シチュエーション
![]() あー、やだやだ。 今日も、どうでもいい朝がやってくる。 どうしてわたしって、教師をやっているんだろう。 ホントは、この仕事ってどうかと思うの。世間も何も知らない若造たちの前に立って 「ここはこの表現が適切ですね」とかって、ホントどうでもいいの。 例えば「斉藤くんは、もっと漢字を上手く使えたらよくなるよ」 なんて言っているけど、 斉藤さ、アンタはバカだよって言ってやりたいんだよ。ホントはね。 でも、わたしは教師。 何となく大学で教職課程を取って、何となく教育実習。 成れの果てには、中学教師。成り行きとは言え教壇に立つ義務がある。 この子たちに国語を教える義務がある。 義務ってなんだ?って言いたいけど、お金も欲しいし地位も欲しいし。 はあ、太陽ってどうしてわたしをムカつかせるんだろう。 学校に向かう生徒たち。その中に混じってわたしは、学校へ同じように向かう。 「より子先生、おはようございまーす」 わたしの教え子たちが、初夏の風を切り手を振りながら通り抜ける。 わたしも同じようににっこり笑って、その笑顔に答える。 (朝からはしゃぐなよ) はあ、頭が痛い。 「あの、先生。昨日の宿題…持ってきました…」 気の弱そうな男子が、朝食代わりのパンをほおばるわたしの元にやってくる。 「ん…」 もごもごするわたしに、どうして話しかける。だからあんたは友達いないんだよ、太田くん。 パンを牛乳で流し込み、太田のノートをパラパラ捲る。けっしてきれいではない文字が並ぶ。 この宿題、太田だけ提出していなかったんだが、わたしだったらトンズラして提出はしない。 なのに真面目に提出してきた太田。何も言ってないのに、泣きそうな顔をしている。 ざっと見てひいき目でも、おおよそ中学生の文字とは思わない太田の文字。 「うん、よくまとめられているね。太田くんもどんどん伸びると思うよ」 んなわけないだろ。こんなヤツ、もう一度小学生からやり直せ。 って言いたいのは我慢して、ポンと太田にノートを返した。 太田は体も小さいし、気も小さい。わたしが同級生だったら、ぜったい苛めているタイプの子。 おまけに成績も芳しくない。こんなおまけは欲しくも無いので捨ててしまいたい。 お陰でわたしのクラスは学年で平均点も低く、学年主任のサルもわたしのことを睨みつけているのだ。 「三川先生。今度の期末考査はお願いしますよ。先生の考査って言っても過言じゃありませんからね」 ちくしょう。サルがわたしにふらっと圧力をかけてくる。 「お任せください。中間考査よりもご期待ください」 太田が邪魔なんだよなあ。太田が わたしの担任するクラスは、どちらかと言うとごく普通のクラス。 平均的に騒がしく、平均的に男女仲はよい。しかし、太田は違う。 さっきの太田だ。彼は誰とでも仲良くなるタイプではない。 聞く所によると、けっこうなお坊ちゃんで友達は自分ちの飼い犬ぐらいらしい。納得。 「さて、期末考査の範囲を発表しまーす」 生徒たちは一気に顔面蒼白になり、数字の恐怖を思い出す。 エヘヘ、おもしろい。一気に夏に向けてお気楽気分の生徒たちが、恐怖に慄く姿は何度見ても面白い。 わたしが教師になって、良かったと思える唯一の瞬間だ。 「みんな頑張れば出来る子ですから、いい点とって夏休みを迎えましょうね」 そうなのだ。いい点とって欲しいのだ。さもなければ、わたしの夏が薄ら寒い物になってしまう。 ねちねちとサルのお説教が襲ってくる。頼むから隣の組には勝って欲しい。 そんな期待を裏切ってくれそうな太田が、昼休みにわたしの元に再びやって来た。 「先生…分からない所が…」 きっと、聞ける友達が居ないのだろう。やれやれと思いながら太田の質問に答える。 「あっ…そうか。なるほど…」 はあ、どうしてこんなことが分からなかったのかい? わたしの授業を思いっきり否定するような子だ。太田をすこしからかってやろうと、わたしの方から質問してみる。 「太田くんって、よく質問してくるよね…」 太田の顔が真っ赤になる。リンゴのように真っ赤だ。 そんなリンゴはウサギが跳ねるようにわたしの元から逃げていった。 「より子先生って、好きな人いるんですかあ?」 ホームルーム終わりのだらだらした時間に委員長が、わたしに話しかけてきた。 「わー!聞きたーい!」 「より子先生って、どんなタイプが好きなんすか?」 いつも間にか、クラスの女子どもが集まってくる。 言いだしっぺの委員長は、ショートカットのメガネっ子。 明るくて誰とでも仲良くなれる、わたしの一番嫌いなタイプの子だ。 生徒たちの前では明るく振舞うわたしに、興味を持つなと言うのは 箸が転がってもケラケラ笑うお年頃の子には、酷なことなんだろう。 「ハイハイ、早くお家に帰りなさい」 「かっわいい!!より子先生が照れてる!!」 「ち、ちがうよ!ほら、委員長もこの後、委員会があるんでしょ?」 「へへへ。もう少し時間があるから、より子先生と一緒にいたいなって」 この子たちは、子犬のようにわたしにまとわりついてくる。 「先生の好きなタイプを聞いてから、お家に帰りまーす!」 他の子たちも調子に乗って、くだらない話題に乗っかってくる。 「例えばさあ!太田とか?」 うっ、その名前を出すか。確かに太田はお坊ちゃんらしいので、玉の輿とかいいかもしれない。 しかし、太田本人となるとお話は別だ。それほど、わたしはアホではないぞ。 さらにおせっかいな委員長は、ほって置いて欲しいのにわたしを晒し者にしようとする。 「わたし、より子先生と太田の架け橋になっちゃおっかなあ?」 「なに?ソレ!うける!!」 「太田さあ、いっつもより子先生の所にいてるじゃん」 「きゃはは!お似合いだ!」 委員長、二度とソレ言うな。 今日は仕事が残った。悲しいかな、なかなか終わらない。 できれば家に持って帰りたいのだが、昨今の個人情報ナントカでダメだとサルが言う。 一人で寂しく机で仕事を続ける。ふと時計を見ると、もう夕方5時を回っていた。 職員室の隅っこで委員長と太田、そしてうちのクラスの女子・水上飛鳥が雑用をしていた。 トントンと紙を揃える音が、遠くから聞こえてくる。 女子二人はテキパキとこなすなか、太田はオロオロとするばかり。 とろい太田もムカつくが、したり顔でテキパキとこなす女子二人も偉そうだ。 わたしがお手洗いに行く途中、ヤツらに近づき偽善的な社交辞令をかわす。オトナとして。 「頑張ってる?」 「あっ、より子先生」 「わたし、のど渇いちゃった!」 「そんな事言っても、何も出てこないぞお」 委員長と飛鳥は、あははと笑っている。太田は黙って仕事を続けていた。 お手洗いを済ませ扉を開けようとしたとき、外からさっきの女子二人の声が聞こえてきた。 扉を開けるのをやめ、こっそり耳を傾ける。 「ねえ。どうして太田なんかに頼んだの?全然進まないじゃない」 「飛鳥さ、ヤツってとろいけど仕方ないじゃん。放課後とかヒマそうだし。 でね、今度デートしてあげるって言ったらヒョイってね、来ちゃった」 「マジ?デート行くの?」 「んなわけないじゃん!」 「委員長も悪いなあ。アハハ!」 嫌なヤツが嫌なヤツの悪口を言っている時ほど嫌なものはない。 嫌なヤツが何をしようとも、わたしには目障りだ。但し、太田の肩を持っているわけではない。 女子二人の声が遠ざかるのを確認すると、わたしはこっそり職員室に戻った。 職員室に戻ると、阿鼻叫喚の地獄絵図が待ち構えていた。 太田が女子二人のいない間にインクのビンを倒し、せっかく揃えていた資料を台無しにしていたのだ。 飛鳥は今にも泣きそうな太田を責める。 「太田!ふざけんなよ!!」 「まあまあ、飛鳥も落ち着いて!太田もワザとやったんじゃないし」 いちおう委員長は、職員室の中だからか飛鳥をなだめようとしているが、 さっきの会話を聞いたわたしには、今後の為の点数稼ぎにしか見えない。 収まりの付かない飛鳥。太田の襟首をぐっと捕まえている。 「太田さあ。黙ってないで、謝んなさいよ!」 「ご、ごめん」 「声が小さくて聞こえないよ!」 学校内でなければ放って置くんだが、残念な事に事件は職員室で起きていた。 「ほら、太田くんも謝ってるんだし…。ごめんね二人とも」 ティッシュで汚した机を拭きながら、わたしは飛鳥をなだめる。 どうしてこの子たちは、わたしを困らせるのか。太田も飛鳥も委員長もどこぞへと行ってしまえ。 飛鳥はぶつくさ言いながら、委員長は飛鳥をなだめながら、太田は黙って後片付けをしている。 おかげでわたしの仕事も大幅に遅れてしまった。時間を返せ。 なんだかんだで午後5時半を回り、太田と女子二人は下校時間直前という事で職員室から出て行った。 わたしの仕事もキリがいいので、今日はもう帰ってしまおう。 帰り支度をし、職員通用口から出ようとしたとき、ふと教室に忘れ物をした事を思い出した。 悔しいけど、教室に戻って忘れ物を取って来よう。ああ、メンドクサイ。 またしてもメンドクサイ事が、太田の手によって引き起こされる。 教室の前には、太田がつっ立っていたのだ。 奇妙な事に太田はタオルで目隠しをされて、腕をナントカマンがマントを翻して 空を飛んでいる時の様に前に突き出している。 そして、グーをした手の甲の上には、紙コップがそれぞれ乗っかっているのだ。 「な、何してるの?」 太田は何も答えない。兎に角目隠しを取ってやると、気の抜けた声を太田は発した。 「あっ…ああ…」 ホッとしたり、落胆したり疲れるこの子。太田に何があったのか、仕方なく事情だけは聞いておく。 「コップの中に金魚が…いない…」 「金魚?何、なんなの?」 「コップの中に金魚がいるから、ぜったいひっくり返すなって…」 「何?何?どうしたの?」 「先生…」 わたしは太田と一緒に下駄箱に向かって歩きながら話を聞く。 太田は俯いたままなので、わたしは担任としての責務だけは果たそうと背中をポンと叩く。 学校の中では、優しいお姉さん先生なのだ。 太田が言うには、こういうことだった。 さっきの作業を終えて、教室に戻った太田と委員長、そして飛鳥の三人。 インクをこぼして資料を台無しにした罰として、二人に命じられて立たされていたのだと言う。 目隠しをした後に、水を湛えた紙コップを手の甲に置き、二人から耳打ちをされる。 「このコップには、校長室の金魚が入ってるのよ。あんたがコップを落としたら…分かってるよね」 と、居もしない金魚をあたかもコップに入っているように、暗示をかけられていたのだ。 「委員長…約束守ってくれるかなあ」 太田は寂しそうに呟く。多分、お手伝いのご褒美デートの事だろう。 そんな事本気にしていたのか、太田は。悪い女に一生騙されていろ。 下駄箱まできて靴を履こうとした瞬間、太田がこんな事を言い出した。 「でも、もうすぐ委員長と水上さんが戻ってきてくれるって…!」 しかし、残念ながらわたしは悲しい事実を知っている。 委員長と飛鳥の下駄箱には、しっかりと上履きだけが入っていたのだ。 こうやってこの子はずっと人に騙され続けるんだろう。ある意味羨ましい。 期末考査まで一週間。 昼休みというのに生徒たちはノート交換をしたり、出題範囲の問題を出し合ったりしてあたふたしている。 通りがかりだが、高みの見物は気持ちがいい。毎月でもいいので、テストがあればどんなに気持ちいいか。 でも、太田がいるんだよなあ。学年主任のサルがキーキーうるさく言う原因の。 友達のいない太田は、一人で黙々とノートと教科書を捲って勉強をしている。 相変わらず委員長と飛鳥ははしゃぎながら、勉強のような事をしていた。 わたしに気付いた委員長は、太田に向かって叫んでいる。 「ほら、太田くん!より子先生、来たよ!」 わたしは、太田の家庭教師でも何でもない。ただの担任に過ぎない。 なのに便利屋さんのように、こき使うのはやめて欲しい。 そんなわたしの思いも裏腹に、委員長に促された太田は、わたしに擦り寄ってきた。 「先生。ここの…」 恐る恐る教科書を差し出し、わたしを頼ってくる少年が一人。 このくらい、自分で考えなさい。だから自分で考える力が付かないんだよ、太田くん。 「そうね…。今は忙しいから、また…」 太田は独りぼっちにされたチワワのような顔をする。 「あの…先生。国語が得意になるには…どうしたらいいですか」 「えっと、本をたくさん読む事かな」 なんだか太田に、チワワの耳としっぽが付いているように見えてきた。 太田がしっぽをブンブン振っている所が見える。 帰り道、委員長と飛鳥が買い食いしているのを見つけた。 幸い、二人はわたしに気付いていない。平和そうにクレープをパク付く姿は若さの自慢か。太るぞ。 オトナらしく注意をするのか、それとも今後の為に脅しの材料にするのか迷う。 「先生!」 後ろから声がする。太田だ。 両手に本屋の袋を一杯に持っている。なんでも、これから帰ってテストまでに全て読破するらしい。 できるもんならやってみろ、と思っていると委員長と飛鳥がやって来た。 重い本を細い腕で顔をしかめながら持っている太田とは相反して、ニコニコとしている女子二人。 委員長は偽善のメガネ越しに、わたしに上目遣いで甘えてくる。 「より子せんせーい、今度のテストね…あまーく点数つけてね」 「そうそう!さっきのクレープみたいに!」 「飛鳥!だめよ!買い食いなんかしてないよ、わたしたち」 うそつけ。うそなんかつく暇があったら勉強しろ。そしてわたしを安心させるのだ。 「より子せんせーい。クレープ奢ってくれないっすか?」 「そうそう!わたしも委員長も糖分取らないと、勉強しても忘れっぽくてえ」 「飛鳥もなんだ!ほら、より子先生さ、おともだちでしょ。わたしたち」 コイツらと友達になった覚えはない。ただの担任をしている教師なだけだ。 確かにクラスではヤツらと、仲良しごっこのなあなあをしているが、 クレープにジャムとハチミツをぶっかけたような甘えは許さないよ。 「委員長も、水上さんも…先生が困ってるよ…」 意外な伏兵がわたしを助けてくれた。よりによって太田だ。 「なによ。太田、偉そうじゃん」 「飛鳥!」 「…ごめんなさい」 伏兵は剣を敵に振り上げる前に、矢で射抜かれて倒れてしまった。 こんな伏兵は敵地に入る前に、王様から首にされたほうがよかったのではないか。 しかし、太田がわたしをかばうとは思ってもいなかったなあ。 「じゃ、ぼくこれで…」 重そうに袋を両手一杯にした太田は、よろけながら去ってゆく。 しばらく見ていると、太田は一人でこけていた。 「より子せんせーい!ごっちそうさまー!!」 「クレープ奢ってくれるって、なんてやさしい先生なんだろう!」 この二人は勝手にさっき食べていたクレープをわたしの金で、また食べようとしている。 くやしいけど、わたしもいちおう26のオトナだ。ここは目をつぶって二人にごちそうしよう。 『期末考査でいい点を取る』という条件つきだぞ。わかっているのかな、コイツらは。 期末考査まであと二日という所なのに、風邪を引きそうだ。 徹夜で無理してテスト問題をつくる毎日が続いたからなあ。体がだるい。 生徒たちにも、風邪引きさんがちらほら見受けられる。季節の変わり目だからか。 「より子先生、わたし風邪を引いてしまいました」 「なんですと!これは一大事ですよ!なんとかして、より子先生のご慈悲を委員長に…」 そんなおべっか使っても、テストの内容は変わらない。むしろ難易度を上げてやろうか。 甘い物ばっかり食べているから、あまちゃんになっているのだ。 隣の席では太田が、せきをしながら本を読んでいた。 わたしが「本を読め」って言ったので、あの日以来ずっと本を手放さない太田。 もしかして、わたしの言う事なら、なんでも言う事を聞くつもりなのだろうか。 「太田くん、あんまり無理をしないのよ。テストも近いし…」 気分悪そうな顔をしながら、うなずいていた。 飛鳥が興味無さ気に、太田の本をちらっと見る。 「ふーん。難しそうなの、読んでんじゃん」 太田は迷惑そうにしていた。飛鳥はいじわるに太田をデコピンしている。 「何て本なの?飛鳥」 「えっとね…なんだか『エフ氏は…』とかナントカって書いていた」 飛鳥はショートショートぐらい読んだほうがいい。委員長もきっとそう思っているだろう。 こんなヤツらに言ってもしようがないのを分かって、ぼそりと弱音を吐いてみる。 「わたし、風邪引きそうだよ…。テスト問題が簡単だったらごめんねー」 「じゃあ、より子先生には風邪を引いてもらわなきゃ!」 「委員長の風邪もらっとく?バカは風邪引かないって言うから、一発で風邪引いちゃいますよ。センセ」 一番元気なのは飛鳥だった。 期末考査までいよいよあと一日。生徒たちも教師も後が無い。 ふと、カレンダーはなんて残酷なんだろうって思う。 「コレが終われば、たのしい夏の始まりですよ」 教壇に立って、生徒たちに少しでもやる気を出してもらおうと必死なわたし。 ふっ、いかにも偽善的なのがわたしらしいな。ちょっと、立ちくらみがする。 風邪がまだ残っている為すこし体がだるいが、早めに気付いて薬を飲んでおいてよかった。 そのせいか、昨日より幾らか気分がいい。気分が悪かったら、ぜったいこんな科白は吐かないだろう。 いっぽう、太田はこの日学校を休んだ。風邪が悪化したのだろうか。 教室では相変わらず、飛鳥はぎゃあぎゃあ騒ぎながら、教科書を捲っている。 委員長が飛鳥に優しくポイントをまとめてあげようとしているが、今更だという感じだ。 「こんなことなら、早く勉強しとくんだったあ!!」 「はいはい。わたしがポイントをまとめてあげるから、泣かないの」 「うわーん。委員長ーっ!!」 さあ、この間のクレープの借りがある。いい点を取るって約束だぞ。 約束を破るのは、『ほら、わたしって人気者じゃない?』という、頼んでもないのに ずんずん前に出る厚かましい態度ぷんぷんなヤツと同じくらい嫌いだ。 クレープに金を使うくらいなら、本でも一冊買いなさい。 そうだ、太田を見習え。ヤツは他に金の使い方を知らないんだろうな。 見た目が女の子みたいな太田は、あんまりおしゃれとか興味ないのか。 元がいいから、何を着てもさまになるんだろうな。委員長がこの事を聞いたら、ブチ切れそうだ。 「ハイハイ!地味なメガネっ子で悪かったですね!どーせわたしは委員長ですよ」 って、ふてくされるんだろうな。あはは、面白い。 と、ふと気付いた。 なんで、わたしったら…太田の事、考えてるんだろう。 わたしはただの担任だぞ。 生徒なんか、わたしにご飯を食べるお金を持ってきてくれる、健気な妖精さんにすぎないのだ。 なのに、ヤツを心配しているなんて、まるでわたしが…。 わたしは自慢じゃないが、26年間人を好きになった事が無いし、人から本気に好かれた事も無い。 もちろんお付き合いなんぞもっての他。そんなものクソ食らえ、と思っていた。 教室に太田がいないだけで、こんなに太田の事を考えるとは思わなかった。 今頃、一人で寂しく布団で寝ているんだろうか。もともと一人ぼっちだから、そんな事は平気か。 でも、太田が…心配だ。 あまりにも心配なので、委員長へ帰り道に、太田のお見舞いに家へ寄るように命じたが 「わたしも風邪気味で、病院行かなきゃいけないんですう」 と甘えた声で断られた。クラスメイトの事なんか心配じゃないのか、委員長のくせに。 仕方が無いので、わたしが行く事にする。 初めて見る太田の家は、普通の家だという印象を受けた。 誰だ。お坊ちゃんだとか言ううそっぱちを言っていたのは。 そんな愚痴はさておき、インターホンを鳴らすと出てきたのは太田本人だった。 「せ、先生」 「珍しいね。お休みだなんて、みんな心配していたよ」 大ウソを付いた。誰も心配なんぞしていない。 玄関では太田が寒がるので、お邪魔して様子を見てみる。 庭ではワンコがわんわん鳴いている。知らない人が来たから、警戒しているのだろう。 「ぼくの部屋にどうぞ…」 「おじゃまします」 太田の部屋は、あまりにもありふれた物。くんくんと男の子の匂いを嗅いでみる。 なんだろう。太田は牛乳の香りがする。思春期の男の子ってそうなのかな。 「ゴホン!散らかってるけど…いいですか」 机の上には、この間大量に買った本の山があった。 きれいに積み上げられた山は、太田の直実さを表す。 「先生が言うから、読んでるんだ…。でも、まだ半分だし…」 約一週間前、わたしが太田に言った事をまだ覚えていた太田。 私自身、すっかり忘れようとしていたのに、太田はすごい。 太田の両親は共働き。日中は太田一人っきりとの事。 しかし、誰もやってこないこの部屋。クラスのヤツらはみんな薄情だな、ホントに誰一人来ない。 静かな太田の部屋でじっと生徒と教師が二人っきり。わたしはおろか、太田も二人っきりは苦手らしい。 もじもじしていた太田が、なんとか場を繋ごうと沈黙を破る。 「委員長、怒ってた?」 「え?なんで?」 「ちょっと…約束が…出来なくて…ゴホン!」 まさか、まだあの『デートをしてあげる』ってヤツを信じているとは、太田は違う病気かもしれない。 「ふーん。委員長と仲がいいんだ」 こんな事を太田に言い放つわたしは残酷だ。太田の目が寂しいと言う。 けっして自分から前に出るタイプではないので、太田が何を言いたいのかは、 わたしにはわからない。そういう控えめのところが…いや、何も言ってないぞ、わたしは。 もしかして、このことで深く落ち込んでいるんじゃなかろうか。だが、太田は何も言わない。 「じゃあ、わたしからの約束。太田くんは、今度のテストでいい点数、せめて国語だけでもいい点数を取る事。いい?」 こうしときゃ、太田はやる気を出すだろう。こくりと太田は首を立てに振った。 期末考査当日も休んだりして。 期末考査、当日の朝を迎えた。一日目の最初の試験は国語。 わたしもこの日のために、試験問題を作ってきた。生徒たちと勝負の日なのだ。 教師も生徒も思い残す物は無い。みんな、全力でぶつかってゆけ。そして玉と砕けるがいい。 朝のHRが始まる前の教室は静かだ。 クラス中最後の確認として、ノートや参考書のチェックをしている子が多い。 「わたし、もう悪あがきしない!!0点とっても後悔しない!」 「飛鳥はいいなあ。なんのプレッシャーもなくって。ほら、わたしって『みんなの学級委員長』じゃん」 「あらあら。委員長も思いっきり、0点とか取ってみたらスッキリするんじゃない?」 「アハハ!太田と一緒にしないでよ!」 「太田でも取らないよ、そんな点数」 そんな太田は、委員長と飛鳥のうるさいおしゃべりを気にせず、黙々とノートを見返していた。 そう。誰からも心配されない太田は風邪を治し、一人でこの舞台にやってきたのだ。 さあ。己が信じることが出来る武器はペン一本。国語のテストが始まる。 チャイムが戦い始めを告げる。後は、剣と化したペンの走る音だけが残った。 試験監督は、ヨソのクラスの教師が担当する為、太田を始めクラスのヤツらの事はわからない。 むしろ、その方がわたしとしては気分が楽だ。 ヨソのクラスの生徒たちだからなあ、わたしの監督は。いまいちつまらない。 太田は大丈夫だろうか。熱でも出してぶり返しているんじゃなかろうか…。 あっという間に60分は過ぎてゆく。ああ、おしまいのチャイムが鳴る。 監督を務めたクラスを後にして、職員室に戻る途中ふと、自分のクラスを覗いてみた。 太田は全てを使い果たしたかのように、机に突っ伏していた。 そんな太田を尻目に、委員長は照れ笑い、飛鳥は頭に星を回しながらヘラヘラと雑談をしている。 「あっ!より子先生!!結構難しかったよお!」 「あはは…。わたし、生まれて初めて赤点取るかもしれません…。より子先生、ありがとうございました」 「飛鳥!寝るなー!最後まであきらめるんじゃない!!」 「だいじょうぶ。みんな頑張ってたから、いい点取れてるよ」 わたしの科白は教師としては満点だが、個人的には最低だ。なにが『みんな頑張ってた』だ。 ただ、学年主任のサルから目を付けられるような結果じゃなきゃ、もうわたしは何も言わない。 しかし、この二人の科白はわたしをげんなりさせるのだ。クレープ代用意しとけよ、二人とも。 続いて二つ目のテスト。わたしの管轄外なので、興味がない。 期末考査中は午前中まで。あっという間にお日様が真上に昇る。 こうして、期末考査の一日目が終わったのだった。 そして、二日目、三日目…兎に角、あっという間に過ぎていく。 生徒たちの気分は夏休み。しかし、わたしには採点と言う地獄の試練が待っているのだ。 ちくしょう、あんまりはしゃぐな。微妙な答えは迷わずバツ付けるぞ。 わたしの赤ペンは、生徒たちを笑わせる事も泣かせる事も出来るのだよ。 期末考査の全てが終わり、ほっとするのも束の間。初めての国語の授業がやって来た。 この日は生徒たちに答案を返すという、彼らにとっては判決の日なのであった。どうだ、怖いだろ。 一枚一枚、個人に答案を返す瞬間は、それぞれ個性的である。 ガッツポーズをする子や、何度も何度も見直してわたしにクレームをつける子と、まあ様々。 わたしのさじ加減でヤツらが一喜一憂するのは、なんとなく気分がいい。 わたしの機嫌が悪いときは、平均点が低かったりするのだが、今回はまあ、全体的に良かった。 さて、次の順番は… 「太田くん!」 「……」 「よく頑張ったわ」 太田は謙虚そうに答案を受け取り、そそくさと自分の席に持ち帰った。 休み時間のこと。お約束のように、生徒たちは点数の見せあいっこをしている。 まあ、騒ぐ事騒ぐ事。わたしの機嫌が良かったことに感謝するがいい。 「どれどれ委員長。今回も優等生の模範解答ですか?」 「だめだめ。今回は捨てゲームよ」 「委員長とした事が!こんなときは、さあ!太田くんよ。答案を見せなさい!!」 飛鳥が太田に答案の情報開示を求めている。 きっと、太田の点数を見て安心しようとしているのだろう。 が、水上飛鳥よ。あんたはまだまだ、あまちゃんだよ。 嫌がる太田は肩をすくめて答案用紙を隠そうとしていたが、飛鳥からビンタをされ、あっさりとひったくられる。 さあ、水上飛鳥。太田の点数を見てどう思う? 「うそっ!!」 信じられないかもしれないが、太田は国語で98点を取っていた。クラスでトップだ。 「わたし、負けてるの…?いいんちょお…」 「うーん。勝ってる、負けてるで言ったら…やっぱり負けてるよね…」 「ちょっと!!太田!なんとか言いなさいよ!」 「…ごめん」 太田はなぜ謝るのか。癖になるぞ。 オロオロしている飛鳥は、とうとう太田に牙を剥くという、子供じみた悪あがきを始めた。 「ほら!この間さ、より子先生さ、太田ん家いったじゃん!そのとき、答えを見せたんだよ!」 「なるほどなるほど。より子先生と太田ってラブラブだもんね」 「より子先生は太田に甘いもんね」 「いつも一緒だもんね」 「そうそう。『わたしの太田くーん。わたし、太田くんの為なら答えを教えちゃうわ!』ってね」 誰の真似だ、ソレ。委員長も委員長だ、気の無い返事をするくらいなら、こんな話に乗っかるな。 もちろん、わたしは太田にはおろか、誰にも答えなんか見せてないぞ。 第一そんなことをしても、一文にもならない。誰がするもんか。 クラスをまとめる気の無い委員長と飛鳥の勝手な妄想に、何か言いたさげに太田は唇を震わせている。 「…委員長…水上さん……」 「んー」 「これ以上先生を傷つけるな!!」 太田から意外な言葉が飛び出した。委員長と飛鳥は呆気に取られ、クラス中静まり返る。 「ぼくは、いくらバカにされてもいいや…。でも…でも…先生をバカにするヤツは許さない!!」 太田…。 「はあ?太田さあ、調子乗んなよ…」 「飛鳥、やめなよ」 「だって、コイツったら…」 「水上!!うるさい!!」 太田の目はその時、オオカミのように蒼く鋭く見えた。間違いなく太田は本気だ。 わたしは、太田にかばわれた。生まれて初めて、人から助けられたかもしれない。 委員長が小さな体で、二人に割って入り騒ぎを収めようとしていた。 太田は肩を揺らし、飛鳥は太田をバカにした目で見つめながら、ひとごとのように椅子に座りあくびをする。 いっぽう、太田は蒼い目はやがてウサギのように紅くなり、涙を湛えていた。 そんな太田が… かわいい。 「太田くん。ちょっとこっちに」 わたしは太田を呼び、席を外させる。収まりが付かない飛鳥は、まるでようちえんせい。 「やーい。より子先生におっこられたあ!」 飛鳥の声なんか無視しろ、太田。アイツはバカだ。 「太田くん。どうしたの…」 「先生…ぼく、ぼく」 太田はわたしの前に立つと、堰を切ったようにわっと泣き出した。 なにか締め付けられるような気持ちがする。 ずっと、わたしの足を引っ張り続けていたこの子。 しっしと追っ払いたい時もあった。それでも太田はわたしに懐いてくる。 足手まといな自分を恥じていたんだろうか。 ヤツは、よわっちい体でわたしの前に精一杯真正面立ちはだかり、矢面に立ってくれたのだ。 わたしはまかりなりにも国語教師。なのに、太田への感謝の言葉が見つからない。 どうにかして、太田に何かを伝えたいのに…。わたしの方が恥ずかしい。 わたしは、太田をぎゅっと抱きしめる事しか思い浮かばない。 「先生…」 「いいの、いいの」 太田は牛乳のような香りがする。太田の気持ちは、もう分かった。 もう一度言う。 太田が、かわいい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |