シチュエーション
![]() 家に帰りかけたところで、ガルガリくんとアイスキャラメルココアのことを思い出し、あわててスタボと適当なコンビニで目当てのものを購入し、お買物は無事終了。 絵梨ちゃんに一部持ってもらっても、まだ重い荷物を抱えて、よろけるようにして、ボクは渡良瀬家へと帰って来れた。 「はふぅ〜、やっと着いたぁ……。あ!ありがとね、絵梨ちゃん」 「いや、こんなビニール袋ひとつくらいいいけど。でも……主婦っぽいコトやってる割に、かすみん、力ないわねぇ」 う!嫌なトコ突くなぁ。でも確かに、身長はボクと同じ程度でも主婦のオバちゃんとかもっとずっとパワフルだもんね。 「じゃ、あたしはそろそろ帰るわ。もし、暇してたら声かけてよ。また一緒に遊びましょ」 「あ、うん、本当にありがとう、絵梨ちゃ」 「ストップ!あたしたちも、もう中学生じゃないんだし、ちゃん付けはないでしょ。エリでいいよ」 女の子を名前で呼び捨てにするのは実は初めて(橙子さんだって未だに「さん」付けだし)だけど、確かに女子高生なら、親しい間柄では呼び捨てにするのも普通かも。 「う、うん。じゃあ……エリ、また今度」 「おっけ〜、じゃ、またね、かすみん!」 ニパッと笑って絵梨ちゃん……エリは帰っていった。でも、ボクのことは「かすみん」なのかー、まぁ、いいけど。 おっと、そうだ。 氷が溶けないうちにと、ボクは急いで「ママ」たちの仕事場へと向かう。 「ただいまー!ママ、パパ、頼まれてたモノ、買って来たよ」 「あ〜、ありがとほ〜」 あちゃあ……ボクが買って来たガルガリくんとアイスキャラメルココアを口にして、ひと息ついたみたいだけど、ふたりとも、だいぶヘロヘロっぽい。 「もしかして……お昼食べてないの?」 「いやぁ、筆がノってくると、わざわざ作るのが面倒になっちゃって」 「同じく。そもそも材料もなかったし」 ハァ〜、そう言うコトなら仕方ないか。 「──15分ほどしたら、呼びに来るから」 そう言って台所にとって返したボクは、まず買って来た食料品を仕分けしつつ冷蔵庫にしまう。 「夕飯のすき焼き用にと思ってたんだけどなぁ」 生のうどんを1パックと、キャベツとモヤシ、豚コマひと切れを使って、フライパンで手早く焼きうどんを作る。みりん&醤油ベースの薄味風なのは、ボクのオリジナルだ。 青のりがないのが残念だけど、鰹節と紅ショウガだけでも、十分アクセントにはなるかな。 「お昼、できたよーー!」 「「はーーーい!」」 いい歳した大人ふたり(……って、うちひとりは僕のフリしてるかすみちゃんだけど)が、食べ盛りの子供みたいな返事をして台所へとやって来る。その食べっぷりも、欠食児童さながら。もぅっ、こんなにお腹空いてるなら、カップ麺でも何でも食べたらいいのに……。 「ありがとう、美味しかったよー」 というママたちに買って来たペットボトルの麦茶を渡して食休みさせ、ボクは食器を洗う。 「ママ、前から思ってはいたんだけど、休みの間はワタシがご飯作ろうか?あと、学校が始まっても、朝と夜なら大丈夫だけど?」 洗い物をしながら提案してみる。 「そ、それは凄く助かるけど……それで、いいの、かすみ?」 ボクはひょいと肩をすくめた。 「だって、ママたち、放っておくと餓死しちゃいそうなんだもん」 そもそも、今回の入れ替わり自体、「マンガ家あまのとーこの仕事場を効率良く回す」ことを前提に立てられた計画なんだから、それにボクが協力するのはむしろ当たり前だろう。 「うーーん、料理上手なアシストのヨッちゃんが辞めたのが痛かったね。でも、橙子さん、ここは当面、かすみちゃんの申し出に甘えるべきだと思うよ」 パパの言葉に、ママ──橙子さんは真剣な顔つきで考え込んでいる。 「……じゃあ、悪いけど、しばらくお願いできるかしら?」 「オッケー。あ、でも料理内容まではあまり期待しないでね。レパートリーも少ないし」 こうして、ボクは正式に「あまのスタジオ」のメシスタント(って言うそうな)に就任したのだった。 それからの数日は特に代わり映えのしない毎日が続いた。 ボクは、朝起きて朝食を作り(って言っても、トースト&サラダかご飯&味噌汁程度だけど)、朝食の片付け後は、家の中掃除したり、学校に備えて勉強したり、ティーン向け雑誌見てファッションとか流行とかの知識を仕入れたりしてる。 お昼になったら昼ご飯を作る。この時は、サッと簡単に作れる、パスタ・麺類が多いかな。 午後からは、エリが遊びに来たり、エリの部屋に遊びに行ったり。 そうそう、エリの部屋に遊びに来てた友達のハネ(三羽朱美)とリョーコ(倉石沢遼子)とも、知り合いになった。このふたりも星河丘に入るみたい。 ハネは、背が低い(150センチあるかないか)けど、スタイルがよくて顔可愛らしい、お人形さんみたいな子。甘ロリ風の服が似合いそう……って言うか、実際着てた。うちのママと話が合いそう。ただ、多少天然かつ無意識に毒舌なところが付き合う人を選ぶらしい。 リョーコは、対象的にスラリと背が高くて165センチは超えてると思う。眼鏡をかけてるからってワケじゃないけど、何となく頭が良さそうな感じ(後日、首席合格と判明)。でも、関西弁で陽気にしゃべる様子は何となく親しみが持てた。 ふたりともとてもいい人たちで、友達3人の輪に割り込むような形になったボクのことも、ごく自然に受け入れてくれる。1度、4人で遊びに行ったんだけど、すごく楽しかったし。 で、そんな風にして「女の子スキル」を磨きつつ(半分は口実だけど)、午後を過ごしたのち、6時ごろになったらお夕飯の支度(食材が足りない時は、その1時間前に買い出しに行くけど)。 もともと、ボクのレパートリーなんて、「男の手料理」の域を超えてなかったから、さすがに最近は本を読んだりして色々試行錯誤中。とは言え、初めて挑戦する料理でもほとんど失敗したことはないから、もしかしたらボクは意外に料理の才能あるのかもしれない。 (そう言えば、父さんたちもよく褒めてくれたっけ……) 昔──中学に入った頃の僕も、両親が共働きで家を空けてることが多かったから、簡単な自炊は自然とできるようになってた。で、たまに夜帰って来た両親に、カレーとか野菜炒めとかを振る舞うと、「和己は偉いなぁ」と褒めてくれたんだ。 ……もっとも、中学3年の頃に、その両親が事故で亡くなって、天涯孤独の身になっちゃったんだけどね。 まぁ、それはともかく、そうやって考えてみると、ボクの家事歴自体はけっこう長いんだよね。エリに「主婦っぽい」と言われるのも無理ないかも。 そして、そんな風に過ごしているうちに、アッと言う間に一週間が過ぎ、ついにボクらは入学式を迎えることとなったんだ。 今、ボクは久しぶりに朝、鏡の前で悩んでいた。 「コレ……着ないといけないんだよね」 壁にかけたままだったから、ここしばらく意識してなかったけど、いざこの制服を着る、つまり正式に「女子高生・渡良瀬かすみ」としてこれからの毎日を過ごすことになる……と思うと、やはりどこか罪悪感みたいなものを感じる。 え、今更?うん、そうかもね。 でも、昨日までは女の子の格好とは言え、あくまで自分で見立てた「私服」でしかない。公序良俗云々はどうか知らないけど、少なくとも「女装」は法律に触れるような行為じゃないし。 けれど。この制服を身に着けて学校へ通うということは、自分が「渡良瀬かすみ」であると公言し、その身分に従って振る舞うことを自ら受け入れるってことを意味するんだ。 どうしてだろう。今、ワタシ、すごくドキドキしてる。 不安?期待?もしくはその両方? なんだか、これを着たら、二度と引き返せなくなるような予感。 ううん、そんなはずないよね?1年か、長くても2年くらい経ったら、ワタシと「パパ」……僕とかすみちゃんは、元の立場に戻るはずなんだし。 ──ズキッ! あれ?何だか一瞬ヘンな気持ちになったような……。 やっぱり、入学式を前に緊張してるのかなぁ。 深呼吸してから、ボクは制服にかけられたビニールカバーを取り、ハンガーから外した制服をベッドの上に並べていった。 ボクらが通う星河丘学園は、名門私立だけあって、普通の高校とは大幅に異なる特徴がいくつかある。 制服ものひとつで、なんと男女とも春・夏・秋・冬の4タイプが用意されているんだ。しかも、女子は各季節毎に白に近い「ライトカラー」と暗色系の「ディープカラー」の2種類があるから合計8種類。 ただし、ここでポイントとなるのが、「制服でありさえすればよい」ということ。 つまり、8種類の組み合わせは自由なんだ。全部購入する義務はないし、衣替えもないから、各自が好きなタイミングで適当に切り替えてるみたい。 ちなみに、今ボクの目の前にあるのは、白の長袖ブラウスと明るい小豆色とライトグレーのチェックになったミニスカート、そしてクリーム色を基調としたブレザーという春服のライトカラー一式。 とにかく、躊躇ってばかりもいられない。ボクはゆっくりとその制服に袖を通し始める。相変わらず、どれもこれもあつらえたようにボクにピッタリだ。 複雑な感慨を押し殺しつつ、ブラウスのボタンを留め、スカートを引き上げる。 女の子の服装をすることにはだいぶ抵抗が無くなったボクだけど……ちょっとこのスカートの丈は短過ぎないかなぁ。 ここ数日でボクなりに、自分の理想とする「女の子の格好」像ができつつあるんだけど、基本的にボクは、ゆったりした上着と長めのスカートで、素肌をさらさない服装を好むみたい。 ママ──橙子さんが好きなヒラヒラ&フリフリと似てるけど、もうちょっとシックで落ち着いた感じ。 無論、そのほうがボクの正体がバレにくいからという理由もあるけど、純然たる「服の好み」としても、そういう大人しい服装が趣味に合うんだ。 エリたちは、「せっかく可愛いのにもったいない」って呆れてたけど、同時に、 「でも、確かにそっちの方が、かすみんには似合ってるかもね」と言ってくれた。「森ガール」とか言うんだっけ?一応流行にも沿ってるみたいだし。 ただ、高校の制服まで自分のシュミを通すわけにはいかない。 ボクがこれまでに着た中で一番短いスカートは、一昨日のデニムのタイトっぽいミニだけど、それだって膝上5センチくらいだったし……これ絶対膝上10センチ以上あるよね? せめてもの抵抗にとデニール数多めの黒タイツを履いてみた。パンツが見えるかもという懸念は減ったけど、うぅ〜、それでもまだ太腿のあたりが頼りない気がするよぅ。 あきらめて、胸元にスカートと同じ柄のリボンタイを結び、ブレザーを羽織る。ちょっと肩のあたりがほんの少し緩いように感じるのは、本物のかすみちゃんより肩幅が狭いからか。どんだけ撫で肩なんだよ、ボク。 それでも、なんとか格好や髪型を整え、最後にドレッサーの引き出しから、この間エリたちと出かけた時に買った白い幅広なカチューシャを付け……、うん、完成。 「かすみ〜、そろそろご飯食べたほうがいいんじゃないー?」 「あ、はーーい!」 階下からのママの呼び声に答えてから、ボクは部屋を出た。 今日が入学式だからか、それとも仕事が一段落したからか、今朝の食事はママが用意してくれていた。 「おはよう、かすみ」 「うん、おはよう、ママ」 挨拶して席についたところで、居間からパパもやって来た。 「やぁ、おはよう、かすみちゃん。うん、その制服とても似合ってるよ」 「あ、ありがと、パパ」 本当はコレ、貴方が着るはずなんですけどね……という言葉は口にしない。今更詮無いことではあるし、それに、褒められて正直悪い気がしなかったのも事実だから。 朝食を食べ終わるころ、エリが迎えに来てくれた。 「そうだ!せっかくだから、記念写真を撮っておこう。ほら、絵梨ちゃんも」 と、パパがわざわざ一眼レフのデジカメ(本来はマンガの資料撮影用らしい)を持ち出して、我が家の前で、ボクとエリのツーショットを撮影する。 「あとで、ケータイに送っておいてあげるよ」 ニコニコしているパパたちに、「行ってきます」の挨拶をしてから、ボクらは学校へと歩き出した。 「あえて聞かなかったけど……かすみん家のパパって若いよねぇ。再婚?」 「うん、この春、ママと結婚したばかり」 「いくつぐらいなの?」 「えーと……」 下手な事を言うとマズいかな。元の僕の年齢を素直に答えておくか。 「確か24歳、だったかな」 「ああ、やっぱりね。とーこ先生は?」 「30……5か6だと思う」 「ウッソー!30歳超えてるようには見えないよ〜、わっかーーい!」 「アハハ、よく言われる」 そんな雑談を交わしながら、目指す場所──星河丘学園に到着。 「うわぁ……受験の時以来だけど、やっぱスゴいわ、ここ」 「だねぇ」 校門と言うより豪邸の外門と言ったほうがふさわしいような作りの門をくぐり、レンガ造りの洋館っぽく(さすがに中身は鉄筋コンクリートだと思うけど、たぶん)見える校舎を見上げて、呆れたように呟くエリとボク。 「あ!エリィ、かすみん、こっちこっち!」 と、昇降口らしき場所の方から声がする。 見れば、傍らの掲示板の前でハネが手を振っていた。 「おはよう、ハネ」 「おはよ、ハネ。リョーコは?」 「うーん、まだ見てないなぁ。いつも通りギリギリなんじゃない?」 そんなコトを話しつつ、掲示板に張り出されたクラス分け表を見る。 「あたしは……A組かぁ」 「わたしもA組だったよ。かすみんは?」 「えーーと……あ、アレ?」 どのクラスにも、ボクの名前が見当たらない。 「あ、コレじゃない?」 エリが指さすA組の表には、上から2番目に「天野かすみ」と言う名前が記されていた。 「そっか。受験の時は、まだ今の渡良瀬姓じゃなかったから」 理由が分かればなんてことはない。でも、コレ、あとで先生か事務局に言っておいたほうがいいのかなぁ。 「おはようさん、なんや3人固まって何みとるん?」 そうこうしているうちにリョーコも来たみたい。 その後、自分だけ違うクラス(C組)だったと愚痴るリョーコをなだめつつ、大講堂へ入って入学式に参加する。 このテの式典では、お偉いさんのスピーチは長くて退屈というのがお約束だけど、この学園は、理事長も校長も明快簡潔に1分ぐらいに話をまとめてくれてるのは助かるなぁ。 次に出てきたのは……なんか、ちっこいけど先輩──3年生、なのかな? 「えっと、生徒会長の天迫星乃です。皆さんは、これから3年間、この学校で学び、遊び、様々な出会いをしていくことになると思います。一期一会という言葉もありますけど、そのどれも大切にしてくださいね。ボクからは以上です」 と、マイクを置こうとして、何か思いついたのか、ニッと不敵な笑みを浮かべる天迫先輩。 「──それと、新一年生から生徒会のお手伝いを募集中。部活の見学にでも来るつもりで、気軽に生徒会室に遊びに来てね♪」 そう言い残して、今度は本当に壇上から去る。 「はぁ……背丈はちっさいけど、態度はさすがに会長っぽい感じだね」 「そりゃ3年生だからね、背はちっさいけど」 いや、身長150センチそこそこのハネがそれを言うのもどーかと思うよ? そのあとは、教室に戻ってLHR。1−Aの担任の水ノ内先生は、今時珍しいくらいの「大和撫子」な感じの若い女性で、男子生徒たちは喜んでたみたい。 まぁ、美人なのはともかく、優しそうなのはプラスかな。ヘンに体育会系マッチョな中年教師とかにあたったら、メもあてらんないし。 そのあとは、出欠確認と一緒に自己紹介……って、ボク、「天野」で登録されてるから2番目なの!?ロクロク紹介内容を考えてる暇もないよ〜。 「えっと、東京の吾妻学院中等部出身、天野かすみ、です。趣味は、マンガを読むことと…お料理、かな。家の都合で、こちらに引越して来たばかりなので、地理とかわからないことも多いですが、よろしくお願いします」 ふぅ〜、なんとか無事に終わったよ。 でも、つい流れで天野姓で自己紹介しちゃったな。 「渡良瀬かすみ」でも「天野かすみ」でも、ボクにとって偽名(?)には違いないから、別にいいんだけど……でも、本来の姓である「渡良瀬」以外を自分から名乗るなんて、何だかヘンな気分。 「?どしたの、かすみん?」 「う、ううん、何でもない」 隣の席から、いぶかしげに小さく声をかけてくれたエリに笑顔で答える。 ま、苗字の件は、あとで事務室にでも届け出ればいいよね。 今日は入学式ということで、授業はなし。その代わり、教科書や生徒手帳など学校生活で必要なモノが渡された。 みんな──エリ、ハネ、リョーコ、それにボクの4人で帰ろうと思ったんだけど……。 「あ、そーだ。ごめん、ワタシ、少し事務室に寄らないと」 苗字のこと、早めに申請しておいた方がいいよね? 「いーよ、あたしら、しばらく教室でダベってるから、行って来なよ」 という有難いエリの言葉に甘えて、ボクは1階にある事務室へと足を運んだんだけど……。 「うーん、困りましたねぇ。今年の名簿は既に「天野」姓で登録されちゃってますよ」 確かに、さっきもらった教科書とか生徒手帳の名前も、みんな「天野かすみ」で名前が印字されてた。 事務員さんいわく、この学園は生徒個人個人のデータを細かく把握して、諸々の年間行事などに役立ててるらしい。ボクの出席番号02番というのも、当然のことながら「天野」姓に基づいたものだ。 「今すぐに変えるのは難しいですねぇ。とりあえず、1学期の間はそのままでいってください」 「はぁ……そうですか」 そう言われてしまっては、ボクとしても、苗字が変わったのを学校側に報告するのを忘れてたという負い目があるから、ゴリ押しはできない。 て言うか、本来はボクじゃなくて本物の「かすみちゃん」がやっとくべきでは!? とも思ったけど、それはこの場で言っても仕方ないし。 「夏休み中にもう一回申請に来てくださいね〜」という事務員さんの声に見送られて、ボクは溜息をつきながら教室へ戻る。 それにしても……どうしたものかなぁ。 いやでも実際、学校で呼ばれるボクの姓が「天野」でも「渡良瀬」でも、もそんなに違いはないはずなんだけどね。せいぜい、「あまの」と声をかけられた時、とっさに返事が遅れる可能性があるという程度。それだって、ボクが気をつけてれば済む話だし。 なのに、どうして、こんなにひっかかるんだろう……。 ──あぁ、そうか。 「渡良瀬」という苗字は、今の(偽りの)ボクと過去の(本来の)僕とをつなぐ、たったひとつの掛け橋、残された絆みたいなものだったのかも。 もし、このまま、学園ではずっと「天野さん」とか「天野かすみ」って呼ばれるようになったら、ボクの中から「渡良瀬和己」としての部分がなくなっちゃいそうで怖いんだ。 たとえば、1学期だけじゃなく、このままずっと在学中、「天野かすみ」と呼ばれるとしたら? 先生や先輩からは「あまのー」と呼びつけられ、後輩からは「天野先輩」と声をかけられる。 もちろん、テストの答案や書類には、自ら「天野かすみ」と記入しなければならない。 そして……月日が流れ、卒業式の時、壇上で校長先生から「あまのかすみ」と呼ばれて、「はいっ」と返事したら?もちろん、卒業証書は「天野かすみ」に対して出されたものだ。 ボクは……ワタシは、この学園を「天野かすみ」として過ごし、卒業するの? そうして、かつてボクが「渡良瀬和己」であったという証は、波打ち際の砂に書かれた文字のように、少しずつ消えていくのだろうか? ──ゾクッ…… それは、とても恐ろしく……けれど、どこか甘美な戦慄を含んだ妄想だった。 わ、ワタシは……「渡良瀬和己」?それとも「天野かすみ」? 非現実感に襲われた頭を必死でブンブンと横に振り、ボクは教室のドアを勢いよく開いた。 「──ごめんねー、お待たせ」 「お、かすみん、用事は済んだん?」 「ん、バッチリ!……と言いたいところなんだけど、書類が揃ってなくて却下されちゃった」 「ありゃりゃ、かすみんって、実はドジっ娘?」 「ドジっ子言うな!あれ、エリは?」 さっきから、ハネとリョーコの姿しか見当たらない。 ガラッ「あれ、かすみんの方が早かった?」 背後のドアが空き、ジュースを4本抱えたエリが姿を見せる。 「うむ、パシリごくろー」 鷹揚にうなずくハネ。どうやらジュースじゃんけんでもしてたらしい。 その後、ジュース(ボクの分もちゃんとあった)を飲みながら、しばらく教室で他愛もない雑談をしてから、ボクらは帰路につく。 そのせいで、その時感じた奇妙な「予感」は、そのまま日常に埋もれてしまったのだった。 入学式のあとは、拍子抜けするほど、「平穏無事」な日々が続いていた。 ボクは、高校入学したばかりのごく普通の女子高生として、勉強には程々に、遊びにはそれなりの熱意をもって取り組んでいる。 無論、約束したとおり、「あまのスタジオ」のメシスタントとしても、忙しく働いていて、それなりに家族に貢献してると思う。 4月末の連休前にある身体測定が唯一の懸念事項だったんだけど、それもパパの入れ知恵であっさり乗り切ることができた。 まさか、3週間寝てる間にゴムボールの吸引をしただけで、Aカップとはいえおっぱいができるなんて……。 (気になる人は某有名動画サイトで「おっぱいの作り方」を調べてみてね) おかげでエリたちにも「うわ、かすみん、ペチャパイ」「ひんにゅ〜はステータスだ!」と笑われた(く、悔しくなんかないもん!)けど、保険医さんも含めて誰もワタシのことを女の子じゃないとは疑ってないみたい。 うぅ、バレなくて良かったんだけど……何か、大事なものを失ったような気がするよぅ。 と、ともかく! そんなこんなでボクは、至極順調に「天野かすみ」としての毎日を過ごしてるワケ。 そうそう、苗字の件もママやパパに相談したけど、「ま、学校だけなら別にいいんじゃないの?」「ペンネームだと思えば?」と、まことにあのふたりらしいお答えを返してくれましたよ、ええ。 で、5月の連休には、エリたちと近くのテーマパークに遊びに行ったり、何とか休みを2日間ねん出したママ達とブルーベリーヒル勝浦に家族旅行に行ったりもした。 「自然に囲まれた環境でリフレッシュ」と言ううたい文句は伊達じゃなく、「東京近辺にこんな保養地が!?」と思うくらい優雅なリゾートで、ママとパパはゆったり羽を伸ばせたみたい。 ──え、ワタシ?うん、ワタシも一応休めたんだけど……ママがクルマにしこたま積んで来た主にピンハ系のお洋服を次から次へと着せられて、高原を背景に写真のモデルに……正直、精神的にツカレマシタ。 いや、だって、「マンガの資料にするから」って言われたら、頷くしかないじゃない? でも、旅行から帰って冷静に考えてみると、あの写真の6割くらいはママのシュミじゃないかと思ってるけどね。 で、ゴールデンウィークも終わって学校が再開した頃、「あまのスタジオ」に待望の新アシスタントさんが加入!ま、まだほとんど新人なんで即戦力とは言い難いらしいけど、これでちょっとはママ達の仕事が楽になるかとて思えば大歓迎だよね。 でも、それとは別に、ボクの方にもちょっとした悩みが。 ウチの学校は、全員になにがしかの部活に所属することになっているんだけど……。 「え!?かすみん、まだ部活決めてなかったの?」 ハネが呆れるのも無理はなくて、入部届の最終提出期限は5月の第一週。つまり、今週末までにどこかのクラブに入らないといけないんだよね〜。 「だからー、あたしと一緒にチアリーダーやろうよー」 エリのお誘いは嬉しいんだけど……。 「でもさぁ、チアリーディングって、下手な運動部なみに体力とかいるよね。