかに行くまで はやり過ごせるだろう。 …さて、こいついなくなったらどこから逃げよう。そんな事を考えながら、玄 米茶に手を伸ばす。ちびちび飲みながら、色々策を練る。 暫くすると、伊藤は立ち上がった。そろそろ行くか。早かったな、意外と。そ う思ったら。 「!?」 伊藤は私の隣に座って来た。驚いて伊藤を見ると、やっぱり笑っていた。 「あ、やっとこっち向いてくれましたね」 そう、のたまいやがった。てか、近い、近いから! 座っている位置が位置なので、逃げる事が出来ない。とりあえず壁に寄って、 出来るだけ伊藤から遠のいた。伊藤は苦笑して頭を掻いた。 「…手厳しいですね。でも、興味があるというのは嘘じゃないんですよ。本当に、 貴方とちゃんと話がしたかったんです。初めてだったんですよ、私の作った料理、 あんな山賊の頭みたいな食べ方する人」 …そんな理由かい。まぁ、アレは仕方なかったんだけど。 「…悪かったよ、折角綺麗に盛り付けてたのに、あんな食べ方して」 「いえ、いいんです。あれはちょっと一度見てみたかった食べ方でしたし」 いいもん見たなー、と言うような顔をする。こっちは複雑だよ。 「それに、滅茶苦茶でも普通でも、美味しくいただけてるというのがわかります からね。気付いてます?普段より食べてる時の方が、千佐子様可愛いんですよ」 ―――へ? 「え?え?どういう事?」 ごめん、言ってる言葉の意味が全然わからん。 「ですから、簡単に言うと普段は不機嫌なのに、食事時になると機嫌が良くなる って事です。初めて顔を会わせた時も、そうだったじゃないですか」 …それを思い出すと、真っ赤になってしまう。そうだ、確かに初めて伊藤の料 理を食べた時、あまりの美味しさに、それまで人を殺しそうな勢いだったのにも 関わらず『おいしー!』って言っちゃったし。そんで、叔父さんが喜んでシェフ を―――伊藤を呼んでしまったんだ。 「…嬉しかったんです。私の料理で、貴方を笑顔に出来る事が」 しっかりと、私の顔を見て、そしてやっぱり笑顔で、伊藤は言った。 …うわ。やだ、なんだこれ。私はそんな歯の浮くセリフをさらっと吐いた眼の 前の男に対して、何も言えなくなっていた。どうしよう、どうしよう、そんな事 急に言われたって、私、何も言えない。馬鹿だ、どうしようもない馬鹿だこいつ。 いや、私もか。 「…そんな事、言われて、どうしろっていうんだよ…」 たっぷり間を取って、結局言えたのは、そんな事だった。顔が熱い。馬鹿、私 の馬鹿。こいつの今までの言動見て来て、なんでこんな言葉で動揺してるんだ。 「どうしろと言われましても、困ります。私は思った事を言っただけですから」 相変わらずの、余裕の笑顔。どうしよう、こいつ殴りたい。はぁ、と溜息。 「千佐子様、好きな食べ物ってあります?死ぬ前にこれが食べたい、という物」 …割と唐突に縁起でもない事を言うな。 うーん、うーん、と唸る。ホントは、言われた瞬間にぽーん、と浮かんだんだ けどね。後は、確認と言うか、他に浮かべて、やっぱりこれだと駄目押しをする 作業みたいな感じ。 「ハンバーグ。付け合せはニンジンとブロッコリーで、上に目玉焼き乗ってるの」 貧乏舌の上に子供舌。次点でエビグラタン、次がラーメン(塩)だ。 その件に関しては何もツッコミを入れず、わかりました、と頷いた。なんだ? 誕生日にでも作ってくれるのか?まぁ、誕生日までここにいないけど。 「さて…と」 そろそろお時間です、みたいに立ち上がる。気が付けば、結構な時間が経って いた。 「私はそろそろ戻りますけど…どうします?」 自分のカップを持ち、やはり空になった私のカップを見る。お願いします、と 渡した。伊藤は、じっと私を見る。 「…楽しかったです。暇な時は大抵ここにいますから、千佐子様も気が向いたら いらっしゃって下さい。たまにケーキとかありますよ」 「ホント!?」 ケーキ、という3文字に食いつく食いつく。伊藤はそれ見た事かと笑って、去 って行った。ちょっと、恥ずかしくなった。 変な奴に絡まれたなぁ、と思い、椅子にもたれかかる。 『…嬉しかったんです。私の料理で、貴方を笑顔に出来る事が』 なんか、背中が痒くなる。馬鹿みたい、なんでそんな事さらっと言えるんだか。 いや、確かに、ホントに美味しいんだけどさ。 ぶんぶん頭を振って、伊藤の事を忘れようとする。馬鹿馬鹿、あんなんに構っ てる余裕なんか、無いんだ。でも… 「…夕飯くらいは、食べるか…」 本日何度目になるかわからない溜息をついて、部屋に戻ろうとした。 ら。 「あだぁあっ!?」 階段を上がってさぁもうすぐ部屋だ、という所で、いきなりチョップを喰らっ た。相手はなんと…浩司!? 「お前、あ、えーと…ちょっとこっち来い!」 「え!?え!?」 今度はお前か!?私はまた引っ張られるがままに連れられて行く。行った先は …浩司の、部屋。ていうか、浩司の手、熱い。こいつ、さっきまで寝込んでたく せに、なにうろうろしてやがんだ? 「ちょっ…浩司…」 強引に私を部屋に入れて、戸を閉めて、鍵を掛ける。 浩司は私を睨み付けて、びしぃっ!と指を指した。 「お前、また脱走しようとしたろ」 わーお、バレバーレ。ていうか、チクったか、早速。まぁ、誠司じゃないだけ マシだけど。 「…うるせー、タコ。お前に関係ないじゃん」 ぷい、とそっぽを向く。が、2度目のチョップが来る。痛い。 「馬鹿、お前もう忘れたのか?誠司の奴、次やったら地下牢放り込むって言った じゃんか。あそこ、暗いし狭いし怖いし寒いんだぞ?風邪引くぞ?」 …チョップをキックで返しつつ、ふと、その言い方は心配してくれているのか と感じてしまう。が、それよりも。 「お前、入れられた事、あんの?」 だろうな、だろうなと思いつつ、聞いてみる。浩司はふんぞり返って。 「お前、俺を誰だと思ってやがる」 「どうしたって誠司の兄には見えない馬鹿」 …顔も性格も子供っぽいし、身長も誠司より低いし。が、すぱっと言ってやっ たらがくーん、と崩れ落ちた。まぁ、わかってるんだろうけど。 「…ほれ浩司、悪かったよ、心配もしてくれたんだろ?だから…」 言葉が、止まってしまう。浩司に触ったら、さっきより熱かった。息も荒い。 …この、馬鹿… 「熱あるくせに、歩き回るなよ…」 よっこいしょぉお!!と倒れた浩司を担ぎ上げ、必死になってベッドに寝かせ る。そこらに置いてあった熱を冷ます効果のあるシートをぺったし貼り付けて、 一息つく。ああああ、重かった。 ふかふかした絨毯の上で座り込む。ふと、近くになんか…DVDが落ちていた。 拾ってみると、それは――― 「……」 『美人教師・由愛子の淫乱性教育―戦慄の生徒17人レイプ・レイプ・レイプ―』 …やたら長いタイトルを見て、死に掛けの浩司を見て、とりあえず見なかった 事にしておいてやる。机の上にそれを置いて、ぐったり浩司を見る。 「鈴原、呼ぶ?」 声を掛けると、首を横に振った。まぁ、一応報告はしておくか。 「なんか、いる?」 首を、横に振る。こちらに視線を向けると、口の端だけで笑った。 浩司は、本当に身体が弱いみたいだ。それは、正直同情する。けど、私が浩司 にしてやれる事なんか、なんも無い。あったとしても、わざわざしてやる義務も 無い。 「…私、行くよ」 とりあえず、寝てるのが一番かと思って、早々に退散する事に。浩司のちっち ゃい『もう脱走するなよ』は、聞こえないフリをした。 夕ごはんには、浩司来れないだろうなぁ、と思っていた。が、なんと今日は全 員いなかった。びっくりした。 今までも、色々な理由があって誰かが欠けてた事ってあったけど…全員っての は初めてだ。しかし、1人で食べるビーフシチューも美味い。寧ろうざったい人 間がいないから美味しさもひとしおだ。早々に食べ終わって食堂を出ると――― 「…ナンデスカ」 「どうしたんですか?」 普段、付いて来るんだったら不二子ちゃんなんだけど、なんでか、今日に限っ ては… 「お前、仕事はどうした」 「いえ、浩司様の立ってのお願いで。今日は手薄になるから、見張っておけと」 …あんのクソ野郎…変な所だけ頭回りやがって… 「逃げないから安心して」 「あ、私は千佐子様を信用してませんから」 やっぱりさらりと言ってくれる。あああ、こいつ踏ん付けたい。 「…あのさ、じゃあせめて不二子ちゃんにしてくれ」 「駄目です。浩司様の命令ですし、峰さんじゃあ千佐子様を止めようとしても殴 る蹴るの暴行を受けて意識不明の重体なんて事になりかねませんし」 「なるか!!」 こうなったら無視し続けてやる。のしのし歩き、部屋に向かう。その途中であ くびをしながら歩く鈴原と遭遇した。 「よぉ、これから2人仲良くちょめちょめタイムか?」 「お前、相変わらず前立腺だけで物事考えるな」 つーん、と無視してやると、今度は伊藤に絡み始めた。 「いとっち、俺も混ぜて、俺入れるんならどっちでもいいよぉ」 「鈴原先生、私はしてる最中に他の男がいると萎えるタイプなんでちょっと…」 おーい伊藤、お前もそっち側の人間かーい。 「…頭痛い」 こいつら単品でも疲れるのに、一緒にいられると倍率ドンだ。一刻も早く離れ ようとする。が、不意にある事に気付く。 べたべた触ってる鈴原。それでもにこにこ笑ってる伊藤。なんか、変な違和感 を感じる。なんだろ?何が不思議なんだろ? じーっと2人を見る私を不審に思ったのか、伊藤が、ん?という顔をする。 「…どうかなさいました?千佐子様」 「なに、昨今の婦女子は男同士の絡みが好きって聞くけど、お前も?」 「違うわ…あー、もういい。お前ら好きなだけべたべたしてろ。私、部屋に戻る」 もう、付きあってられるか。馬鹿の事はほっといて、立ち去る。が。 「だから、お前付いて来るなって…」 「…仕方ないでしょう、命令です。今は千佐子様のプライベート<脱走させない 事なんですから」 私の3歩後ろを付いて来る、料理人の筈の男。医者は、振り向くと地面にオネ エ座りをしてハンケチで涙を拭っている(フリをしている)。見るかどうかもわか らないのに、ボケるな。大方伊藤が突き飛ばしたのだろう。後。 …振り向かないと思ったのだろう。すぐに笑顔になったけど、伊藤は無表情、 どころかえらく不機嫌な表情をしていた。もしかして、鈴原の事…? 嫌だって言ったのに、伊藤は部屋の中にまで入って来た。一回締め出したのに、 合鍵まで使って。なんで持ってるのかと聞いたら、浩司がもしもの時の為に叔父 さんから預かって、それを渡されたそうで。 私がふてくされてベッドに転がると、そこらにあった椅子に座った。 「…いつ、出てくの」 「とりあえず、千佐子様が眠るまでですね。私もあまり暇でないもので」 しかし、一々腹の立つ男だ。 「…じゃあ、早く寝るから話してよ」 壁の方を向いて、呟く。 「お話、ですか?余計眠れなくなりませんか?」 「つまんない話聞いてると眠くなるから」 …あ、なんか空気がむっとした。ちょっと腹立ったな?くくく、と笑みが零れ てしまう。 「じゃあ、つまんない話でよければしますよ」 声の調子で行くと、なんとか自分の中で持ち直したみたいだ。 「…私、ついこの間までここを辞めようと思っていたんです」 「―――え」 予想外の言葉に、私はつい伊藤を見てしまった。伊藤の表情は―――やっぱり、 にこやかなものだった。 「実は私は、初めて出来た彼女がカナダの人でして、名前はトレアという人でし た」 ほほう、と完全に私は食い付いた。 「ちょうど―――そうですね、3、4年前ですか。ほら、あの両親が豚になる映 画が流行っていた頃ですね。出会いまして…実は私、名前を千尋といいまして。 彼女は私を『セン』と呼んでいました」 あーそれは安直なあだ名だな。私も一時期苗字のせいで黄薔薇さまと呼ばれた 事があった。どうでもいいけど。 「…彼女は、パティシエの修行の為、外国に行ってしまいました。本来なら、も う修行が終わってこの家で働かせてもらう筈だったんです」 そう言う伊藤千尋の顔が、少し悲しそうな笑顔になる。この屋敷に、そんな人、 いない。 「彼女は、修行中に他の男性と結婚してしまったんです」 ―――っ。 一瞬、息が詰まった。何も、言えなかった。 「私は、今は彼女が幸せならそれでいいと思っています。でも、最後に貰った葉 書には『さようなら、ごめんなさい。セン』と書かれていました」 足を組み替えて、笑う。 「私が後悔しているのは、彼女に罪悪感を感じさせたまま別れてしまった事なん です。実は、その事で大分彼女を―――トレアを責めてしまったんです。結局分 かり合えないまま、別れて、その手紙を最後に、もう連絡は取っていません」 …なんで、伊藤はそんな話を私にするんだろう。恋をした事の無い私だって、 信じていた恋人にそんな事をされたら、きっと同じ行動を取るかもしれないって 気持ちはわかる。それに、伊藤は、今も、もしかして。 「先日、どこかの県が新しく合併しようとした市の名前を『南セントレア市』に しようとしてたじゃないですか。私、彼女にした事を忘れない為にも、そこに永 住しようかと思っていたんですよ」 …が。 「…やめて、良かったよ」 まぁ、白紙になりそうだし、馬鹿馬鹿しいし、第一精神衛生上良くないと思う。 何故か、顔が見れなかった。私には、全然関係の無い事なのに。でも、伊藤は、 確実に今でも傷付いているんだ。なんで私に話したかはわからないけど、でも、 吐き出したかったんだ。自分独りじゃ、抱え切れなくなったから――― 「そう、ですよね。引越し、しないで…良かったんですよね」 「うん、そうだよ。私、行って欲しくない。ここにいろよ、お前の事、絶対に皆 必要な筈だって。きっと、行こうとしても行くなって、皆言うよ」 「まぁ、この話、嘘なんですけどね」 さらっと言う。なんだか、笑顔が晴れやかになったような気がした。 「ホント、お前の料理、今まで食べた中で一番美味しかった。それに、お前ハン バーグ作ってくれるんだろ?」 私は座ってる伊藤の側まで行って、肩を叩く。やっべ、泣きそうだ。馬鹿、伊 藤に気を使わせるな。 「…あれ、千佐子様、泣いてるんですか?」 速攻バレた。が、誤魔化す。力技は得意分野だ。 「泣いて、ない。馬鹿、なんでそんな―――わっ!?」 …ぎゅー、と抱き締められた。思いの外、強い力で。伊藤はぽんぽん、と私の 背中を叩く。なんで、私の方が慰められてるんだ? 「優しいんですね、千佐子様は。でも、落ち着いて聞いて下さいよ。さっき一回 言いましたよ?この話、嘘ですよって」 途中まで普通だったけど、もう後半は笑いを押さえ切れない、といった感じで、 身体を震わせた。 …えーと。 えーと、えーと、え―――と。 「う…そ?」 引き攣った声で、呟く。 「はい。真っ赤な嘘です。なんで愛知県に永住しなきゃいけないんですか」 抱き締めるのを止めて、指で私の涙を拭う。そして。 「すいません!すいません!!本気ですいません!!!」 「うるせー!!お前、ホント、マジでぶっ殺す!!」 いち早く察して、私の両腕を掴む。私は構わずに攻撃しようとする。 「っ…あ、あの、話、話をしましょう、ね、ね、千佐子様、俺も悪気は…ちょっ とだけあったけど、でも、そんな怒らんでも…」 余裕が無いせいか、言葉使いが悪く…ていうか、普通になってる。と、別の事 に気を取られたせいで、バランスを崩してしまう。伊藤も思いっきり抵抗してい たので、その反動で――― 「あだぁああっっ!?」 「うわああっ!?」 椅子ごと横倒しになって、倒れてしまう。ううう、背中も痛いし、前面も痛い。 なんで、私が身体のでかい伊藤の下敷きにならなあかんのか。 「だっ…大丈夫ですか!?」 「…痛いよぉ」 珍しく笑顔が消えて、今度こそ本当に心配そうな顔になる。潰されたようなも んだからなぁ。腰を擦りながら、起き上がる。 「すいません」 「うるさい」 痛みと、さっきの話のせいで完全に不機嫌になってしまう。気を使ってか、背 中とか擦ってくれるけど、気持ちいいけど、まだ腹は立っている。 「…もういい。お前帰れ」 立ち上がって、もう1回ベッドに向かう。お風呂は、ちょっとふて寝してから 入ろう。 そう思ってベッドに向かったが、それを止められる。なんだよ、と思って振り 向くと、全く読めない表情の伊藤がそこにいた。 「―――お詫び、という訳では無いのですが」 …なんだ?なんかしてくれんのか? ハンバーグ作ってくれるのかな、という馬鹿な期待をする。が、全く違う物だ った。伊藤は私に近寄り、そっと耳元で囁く。 「お父様に、会わせてあげましょうか?」 それを聞いた瞬間、耳を疑った。 「―――え?えっ…」 びっくりし過ぎて、左右確認をしてしまう。ていうか、え、本気? 「うっ…嘘、じゃ、ないよね?」 じわ、とまた涙が浮かんで来る。伊藤はぶっ倒れそうになる私を押さえて、ま た私を抱き締める。どうしよう、ここでまた『嘘です』と言われたら、刺してし まうかもしれない。が。 「明日の午後から私、ちょっといきなり私用で出掛けますから。ついでに千佐子 様も一緒に行きましょう」 …本当だった。でも。 「っ…でっ、でも、そんな事したら、あの、バレ、たら…」 何を言ってるんだろう。せっかくのチャンスなのに、なんで?それに、それに、 なんで、急にそんな事言い出すんだ? 「私は、千佐子様の味方ですよ」 そう言うと、もっと強く抱き締められた。 「え?で、でも、なんで?私、伊藤には、ずっと、やな態度しか…」 「貴方は、私の料理で笑ってくれましたし、嘘の話で泣いてくれました」 私の髪を梳いて、やっぱりさらりと嘘臭い事を言い放った。正直、納得出来な い。ていうか、唐突だ。展開、早いって。 「えっ…で、でも、だからって…」 いつまでもうじょうじょしてる私にむっとしたのか、伊藤は私から離れる。 とはいうものの、両肩に手を置いた状態で、もしかしたら叩かれるのかと思っ た。が、違った。伊藤はむっとした表情のまま、顔を近づけて――― 「……」 「…こういう事です」 頬に、キスして来た。びっくりした、口にされるかと思った。 抵抗しないのいい事に、伊藤はまた私を抱き締める。最初の時もそうだったけ ど、なんでか、そう…そんなに、嫌、じゃない。やだ、なんでだ、なんで? そりゃ、生まれて十数年彼氏の1人もおらんかった娘っ子が、性格はともかく そうそう悪くない、しかも大分年上の物件に告られたみたいな事になったら、ま ぁ、確かに… 「あ、あの、いっ、いと…」 「なんですか?」 こ奴は、既に普段通りになっている。こっちの心中も知らんと、にこにこ笑い おって。 「協力したいんですよ。千佐子様が悲しむ顔を見たくないですから」 そう言うと、今度こそ私から離れ、部屋を出ようとする。 「…明日の午後1時半、一階の休憩所まで来て下さいね」 そう言い残して、出て行った。 後に残された私は、どうする事も出来なくて…さっきキスされた頬を撫でた。 びっくり…した。いきなり、告られるなんて、思わなかった。まぁ、私自身、 あいつを好きかどうかの区別も付いてないんだけど… うわぁ、嫌だなぁ…こういうの… ―――翌日。 もしかしたら、狙っていたのだろうか。今日は朝から叔父さんは当然として、 誠司もいない。浩司はまだ臥せってる。鈴原も私用でいない。昨日の信用があっ たからか、伊藤はきつーく誠司に私を逃がさないよう頼まれてた。私も釘を刺さ れた。 …騙されてるとも、知らないで。 順調に逃げ出して、私は今、伊藤の運転する車の助手席に乗ってる。 …まぁ、ちょっと前まで、トランクに入ってたんだけどさ。 「…いつまで持つかな…あんな嘘」 「意外と大丈夫じゃないんですか?夕方に電話を入れて、夕食の時間まで騙して おいて欲しいと言って置けば…まぁ、最悪7時まで大丈夫ですよ。うっかり鍵も 持って来てしまいましたしね」 涼しい顔で腹黒い事をのたまう。ていうか、使用人も浩司も、信じるんだろう なぁ…今日1日部屋で大人しくしてればハンバーグ作ってくれるって条件を飲む、 というのは…あの食いっぷりから、私かなり意地汚い人間だと思われてるだろう し。 「…ありがとね、本当に感謝してる」 信号が赤になって、車が止まる。ものっ凄い後ろ見て尾行車とかいないか見て たから首が痛い。 「いいえ。あの、ところでひとつ質問いいですか?」 「ん?なに?」 「千佐子様の家、どこですか?」 ―――既に、走り始めて20分は経っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |