気は病から
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シチュエーション


剣崎 棗は体が弱い。


これは揺るぎない事実ではあるが、彼女のクラスメイトはそれを耳に入れた際、そろって同じことを口にする。
曰く、「いや、それはさすがにねぇだろ」と。

そもそも、剣崎 棗は気の強い女性であった。
それが周りの者に知られたのは、彼女が高校に入ったばかりの頃。
自己紹介にて彼女が姓名を語った際、同クラスのとある男子生徒がはやし立てたのが起因である。
下の名前が『なつめ』であるからこそだろう。その男子生徒は棗の名前を耳に入れるなり、「漱石だー!」と大声を上げてしまったのである。
その瞬間だったろうか。わずかばかりの砂埃が舞うと同時、棗の飛び蹴りがその男子生徒のこめかみに決まっていた。
刹那の間を置き、ドップラー効果のように遅れて流れるのは、彼女の怒号と、蹴り飛ばした際による人体破砕音。

「人が気にしていることを言うんじゃねぇぇぇぇぇッ!」

という台詞が、教室内のみならず廊下側にも響き渡った。蹴りが決まったすぐあとに。
どうやら彼女の蹴りは、音すらをもしのぐ速度であるらしいが、目下のところ原因は化学部に一任しており、明確な結果は出ていない。
ただ、彼女の飛び蹴りは、クラスメイトのみならず学年全体にまで、詳細にわたって伝えられることとなり、ひとつの掟が成立したのである。

『剣崎 棗に、漱石の話をするべからず。掟を破りし時は、己が肉体の危機に直結することとならん』


と、このような事件があったせいで。
剣崎 棗の体の弱さは、ほとんどの人間が知ることなく終わってしまったのである。
気が強いというイメージと、触れれば切れる日本刀というイメージが先走ってしまったためだ。
のちに生徒会に入ったのも影響が大きかったのかもしれない。
彼女の印象は、それこそ水に浸した紙の染みはだしの速度で広がっていった。

とある日、彼女の体が弱いという事実を、佐藤 有真は知ってしまった。


有真は、あまり学校内で目立たない男子生徒だった。本来ならば、生徒会副会長という任の棗とは、接点など出来るはずもないであろう。
特徴があるとするのならば、どこまでも温厚そうな顔立ちと、やたら平和主義を貫く気質、せいぜいがそれくらいのものである。
取り立てて成績が良いわけでもなし、運動は平均以上に出来るが、さして自慢するようなものでもなし。
だからして、彼が棗の、その知られざる姿に気付いたのは全くの偶然だったのかもしれない。

夕闇に校舎が彩られる時間帯。
教師に言いつけられた雑用の義務をきっちりとこなした有真は、かばんをひっつかんで廊下を歩いていた。
最終下校時間すれすれになった学校内は、静寂に包まれており、人の気配もほとんどない。
部活にいそしんでいた連中も、教室内でだべっていた連中も、とうに帰路を急いでいるであろう。

教師が有真に押し付けた雑用は、プリントのコピーだけという単純なものであった。
が、給紙だのまとめだので存外に時間がかかってしまい、疲労もそれなり。
肩がこっていることを自覚しながら、有真は学校をあとにしようとしていた。
だが、まさしくその時。

「……うぅっ……ぁあ、ぁく……ちょ、ちょっと……やば……」

切羽詰った声が、とある教室内から聞こえてきた。
その声が苦痛の色から発せられたものと感じるや否や、有真はその教室内に勢いよく入り込んでいった。
……内心、もしも教室内で情交でもしていたら俺は邪魔だよね、などと考えていたが、それは杞憂に終わった。

教室に入った有真が見たものは、机の上に置いてあった錠剤と、倒れて水をどくどくとこぼすコップ。
それと、教室内の汚い床に横たわり、ぜいぜいと荒い息を吐いている女子生徒、剣崎 棗の姿。

棗の状態は、一目見るだけでも違和感に満ち満ちていた。
その黒髪は、ほこりだらけの床にぺそりと落ち。白雪のように白い肌は上気して、しみひとつないひたいからは脂汗がしとどに流れている。
肩を大きく動かして吐息、肩を小さく動かして吐息。目の光はどこか妖しく、それでいてうつろ。
誰の目にも、今の彼女は危ないと知ることが出来たであろう、そんな姿。

「……やば、い」

桜色の唇を引き結び、口の端からよだれを流しながら、あえぐように、うめくように、言葉を紡ぐ棗。

しばし彼女の姿に驚いていた有真だったが、ほどなくして気を取り直し、彼女のもとに駆け寄る。
すると、棗は有真の姿を見るや瞠目。次いで、ごほごほと喀血でもしそうな勢いでせきをする。
その弱々しい姿は、普段の棗の態度からは考えられぬほど。

「み、水……!」

陸に打ち上げられた鯉よろしく、棗は口をぱくぱくと動かし、有真に意思を伝える。
それからの有真の行動は、ほぼ脊髄反射で行われた。
自分のかばんから、まだ使われていなかったペットボトルを取り出し、キャップをゆるめて棗に渡す。
次いで、机の上にあった錠剤をひっつかみ、棗の手へと。

対する棗は、有真の顔を見て申し訳なさそうに微笑すると、その手にある錠剤を口の中にぶち込んだ。次いで水を飲む。
まるで、脱水症状寸前の人間のように、棗は水を飲み続けた。
汗で濡れたのどがうごめき、蠱惑的なその光景は有真の目を惹きつける。


ほどなくして、彼女の震えと脂汗とせきは、止まった。

夕暮れの教室内、ぐったりと机にもたれかかった棗を見ながら、有真は、どうしてあんなに苦しそうだったのか、事情を聞いた。
こみいったことをたずねることは失礼に値するのかもしれないが、それでも有真は棗にたずねた。
それほどまでに、棗の苦しみようが尋常でなかったという理由もある。
下心も、もしかするとあったのかもしれない。

有真の問いを聞くと、意外や棗はあっさりと自分の体のことを話した。
それこそ、明日の天気は晴れですよ、と語ってしまうかのごとく。

「私にも、よく分からないんだけれど。なんたらウイルスが原因での、新しい病気らしいの。一日に一回か二回、発作が起きるの。
この錠剤、まだ研究段階のそれだけれど、とりあえず発作を抑えるのには役立っているのよ。だから服用していたんだけれど……」

そこで棗は机の上にあるコップを見やる。コップは、横倒しになっており、その中にあったであろう液体を全て床に垂れ流していた。

「失態ね。水、こぼしちゃったの。しかもギリギリまで我慢していたから、耐えられなくなっちゃって。本当に助かったわ、ありがとう」

汚れた髪のまま、棗は有真にぺこりと一礼した。150に満たぬであろう小柄なその姿は、先程の姿を見ずとも、どこかはかなく見える。
有真の方はと言えば、凶暴と噂されていた少女が存外にまともなしゃべり方であったことに驚いていた。

「……なに? 鬼の目にも涙、とか思ったりしたの?」
「うん、一応」
「このやろう」



しばしの時を置いて紡がれた棗の言葉に対し、正直に正直に有真が応じれば、その返答は至極綺麗なヤクザキック。
とにもかくにも、棗と有真のファーストコンタクトは、なんとも珍奇なかたちで一応の決着がついたのである。

「だから愛読書は、坊ちゃんでもなければこころでもねぇって何度も言ってるだろおがああぁぁぁッ!!」

場所と時は変わって、学校での昼休み。
今日も今日とて、どんがらがっしゃーん、という愉快な効果音と同時にまたも犠牲者ひとり。
机と椅子と、ひしゃげた掃除ロッカーを巻き込みつつ、血しぶきをアクセントにしてふっ飛ばされる男子生徒。
ほこりの舞う空間の中で仁王立ちするのは、黒を基調とした制服に身を包む小柄な少女、剣崎 棗。

喧騒と喚声に包まれる教室内の様子を一瞥し、有真は盛大に溜息をついた。というより、吐かなければやっていけなかった。

高校二年生となり、クラス替えというイベントを経過した有真は、あろうことか棗と同クラスになってしまったのである。
しかも、新しいクラスは、こぞって祭りが好きで、人をからかうのも好きといった困ったタイプの輩が多数。
毎日のように棗をからかうクラスメイト、毎日のように棗にふっ飛ばされるクラスメイト。
もはやそれは、この2−Cというクラスでもよおされるひとつのエンターテインメントになってすらいた。
そう、なんとかレンジャーショーとかを見る気分である。後楽園遊園地で握手でもしてろ、と有真が毒を吐きたくなるのも、無理からぬ話。

有真は、肩で息をする棗の姿を見やる。
ぜいぜいと荒い息を吐く彼女。その体は、あのファーストコンタクトの頃から比べて、全く成長していない。
黙っていれば、ビスクドールはだしの姿なのにもったいない、と有真は思う。

夜の闇を切り取ったかのように見事な黒髪は、肩の辺りまで伸ばされて。
雪のように白い肌、整いに整った目鼻立ちと、華奢にも過ぎる体躯。
沈黙を保ったままに商店に鎮座していれば、どこぞの人形と間違えられかねないであろう。
とかく、棗の容姿は整っていた。

「でも、これだもんな……」

獣のごとき声を上げながら、モップを振りかざし、薩摩ジゲン流つかいの剣士よろしくの動作で、からかう男子を斬りまくる棗。
彼女が暴れるたびに、その余波で、机と椅子と教科書と白墨が室内を飛び交い、物的乱舞、乱舞、乱舞の嵐。
棗の制服のスカートがひるがえるたび、別の意味で鼻血を垂れ流す男子いくらか、ふっ飛ばされる机が直撃して倒れ伏す男子多数。
もはや屠殺場。戦いですらない一方的な虐殺。眠れる獅子? ここにいますが何か? とでも言いたげな勢い。

「オラァ! かかってこいっ! 石に口すすいで、流れに枕はしねぇぞ!」

もはや自虐ですらある彼女の威嚇発言は、すでにクラス内の男子の耳に届いていないであろう。ことごとく倒れ伏しているのだから。

「あ、また剣崎さんの勝ちだねぇ」
「つーか、うちのクラスの男子はヘボすぎだろ、常識的に考えて……」
「やっぱり、暴れると言葉づかい変わる癖は直ってないんだね」
「いいんじゃない? 可愛いし。ギャップ萌え?」

口々に好き勝手なことを言う、有真と同じクラスの女子たち。
もう色々な意味で、駄目だとしか言えない、それがクラス2−C。
暴力ふるいまくって、よく棗は生徒会にいられるなあ、と有真は思う。


「……おなかすいた、ごはんたべよ」

しばしの時を置いて、モップを床に落とし、棗は肩を落としたままに教室を出た。
教室の中は死屍累々。しかし5分後には男子は全員復活する。それが2−Cクオリティ。


「今日の副会長は白だったぞ」
「死ねッ!」

「まったく、まったく、人をなんだと思っているのかしら……!」
「あはは、まあいいんじゃないかな。それだけ慕われている、ということで」

教室にて大量屠殺を棗がしたのち。有真は、昼食をその屠殺人と一緒にむさぼっていた。
ふたりがいる場所は、校舎の中庭のような場所であり、湿気が多いせいか、あまり人も来ない。
来たとしても、小さな虫がうじゃうじゃいるそこで昼食を食べる者などいないので、すぐにきびすを返すだろう。このふたり以外は。

購買で買ったパンを食べながら、有真は横目で棗の姿を見やる。
彼女は、小さな石の上に座り、桃色のプラスティックケースで出来た弁当箱から少しずつ、食べ物をつまんで租借していた。
子リスを想起させる、小動物チックな食べ方は、とても先程暴れてきた者と同一とは思えない。思わず苦笑してしまう。

「でも、からかわれたくないのに……。私だって、普通の会話がしたいのよ?」
「運命です、あきらめたまへ」
「嫌よ。オンドゥルだって運命に抗ったわ。苗字一緒だし、やろうと思えば……!」
「……親譲りの理想論者で子供の頃から」
「死ね! このパッパラリーがッ!」

思い切り頭を棗にぶん殴られ、有真、悶絶。ぺこり、と空のボトルを叩いたような音が聞こえたのは、何故であろうか。

「いたいよう、いたいよう」
「……まったく、あなただけは漱石ネタ、言わないって信じてたのに」
「う、ごめん」
「いいのよ。半ば意地で怒っているようなものだし……それに、まあ、あなたなら別に嫌ではないこともないような気もしなくも」
「文法、めちゃくちゃだけれど」
「うるさい、黙れ、いいから食え。この副会長様と一緒に食事出来るだけ、ありがたいと思いなさい」

薄紅色に頬を染めて、ぷいと横を向く棗の姿に微笑ましさを感じながら、有真はパンをまた一口。

彼女と有真が一緒に食事を摂ることになったのは、あの初対面から数日後のことだった。
有真はあまり覚えていないが、確か、棗が有真の教室まで押しかけてきて「私とタッグを組んで」などと言ったような気がする。
どちらかといえば消極的な有真と対照に、棗はかなり積極的だった。
結果として、棗は有真によく話しかけ、それでいてふたりの関係は友人というスタンスに落ち着いたわけである。

ふたりで食事している風景を、たまに友人知人らに見られることもあるが、あまりからかわれたことはなかった。男子限定、ではあるが。
からかった瞬間に、棗にふっ飛ばされること確定だからであるが、さすがに彼女も女子には手を出せないようである。出したら死ぬが。
なんだかんだ言って、棗は相手の力量や体力、防御力を分かって殴っているふしがある。相手が男子でも、体の弱い人などは殴らない。

そんな彼女が、棗が、有真は嫌いではなかった。
あまり恋愛観とかそういったものに当てはめたくはないのだが、間違いなく、棗のことは嫌いではないといえる。
会話は弾むし、互いにくだらない冗談を飛ばし、時折苦笑しあう。
どんな関係であろうと構わない、この少女とは長く付き合っていきたい、そう有真は考えるようになっていた。


昼休みも終わりそうになり、互いの食物を摂取し終えた時、ぽつりと棗はつぶやいた。




「ねぇ有真。私があと一年の命……って言ったらどうする?」
「え!?」

いきなり何を言い出すのか、何を伝えようとしたのか、有真はすぐに理解出来なかった。
普通の友人が語れば、冗談で済まされるその言葉。だが、棗は、棗だけに至っては。
よもや、もしや、と色々な思惑が脳味噌を駆け巡ってしまう。
未だに撃退法の発見されない未知の病気。あまり重いものではないが、確実に体をむしばんでいる病気。棗が、かかっている病気。
世界は一瞬で凍り、流れる空気は音と色を失い、心臓の音だけがやたらとクリアになる、悪夢のような世界。
それを、有真は、味わった。

「ええと、あの……」

戸惑う有真。そんな彼の姿を棗は冷たい目で見ながら、一言。


「嘘よ、馬鹿」


世界に色が戻る。空気の流れる音が、戻る。
有真の心臓は、棗の一言によって平静を取り戻した。

「……それ、しゃれになってないからやめてくれ」
「そうね。冗談にしても、たちが悪すぎたわ、ごめんなさい。仮にそうだったら、私、あなたに黙っているでしょうし」
「そりゃまたどうして」
「ん、深い意味はないのよ。ただ、あまり不幸を他人に言いふらしたくないだけ。私、シンデレラは嫌いなの」

言葉をふたつみつ交わせば、ふたりの会話はいつも通りのそれへと戻る。くだらない皮肉のやりとりが、続く。
しかし、有真はこの時、胸にしこりのようなものを感じていた。
彼女の発言は、有真の心中に、ひとつの棘を残していった。
それは、どう作用するのか、彼自身も分からなかったのだけれども。

果たして、メスがオスを、オスがメスを好きになるのは何が原因なのだろうか?
もしかすると、種の保存というひとつの目的が、細胞レベルで人間の脳味噌に組み込まれているからではないのだろうか?
愛だの恋だの言うけれども、実際は、本能というものにゆり動かされて発生する感情ではないのだろうか?


自室のベッドで寝転がりながら、剣崎 棗はそう考える。

学校で授業を終えた棗は、特に用もないので寄り道もせずに家に戻っていた。
我ながら灰色の放課後タイムだと思う。
薬はとうに摂取し、うまくいけばこのまま次の日の朝まで持ちこたえられるだろう。
定期的な摂取はおっくうではあるが、仕方がない。

本当に、面倒な体だと思う。
学校では暴れたりしているけれども、その実、この体は弱い。
発作が起きれば、すぐにばたりと倒れてしまう。

病弱であることは、棗にとってひとつのコンプレックスであった。
普通とは違う、という要素は、周りの人間に対してどうしようもない溝を発生させるからである。

もしも、体育の時に倒れてしまったら。
もしも、国語の朗読時間最中に倒れてしまったら。
そんな不安を、棗は毎日味わってきた。
追い詰められるようなあの感覚は、慣れようと思っても慣れることはない。

だから外面だけの、殻の自分を強くしようとして、『普段は冷静』という名の仮面をつけた。
それと同時に、『漱石のネタでからかわれると暴れる女』という仮面も。
そうでもなければ、不安に押しつぶされて、誰かに助けを求めそうだったから。
他力本願は、嫌いだったから。

同情されているのは慣れていたが、助けを求めるのはいつまで経っても慣れなかった。
こちらが助けを求めているからといって、相手がこちらを助ける義理などは微塵もないのだ。
いつも人が自分を助けてくれるとは限らない。

「だから、ひとりがいいのに。なのに……」

佐藤 有真。

あの馬鹿と阿呆ばかりで構成されたクラス内で、静観ばかりしていつも笑っている男。

「いつからだろう、惚れたの」

思い出したくもないし、その原因も探りたくはない。
種の繁栄本能のせいで惚れた……などとは思いたくないのだが。
とにもかくにも、棗は有真というオス個体に対し、並々ならぬ感情を抱いてしまった。
恋愛というのか、友愛を越えた感情というのか。

そこの辺りの線引きは、棗にとっても曖昧で、よくは分からない。
ただ、軽い気持ちではない、ということだけは、棗自身も分かっていた。

「……んっ。やっぱ淫乱気味なのかな、私」

彼のことを思いつつ、股間に手を当てる。
下着の奥にある生殖器を撫でれば、そこにはぬめぬめとした液体が付着していた。
棗の指に付着したその透明な液体は、てらてらと妖しい輝きを放ち。
蛍光灯に照らされれば、ことに淫靡なさまとなりて、棗の指の上を走り抜ける。

どろり、と指先に付着したそれは流れ落ち、彼女の指から手を流れ、手首を通過。
やがてぱたぱたと音を立てて、シーツに落ちた。

白いシーツに染みが出来る。
さながら、そこだけ雨が降ったかのように。

棗は思う。
これが、有真の指だったのならば、どれほどの快楽がこの身に降りかかるのだろうか、と。

正直な話、有真とそういった関係になっても、いや、なりたいと棗は思っているが。
それは駄目だと理性が主張する。



何故ならば、棗は、『病弱』だからだ。



棗は、自分のことを欠陥品であると考えている。
他の病人たちには失礼な考えかもしれないが。
病気持ちの棗は、ただただ自分のことを欠陥品のガラクタだと考えている。

正直な話、棗のかかっている病気は、いつどこで体をむしばむのか分からない。
全くの未知であるがゆえに、何がおこってもおかしくはない。
とんでもない話だが、有真へと向けて放った冗談のような事態が、本当に起こってしまうとも限らない。

いつ果てるか分からない、こんな人間を好いてくれる者などいようか?
仮にいたとしても、こちらから歩み寄れるか?
答えは否だ。棗は、人に歩み寄れるほどに強くない。
それほど彼女のコンプレックスは重いものだった。

また、恋愛に対してどこか冷めた目を向けてしまうからこそ、そういった感情に頓着しない、という理由もある。
一応、棗は、愛だの恋だのといったことに対して興味はある。
だが、自分はそれによって生じる渦に巻き込まれたくはない、という気持ちの方が強い。

自分の劣等感で相手に迷惑はかけたくなかったし、こんな欠陥品を相手にするよりかは、正規品を相手にした方が幸運であろう、と。


いささかゆがんだ主張ではあるが、棗はその考えを曲げずにいた。
だから有真と友人のままでいる。


有真と完全に決別することが出来ないのは、彼女の弱さが顕著に表れている証左であろう。
昼食を一緒に摂取する時のような、流れるように優しいひとときを大切にしたい。
そんなささやかな思いが鎖となり、有真を遠ざけられない。
病持ちの彼女は、孤独になれなかった。ひとりになるには、弱すぎた。

「駄目……」

湿った股間を撫でるたび、彼女は罪悪感のため、身を焦がされるような痛みを覚える。




それはあの発作の苦しみにも似て――。

「なんか、やつれてきてない?」

翌日。有真と共に中庭で昼食を摂取する棗であったが、いきなり彼にそう言われて、内心慌てふためく。
されど、見せる表情は鉄のそれ。
いつものように平然としたままに、髪をかき上げてひとつ溜息。

「気のせいよ。ちょっと寝不足なだけだから、気にしないで」
「でも……」
「いいからっ! なんでもないから気にしないで!」

思わず叫んでしまい、まずいことをしたと棗は気付くも、時すでに遅し。
よもや、「あなたのことを考えて自慰をして自己嫌悪して具合悪くなりました」などと言えるはずもなく、結局爆発。
棗が有真の方を見やれば、彼は驚いたような表情をしつつも悲しげに目を伏せている。

罪悪感が、つのる。

雑念を振り払うように首を振ってから、棗は有真の目を見た。

「ごめんなさい。今日は……生理だから、気が立っていて」
「ちょ、ま、待った! そういうことあけっぴろげに言うもんじゃないでしょうが!」
「ん、でも……。まあ、怒鳴ったの悪いと思っているから。その……本当にごめんなさい」


吐き気がした。
媚びたような台詞を吐く自分に。
悪いと思いつつも、有真の「そんなことない」を期待している汚い自分の心に。

あわよくば彼に近付こうとしている自分の弱さに。
短気であることをごまかしつつ、しおらしい態度を見せている自分に。


もしも自分自身というものが棗の眼前に出ていたのならば。
彼女はすぐさま、それにつばも痰も吐瀉物をも吐きかけてやりたい所存だった。


やっぱり自分は欠陥品なのだな、と棗は思った。

昼食摂取は再開されたが、いったん気まずくなった空気は元に戻ることすら困難だった。
棗も有真も、目に見えて食べる速度は上がり、会話の回数は激減。
ふたりの間を漂う雰囲気は、いつしか冷たいものへと変化していた。

途中、ちょっとしためまいのようなものを感じたので、食事を中断して棗は薬の準備をする。
発作を抑える薬は昔から飲んできたが、どうにも最近のそれは強力であるような気がしてならない。
ちょっと放置しただけでも頭が痛くなるのである。

原因不明の病、というのも難儀なものだ。
医者やらの専門職の人たちの研究を、ただただ待たなければいけないのだから。

私はドーピング野郎かよ、と内心自嘲しながら、錠剤をかぱかぱと飲む棗。
色々な意味でしまらなかった。

「発作?」

会話の糸口をつかみたいのだろう、分かりきったことを有真はたずねてくる。
正直、棗もその糸口が欲しかったので、とりあえずは話に乗ることとした。

「ん、そう。不便よね、これは。いつも薬を持ち歩かなきゃいけないし、水も常に用意してなきゃいけないし」
「医学研究、進展は?」
「あったら毎日こんな渋面していると思う?」
「そりゃそうだね」

右手の指を器用に使い、プラスティック製の箸をかちかちと鳴らす棗。
やはりと言うべきか、まだ空気が気まずい。

普段ならば、もっと相手をからかったり、今日に起きた失敗談を聞いたり。
もう少し深い場所まで会話をもぐりこませることが出来るのだが。

好きじゃない、こういう空気は全くもって棗は好きではない。

もっと変なことを、馬鹿なことを、色々と言い交わして笑って、そんな空気が好きだったのに。
今日は、それが、ない。

あまりに寂しく、あまりに落ち着かない。
もっと笑っていたいのに、もっと馬鹿なことばかり言って楽しみたいのに。
凍った空気が許してくれない。

それに気付くと同時、棗の口は勝手に動いていた。


「アッー! 気まずいっつーの! なに、これは!? 
この『俺、あの木の葉が全部散ったら、この命もあの葉のように散ってしまうんだ……』みたいな空気は!?
もっと楽しくいきましょうよ! やっぱり空気戻すにはエロネタよね!? 
この前ちょっと茂みに入ったら太ったカップルがアオカ」

「やめろやめろ! 暴走するなってば! ごめん! ごめんってばごめんなさい! いつもの大人しい棗に戻れ!」
「結合部からしたたり落ちる粘性の高い液体が飛び散って。
膣から噴き出した白濁液は、太陽に向かって伸びたタンポポに、ドモホルンリンクルよろしく一滴一滴垂れ落ちて……!」

「いい加減にしろ、このドアホォォォッ!」



棗、後頭部を有真に殴られて卒倒。
彼女はたまに空気が読めないのである、合掌。

やっちまった、と有真は頭を抱えた。
虫がそこここにいる中庭、そこに倒れるのは、美をつけてもなんら差し支えない少女、棗の姿。

やたらめったらエロネタを連発し、垂れ流し、だだ漏れにするものだから。
思わず突っ込みを入れてしまった結果がこれ。

相手が女だろうと男だろうと、殴るのならば殴れる有真ではあるが、これはさすがにまずいと思った。
なにせ、相手は病気もちであるのだし、その上、親しい友人となれば。
その罪悪感は通常の比ではなく、きりきりと有真の胃をしめつける。

仕方ない、と有真は溜息を吐いて、棗の体をおぶさった。保健室に運ぶためである。
正直、同年代の少女を背負うのに抵抗がないわけでもなかったが、相手はあの棗である。
胸を触られても「ああ、事故ね。仕方ないわね」で済ませる少女だ。

が、そういう、論理で割り切れる要素とは裏腹に。
有真の心臓は早鐘のように鳴り響き、冷たい汗は出る始末。


背中に感じる絶妙な柔らかさ、女性特有の甘やかなる香り。
さらさらとした髪がうなじを撫ぜるその感触。
シャンプーの匂い、どこか艶かしい吐息、歩くたびに漏れ出る鼻声。
制服と制服が擦れ合う音、視界に映る雪のように白い肌と細い指。


全ての要素が、圧倒的な威力の艶となりて、有真の脳味噌に常時衝撃を与え続けてくる。

幸い、中休みの終わりまで、かなりの時間的余裕がある。
それぞれの生徒が教室にこもっているので、あまりおんぶの場面は目撃されずに済んだ。
中庭のようなその場所は一階にあり、保健室と近い点、あまり他の生徒と関わらない点が、いくらか有真の心を軽くした。

とはいえども。

「……ん、んんぅ……ゃ……」

背中から感じる少女の吐息は、有真の想像以上に艶やかで、あまりにも色っぽい。
赤面を抑えきれず、早足で歩きたいが、棗のことを考えるとそうも行かず。
結果として、ひとりどぎまぎしながら保健室に行くことしか出来なかった有真であった。

「俺は、猿か?」

ムンクの叫びで出てきた人物よろしくの顔になりながらも、有真は校舎一階の保健室に潜入することに成功。

白い床、白いベッド、白いカーテン。
白ばかりが目立つそこは、薬品臭さはあったけれども、不思議とその匂いは有真の心を落ち着かせた。
保健室内に、人の気配は感じられない。
とりあえず、有真は棗の体を、部屋の奥に設置されてあったベッドの上へと寝かせた。

「……ん」

吐息ひとつ、棗はむにむにと鼻声を出しながら、ゆっくりと小さな呼吸をくり返す。
とりあえずは大事に至ってないようだった。
彼女の寝顔を一瞥、安堵の思いに包まれた有真は、近くにあった椅子を引き寄せて座る。

養護教諭はいないようだ。
恐らく、職員室でコーヒーでも飲んでいるのだろう。もしくは教師たちと麻雀でもしているか。

今考えると、とんでもない高校に入ったな、と有真は思う。
それでも毎日を楽しく過ごせているのは、そのあまりの突飛ぶりが気にいったからだろう。

友人も出来たし、趣味も出来た。毎日食事を一緒にしてくれる人も出来た。
幸せではあったのだろう。ただ、何かが欠けているような気はしていた。
まるで、最後のピースをなくした、未完成のパズルにでもなった気分。

ベッドに寝転がる棗の姿を見やる。
彼女はいつの間にやら口元に笑みを浮かべて、シーツを軽く握って眠りに入っていた。
時折、わけの分からない寝言が聞こえてくるが、本人はいたって幸せそうだ。

すうすうと寝息を立てるその姿は、人形はだしの容姿とも相まって、なんとも愛らしく、可憐である。
特に、その黒髪は白いシーツの上にさざなみのごとく広がるさまは、美麗と称するのにはあまりにも無粋と思われるほど。

「まあ、こんな時を過ごすのもいいかも」

そう、たまには授業をさぼるのだって許されるのかもしれない。
社会的には駄目駄目な行為ではあるが。
くうくうと眠る棗の姿を見たまま、有真は苦笑し、保健室の窓を開けた。


涼やかなる微風が、有真の頬を撫でる。その心地良さに、彼は目を細めて。
この瞬間感じた、小さな小さな心の揺れ動きを、彼は自覚出来ずにいた。

「副会長ォォォォッ!」

目を覚ました棗を最初に襲ったものは、血の出るような咆哮とクロスチョップだった。
前者は耳を塞ぐことで威力を減殺、受け流し。
後者は飛びかかってきた相手の眉間に右ストレートを入れることで、当方を迎撃、覚悟完了。

棗のこぶしにブチ当たり、床にもんどりうって倒れ七転八倒、悶絶絶倒する女子生徒。
それを横目で見やり、棗は自分の置かれている状況を確認した。

棗は、保健室のベッドに体を横たえていた。
現在、上半身を起こした彼女の眼前には、幾人かの生徒たちがいる。皆、知った顔だ。
生徒会の面々もおり、皆、棗の姿を心配そうに見ていた。

「……悪いけれど、状況、説明してもらえる?」
「ん」

棗の言に答えたのは、生徒会の中でも抜きん出て寡黙とされる書記。
茶色い髪を流し、機械的な表情と機械的な動作だけを見せる女子生徒である。
ある意味では、棗よりも人形的であるかもしれない少女は、眼光鋭く棗を見据えていた。

「保健室。倒れた剣崎を、佐藤が運んでいた。今日の授業はもう終わった。最終下校時刻まであと一時間ほど」
「その間に、なにかあった?」
「佐藤から伝言」
「なんて?」

書記の少女は、そこで小さく息を吐き、それから棗の目を見た。

「今日は色々とすまなかった。正式な謝罪は後日。……勝手な願いだが、自分に失望しないでくれ、と」
「それは真実?」
「副会長に嘘を言っても、こちらに益はない。
さっき剣崎に突撃してきた生徒は、いわゆる熱狂的ズーレー。ずっとあなたを心配してた。
……今日はしゃべりすぎた、だから寝る」

棗のとがめるような目線も気にせず、書記の少女は空いていたベッドに横たわり、わざとらしい寝息を立てた。
相変わらず生徒会の面々は変人どもが跳梁跋扈、と思いながらも棗はベッドを出て、ゆっくりと歩き出す。






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