運動音痴のワタシに務まると思う?」 「そ、それは……き、気合いで」 と言いつつも、さりげなく目を逸らすエリ。 既に何回かあった体育の授業で、ワタシの運動神経の鈍さは十分エリたちも理解してるからねぇ。握力と背筋力だけがかろうじて平均を上回るけど、あとは軒並み平均(もちろん高校生女子の)かそれ以下という計測結果には、自分でも笑ってしまった。 言っておくけど、別に手を抜いたわけじゃないんだけどなぁ。 「せやったら、ウチと一緒に演劇界の星をめざそーや!」 と、リョーコは演劇部に誘ってくれたけど……。 「うーーん、小道具とかの裏方ならなんとかなるかもだけど……舞台に立つなんて無理ムリ!」 目立ちたくないと理由もあるけど、単純にそんな度胸ないよ〜。 「は〜、もったいないなぁ」 「かすみん、結構可愛いのに……」 なんて、リョーコとエリは残念がるけど、ワタシみたいな平凡なコをおだてても何もいいコトないよ? (なぁ、こないだクラスの男子が回してた「ミス1年」の投票用紙に、かすみん、しっかりノミネートされてたんとちゃう?) (うん、さすがに1位じゃなかったけど、しっかり複数票入ってた) (ルックスもそれになりだけど、何よりかすみんて家庭的な雰囲気あるから) (野郎どもの男ゴコロをくすぐるんやろなー) (知らぬは本人ばかりなり、だねー) ??何コソコソ話してるんだろ。 「では、ぜひウチの部に……と言いたいところだけど、さすがに無理には薦めにくいかな」 ハネの部活は美術部。本来、マンガ家の娘としては画力向上のためにもぜひ入るべきなのかもしれないけど……。 「エンリョシトキマス」 普通に描いた人物画のデッサンが前衛画になっちゃうワタシにはまったくもってむいてないんだよねー。 はぁ〜、まったく、どうしたモノかなぁ。 「で、結局、かすみちゃんは何のクラブに入ったんだい?」 夕飯時の雑談で、お代わりをよそってあげてる時、パパが聞いてきた。 「うん、趣味と実益を兼ねて、家庭科部に入ることにしたんだ。お料理のレパートリーが増やせそうだし、お裁縫とかも本格的に習っておくと便利でしょ」 「あら、いいわね。和裁とか、わたしが教えてあげましょうか?」 何事にも器用なママは、自分で浴衣も縫えるらしい。スゴいなぁ。 「でも、かすみちゃんは、いかにも女の子らしいから、そういうの似合いそーっスね」 と、どこかチンピラっぽい口調で話すのがウチの新しく入った新人アシの大野さん。パンクっぽい髪型や服装してるのに、なぜか妙に腰の低い20歳の女の人だ。 ちなみに、大野さんは、ワタシ──ボクらの入れ替わりについては知らせてないから、ワタシのことを本当に16歳の女の子だと思ってるはず。 そういう人に「女の子らしい」と言われたのを、素直に喜んでいいのかフクザツな気分。まぁ、嬉しくないわけじゃないけどね。 その後、家庭科部の活動のおかげで、ウチで料理するためのレシピが色々増えたり、自分でクッションや小物が作れるようになったり(もちろん繕い物もOK)と、色々役に立つスキルが身に着いたのは確かなんだけど……。 なんだか、ワタシ、ますます女の子ライフに馴染んでない? うーーん、でも、どうせ1年間はこのままなんだから、この際、割り切っちゃおうかな。 正直、「渡良瀬和己」として送った高校生活より、今のほうがずっと楽しいんだよね〜。 あの頃の「僕」は、家族はいないし、友達も少ないし、かといって勉強や部活に熱中してたわけでもなく、適当に毎日を過ごしてたからなぁ。 でも、今は、優しいママとパパがいて、親しい友達がいて、部活だけでなく、学校生活そのものがすごく楽しいんだもん。 ……ちょっとくらい、本来の立場を忘れて、「天野かすみ」としての日々を楽しんじゃっても、別にいいよね? ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |