シチュエーション
![]() その日、六道紫(りくどう・ゆかり)は、幼馴染の弟分であり、親戚(従弟)であり、今は勤めている家の「坊ちゃん」でもある少年、桐生院葵(きりゅういん・あおい)が、自室の机に突っ伏して意識を失っているのを発見した。 「ちょ、ちょっと、アオイちゃん!?」 勤務中はできるだけ「葵様」と呼ぶようにしているのだが、さすがに慌てて普段の地が出てしまう。 幸い、駆け寄って揺さぶると、少年はゆっくりと目を開けて、体を起こした。 「う……ゆかねぇ?あれ?僕……」 とりたてて葵に異常がなさそうなのを見てとって、ようやく紫は少し落ち着きを取り戻した。 「もぅ……ゆかねぇじゃないわよ、まったく」 とは言え、まだ完全に平常心と言うには程遠く、勤務時間中の「桐生院家子息付き侍女」ではなく、「頼りない従弟を心配する姉貴分」の顔になっている。 「最近、疲れが溜まってるみたいだけど……ダメよ、無理しちゃ。アオイちゃんはあまり体が丈夫じゃないんだから」 「うん、それはわかってるんだけどね……」 決まり悪げに笑う従弟の顔を見て、紫はピンときた。 「──また、伯父様が無理難題ふっかけてきたのね?」 「む、無理難題ってほどじゃないけど……」 しかし、目を逸らす葵の様子を見れば、おおよその事情は理解できた。 葵たちの家──桐生院家は、この地方でも有数の大地主であり、江戸時代には、代々この地の藩主の剣術指南役であった家柄である。 明治維新と廃刀令の影響で、剣術家としての側面は薄れたものの、地方の名家的な立場は20世紀の今に至っても未だ健在で、県内で小財閥めいたものも形成しているちょっとした富豪だ。 幸か不幸か桐生院葵は、その桐生院家の後継者候補であった。 現在の身分は、県内随一の進学校に通う高校2年生。勤勉で柔和、人当たりはよい反面、押しが弱い……という評価を周囲からは得ている。 ただの高校生として見れば可もなく不可もなくといった評価だが、桐生院一族に連なる者からすれば、一門の総帥としてはやはり不安が残るようで、親族達からはあからさまに侮られていた。 また、桐生院の本家筋に連なる者は慣習として父祖伝来の桐生剣術を習うのだが、葵はその腕前もいまひとつだ。 身体があまり丈夫でないせいもあるのだが、ひとつ年上の紫が、女性でありながらすでに初手皆伝(剣道で言うなら初段〜二段程度の実力)なのとは対照的だった。 現在の当主である葵の父も、何かと息子の将来を心配し、「習うより慣れろ」と、彼に16歳の頃からグループの仕事の一部を見るよう仕向けていたのだが、それがまた温和でのんびりしたタチの葵には負担となっていた。 しかしながら、周囲の人間は彼に過大な期待をかける者ばかり、 唯一、姉弟同然に育った従姉で、「葵の保護者」を自認する紫だけが彼の気持ちを理解していたのだ。 だからこそ、桐生院家の血を引く身ながら、中学卒業後、紫は本家の使用人と高校生の二足の草鞋を履く覚悟を決めて実行に移し、現在はわざわざ母の旧姓を名乗ってまで、葵の侍女(メイド)を務めているのだ。 (これは、同じ桐生院姓の者を使用人にするのは……と葵の父が渋ったため) すべては、大事な弟分を護るため。 無論、ここまでしてくれた姉貴分に葵が感動しないワケもなく、現在の葵にとって紫は──厳格な父や天然気味な母以上に──もっとも信頼する相手だった。 「大旦那……いえ、お爺さま、聞いてください!」 葵の窮状を察し、彼自身の口から弱音を確認した紫は、本格的に現状への対処を考えるようになっていた。 意外に思えるかしれないが、葵はめったなことでは泣き言は言わない。我慢強いというのもあるが、一族における自分の立場を分かっているが故に「言えない」というほうが正しいかもしれないが。 その彼が(半ば無理矢理聞き出したとは言え)明確に、弱気と疲労を訴えているのだ。 葵付きのメイドとして、また彼の姉代わりとして見過ごすことはできない。 しかし、ある意味、葵以上に聡明でキレ者(学年主席でもあるのだ)な紫は、桐生院家当主であり葵の父でもある桐生院馨(かおる)に、直接掛け合うような真似はしなかった。 よくも悪くも前時代的根性論と権威主義の塊りである馨が、姪とは言え、この家に於いては一介のメイドに過ぎない彼女の言葉を聞くとは思わなかったからだ。 馨の弟であり自分の父でもある輝(ひかる)は、温和で良識的ではあるが、それだけに兄へ諫言することは苦手としている。 我が親ながら不甲斐ない……とも思わないでもないが、桐生院グループの経済面を取り仕切る中心人物である輝と、当主たる馨の対立が好ましくないのも確かだ。 馨の妻である夕桐(ゆうぎり)がいれば、この状態を緩和してくれるかもしれないのだが、生憎体の弱い彼女は数年前から病院で伏せっている。 おっとり優しげに見えて、その実、裏では夫を尻に敷くたいした女傑なのだが、さすがに今の彼女に無用の心配はかけたくなかった。 あるいは、愛する妻の病状に対する苛立ちが、馨から息子に目を向ける余裕を奪っているのかもしれない。 そこで紫が頼ったのは、自分と葵の祖父であり、馨たちの父でもある老人、朱雀だった。 一見、小柄な白髪の好々爺に見えるが、この男、現在生存する桐生剣術の使い手で最強と呼ばれているのは伊達ではない。先代の当主であったこともあり、おそらく一族で唯一、現当主の馨が頭の上がらない相手だろう。 「ふむ。確かにワシから馨のヤツに言って聞かせるのは簡単じゃが……ことはそれほど単純でもない。外聞というものがあるからの」 聡明な紫には、それだけで祖父が言いたいことがわかった。 「一族への示し、ですか?下手に投げ出すと、葵が侮られる、と?」 「まぁ、今でも軽んじられているという意見もあるじゃろうがな。 しかし、たとえ結果が同じでも、歯を食いしばって努力を続けた者と、途中であっさり投げ出した者に対しては、人の心証がまるで違うからの。特に桐生院の人間は、良くも悪くもそういう熱血志向なトコロがあるじゃろ?」 なるほど、確かに……と、紫も否定はできなかった。 では、あの子にしてあげられることはないのか……と意気消沈する紫に向かって、朱雀老人はニヤッと笑ってみせる。 「そこで、コイツの出番ぢゃ!」 *** 「ええっと、どういうことなの、ユカねぇ?」 あれから祖父の部屋を辞した紫は、彼から渡されたある「物」を持って、葵の部屋へとやって来ていた。 「いえ、わたしにもよくわからないんだけど……」 ふたりの共通の祖父である朱雀から渡された漆塗りの文箱をパカッと開ける紫。 そこには、変色した和紙に魚と鳥がそれぞれ描かれた二枚の水墨画と、何やら書付のようなものが入っている。 「これが説明書だと思うんだけど……うわ、本格的な草書体だわ」 そりれでも、手習いの心得のある紫と、古典を読むのが好きな葵が協力して何とかその説明書(というより覚書?)を解読できた。 それによれば、この絵は二枚一組で「鳥魚相換の図」と呼ばれる、桐生院家に代々伝わる秘宝で、これを枕の下に敷いて眠ったふたりは、翌朝目が覚めると、他の人間には外見が入れ換わって見えるようになるらしい。 「う……うさん臭いわねぇ」 紫の意見ももっともだが、葵はさらに読み進めている。 「でもユカねぇ、一応使用例についても記されてるよ?一番最後は慶応元年だから、けっこう最近だし」 慶応と言えば江戸時代最後期の年号、明治のひとつ手前、いわゆる幕末だから、確かに大昔というわけではない。 「お爺さまによれば、わたし達の玄祖父は実例を目撃したことがあるそうなんだけど……」 祖父からは「わしの爺さんの話によれば、効果はあったそうじゃぞ」と聞いていたのだが、まさかこんな荒唐無稽な代物だとは思わなかった。 これは、元々は立場に奢って横柄な態度をとるドラ息子や高慢な娘を、使用人と一時的に入れ替えて懲らしめるための秘宝だったらしい。 幸いにしてここ数代の本家の人間には、そのような不心得者は出ていないため、秘宝の効果の真偽は祖父にもわからないらしいが……。 「でも、本物だとして、どうやって使えばいいんだろう?」 「ん?ああ、そんなの簡単よ。わたしとアオイちゃんの立場を入れ替えるの」 紫自身も、葵付きの侍女としての立場を利用して、できる限り葵の仕事を秘書的にサポートしてはいるのだが、葵の場合、量もさることながらその「仕事」のそのものにプレッシャーを感じているのだ。 いちばんの対処方法は、しばらく次期後継者としての仕事から遠ざけることだろう。 「えぇぇーーっ!?そんな……ユカねえに迷惑かけるの悪いよ」 「大丈夫よ。普段から手伝ってるし、少なくとも「仕事」に関する知識は、葵とほぼ同格だと思うわ」 確かにその通りだ。現在、葵に回ってくる「仕事」の書類にはすべて紫が目を通したうえで、優先度の高い順に葵に決裁その他の判断を仰いでいる。 また、決裁そのものに関しても葵は傍らの紫に意見を聞くことが多かった。 ──と言うことは、紫自身が「仕事」するほうが、むしろはかどるのでは? 「まぁ、その代わり、「仕事」に関わらないぶんの簡単な雑用とか、使用人としてのお仕事をアオイちゃんにしてもらうことになると思うけど……」 「うん、それは別にいいよ。むしろ、そういうお仕事の方が、僕好きだし」 どちらかと言うと、「言いつけられた作業を迅速かつ丁寧にやる」ことの方が、葵は得意だった。つくづく指導者に向かないタイプの子だ。 「ま、それもこれも、すべてはこのボロっちぃ絵が本物だったらの話よね。どう、アオイちゃん、試してみる?」 からかうように言う紫の言葉に一瞬考え込んだ葵だったが、すぐに大きく頷いた。 「やってみようよ、ユカねぇ。何もなければただの笑い話だし、もし本物だったら、めったにない不思議な体験ができるワケだし……」 「それはそれで面白いか。そうね!」 その夜、相談の結果、葵が魚の、紫が鳥の絵を枕の下に敷いて、各自の部屋で眠りについた。 ふたりとも、「鳥魚相換の図」の効能に関しては半信半疑──いや、三信七疑くらいのつもりではあったが、それでも何となくワクワクする気持ちは抑えられられない。 そして……ふたりが、ほぼ同時刻に眠りについた時、その場を見ている者がいれば、アッと驚いたに違いない。 ふたりが頭を置いている枕が、暗闇の中でボウッとほのかに光っていたのだから。 *** ──あれ……ここ、どこ? 少年は、自分が深い翠色をした水底にいることに気がついた。不思議なことに、水中であるにも関わらず、少しも苦しくない。また、寝る前に来ていた普段着姿なのに、水の抵抗もほとんど感じられない。 ──え!嘘っ?なに、ここ!? 頭上から聞こえてくる「声」に顔を上げると、姉代わりの少女の姿が水面越しに透けて見える。紫は、いつものメイド服を着たまま、なぜか空の上に浮かんでいるようだ。 ──ユカねえ! ──あ、アオイちゃん! ふたりが互いの姿を認識した瞬間、葵の身体が浮き上がり、紫の身体は逆に下降してくる。 ──ちょ、ユカねえ、スカート! ──へ……あ! 距離が近づくにつれ、お互いの姿がはっきり見えるのはよいが、位置的に微妙なことになってしまう。 ──アオイちゃん、見たわね? ──ふ、不可抗力だよ〜。それに遠かったし、ハッキリとは……。 完全に近づく前に少年が注意し、少女もスカートを押さえたので、確かにハッキリ目に焼き付いたという程ではない。 ──でも、ボンヤリとは見たんでしょ。色は? ──えぇと……その、白、かな。 ──!やっぱり見たんじゃない!! ──はわわ、ゴメンなさいぃ。 しかし、ほとんど手が届く距離まで来たところで接近は止まる。 ふたりは、水面を境にして、上下に分かれて会話することとなった。 ──それにしても……ここって夢の中、よねぇ? ──うん、多分。だって水の中にいても苦しくないし。 ──あ、そう言えばそうねぇ……って、ホントに大丈夫なの? あたかも水面が丈夫なアクリル板であるかのように、水の下と上に分かれて会話するふたり。 ──いずれにしても、これってきっと、あの絵の仕業よねぇ。これからどうしたらいいのかしら。 ──さぁ、僕に言われても。 ──ええぃ、頼りないわねぇ。ともかく、合流しましょ。ほら、手出して。 水面に座り込んだまま、少女は水面に手を差し伸べた。不思議なことに、その手はさしたる抵抗もなく水中に差し入れられる。 ──あ、うん。 少年が少女の手を取り、少女が少年を水上に引っ張りあげようとしたとき、ソレは起こった。 ザパーーーン!! 「「うわぁ!」」 派手な水飛沫とともに、少年と少女の悲鳴が重なる。 一瞬の後、少年は水上に引っ張り上げられたものの、その反動でか今度は少女が水面下に没してしまった。 さらに、先ほどとは逆に、ふたりの身体は、片や水底に沈み、片や空中へと浮かび始める。 「ゆかねぇーーー!」 「あおいちゃーーーん! だが、ふたりはどうすることもできず、互いの身体が離れていくのを見ているしかなかった。 やがて、その動きが止まり、最初に声をかけあった時と同じくらいの距離でふたりは対峙する。 と……。 「ぷっ!アオイちゃん、何それ?」 「へ?」 状況も忘れて噴き出す少女の言葉に、首を傾げる少年。 「あはは……アオイちゃん、自分の首から下、見てみなさい」 言われて反射的に視線を下に向ける少年。 そこには、屋敷で見慣れた黒いエプロンドレスを身にまとった自らの………… *** 「……ちゃん、起きて!アオイちゃん!」 耳元で小さな、しかし鋭い声で囁く女性の言葉に促されて、桐生院葵は目を覚ます。目の前には、見慣れた従姉、六道紫の顔があった。 「ふわぁ……おはよ、ユカねぇ」 「ん、おはよ……って、呑気にしてる場合じゃないのよ」 なぜか焦ったような口調で言う紫。 「うーーん、何かあったの?」 のほほんと聞きながら、眠っている間のことが何故か葵は気になった。 (なんだろう?何か変わった夢を見たような気がするんだけど……) と、昨晩見た夢の内容を思い出そうするのだが、よく思い出せない。 「しっかりしてよ。あのね、例の絵、本物だったみたいなの」 「え、ホント?」 ぽやぽやしてるように見えても、そこは現代っ子。さすがに葵も、「もしかしたら本物かも?」くらいのつもりでいたのだが、幸運にも(あるいは不運にも)、どうやら「鳥魚相換の図」は正真正銘、不思議な力を持っていたらしい。 「今朝早めに起きて、確かめてみたのよ……」 と、紫は自分の確認してきた事実を説明し始めた。 紫の話を整理するとこうだ。 今朝、1時間程前に目を覚ました彼女は、自分がなぜか葵の部屋のベッドに、彼のパジャマを着て寝ていたことを発見したのだと言う。 「コレはもしかして!」と思った彼女は、そのままの格好で台所へと顔を出してみたところ、朝食の準備をしていたメイド長(もっとも、この日本家屋では使用人頭という方がしっくりくる)が、「あら、坊ちゃん、どうしたんですか?」と聞いてきたらしい。 適当に話を合わせて葵のフリをしてから台所を出て、ほかにも何人かの人物と会ったが、彼の父も含めて誰もが、彼女をこの家の跡取り息子として接してきたそうだ。 「どうやら、例の絵は本物だったみたいよ」 「そうみたいだね。でも、僕、もし本当に効果があるとしたら、てっきりふたりの身体というか魂?が入れ替わるものだと思ってたよ」 「まさか身体はそのままで、立場だけが入れ替わるなんてねぇ。あ、でも、あの書付けが正しいなら、他の人には外見が入れ替わって見えてるのかもしれないわ。 ──ところで、アオイちゃん、ココまでの話を聞いて、何か気付かない?」 それまでの真剣な顔つきからうってかわって、紫は悪戯っぽい表情になる。 「へ?えーっと……あ!ココ、僕の部屋じゃない!!」 付け加えると、今まで彼が寝ていたのは紫のベッドだ。 「て言うか、この話の流れで今まで気づかなかったアオイちゃんのヘッポコさが、紫おねーちゃん、はてしなく不安だわ」 まぁ、目が覚めるなり、枕元に紫が座って話し出し、葵自身はまだ布団に入ったままだったから、仕方ないのかもしれないが。 「それと……ホラッ!」 バッ!と勢いよく紫が掛け布団をめくりあげると……。 「うわ、な、何コレ!?」 当然とも言うべきか、その中から現れた葵の身体は紫お気に入りのネグリジェを着ていた。 もっとも、マンガなどでよくあるピンク色したスケスケの扇情的なタイプではなく、コットン製のダボッとした長袖ワンピースみたいな代物なので、男の葵が着ていてもそれほど見苦しくはないが。 「ププッ、結構似合ってるわよ、アオイちゃん」 紫の言う通り、小柄で線が細く、優しい顔立ちの葵がそういう格好していると、むしろ本物の少女のようにさえ見えた。 葵が身長164センチで体重が49キロ。一方、紫が165センチで体重は「禁則事項」キロなので、互いの衣服を取り換えても、殆ど無理がないのも幸いしたのだろう。 「わ、笑わないでよ、ユカねぇ」 とは言え、それは傍から客観的に見ていればの話であり、思春期真っ盛りの少年本人にとしては、目が覚めたら女装していたなんて、恥ずかしくてたまらない。 しかも、先ほどまで気にもとめていなかったが、寝ていたベッドや着ているネグリジェには紫自身の匂い──愛用しているトワレとほのかな体臭が入り混じった香りが染みついており、それが彼の羞恥心をより刺激し、ヘンな気分になってしまう。 「あら、本当のことよ。そ・れ・に……」 手慣れた動作で、紫は葵から素早くネグリジェを剥ぎ取ってしまった。 「うわっ、なになに、ユカねぇ……って、あっ!」 いきなり裸にされた葵は抗議しようとしたが、ネグリジェの下から現れた自分の身体を見て固まる。 寝間着なのでブラジャーこそ着けてはいないものの、下半身にはしっかりライトパープルのショーツを履いていたからだ。 「あら可愛い。ホント、よく似合ってるわ、葵ちゃん」 数年前から身の回りの世話をしているため、紫にとっては少年の朝の生理現象も見慣れたものだ。むしろ、体格に見合った小さめの陰茎が女物のショーツの前をピンと膨らませている様は、倒錯的な愛らしさすらあった。 「うぅっ、ユカねぇ、ヒドいよ……」 「それは別にわたしが着せたわけじゃないでしょ。その位でメゲてちゃ、先が思いやられるわよ」 そう言いながら、紫はタンスから下着を一揃い取り出す。 「ま、まさか……それを僕に着ろ、と?」 「ンふ、せーかい。だって、傍目には今のアオイちゃんはわたしに見えるんだもん。女の子が女物の下着をつけるのは当然でしょ?」 紫の理屈自体は至極まっとうなモノだったが……。 「──ユカねぇ、ぜったい、楽しんでるでしょ?」 「えへへ、それも当たりかしら。いやぁ、小さい頃のことを思い出すわねぇ」 イトコ同士であり1歳違いの幼馴染でもあるふたりは、幼い頃からよく互いの家を行き来して遊んでいた。ふたりは本物の姉弟のように仲が良かったが、かわらしい弟を持った姉の何分の一かが持つ悪癖を、幼少時の紫も持ち合わせていたのだ。 すなわち──弟分を着せ替え人形にして遊ぶというヤツだ。無論、着せる服は紫自身のワードローブ類。 実際、紫の過去のアルバムには、どこからどう見ても愛らしい幼女にしか見えない葵と並んで撮った写真が、かなりの枚数収められている。 さすがに小学校に入ったあたりから葵が嫌がり出した(逆に言うと、それまではむしろノリノリだった。お姉ちゃんと同じカッコをできるのが嬉しかったらしい)ので、それ以降は封印された黒歴史になっていたのだが……。 (しかし、今、その封印を解き放つ!) ──どうやら、姉の方はずっと我慢していたらしい。 弟分が成長するにつれて、いかつく男らしくなってたなら諦めもついたのだろうが、何せ葵は電車で男に痴漢されたこともある程の、線の細い美少年だ。「一度でいいから、今の葵に女装させてみたい」という願いもわからないではない。 紫が放つ異様な迫力に半ば腰を抜かした葵がベッドの上をズルズルと後ずさりするが、呆気なく壁際に追い詰められ、水色と白のボーダー柄のショーツ(いわゆる縞パン)を履かされてしまう。 「へっへっへっ、おとなしくしろ〜、きむすめじゃああるまいし」 「言ってる事の内容は間違ってはいないけど、使う場所を激しく間違ってるよ!」 葵の抗議も意に介さず、ショーツとお揃いの柄のブラを彼に着せる。 「うんうん、よく似合うわよ、アオイちゃん」 「ぜんっぜん、嬉しくないよ……」 そう言いつつも、あきらめ顔で、スリップを受け取ってかぶる葵。 己れの羞恥心を度外視すれば、紫の言ってること自体は現在の状況下では真っ当なものだし、それに従うのもやぶさかではない。 ──もっとも、紫がノリノリで楽しんでいることには、いまいち納得がいかないが。 「さて、次はアレね」 「アレ、ですか……」 壁にかけられたその衣装(コスチューム)をふたりの視線が捉える。 その視線の先にあるのは、肩の部分がパフスリーブになった紺色の長袖ワンピースと、フリルでかわいらしく縁取られた白のエプロン。首元の赤いリボンタイがアクセントだ。 俗に「メイド服」と呼ばれる代物である。 「今日は土曜だから学校はないけど、使用人としてのお仕事は夕方5時まであるから。それ以降と明日はお休みなんだけど……」 「うん、わかってるよ、ユカねぇ」 学年首席の姉貴分ほどではないにせよ、彼だってそれなりに頭は良いほうだ。今の葵は傍目には紫にしか見えないのだから、ここで彼がダダをこねれば、紫の評判に影響する。その程度のことは葵だって十分理解していた。 溜め息をつきながら、自らのメイド服を着せけてくる紫に身を任せる。 「──で、頭にカチューシャを付けて完成、っと。あ、忘れてた。えーと……」 再びタンスをゴソゴソ漁る紫。 「はい、ストッキング。これくらいは自分で履けるでしょ」 「そりゃ、まぁ……」 前後だけ紫に確認してから、葵はベッドに腰掛け、メイド服のミディ丈のスカートをめくりあげた。 (あ……) 男にしては生白く、すね毛もほとんど見当たらない自分の脚が、黒いスカートの中から突き出ている様は、なんだか妙に扇情的だ。 僅かに目を逸らしつつ、葵は紫に教わったとおり黒いパンストを履く。 伸縮性の強いナイロン繊維が、つま先、くるぶし、ふくらはぎ、太腿と順に包んでいく感触は、不思議な心地よさがあった。 視覚的にも、スラリとした足が黒いナイロンの細かい網目に覆われていく様子は予想以上に艶めかしいが、極力意識しないよう努める。 それでも、パンティ部分を腰まで引き上げた時は、その優しく締めつけるような刺激に思わずショーツの中の分身が反応しそうになったため、慌てて頭の中で素数を数える。 「は、履いたよ」 「どれどれ……うん、よし。じゃあ、アオイちゃん、ごたいめーん!」 頭のてっぺんから足先まで彼の姿を眺めた紫は満足げに頷き、背後から葵の両肩に手を置いて姿見の前に押しやる。 「え、ウソ……」 鏡に映る自分の姿を見て硬直する葵。 見苦しかったわけではない。むしろ真逆で、あまりに自然だったのだ。 化粧ひとつしてないにも関わらず、そこに映るのは、どこからどう見ても気弱そうなメイド少女そのものだった。 「似合うとは思ってたけど、これ程とはねぇ。つくづくアオイちゃんは生まれて来る性別を間違えたと思うわ」 普段そうからかわれた時は、すぐさま否定するのだが、この時の彼は自失状態だったせいもあって、つい素直に頷いてしまう。 「うん、そうかも……」 「へっ!?」 かえって紫のほうが驚いてるようだ。 おかげで、葵は自分を取り戻すことができ、クスリと笑った。 「でも、よく考えると、今の僕って、他人にはユカねぇの姿に見えるんでしょ?別に僕自身が似合うかどうかは関係ないんじゃないかなぁ」 「うーん……でも、身だしなみをキチッとしてるかどうかは、わかるんじゃない?」 成程。それも道理だ。 ベッドに並んで腰かけ、互いに今日の予定について話し合う。 「じゃあ、わたしもアオイちゃんの部屋に行って普段着に着替えてくるから。アオイちゃんは……そろそろ台所に行って春季さんのお手伝いしてきて」 本来、紫の仕事は葵付きの侍女兼秘書だ。皿洗いや配膳くらいならともかく、厨房の手伝いまでする義務はないのだが、謙虚な彼女は他のメイドの仕事もできるだけ手伝うようにしていた。 「うん、わかった」 「あ、それとしゃべり方にも気をつけてね。アオイちゃんは、あんまり乱暴な言葉遣いするほうじゃないからいいけど、自分のことを「わたし」って呼ぶのと丁寧語を心がけて」 「ええ、わかりましたわ、あおい様……こんな感じ?」 「ププッ、何それ、似非お嬢様っぽい。普段はそこまでしなくていいけど……いや、そのくらい心がけてるほうが、ボロが出なくていいかな。 じゃあ、またあとで会おう、ゆか姉!」 ウィンクひとつ残して颯爽と部屋を出ていく紫──「あおい」を見送った後、葵も覚悟を決め、「ゆかり」として台所を手伝いにいくのだった。 紫のメイド服を着た葵は、廊下を歩きながら窓に映る自分の身体をチラチラと見ていた。 (うーーん、なんて言ったらいいか……) 似合っている。それを着ているのが高校2年生の少年だとは思えないくらいに。 中学生くらいまでならともかく、高校生ともなれば男性は少なからず、いかつく筋肉質になり、手足が筋ばってくるものだ。 無論、遺伝や運動その他の諸条件で多少の個人差はあるだろう。実際、葵とて一族の中ではあまり得手ではない方だとは言え、まがりなりにも桐生剣術の基礎くらいは修め、毎日素振りなどもしているのだ。 普段、学ランなどを着ている時は、多少小柄ではあるが普通の少年に見えるし、裸になれば、その細い身体が、バランスよく鍛えられたしなやかな筋肉で覆われていることがわかるだろう。 ところが、今のように身体の大半を覆う衣服、それも女物を着てしまうと、優しい印象の整った小顔と、華奢な体つきのために、完全に女の子に見えてしまうのだ。 自分でも多少自覚はあったので、中学の頃から文化祭などで女装させられそうなイベントなどは巧みに回避してきた葵だったのだが……。 (なんでだろう。ユカねぇの服を着ることにはあんまり嫌悪感がないんだよねー) さすがに自分から進んで着たいとは思わないが、自室で紫が着せてくるのには殆ど抵抗しなかったし、今もそれほど違和感はない。 ひとつには、小さい頃から慕っている姉代わりの女性の着衣だから、というのはあるかもしれない。 こうやって紫のタンスから取り出した彼女の下着を身に着け、昨日まで彼女が着ていたはずのメイド服をまとっていると、何だか優しい彼女の腕の中に抱きしめられているような、奇妙な安心感があるのだ。 (それに……女性の服って、肌触りとか着心地がいいんだよね) 幼い頃の遠い記憶が甦る。当時、紫の家で彼女のお古を着せられた時は、周囲の人がみんな「可愛い可愛い」と褒めてくれた。 「そうしてると、紫ちゃんと葵ちゃん、まるで姉妹みたいね」と言われてうれしかった。 (たぶん、僕は……ユカねえの「弟分」じゃなく「妹」になりたかったんだ) あるいは、紫の分身に──紫みたいな素敵な人に。 そして、紫の服を着ている時だけは、その願いが叶うような気がしていた。 けれど、大きくなるにつれ、それは単なる幻想に過ぎないと知り、その時から、葵は「紫の妹」であろうすることを諦めたのだ。 「その願いが……まさか、こんな形で叶うなんてね」 元に戻るまで、葵は自分達以外のすべての人に「六道紫」として扱われるのだ。 いや、自分と本物の紫でさえ、人目がある時は、それぞれ今の「立場」にふさわしい言動をせねばならないだろう。 それは、必ずしも容易ではないが、今の葵にとっては、単に「次期当主」の責務から解放されたという以上にワクワクするような状況だった。 そうこうしているうちに、台所の前まで着た。 なんとなくカチューシャの位置やエプロンのリボンを確認してから、意を決して葵は台所の扉を開けた。 「お、おはようございまーーす!」 途端に朝の厨房特有の熱気と食物の匂いが鼻をくすぐる。 「あら、紫さん、今朝は珍しく遅かったわね」 コンロの前で味噌汁の味見をしてたと思しき30歳くらいの女性──メイド長の牧島晴香が、ちょっとだけ驚いたような声を投げかけてくる。 ![]() ![]() ![]() ![]() |