Can't Stop Fallin' in Love 中編(非エロ)
-3-
シチュエーション


俺の言葉を受けて、綾咲の腕が腰に回される。
きゅっと巻き付いてくる両の腕。風に乗って届く髪の香り。そして背中には柔らかい感触。
押しつけられた二つの固まりは、少し弾力があって心地いい。

……………………………………………………。

えーと。これはあれですか? 二次性徴を迎えた女子が所有するというこの世の男性が愛してやまない嬉し恥ずかしの双丘ですか?
つまり胸? 医学的に言うなら乳房? もっとわかりやすく言うならおっぱい?
おっぱい! おっぱい!
無意識に全神経が集中した背に強く自己主張してくる、ふにふにした二つの膨らみ。
なるほど。噂通りなかなか大きいおっぱい! おっぱい! …………じゃなくて!

……落ち着け俺。そんなことに気を取られてる場合じゃないだろ。よし、気を取り直しておっぱい! おっぱい!
…………冷静になれ俺。精神を統一し邪念を捨てておっぱい! おっぱい!
駄目だ。思考が使い物にならなくなっている。このままだと冗談抜きで交通事故必至だ。
そのまま昇天しようものなら、死亡診断書にはこう書かれるに違いない。

『篠原直也    死因・おっぱい! おっぱい!』

それだけは避けねば。

「……あの、綾咲さん? もう少し離れてはいただけませんでしょうか?」

気力を振り絞り、何とか要望を伝える。たったそれだけのことに恐ろしいほどの精神力が必要だった。
もちろん視線は前方に向けたままだ。今こいつと目を合わせたら死ぬ。いやマジで。

「あ、ごめんなさい。力入れ過ぎちゃいました」

巻き付いていた腕は腰を掴むだけに変わり、背中から暖かな感触が消える。
ちょっと惜しかったかなという思いが頭に浮かんだが、慌てて振り払った。
一度肺を冷たい空気で満たし、ゆっくり吐き出す。徐々に思考がクリアになっていき、本来の姿を取り戻す。
残り時間、ロスタイムを含めて13分20秒。

「よし、行くぞ綾咲!」
「はいっ。では由理さん、ごきげんよう」
「ん、じゃね。篠原、死ぬ気で走りなさいよ」

言われるまでもない。

「グローバルスタンダード号、発進!」

そして俺はペダルを踏み込んだ。

ゆっくりと車輪が回り始めたのも束の間、与えられた推進力を素直に受け取って、自転車が加速し始める。
また混雑していない車道を駆け抜けていく、俺と相棒と高級積載物(取り扱い注意)。
チラリと後ろに目をやると、小さく手を振っている葉山の姿が見えた。

「篠原くん、ちょっとスピードを出しすぎなのでは?」

投げ掛けられた言葉に吹き出しそうになる。確かに現在の速度は並の人間の全速力に近い。
しかし俺は、

「何を言っている。こんなもん序の口だぞ。車で言うならセカンドギアだ」

そう返しながらニヤリと口の端を吊り上げる。お楽しみはこれからだ。
駅前から離れたことを確認すると、俺は更にスピードを上げる。唸れ! グローバルスタンダード号!
俺の意志に答え、更に加速する相棒。風を切る音が聞こえ、景色が早送りされていく。
二人分の体重などものともせず、俺達を乗せた自転車は爆走する。

「む?」

だが、そういつまでも気持ちよく走らせてくれないのが日本の交通事情。白いセダンの不法駐車が我々の行く手を阻む。
回避しようにも、対向車線にも車の影があり、歩道には人の姿が。このままではスピードを落とさなければならない。
だがこんなところで時間をロスするわけにはいかない。

「綾咲、手を離すなよっ!」

一方的に告げると、更にペダルに力を送り込む。ここからが俺の腕の見せ所だ。
校内自転車競争タイムアタック記録保持者は伊達じゃない!
ガードレールの切れ目を見計らって、進路を歩道と変更する。乗り上げた際に衝撃が身体を揺さぶったが、構わず爆進。
俺は知覚能力を全開にして、歩行者との距離を測る。
後方に自転車が近づいていることも知らず歩いている女子高生が二人。
左右に広がっているため、一見、自転車の通り抜ける隙間などありそうにない。
しかし、二人はぴったり並んでいるわけではなく、微妙に前後に開いている。これならいける!
俺はまず右に寄って一人目を回避し、巧みなハンドル操作とガードレールを蹴ることによって急激な進路変更を試みる。
狙いは二人目の女子高生の左側と民家の塀の隙間!

「ひゃあ! な、何!?」

誤差1センチ。ほぼ頭に描いた理想の軌道で、俺は女子高生の脇をすり抜けた。
ごめんよ、びびらして。苦情は24時間いつでも受け付けます。連絡は路上駐車の白いセダンまで。
再び車道に戻り、障害物のないだだっ広い道を走りながら、先程の技の出来を反芻する。
久々のアクロバット走行だったが、腕は鈍っていなかったようだ。
ま、あの程度はクリアして当然なのだが。でなければ今年の校内自転車競争でトップを取ることなど出来ない。
1−F前のジグザグ30コーン階段落下付きはマジで死を覚悟したからな。

……改めて考えてみると、校舎内で自転車競争を許可するあたり、ものすごく変わっているんじゃないだろうか、ウチの学校。
と、そこでやけに後ろが静かなことに気付く。前方の安全をしっかり確認してから恐る恐る綾咲の顔を伺うが、その表情はわからない。
しかし制服を掴んでいた腕はいつの間にかしっかりと腰に回され、俺にしがみつくような形になっていた。
うーむ、怯えさせちゃったか? 初めて俺の後ろに乗ったんだから仕方ないけど。
背中に意識を向けないようにしながら(今錯乱したら事故確定)そんなことを思っていると、急に綾咲が顔を上げた。

「篠原くんっ!」

近づいた視線に身を引きそうになるが、自転車に乗っているのでそれは不可能だった。
戸惑う俺を気にした風もなく、綾咲は勢いそのまま――

「自転車って楽しいですねっ」
「は?」

満面の笑みで答えた。

「まるでジェットコースターみたいです」
「……そうか?」
「はいっ!」

頷いた綾咲の顔は、興奮のためか上気している。
しかし言うに事欠いてジェットコースターとは。初心者のくせに生意気な。
なるほど、お嬢はこの程度のスピードじゃ満足できないと申されるか。よかろう、その挑戦受けて立つ!
周囲を見回すと、覚えのある風景がちらほらしている。そろそろ雪ヶ丘だ。ゴールも近い。
最後に全力を振り絞って、こいつに敗北を味わわせてやる。ぴーぴー泣きわめいても止まってやるほど優しくないぞ、俺は。

「さっきの発言、後悔するなよ」
「え? 何がです?」

俺は綾咲の疑問には答えず、更にペダルを深く踏み込んだ。

「うおりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

気合い一番全力全開。推力、慣性、搭乗者の技術。それらが三位一体となって、俺達を最速の世界へと導く。
町並みはビデオの早送りのように流れ、風を切る音と車輪の回転する音、それだけしか耳に届かなくなる。
鋭敏になった五感は周囲の危険をいち早くキャッチし、脳が最速のルートやライン取りを叩き出す。
相棒は俺の無茶な運転に忠実に応え、また俺も魂が燃え尽きるほどの力を相棒に注ぎ込んだ。
もっとだ、もっと早く!
走れグローバルスタンダード号! あの光を目指して!

「あの、篠原くん」
「越えろ音速! 突き抜けろ亜光速! 相対性理論をぶっちぎれ!!」
「もしもーし? 聞こえてないのかしら?」
「何人たりとも俺の前は走らせねぇぇっっ!」
「もう。耳元で思いっきり叫んで差し上げようかしら。…………篠原くんっっ!!」
「うぉっ!」

突然の大音量に、俺は反射的にブレーキを掛けた。キィーという耳障りな音と共に、自転車がゆっくりと減速する。
チッ、もう少しで未知の世界が見えてきそうだったのに。誰だ水を差した奴は。
振り返ればそこには綾咲の姿。当たり前か、俺の後ろに乗ってたんだから。すっかり忘れてたけど。

「どうした? 乗り物酔いか? それとも二日酔いか?」
「いえ、そうではなくて」

綾咲はゆっくりと俺の身体から腕を放すと、今まで辿ってきた道の向こうに目を送った。

「私の家、もう過ぎちゃったんですけど」

…………………………………………………………はい?

彼女の言葉が頭脳の奥に浸透するまで、しばらくの時間が必要だった。
一陣の冷たい風が高級住宅街を通り抜けていく。

「………………あー、それっていつのこと?」

小さな唇から、残酷な事実がもたらされる。

「ずいぶん前になります」

この時、腕時計は午後4時14分を指していましたとさ。

「…………………………………………」

しばしの思考停止。そして。
しまったぁっ! この俺としたことが、何たるミスを!!
もっと早く教えてくれよ、などという情けないセリフは絶対に口に出せない。
綾咲を送り届けるという任務をすっかり忘れてしまっていたのは俺自身なのだ。
その原因はアクロバット走行を体験しても平然としていた綾咲への対抗心だし。
仕舞いにはそれすらスピードへの欲求にすり替わってたし。
今だけは素直に認めよう。俺は阿呆だ。

「スマンごめん悪かった! すぐ引き返します後でひたすら謝ります」

臨時の先生とやらが気の長い人物ならまだ待っていてくれるかもしれない。一縷の希望を持って、ハンドルを切り替える。

「篠原くん、少しお待ちくださいな」
「はいっ!」

しかし綾咲の制止の声が掛かり、俺は発進体勢のまま硬直する。
やはり無理ですか? 許してはくれませんか? もしかしてヤキ入れですか?
不安を胸一杯に抱きながらチラリと横目で伺うと、綾咲は何やら物思いに沈んでいるようだった。
俺を撲殺する一番効率のいい手段を検討中なのかっ!?
いや、彼女はそんな娘じゃない。そこまで葉山に毒されていない…………たぶん。
安全を確信するために勇気を出して正面から見つめると、綾咲は何やら迷っているようだった。
いや、迷っているというより、決心を固めているような、そんな雰囲気。予想していたどれとも違う様子に戸惑ってしまう。
するとそんな俺を面白がっているかのような、いたずらっぽい表情で綾咲が笑った。

「ね、このままサボっちゃいましょうか?」

俺を仰天させる言葉と共に。


緩やかな坂を上りきると、数年前に造られた『雪ヶ丘公園』という名の公園がある。
鉄棒と滑り台しか備えられていない、高級住宅街に存在するにしては簡素な広場だ。

「着いたぞ〜」

綾咲に声を掛けて合図しながら、徐々にスピードを落としていく。公園には俺達以外誰もいない。
まだ日没前だというのに、この辺りの子供達はもう帰ったのか? それとも家でゲームか? 塾か? 出会い系サイトに夢中なのか?
などとどうでもいいことを考えながら、自転車を止める。
先に降りた綾咲を追うように園内へ入り、奥にあるベンチに腰を下ろした。
ため息と共に疲労を吐き出しながら、ここに来た経緯を思い出す。

『それで、サボタージュってこの後どうすればいいんでしょうか?』

サボろうと言ったものの、突発的な思いつきだったらしく、何処へ行くかまでは考えていなかったらしい。
好きにすればいい、と答えると、

『それでは、篠原くんのお好きなところに案内してくださいな』

そう返してきた。
一瞬本気で近所のスーパーの特売に連れて行こうかと思ったが(本日の目玉・トイレットペーパー198円お一人様一個限り)、
何とか誘惑を振り切り、現在に至る。
この場所を選んだ理由は近場で、金のかからないところという、ただそれだけである。
公園で二人きりなどいかにも学生の放課後デートシチュエーションだが、他意はない。
いや、あるいは葉山との契約が頭の隅に残っていたのか?

……いかん。あの魔女の思い通りになってきているぞ。

吹き付けてきた風に身を震わせる。ものすごい悪寒。
葉山め、俺をここまで恐怖させるとは。12月とはいえ、この寒さは異常だぞ。

……そういや、全力疾走して汗かいてたなぁ、俺。

冷たい風にビュンビュン煽られ、体温が容赦なく奪われていく。
まさかこんな町中で凍死か? 冗談じゃないぞ。だがあり得るかもしれん。今年の冬は寒いらしいし。
マッチ売りの少女もこんな気持ちだったのだろうか?
少女よ、売るならカイロにしなさい。間違っても微炭酸飲料を販売してはいけないよ。

「はい、どうぞ」

急に掛けられた声で我に返る。急激な温度変化にまた思考が乱れていたらしい。
差し出された綾咲の手には、液体が揺れる銀色のコップが。
表情から俺の意図を察したのか、左手に持った同色の筒を見せながら続ける。

「紅茶です。朝に作ったので、もうだいぶ冷めていると思いますけど」

謙遜なのか、はたまた俺の身体が冷え切っていたのか、受け取った紅茶は充分すぎるほど暖かかった。
よほど高性能な魔法瓶に違いない。冬山遭難用か? いやそんな物あるか知らないが。

「ありがてぇ〜」

心の底から感謝しながら、コップを受け取る。紅茶を胃の中に流し込むと、身体の奥の凍えが取り払われていった。

「もう少し残ってますけど、飲みます? あと一杯分くらいしかありませんけど」
「ありがたくいただきます」

反射的におかわりも頂戴してしまう。
綾咲の厚意に甘えまくっているが、仕方ないんです。
時間内に彼女を送り届けるという依頼を達成できなかったから、報酬の喫茶店全メニュー制覇も夢の彼方へと消えたのです。
だから別の方法で消費したエネルギーを補給するしかないんです。
言い訳を並べ立てて罪の意識を沈静化させながら、今度はゆっくりと液体を口に運ぶ。
うん、美味い。銘柄まではわからんが、高級な葉を使っているようだ。
これを毎日飲んでたら、パックの紅茶など飲めなくなるだろうなぁ。

……………………毎日?

脳内でもう一人の俺が警鐘を鳴らしてくる。何かとんでもないことをしているような。
落ち着いて整理してみよう。
綾咲が持っていた紅茶。朝に作った。残り少ない。誰が飲んだ? 何に入れて飲んだ? 俺に渡されたコップ。
これらから推測される結論。間接キ

「篠原くん」
「ひゃいっ!? いかがいたしなされましたでせうか!?」

いきなり話しかけられ、少女のような悲鳴を上げてしまう。
当然、綾咲は突如挙動不審に陥った俺を怪訝な顔で見やった。

「? どうしたんですか? 声が裏返ってますよ」
「いいえ何ともありませんよ塵ほども動揺してませんよ植物のように心穏やかですよ?」

早口で捲したてながら何とか綾咲の興味を持たさぬよう試みる。冷静とは180度かけ離れた態度だが、今はこれが精一杯。
あなたは大切なものを盗んでいきました。僕の平常心です。

「そうなんですか?」
「そうなんです。お茶ごちそうさま」

綾咲に空になったコップを押しつけると、この話題はおしまいとばかりに口をつぐむ。
幸いにしてそれ以上の追求はなく、彼女は魔法瓶を鞄に戻した。
よーし、どうにか乗り切ったぞ。
危機が去ったことに安心して力を抜くと、急に疲れが押し寄せてきた。
綾咲よぉ、俺を信頼してくれてるんだろうけど、もう少し警戒心持とうや。

「篠原くん、夕焼けですよ。ほらっ」

口に出さない思いはもちろん通じることはない。
無邪気な声に振り返ると、いつの間にかお姫様はベンチのすぐ後ろにある手すりに寄りかかっていた。

「気を付けろよ。落ちると危ないぞ」

大丈夫だろうとは思ったが、一応注意しておいた。
この公園は高台にあるため、柵の向こうは急な斜面になっている。
下は柔らかい草が生えているので転げ落ちても怪我することはないだろうが、念のため。

「わかってます。私、子供じゃないんですよ」

綾咲はふくれっ面をしてみせるが、すぐに機嫌を直して眼下の景色に向き直ると、見覚えのある建物を指さす。

「あっ! あれって学校ですよねっ」
「そーだな」

入り口とは逆方向になるここからは、街が一望できる。
俺達が通っている学校、もうすぐ混雑し始めるであろう駅前、さっきまで買い物をしていたショッピングモール、一軒家やアパートが並ぶ住宅街。
全てを夕日の赤が染め上げていた。

「家も、学校も、すごく小さい……。ふふっ、ここから見てると、あそこで授業受けたり、おしゃべりしてるなんて信じられませんね」

遊園地に連れて行ってもらった子供みたいなはしゃぎ様に、呆れてため息を吐く。

「初めて見るわけじゃあるまいし、そんなに珍しいものでもないだろうに」
「え? ここに来たのは初めてですけど」

意外な返答。あれ? でも確か……。

「そうなのか? 家の近くなのに?」
「こちら側にはあまり詳しくないんです。学校も駅も、反対方向でしょう?」

あぁ、納得。この辺って民家しかないからなぁ。
子供の頃から住んでいる俺と違って、綾咲はまだこっちに来てそんなに経ってないから、無理もないか。

「だからこの公園のことも知りませんでした。こんなに眺めのいい場所があったなんて」

そんな大層なものでもないぞ。
しかし言葉は音にならず、吐息となって宙を舞った。
何故なら――

「篠原くんのおかげ、ですね」

振り向いた綾咲が、とても柔らかな笑みを浮かべていたから。

「…………さあな」

やっとそれだけ絞り出して、視線を外す。夕日が少し眩しかった。茜色の空を、雲がゆったりと泳いでいる。

「似たような所なんて他にも山ほどあると思うぞ」
「どんなに似ていても、同じではないでしょう?」

苦し紛れの誤魔化しは、やはり彼女には通用しない。

「ここからの景色は、この公園だけのものですから。だから素敵なんですよ」

戻した瞳に飛び込んできた綾咲の笑顔が、とても素直で。
それはきっと、己を虚飾で覆うことに必死になっていた俺が、既に失くしてしまった気持ちで。
だから。

「……そうだな」

控えめに、頷いた。
口に出してしまえば、馬鹿らしくなるくらいに簡単だった。
やれやれ、俺はどうして意地になってたんだろうね? 別にムキになって否定するものでもないだろうに。
ベンチから立ち上がり、綾咲の隣へ行く。見慣れた風景を普段とは違った感情で眺めるのも、いいかもしれない。そんな思いが胸によぎった。
綾咲に影響受けたな、これは。
手すりに体重を預けながら朱色に染められた街並みを目に写していると、懐かしい情景が甦ってくる。
子供の頃、同じようによく夕日を眺めていた。
世界が己の物になったような錯覚と、世界で一人きりになったような孤独感とを、同時に味わいながら。
そんな感傷も年を経るにつれ、次第に削り取られてしまったが。
今訪れているのは、その時とはまったく別の感情だった。
たまにはこんな静かな時間を、誰かと一緒に過ごすというのも――
チラリと横目で盗み見た彼女が、本当に楽しそうな表情を浮かべていたから。

「――悪くないのかもな」

そう思った。多分、心の底から。

一瞬強い風が吹いて、綾咲の髪が翻る。踊る髪を押さえるその姿さえ嬉しそうで、我知らず笑みがこぼれた。

「どうかしました?」

掛けられた声で現実に引き戻される。いつの間にか彼女と目が合っていた。
ずっと綾咲を凝視していたことに今更ながら気付き、顔面の温度が急上昇する。

「え、あっと」

慌てて取り繕おうとするも、うまい言葉が出てこない。
視線も何故か彼女から外れてくれず、身体は魔法をかけられたように固まったままだ。

「篠原くん?」

綾咲の小首を傾げる仕草で、互いの顔が想像していたよりも近かったことを知る。
そんなはずもないのに、さらさらと揺れた髪の香りさえ届きそうに感じた。
それだけじゃない。瞬きする瞳、夕焼けの色を纏った頬、小さく開いた唇、何気ない動作のひとつひとつから目が離せない。

マズイ。マズイマズイマズイマズイ! 何だかわからんがこのままの状態は非常に危険だ!
緊急警報発令! 緊急警報発令! 血圧が臨界点を突破しました! すぐに遮断して! 駄目です、間に合いません!
心拍数が危険領域に到達! レッドアラームレッドアラームすっげー!
うお、尋常ではなくうろたえてるぞ俺。これが夕日の魔力か? レジデントオブサンの陰謀なのかっ!?
つまりよこしまな気持ちがダンシンインザサンしてこの胸で暴れて止まらないのも、みんな太陽がさせたことだったんだよ! な、何だってー!?
ああ俺壊れてる。間違いなく壊れてる。今期一番の錯乱っぷりだ。いかん、早く冷静にならなくては。
しかしクールになれと念じようが、九九を唱えようが、今月の出費を計算しようがまったく効果無し。心臓には相変わらず天変地異が巻き起こっている。
どうしたらいいの? 教えて神様。教えてMr.sky。
全身全霊で祈るが、この世には神も仏もいないらしい。
打開策も打ち立てられぬまま、いたずらに時間は過ぎてゆく。これ以上黙っていると綾咲が不審に思うだろう。
ええい、こうなったら出たとこ勝負だ! 意味不明のセリフを口走る可能性が高いが、その時はその時だ。
綾咲よ、心して聞くがよい! 俺の想いの内が今ここに!

「綺麗だな……」

口をついて出たのは、そんな言葉だった。
あれ? 意外に普通だ。いや、違うだろ。この状況でこんなこと言ったら、まるで――

「そうですね。私、夕焼けを見るのって久しぶりです。篠原くんもですか?」
「あ、ああ。なかなか機会が無くて」

微笑みと共に返された彼女の言葉に拍子抜けしながらも、反射的に同意を返す。

「不思議ですよね。こうすれば時間なんてすぐ作れるのに」
「わざわざそれだけを見ようって気にはならないんだよな」

取り留めのない会話を交わしている内に、徐々に心臓の鼓動がペースダウンしてくる。
彼女が誤解してくれたおかげで、何とか恐れていた事態は免れたようだ。

…………誤解、か? そうじゃないよな? あのセリフに他意なんてない。ただ、夕日を見た感想を述べただけだ。

自分にそう言い聞かせながら、後ろ向きに一歩二歩と下がっていく。ベンチに腰を下ろすと、ようやく全身の緊張が解けた。

はぁ、と長く深いため息を吐く。本当に疲れた。綾咲にはいつもペースを乱されっぱなしだが、今回のは極めつけだ。
いや、あいつが何をしたってわけでもないから、俺の独り相撲か。
どっちにしろ、このままではいけない。天然な綾咲の行動にいちいち動揺していたら体が持たない。もっとタフにならないと。
そう、生まれ変わるのだ! クールでタフなナイスガイに! 今が革命の時。大丈夫、僕なら出来る。
古き未熟な殻を打ち破り、雄々しきハードボイルドの扉を開くのだ!

「篠原くん、ちょっといいですか?」

顔を上げると、綾咲がこちらを窺っていた。
ちょうどよい。進化した篠原直弥改め新・篠原直弥の平静っぷりを、この無防備小娘にとくと拝見させてやろう。

「ハハハ。どうしたんだい? 何か気になることでもあるのかな?」

さすがは新・篠原直弥。受け答えに微塵の狼狽も表れない。何やら間違った方向に進化を遂げてしまった気もするが、それは諦めよう。

「学校に誰もいないみたいなのですけれど、どうしてなのでしょう? 部活が終わるにはまだ少し早いのでは?」

俺は無意味に白い歯を輝かせながら、親指を立てて朗らかに答えてやった。

「それはね、期末テスト前だからさっ!」

だから本当は勉強しなきゃいけないのさっ!
進化したとか言って喜んでる場合じゃないのさっ!

……。
…………。

「……………………」

落ち込んだ。すごく落ち込んだ。ずーんと心が重くなった。恐ろしく肩が下がった。

「やなこと思い出させるなよぅ」

涙目になりながらベンチ下の雑草をプチプチむしる。
え? 何事にも動じない新・篠原直弥じゃなかったのかって? 彼は1分も経たずに木っ端微塵になりました、はい。

「ご、ごめんなさい。篠原くんってそんなに勉強苦手でした?」
「得意教科なら問題はないが、不得手の英語と数学は赤点付近をさまよう鎧です」

ちなみに綾咲は学年10位以内にいつも名を連ねる優等生である。
しかも全教科まんべんなく高得点という隙の無さ。入る学校間違えてるよな、絶対。

「でも篠原くん、数学と英語の授業の時、寝ていませんでした? 苦手なら聞いていた方がいいのでは?」
「苦手だから寝てるんだよ。起きててもチンプンカンプンだし。
つーか綾咲、お前こそ真面目に授業受けてるだけじゃ、あそこまで点数は取れないだろ。

どんな裏技を使ってるんだ? 先生怒らないから正直に話しなさい」
俺の言いがかりに綾咲は困ったような表情で、

「と申されましても……普通に復習しているだけですよ? それと、前の学校はもう少し進んでいましたので」

我々の現在地など既に一年前も昔に通り過ぎていたのか。凄まじくレベルの高いところだな。

ふと、疑問を覚える。綾咲は何故こんな田舎の町に移り住むことに決めたのか。
思いつきなどではないだろう。両親の説得だって大変なはずだ。
彼女の振る舞いや言動からは、厳しく、かつ大切に育てられてきたのが窺える。きっと反対されたに違いない。
しかしその制止を振り切って、綾咲はこの街に来た。
理由を聞いてみたい。激しい欲求が胸に渦巻き、突き動かされそうになる。そしてそんな自分に、俺自身がひどく驚いていた。
いつもなら興味を引かれても、口に出そうなんて思わなかったろう。他人の事情に足を突っ込むと、引き返せなくなるから。
猫だって好奇心に殺されるのだ。死ぬとわかっている箱に入る必要はない。

「綾咲は……」

けれど俺は一歩、

「どうしてこっちの学校に転校してきたんだ?」

踏み出していた。
いきなりの問いに綾咲は目を見開いてきょとんとしている。そりゃそうか。知り合ってから半年以上経つのに、今更だもんな。
時間が経つにつれ、聞くんじゃなかったという後悔が強くなっていく。
やっぱいいや、そう口を開きかけたときだった。

「友達がいなかったんですよ」
「……え?」

想像もつかなかった答えに思考の全てが霧散する。聞き違いかと綾咲に顔を向けるが、彼女は穏やかな表情で、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「友達がいなかったんです。あまり他の人には教えてませんけど」

知っているのは由理さんくらいですよ、と綾咲は微笑む。言っている内容とは裏腹に、彼女の振る舞いは明るい。

「えーと。何というか……悪いこと聞いたか?」
「いいえ。どうしてです? ……あ、篠原くんが考えているような理由ではありませんよ。いじめが原因ではないですから」

俺の内心を読みとったらしく、訂正してくる。その口調に陰りは窺えない。
辛い思い出ではないみたいだな。
いつもみたいに瞳を覗き込むようにして、綾咲が尋ねてくる。

「少し長くなりますけど、構いませんか?」
「それはいいんだが。別に話したくないなら話さなくてもいいぞ」
「どちらかと言えば、篠原くんには聞いてもらいたいです」

ぐ、と喉が詰まる。そんな風に返されたら、今更質問を取り消しなんて出来そうにない。
はぁ、これも自業自得か。ま、そんな重いエピソードでもないみたいだし、気楽に耳を傾ければいいさ。
俺の頷きを受け、綾咲は何から話すか一瞬迷うような素振りをして――ゆっくりと語り始めた。

「私、ずっと女子校に通っていたんです。幼稚園から大学まで一貫式の」

そういえば葉山からそんな話をされた気がする。ずっと女子校通いだったから、男に対する免疫がないとか何とか。
だから『昼休み案内事件』などというものが起きたわけで。俺が葉山に脅迫されて、こんな所にいるわけで。
うーむ、意識はしていなかったが、今俺は全ての災厄の根本を知ろうとしているのではないか?
だとすればぼんやり流せそうにもない。居住まいを正して傾聴しよう。
しかし俺の意気込みを裏切るかのごとく、彼女の歯切れは悪い。

「歴史と伝統がある学校でして、生徒も……その、良家の子女や会社の社長の子供とかが多くて」
「いわゆるお嬢のお嬢によるお嬢のためのお嬢学校というわけだな」

綾咲が無言でつかつかと歩み寄ってくる。そして、

「えい」

向こう脛を蹴っ飛ばされた。足部を襲う激しい痛みに苦悶する。
ここで豆知識。たとえ女の子のキック力でも、急所を狙えば相手にクリティカルダメージを与えることは可能です。
不意打ちならより効果的でしょう。

「おまっ……! 筋肉のない部分への攻撃は反則っ……」
「お嬢お嬢と馬鹿にするからです。篠原くんが悪いんですよ」

ふくれっ面でぷいっと横を向く綾咲。どうやら完全に機嫌を損ねてしまったようだ。
しかしいきなり実力行使に訴えるとは、段々葉山に似てきたな。だとすればこれ以上神経を逆なでするのは得策ではない。

「すまなかった。謹んで謝罪し訂正する」

激痛を堪えながら、ひとつ咳払いをし、言い直す。

「お嬢様のお嬢様によるお嬢様のためのお嬢様学校というわけだな」
「えいっ」

反対側の脛を強打された。俺は子供のように両足を抱えながら、ベンチを転がり悶絶する。
そんなのたうち回る哀れな蓑虫に投げ掛けられる、わざとらしいほど明るい声。

「あら、とっても楽しそうですね、篠原くん」
「おまえ、なぁ……。誰のせいで……こうなったと……!」

怒りを込めて睨め上げると、そこには天使のような笑顔と同時に底冷えするオーラを醸し出した綾咲の姿が。
正直に告白しよう。僕とても怖いです。

「誰のせいでしょう? 自分の胸に聞いてみてはいかがです?」

彼女はわざとらしいほど優しげな口調で問いかける。表情は穏やかだけど、目が全然笑ってないよ、綾咲さん。
だがこのプレッシャーは一度経験している。過去から何も学び取らない俺ではない。つまり対処法はもう存在するということだ!

「完膚無きまでに私が悪いです。ごめんなさい」

対処法・さっさと己の非を認め罰を待ちましょう。そこ、情けないとか言うな。こいつが怒ると怖いんだから、本当。
綾咲はしばらくこちらをじっと見つめていたが、やがて小さなため息を吐いた。

「何だか由理さんの気持ちが分かったような気がします」
「理解はしても真似はするなよ。奴は人類の敵だぞ」

何はともあれこの場は切り抜けられたらしい。やはり人間に大切なのは過ちを悔いる真摯な姿勢だな、うん。
いまだ激痛の鐘を鳴らしている足をさすりながら、空を見上げる。
まだ雲は茜色だが、冬の日暮れは早い。稽古事をサボったわけだし、日が落ちるまでには彼女を家に帰さなきゃならんだろう。
となれば、これ以上脇に逸れるわけにもいかないな。……いや、話の腰をバキバキ折ったのは俺なんですけどね。

「よし、話題を戻そう。レッツ閑話休題。なるほど! 裕福な子供が集まっていたんだな。それで?」
「篠原くんって時々すごいですね……」

綾咲は微量の羨望と大量の呆れの入り交じった眼差しを送ってきていたが、やがて気を取り直すように二、三度可愛らしい咳払いをする。
まだ続けようとするお前も結構すごいぞ、と思ったが口には出さないでおいた。
ま、あれだけお嬢お嬢と連呼すれば、開き直るだろ。
お前がお嬢なのはもう充分知ってるから、以前の学校のブルジョアっぷりを聞いても引いたりしないっつーに。変な気を遣うな、阿呆。

肩の力が向けたのか、先程よりも少しだけ滑らかに彼女の唇は動きだす。






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