はじめての彼(仮)
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シチュエーション


あたしが好きな青山君は人の彼女を奪うのが好きだ。
ほとんどビョーキ。4年半見続けているので間違いない。
顔にそこそこ自信のあったあたしは、中学ン時に告白してあっさりフラれた。
その頃彼は、野球部のエースで4番だった男の子の彼女に猛アタックをかけていた。
ショートカットのおとなしいちっちゃい子。あんな子に負けるはずがないと、
あたしはさらっさらの髪を揺らしながら上目遣いの必殺ワザを繰り出したけれどあえなく撃沈。
藤野さんに僕はもったいないよと、にっこり笑って断る青山君。小首を傾げたまま固まるあたし。
それまでフルことはあってもフラれたことはなかった。あの時味わった屈辱は、いま思い出しても腹が立つ。

ちなみにショートカットのちっちゃい子は、エースで4番だった男の子と別れて青山君と付き合い出したけれど、
すぐに別れた。なんと、次のターゲットは新婚ほやほやの英語教師だった。
信じらンない。なんか修羅場になったみたい。噂がピークに達した頃、その女教師は転任させられた。
あんな、人のものを欲しがるガキなんてサイアクー、こっちから願い下げだッ。はいはい、つぎつぎー。

……とはいけなかった。一目惚れだったから。はじめて本気で好きになった男の子だったから。
いくら口汚く罵ってもあたしは彼を心底嫌いにはなれなかった。ちょっとでも付き合えた彼女達がうらやましかった。
虫も殺さぬやさしい顔で狙った女を確実に落として、泣かせて、ひどい奴。
でも不思議と恨む女の子はいなかった。あの仔犬のような目で困ったようにごめんと言われると、
胸がきゅーんとなって理不尽だと思いつつ、誰もが彼を許した。
さすがに彼女を取られた男子とは険悪になっていたけれど、いつまでも尾を引くようなことはなかった。

告白してフラれた次の日。青山君は何事もなかったかのようにふつーに話しかけてきた。
プライドずたずたのあたしはむっとして距離を置こうとしたけれど、3日で断念。
元来前向きなあたしは、気が付けば友達から恋人へというナイスな作戦を思い付く。
じわりじわりと敵の懐に入り込み信頼を得た頃にはあら不思議、かけがえのない大切な女に。これだッ!
青山君を追っかけて、あたしの頭ではむりと言われた高校も恋のパワーで見事合格。
涙ぐましい努力の甲斐あって、いまでは親しげに繭ちゃんと呼ばれて何でも話せる仲になれた。
あとは青山君があたしの存在の大きさに気付くのを待つばかり。
晴れて彼女になった暁には、薫〜と呼ぶ予定だ。

――待ちくたびれた。

あたし、このままだとおばあちゃんになっちゃうよ? 処女のまま死んじゃったりして。やだやだやだ。
やきもきするあたしをよそに、青山君は奪っては捨て奪っては捨てを繰り返していた。
なんでそんなに人のものを欲しがるのか、一度聞いたことがある。
長いまつげを伏せてしばし考え、心が動く瞬間を見るのがたまらない、と顔を上げてぽつり。
彼氏を裏切る葛藤で、揺れる瞳に少しずつ強い光りがともっていくのを見るのはぞくぞくするそうだ。
完全に気持ちがこっちに向いた時に見せる、共犯者めいた眼差しが最高らしい。
体中の血が沸騰する感覚が好きなんだよねー、と話す青山君はとても楽しそうだった。
続けて、でもなーだんだん重くなってきて疲れてくるんだよなー、というのを聞いてあたしは殴りたくなった。
はあ? なに勝手なこと言ってんの? 最後まで責任取りなさいよッ! ってむかついたけれど、
途方に暮れたような彼を見ていたら、なんだか可哀相になってきて救ってあげたい気持ちでいっぱいになってしまった。

青山君、あたしと付き合ったらそんなビョーキ直るよ、きっと。
そう言いたかったけれどぐっとこらえた。フリーの子がいくら言い寄ってもだめなのは、散々横で見てきた。
ほんとにぴくりともむくりとも関心を示さない。敵ながらあっぱれ。ある意味感心する。
どうやら、気が付けば友達から恋人へ作戦は失敗っぽい。無駄な時間を過ごしてしまった。

あーあ、ついにポリシー曲げてあの作戦の登場かー。はじめての彼は青山君って決めてたんだけどなー。
こうなったら仕方がない。もう手段を選んでる場合じゃないからね。あたしはやるよ。
郷に入っては郷に従えの精神で挑むそれは、題して寝取られ大作戦!!
敵はとことん狩猟民族だ。あたしは狩られるために彼氏を作る。
彼氏という名の撒き餌。当て馬ともいう。
ちらっと罪悪感がよぎったけれど、恋する乙女は残酷ってことで策を練る。

恋の障害物は大きければ大きいほど青山君はばかみたいに燃える。
こいつから奪いたいと思わせるような男子は誰だろうと考えて、ふと黒澤君の名前が浮かんだ。
いつだったか、いっこ下の子に告られた黒澤君がみんなのいる前でこっぴどくフッて泣かせたらしく、青山君怒ってたっけ。
女の子を泣かせちゃいけない。やさしくしないと、ってどの口が言ってんのよッ、って呆れたんだった。
普段めったに不快感を表したりしないのに、めずらしいなーと思ったのを覚えてる。
気に入らない男子からなら奪いがいもあるだろう。確かあのふたり、同じクラスだったな。
ライバルが近くにいるのもいいかもしんない。よしッ、決めた。
さみしい夏休みを過ごしたあたしは、決意も新たに明日から始まる2学期に備えて早めに寝ることにした。

***************

始業式が終わり、ぞろぞろと教室に戻る列の中に黒澤君を見つける。
ちょうど周りに人がいなくなった。チャーンス。ぱたぱたと近づいていく。
黒澤君の白い背中が目の前にある。うその告白とはいえ、青山君以来なんで緊張してきた。

繭子、ほんとにやるの? 自分の下衆い目的のために利用していいの?

さまよわせた視線の先に、笑っている青山君の姿が飛び込んでくる。
となりではバスケ部のキャプテンと付き合っている谷口さんが歩いていた。
身振り手振りを交えて話している青山君の肩を、ばんばん叩きながら谷口さんも笑っていた。
お馴染みのひりつきが胸のあたりを襲う。こんな痛いのもういやッ!
あたしはえいっと一歩踏み出して、黒澤君の横に並ぶ。
こっちを見てる気配がする。あたしは前を睨んだまま口を開いた。

「黒澤君、あたしと付き合わない?」

20秒待ったけれど、なんの反応も返ってこない。あれ? 聞こえなかったかな。
ちらっと横目で窺うと、じっと見下ろされていた。眼鏡越しの視線が鋭い。怖いんだけど……怒ってる?
だめだこれは。まあ、うすうすこうなるとは思ってたけどね。あたしは黒澤君のタイプじゃないだろうなー、と。
たぶん彼は、自分とよく似た頭のいい大人びた女の子が好きなんじゃないかな。勘だけど。
ふふん、こんなこともあろうかと、当て馬候補は他にも数人選んでおいた。ぬかりはない。
さて誰にしようかと考えを巡らせていると、いいよ、ととなりから低い声がした。
ええっ! 思わず大きな声を上げてしまったあたしを気にせず、黒澤君は続けた。

「今日、部活早く終わるから一緒に帰るか?」
「……(あうあうッ!?)。う、うん……じゃあ、あたし図書室で待ってる」

意外そうな顔をした黒澤君は、軽くうなずいて渡り廊下を左へ曲がっていった。
あたしは右に曲がって自分の教室へと向かう。なにいまの!? あたしが本を読むことのほうが告白より驚くことなのか。

……まあいい、とにかく彼氏を作ることには成功した。17年生きてきて、はじめてできた彼。
あくまで仮だけどね。カモフラージュの彼。

1時限目の休み時間。
教室で千明と夏休みのことを報告し合っていると、青山君がにやにやしながらやってきて言った。

「聞いたよ〜、繭ちゃん黒澤君と付き合うんだって〜?」
「なにそれ!? 繭子それほんと?」

あたしが青山君を好きなのを知ってる千明がびっくりした声で訊いてくる。

「あー(昼休みにゆっくり話そうと思ってたのに)、うー(聞くの早ッ。てか誰から!?)」
「ほんとほんと。俺、藤野と付き合うことになったからって、黒澤君に宣戦布告っぽく言われちゃった。
なんか僕と繭ちゃんの仲を疑ってるみたいだったよ? ただの仲のいい友達なのにね〜。
誤解は早く解いといたほうがいいよ〜。あ、やば遅れる。つぎ音楽なんだ。じゃ」

しどろもどろのあたしをさえぎって、千明の疑問に答えた青山君は言うだけ言って慌ただしく教室から出ていった。
ただの仲のいい友達発言にぐさりときながら、いつもより早口だったのは動揺してるせいだといいなと思った。
それにしても黒澤君、頼んでもいないのにいい仕事してくれる。

「はあ? 寝取られ大作戦!? ばかじゃないのあんた」
「しっ、声が大きい」

いまは昼休み。教室内はざわついている。
誰もこっちを注目していないのを確認してから、興奮すると口が悪くなる千明に言い返す。

「でもあたしが黒澤君と付き合うって知ったらすっ飛んで来たじゃん。
ロックオン状態になると音信不通になる青山君がだよ? 早くも作戦の効果ありッ!
もう谷口さんからあたしにターゲット移行してるかもよ? うわぁ、あたしついにロックオンされちゃうのかー」
「あんたはそれでいいかもしんないけど、道具にされる黒澤はいい迷惑だ。
わたし中学一緒だったから知ってるけど、あいつ性格きつい割りにモテてたよー。けど全然彼女作んないの。
いつも男とつるんでたからホモ疑惑があったくらい。なんだってまたこんなばか女を好きになるかな」
「好き? あはは、それはないって! 好きな子相手にあんな険しい顔普通しないと思う。
黒澤君もなんか事情があるんじゃないのォ。断り続けるのが単純に疲れたとか、それこそホモ疑惑を払拭するためとか。
あっ、もしかしたら……! 黒澤君は青山君のことが好きとか? うわぁ、なんかよくわかんないけどフクザツー」
「……あんたにはついていけない。まあ、方法間違ってると思うけど他の男に目を向けるのはいいんじゃないの。
目を覚ますいいきっかけになりそうだし、どうせ反対したってするんだろうし。わたしは応援するよ、黒澤を」
「えっ、そっち!?」

千明は高校に入ってできた友達だ。最初は嫌いだった。
青山君がまっ先に目を付けたのが彼女だったから。
はっきりした顔立ちの正統派美少女には他校に通う幼馴染の彼氏がいた。
いつになく張り切る青山君。けれど千明はまったく相手にしなかった。その鮮やかな撃退っぷりにあたしは惚れた。
話をしてみると、竹を割ったような性格で妙に気が合う。2年で同じクラスになり、ますます仲が良くなった。
あたし達3人の関係は、傍目には時々ケンカはするけれど仲のいい姉弟のように映っているらしい。
青山君ははじめて土をつけられた千明に頭が上がらず、いい加減人の心を弄ぶのはやめなさいよっ!
って叱られるたびに笑ってごまかしている。お姉ちゃん強し。あたしはさしずめ口答えばかりして言うこと聞かない妹か。

昼休み終了のチャイムが鳴った。
あたしばかだけど、千明がほんとに心配してくれてるのはよくわかってるよ。
席に戻る千明のまっすぐな背中に向かってつぶやく。本気で怒ってくれてありがたいよ。
でもまるで苦いものを飲み込んだような顔はちょっとなぁ。悲しくなる。
それにシワができちゃうよ? 凛々しい顔が台無し。
まあ見てて、今回は手ごたえあるんだ。笑って報告できると思う。あたし、幸せになるからッ!
ってまるで嫁いでいく娘のようだな、あたし。

「黒澤君てなに部?」
「将棋部」

訊いた瞬間しまったと思った。告白した相手の入っている部を知らないでどうする。
あせったけれど、黒澤君は別に気にしてないみたい。淡々としたものだ。熱いものがまるで感じられない。
やっぱり黒澤君には黒澤君の事情がある様子。深くは追求しないでおこう。
しょせん仮の彼だしあたしも訊かれたら困るしと、並んで歩きながらそう決めた。

図書室で待ち合わせをして、校門を出るまでの間に結構な数の生徒に目撃された。
びっくりした顔やうらやましそうな顔を眺めるのはちょっと面白かった。
正直、かわいい系が好きなあたしのタイプとは違うけど、ルックスのいい男の子と一緒にいて悪い気はしない。
青山君はあたしと同じくらいの身長だから、こんな風に見上げるのも新鮮だ。首疲れるけど。

「黒澤君、身長いくつ?」
「178センチ」
「視力は?」
「右0.2、左0.3」
「コンタクトにはしないの?」
「眼鏡が好きだから」

さっきから一問一答のような会話(?)が続いていた。
どうでもいい質問に黒澤君は表情を崩さない。変な人だ。一緒に帰るかなんて訊いてくるから、
なにか話でもあるのかと思えば黙々と歩いている。あと少しで駅に着く。
あたしは電車通学だ。3駅先のマンションに両親と兄の4人で住んでいる。
黒澤君の家は駅の向こう側にあって、父親とふたり暮らしだそうだ。
へぇ〜、いいとこに住んでるんだねって言ったら外人みたいに肩をすくめてた。

「9月に入っても暑いねー」
「ああ」

黒澤君の顔は涼しげだ。なんだかイライラしてきた。
よく考えたら、青山君は女の子と遊ぶ軍資金を稼ぐために学校が終わるとバイトに直行する。
他の男子と一緒にいるところを見せ付けて、嫉妬心を煽るつもりが無駄足じゃん。
黒澤君の淡々とした態度がイライラに拍車をかける。
この人、なにかに熱くなることあんの? うらやましいほど滑らかな肌が赤らんだりとか、
誰かをめちゃくちゃ好きになって胸が苦しくなったりとか――

「黒澤君て童貞?」

ぎゃあああああああ! なんてこと訊いてんのー、あたしーっ!?
暑さで頭がパーに。わわわ忘れて、いまの忘れてッ!
黒澤君が立ち止まったのは、前からすごい勢いで自転車が来たせいだろうか。
腕を引っ張られたのと同時に、そうだよ、と耳元で囁かれた。
すぐ脇を自転車が走り抜けていく。心臓がばくばくいって止まらなかった。

***************

あっという間に3週間が過ぎた。
劇的な変化は現れてないけれど、落ち込んではいなかった。ゆっくりと動き始めている気がする。
噂で、谷口さんが彼氏と別れたと聞いた。でも青山君と付き合い出したとは聞かない。
いつもだったら青山君本人に根掘り葉掘り訊くところだけど、いまのあたしは彼氏(仮)持ち。
他の男の子なんて全然目に入りませーん、という態度を貫いている。
最近、しばしば青山君の視線を感じるようになった。
目が合うと、急にとってつけたような笑顔を返してきたり、なにかを言いかけてやめたりする。
そんな自分に戸惑っているように見える。いままでにはなかったことだ。
やった! もう一押し。とはいっても、どこを押せばいいのかわからない。

「――で、黒澤とはどうなってんの?」
「どうって言われても……別に、ふつーだよ。あー、この間一緒に映画観に行ったかな」

5時限目は体育。制服を脱ぎながらのろのろと答える。
すでに着替えの終わった千明が目を輝かせた。

「おっ、初デート!」
「そんなんじゃないもん。誰誘っても断られるし、女の子ひとりでは行きにくいから付いて来てもらっただけ」
「いったいなに観に行ったの?」
「昔の時代劇。黒澤君、子供の頃おじいさんに連れられてよく観に行ってたんだって」
「へ、へぇ……良かったじゃない。趣味の合う彼氏ができて」

確かに。彼氏云々は置いといて、なかなかする機会のなかった時代小説の話ができるのは嬉しい誤算だった。
あたしが好きな作家の本をほとんど読んでた黒澤君。
すごく詳しくて、他にも色々教えてもらっておススメの本を借りたりもしている。
映画を観に行ったのはその延長線上でのこと。たいした意味はない。

「……だから、家に誘われたのもたいした意味ないよね?」

亡くなったおじいさんが集めていた公開当時のパンフレットとか、
古い映画雑誌がたくさん残ってるから見に来ないかと、黒澤君に言われていた。
にんまりと意味ありげな笑みを浮かべている千明が気に食わない。
あたしはずぼっと体操服をかぶり、自分でもおかしいと思うくらいべらべらと喋った。

「さっ、それより早くグラウンドにいこ。遅れたらエロ本になにされるかわかんないよ。
女子は今日マラソンなんだって。やだなー、あたし走るの苦手ー。男子はサッカーなんだって――」

む、またエロ本の奴が見てる。
みんな汗だくで、体操服は体に張り付きブラが透けていた。
ぜえぜえと上下に揺れる胸に舐め回すような視線を感じる。うわっ、いま舌をぺろっとしなかった? 気持ち悪ッ!
影でエロ本と呼ばれている榎本は、嫌がられてるのを承知で体に触ってくるセクハラ教師だ。
走り終えたあたしは、エロ本からできるだけ離れた場所にへたり込む。
発育が良かったせいか、小学生の頃から見られることに慣れているとはいえ、
エロ本みたいな中年おやじの粘りつくような視線には耐えられなかった。生々しすぎて恐怖すら覚える。
同世代の男の子が向けてくるギラつく視線のほうがまだマシだ。

ギラつく視線かぁ……早く青山君にそんな風に見られたいなぁ。
仔犬のような目が狼になっちゃうところを想像して、どきどきと震えた。
最近の青山君の様子から、想像が現実味を帯びつつあり期待で胸が膨らむ。
ただ一方で不安もあった。いざそんな場面になった時、テンパって支離滅裂なことをしてしまいそうだった。
いきなり張り手を食らわすとか大嫌いって口走ってしまうとか……、大丈夫だろうか? 
子供っぽいマネをして、呆れた青山君に嫌われないかと心配だ。
あたし、普段男子とふつーに喋ってるから別に苦手意識なんかないと思ってたんだけど、自分をよくわかってなかった。
誰とも付き合った経験がないせいか、男の子とふたりっきりになった時の距離感がうまくつかめない。
はっきりいって男慣れしてなかった。中身が中学生で止まってる。へたしたら小学生レベルかも。
黒澤君と付き合うようになって思い知った。仮の相手なのに、情けない。
しかもむこうは落ち着き払ってるのに、あたしだけテンパってるのが余計みじめだった。
共通の趣味の話では盛り上がれるんだけど、それ以外だとあきらかにぎこちない。

はっ、そうか! その不自然さが青山君にも伝わっていて、狩猟本能にブレーキがかかっているのかもしれない。
もう一押し足りないのはそれかッ! もっと自然に黒澤君と仲良くしてるところを見せ付けないと。
俄然、やる気が出てきた。習うより慣れよ。迷ってたけど、いっちょ黒澤君ちに行ってみるかー。
あたしの好きな時代劇スターが特集された映画雑誌も見たいことだし。

あーだこーだとひとりごちていたあたしの耳に、あぶねーどけーっ、という怒鳴り声が飛び込んできた。
ん? と振り向いた瞬間、ばしんと顔面に衝撃を受ける。サッカーボールが直撃したのは覚えている。
あたしはひっくり返って、今度は地面にごつんと後頭部をぶつけて意識を失った。

息苦しさを感じて目を覚ます。
一瞬なにが起こっているのか理解できず、レンズ越しに見つめ合っていた。
吸い込まれそう。きれい……少し緑がかった茶色の瞳。そこに、あたしが映ってる……?

ひゃあああああああ! く、黒澤君っ!? かか顔と顔がくっついてる! てか、唇と唇もッ!
あああたしのファーストキス。なんてことしてくれんのよーーーッ! ばかああぁぁぁあああああ!

言いたいことはたくさんあるのに動転して声にならない。
すっと体を離した黒澤君を睨みつける。つんと鼻の奥が痛くなった。
ごしごしと唇をこすっていると、いつもと変わらない冷静な声で矢継ぎ早に質問してきた。

「藤野、なにが起きたか覚えてるか? 吐き気は? 手足の痺れはあるか?」
「ひひひ(ひどい!)……ヒィィーック!」

マヌケなことに、しゃっくりが出てちゃんと喋れない。涙がぽろぽろとこぼれてどうしようもなかった。
気を失っている間に保健室に運び込まれたようだった。黒澤君は黙って突っ立っている。
なんで他に誰もいないんだろうとしゃくりあげていると、すぐにドアが開いてふたりの足音が近づいてきた。
ひとりは千明で制服を持ってきてくれた。もうひとりは保険の女の先生でトイレに行っていたらしい。
先生に黒澤君と同じ質問をされた。
しゃっくりは止まらないものの、あたしの意識がはっきりしているということで病院には行かず、
ここで休んで様子を見ることになった。あたしが泣いてるのは、腫れた顔面が痛むせいだと思われていた。
君達はもう教室に戻りなさいと先生に言われて、ふたりは出て行った。

「ヒィィーック! ヒィィーック!」

静かな保健室にあたしのしゃっくりだけが聞こえる。
先生もいるはずだけど、なにをしているのかカーテンに仕切られているのでわからない。
ぼんやりとベッドに横たわっていると、いやでもさっきのことが蘇ってくる。

――なかったことにしよう。幸い感触も残っていない。それほどかすかなものだった。
日常生活で肩や腕がぶつかるのはよくあること。それと同じでたまたま唇と唇だっただけ。
し、舌を入れられたわけじゃないし、あんなのキスとは呼べない。たぶん。
そう思わないとやってられない。忘れろ忘れろ忘れろ……さん、にい、いち、はいッ! 忘れた。
ところでなんで黒澤君がいたんだろう? 授業中なのに?
いくら考えてもわからなかった。

結局あたしはホームルームも出ずにそのまま休んでいた。
まだ少し顔がひりひりしてるけど、他はなんともないので歩いて帰れますと先生に伝える。
制服に着替え終わった頃、千明が鞄をふたつ持って保健室に入ってきた。

「あ、ちあキィィーック! ありがとゥィイーック!」
「はい鞄。やだ、まだしゃっくりしてんの。ふふ、これ見たら止まるかもよ? じゃーん!」

黄門様の印籠よろしく、千明がケータイの画面をこっちに向けて突き出す。

「――ッ!」

心臓が止まるかと思った。そこにはあたしを抱きかかえた黒澤君が映っていた。
ななななにこれ!? 慌てふためきながら、どうやらあたしを保健室まで運んだのは黒澤君らしいと気付く。
でもなんでそんなことになっているのか、さっぱりわからなかった。

「驚くよね〜。まさかあのクールな黒澤がこんなことするなんてね〜。もうみんな大騒ぎ」

演劇部所属の千明が、ひとり何役もこなして起きた状況を再現してくれた。

「――で、ぐったりと気を失ってるあんたをエロ本が保健室に運ぶことになってね。
それはそれはもうやらしい顔と手付きで迫ってきて、周りにいた女子全員がひィィーっ、繭子万事休す!
ってのけぞった瞬間、現れたのよ黒澤がっ! 俺が運びますからって、颯爽と! 上履きのままで!」

くらっときた。また気を失ってしまいそうだった。まさかそんなことになっていたとは……。
教師も生徒も全員がポカンとするなか、黒澤君はさっさとあたしを抱き上げてその場を去ったらしい。
あとに残った女子の、きゃあーお姫様抱っこーかっこいいー合唱はすさまじかったと熱弁をふるう千明。
それに応呼するように、あたしの顔もみるみる赤くなっていく。
あたし重くなかった? 汗臭くなかった? ああッ、透けた胸を間近で見られた!
恥辱に身悶えていると、この写真はね〜、と千明がとどめを刺すように説明し出した。

「黒澤のクラスは理科室で実験中だったんだって。ほら、あの教室ってグラウンドに近いじゃない?
立ってたからよく見えたんだろうね。突然黒澤が教室を飛び出したと思ったら、あとは知ってのとおり。
みんな授業そっちのけで窓に鈴なりになって見物してたらしいよ〜。んで、当然激写。これ学校中にバラまかれたよ」

いやああーッッ! 誰か嘘だと言ってええええ。恥ずかしくて明日から学校に来れないッ!
黒澤君もなに考えてんのーっ。ばかばかばか。

「じゃあ、わたし部活あるからそろそろ行くね。気を付けて帰るんだよー」

手を振る千明に上の空で返事をする。いつの間にかしゃっくりが止まっていた。

すっかり脱力して昇降口で靴に履き替えていると、名前を呼ばれた。
見るまでもない。声ですぐわかった。まともに顔を合わせらなくて、下を向いたままで訊く。

「……黒澤君、今日は部活ある日じゃなかったっけ?」
「休んだ。家まで送るよ」
「いい。ひとりで帰るから」

普段通りの声が出せて良かったとほっとしながら顔を上げると、
てこでも動かない顔をした黒澤君が立っていた。
その背後に、下級生が数人こっちを指差してにやついているのが目に入る。
かあとなって、くるりと背を向けて走り出す。ああ、また子供っぽいことしてると泣きたくなった。

黒澤君の一度言い出したら引かない性格には呆れる。
いいよと何度も断ったのに、結局一緒に電車に乗るはめになってしまった。
案外しつこい。そして認めたくはないけれどやさしい。
手すりも吊り革も使えない場所に押しやられてふらつくあたしに、
ほら、と照れもせず腕を差し出したりする。なんでそんなこと自然にできんの?
ガタンと電車が傾き、とっさに掴んだ腕のたくましさに驚いて、急いで袖を掴み直すあたしはすごく不自然だった。

――ありがとうを言い忘れた。自己嫌悪。ほんとやンなる。恥ずかしい思いをさせられたけれど、
保健室に運んでくれたお礼もまだしていない。部活を休んで(黒澤君、部長なのに)家まで送ってくれることに対してもだ。
ふがいない自分に、ちっとも収まらない鼓動にうんざりして、シャツの袖をぎゅっと握りしめる。
あ、いけない。しわしわになっちゃった。

いつ言おう、いつ言おうとぐずぐずしているうちに家に着いてしまった。
立ち止まってマンションを見上げている黒澤君に声をかける。

「あ、うちここの5階。えと……」

こういう場合、部屋にあがってもらってお茶とか出すんだよね?
お父さんは会社。お母さんも確か今日はパートで遅い。お兄ちゃんは大学のあとバイト。
誰もいない。……むり。あたしにはむり。そんな難題突き付けないで。
早く帰ってと思っていたくせに、じゃあ、と言いかけた黒澤君を大声でさえぎっていた。

「く、黒澤君っ! (げ、呼び止めてる!?)あああの(繭子、お礼お礼。お願いだから余計なことは言わないで!)、
今日はありがとっ、送ってくれて。それから……あのあのッ、保健室に運んでくれたのが黒澤君で良かった! 助かった!
エロ本だったらと思うとぞっとする。あいつ触りまくってただろうから(そ、そんなこと言わなくていいからッ)。
あ、あたし重くなかった? でもっ、意識失った体は重く感じるっていうし、違うの違うのッ(やー、口が勝手にー)。
そそそれと腕もっ、電車の中で。……ありがと。なんか袖、しわくちゃにしてごめんだけど。
えと、なんで黒澤君そんなにやさしいの? 黒澤君は……っ、なんであたしと付き合ってんの?」

頭の中がまっしろ。もやもやと考えていた反動なのか、ぶちまけるように一気に言葉を吐き出していた。
あたしってば口滑りすぎ。途中からわけわかんないことに。特に最後。
深くは追求しないでおこうって決めてたのに、なに訊いてんの!?
黒澤君、ちょっと眉をしかめてる。けどかなり呆れ果ててるのが伝わってくる。ひゃ、口開いた。

「藤野は思ってた以上に馬鹿で鈍感なんだな」
「はあァ〜〜〜!?」

黒澤君はふっと鼻で笑って、すたすたと行ってしまった。
はあ? はあ? 何度も呼びかけたけれど、振り向きもしなかった。

頭きた。ばかで悪かったな。
そりゃあ常に学年トップを誇る黒澤君からしたらあたしは大ばかだよ。言われなくてもわかってるよッ。
鈍感て鈍感て……え? あ、はいぃぃ? もしかして、好きってことォォ!?
それはないでしょ。急に冷静になる。だってそんなこと一言も。そんなそぶりだってなかった、よねぇ?
時々眩しそうに目を細めて見てるのは気付いてた。その視線に優越感を感じてたから。
でもォ、自分でいうのもなんだけど、目の保養的なニュアンスしかなかったような気がするけど?
最初は警戒してたんだよねぇ。ひょんなことからっていうか自分で訊いたんだけど(いま思い出しても恥ずかしい)、
黒澤君が童貞だと知って、あたしで筆下ろしするつもりー!? それが告白OKした理由かッ!
って血相変えたんだけど、なんか黒澤君全然がっついた感じじゃないんだよねぇ。
実際、手も握られたことないし。なーんだ、あたしの勘違いだったかと安心するやら拍子抜けするやら。

あっ、とひらめいた。なんでそんな簡単なことにいままで気が付かなかったのかと歯ぎしりする。
やっぱりあたしの恋愛偏差値小学生レベルかも。やさしいイコール好きなんかじゃない。
やるためだったら男はなんだってするってよく耳にするじゃない。下心を見せないのも変にやさしいのもすべて演技だ。
最初の直感が正しい。やりたい一心でのことだったんだ。黒澤君はそれを巧妙に隠してたんだ。
ふー、危ない危ない。あやうく騙されるところだった。でもあたしは負けない。
むこうがどんな手を使ってきても華麗にさばいてみせる。相手として不足はない。いい練習相手だ。
居ても経っても居られない気分で、その場をぐるぐると回っていた。








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