由梨と上原先生
-4-
シチュエーション


水曜日。

風邪が思いの外長引き、私が登校して来たのはアノ日から早5日後の事だった。
私が居ない間も何一つ変わる事なく日々は流れ、
私は空いた小さな隙間を埋めるようにして学校へ戻ってきた。
底冷えする廊下に、冷え切った足の指が凍り付くようにして張り付く。
まるで、その場に縛り付けられるように。
私はこの停滞した空間が嫌いだ。
停止し続けるから淀んでいく、沈んでいく。

そんな中で上原は、きっと私の事を考えて思い悩んでいるに違いなかった。
バカ正直で愚かなあの男は、私の登校を気が気でなく待っている筈。
だったのに。

「……」
「な、何かな…?」

何で私を見ても動揺しないの?
おかしい、いつものクソ上原なら「あわわわ」とかカスみたいに動揺する筈なのに。

「襟沢…?」

あれ、なんかムカつく。
何か凄く、滅茶苦茶腹立たしい。

「っ」

バッ!

苛立つ気持ちを押し込み、私は勢いよく頭を下げた。

「先生この前はいきなり帰って…ごめんなさいっ」
「いや、僕こそ何と謝っていいか!」

私が頭を下げる姿を見て、上原はあからさまに狼狽える。
ハハ何だ、やっぱりいつもの情けないバカ男じゃない。
内心ニヤリと笑いながら、私は言葉を紡ぐ。

「それで、ボイスレコーダーなんですけど、あれは」
「ああ勿論返すよ。もし良ければ今日また放課後、生徒指導室の前に居てくれないか?」
「えっ」

信じられない。

「行けそうか?」
「…………あ、ハイ」

あの上原から誘ってきた。

やっぱりおかしい。
もしかして私の予想が外れて、実は上原もアイツらと一緒で…。

「…っ」

そこまで考えて、自分の発想に愕然とする。
教師なんて、皆一緒に決まってる!
どいつもこいつも、上原も、下半身だけで生きてる低俗な生き物なのに、私は今何の期待を

「じゃあまた放課後にな」
「ハイ…」

上原はくしゃりと私の頭を撫でて、教室を後にして行った。

「……」

残された私は無意識に、上原が触れた髪に手を触れていた。
自分の体温なのは分かっているのに、奇妙な温かみを感じて何故か吐き気がした。
奥歯を噛み締める。

「襟沢さん!」

不意にクラスメイトに呼び掛けられた。

「え…?」
「どうしたの?顔真っ赤だよ」

私を保つ歯車の一つ一つが、今静かに狂い始めようとしていた。




「じゃあまずは、コレを返すな」

そして放課後。
指導室に呼ばれた私は、傾く夕日を背に上原と向き合っていた。

上原はボイスレコーダーを胸ポケットから取り出し、コトンと机の上に置いた。

「中の録音は聞いてないよ」
「本当すみません。授業を録音しようと思って持って来たもので」
「勉強熱心はいいけど、ボイスレコーダーを使うのはちょっと賢過ぎだなあ」

僕も大学生時代その手を使っておけば良かった、と上原は屈託なく笑う。
夕日の淡くくすんだ橙色の光を受け、上原の瞳が静かに輝く。
その様子に耐え難い程苛つく。
まるで金曜日の出来事を全て忘れてしまったように、平然としている。

「……」

いや、上原はあの時の感情を「忘れてくれ」と私に言ったのだった。
ならば、この態度は当然で。
それに私は、脅す価値もないと、コイツを見逃そうと。

「用はこれだけだよ。時間を取らせてしまって済まなかったね」
「上原先生」

でも先生。

「何かな?」
「ねえ先生。この前のだけじゃ、物足りなくありませんか?」

私はにっこりと微笑みながら、足を組む。
日が傾き、私の顔に影が色濃く差す。

「私…やっぱり先生の事忘れられない…ううん、忘れたくない」

そう、私は永遠に影に棲む人間なのだ。
私は立ち上がり、上原の隣に腰を下ろす。

「ねぇ先生…キスして」
「襟沢…」

上原は相変わらず間抜け面で目を見張り、硬直している。
内心、ほくそ笑む。
それがアンタにお似合いの顔、私の心を掻き乱すなんてエラそうな事するからだ。

ちゅ、

「んっ」

私は上原の返事も待たず、そのまま体ごと上原にのし掛かり、キスをした。

「ん、はぁ…」

ちゅ、ちゅくっ

無理に舌を引き出し、唾液を救って飲み込む。

「は…」
「んんっ」

唾液が甘い。
頭が、唇が痺れる、心臓が張り裂けそうに痛い。
頭がおかしくなってしまったのかもしれない。

「センセ…」

下唇を吸い、一度離す。
上原は息を荒げて、潤んだ瞳で私を見つめる。
私はやはりにっこりと微笑み、言葉を紡ごうと唇を広げ
上原は寂しげな顔で微笑み、囁いた。

「ボイスレコーダーのスイッチを入れておこうか?」
「」

時が止まった。

橙色が今あるモノを焼き尽くすようにして、部屋を染め上げる。

「…なんで?」

私は、無様な言葉しか吐くことが出来なかった。

何で上原がそんな事を言うの?
何で何もかも分かったような顔でそんな
上原は。

「僕は、別に何でもいいんだよ」

私の見開いたままの瞳を見つめ、言う。
私の腰を支えていた手が背後に回り、優しく背中を撫でる。

「僕は、襟沢が襟沢であるなら、何でもいいよ」
「……」
「襟沢が強迫するために僕に近付いていたって
本当は僕の事が好きなんかじゃなくても
何人の教師に同じ事をしてきたとしても
僕にとってはどうでもいい事なんだ」

何故。
何故こんな事までコイツは知ってるの?
誰がこんな事を?
いやそれよりも何故。
コイツは私を赦しているの?


「僕にとって大事なのは、君が傷つかず、死ぬまで笑顔で居る事だ」

上原は私の瞳を真っ正面から捉える。

「だから襟沢、聞きたいんだ」
「…ア」
「なんで襟沢」
「アンタみたいなクソ教師に同情されるいわれはッ!!!」
「何に苦しんでいるのか教えてくれ。命に代えても、僕は君を守る」


「ま、」

胸の奥から何か大きな固まりが込み上げて来て、息が出来なくなった。

「まも、る………」

文字通り、開いた口が塞がらない。

僕が君を守るって?
一体いつの時代の口説き文句?
恥ずかしすぎて爆笑してしまう、意味がわからない。
何のナイト気取り?今の時代そんな事言う男が何処に居るってわけ?
私はまだ一度も
そんな人に、一度も会ったことなんてなかった。

「襟沢、泣かないで」

上原の声で、初めて自分が涙を流している事に気が付く。
みっともない。恥ずかしい。

「これは…っ」
「うん」
「アンタみたいな奴の為に流してる訳じゃっ」
「うん」
「…だから……ッ」

息が詰まって、何も喋られなくなって、私はスーツの裾を握りしめて、上原に抱きついた。
落ちまいと必死でしがみつく、幼子のような心許なさが胸中に広がった。

「落ち着いた?」
「うん」

ひとしきり泣いた後、襟沢は腫らした目を擦り、僕の方に向き直った。
蓋を開けてみれば、やはり襟沢は年相応の少女だった。
分不相応に何らかの闇を抱えて人を騙して、それでも人間を諦めきれない、ただの子供だ。

「落ち着いた所で聞きたい事があるんだけど、いいかな」

出来るだけ安心させる様な口調で、襟沢に問いかける。

「…いいよ」

泣き疲れて少しぼんやりした表情で、コクンと襟沢は頷く。
今までの得体の知れなさが一掃されたせいか、そんな様子が可愛く見えて仕方がなかった。

「確認の為に訊くけど…レコーダーで、今までの先生に強迫をしていたんだね」
「警察に連れてくの?」

さっと顔色を変えた襟沢に、慌ててフォローを入れる。

「そんな訳ないだろ、何で先生の僕が大事な生徒を売らなきゃいけないんだ」

安心させる為に言ったセリフだったのだが、何故か襟沢は妙な表情を浮かべていた。
その表情が気になったが、とにかく質問を続ける事にする。

「えっと…それは今まで辞めた先生達全員にかい?」
「…」

襟沢は口を開いたまま言葉を発しなかったが、暫くするとポツリポツリと応え始めた。

「ううん…久保田先生と、青柳先生だけ」
「桜井先生は違うんだね?」
「その頃はこんな事しようと思わなかったし、桜井は中島と付き合ってた」

…なるほど。
つまり桜井先生から久保田先生に切り替わる前に、襟沢に何かが起こったという訳だ。

そして僕は、いよいよ一番知りたかった核心に触れた。

「答え辛いかもしれないけど……襟沢は何故、こんな事をしようと思ったんだ?」
「………」

案の定、襟沢は俯いて黙り込む。

「今言える事だけでいいんだ、言いたくない事は言わなくていい。少しでもいいから先生にヒントをくれないか?」
「…先生、先生はこのまま、ずっとこの学校に居るの?」

「え?」

何だ急に。
襟沢は僕を真剣な目で見上げている。

「えっと」

戸惑いながらも、ともかく答える。

「あー…そうだね。まだ何とも言えないけど、人不足だしその可能性が高いと思うよ。僕も」

襟沢の小さな肩を見つめる。
何が自然だ。素朴だ。理想の教育だ。
そんなモノで人が守れるもんか。

「…ココに居たいし」
「そっか」

襟沢はフッと気が抜けたように、リラックスした表情を見せた。

「今の質問はなにか関係が」
「私ね。入学して暫く経ってから、レイプされたの」

え。

「学校帰りに、いつも通らない道を歩いてたら、山の中に引きずり込まれた」
「……」
「田舎ってさ。街灯もないから、本当に夜は真っ暗なんだ。近くに公衆電話も、コンビニもなくて、民家だって疎らで」

笑みさえ浮かべながら、襟沢は喋り続ける。

「レイプしたのは、スーツ着てる只のサラリーマン。『只の大人』だった」
「…」
「その時、『ああ、大人ってこういうものなんだなぁ』って思ったの。
大人はいつだって一方的で、私達子供の弱みに付け込んで、食い物にするんだって」

それは違う襟沢、それは

「だから私も、やられたらやり返そうって。今度は私が大人を食い物にしようって思ったの」

襟沢寂しい。それはあまりにも

「ただ、それだけだよ」

襟沢。

「…先生泣かないで、大人でしょ」

襟沢は僕の頭を撫でて、少しだけ笑った。



漸く気持ちが収まり、僕は襟沢の両肩を掴み、今日一番言いたかった科白を口にした。

「襟沢、こんな事はもう止めるんだ」
「うん…止めるよ。私には先生が居るから」

襟沢はそう言って、瞳を潤める。

「え、あ」

その答えに、情けない位動揺してしまう。

「あのっ襟沢!その、君の事は知っての通り僕も……なんだがっ、えっと」
「うん、私ちゃんと待つよ」

僕の慌てっぷりを笑いながら、襟沢は余裕の発言をする。
どっちが大人なんだか……。

そして襟沢は、これまで訊くのを我慢していたらしく、
会話が途切れた所で待ちかねたようにある質問をして来た。

「先生、警察に言う気もないなら何で前の先生の事、あんなに訊いてきたの?」
「ああ…」

実を言うと、その話が今日襟沢の話に次いで、聞きたい事だった。

「ちょっと、青柳先生について聞きたいんだ」
「えっ」

青柳、という言葉に、ビクリと襟沢の肩が震えた。

「青柳が…どうかしたの」

その反応に妙な確信を覚えながら、僕は自身の鞄を手繰り寄せ言った。

「妙な事が分かったんだ」



「青柳洋介が失踪してる」

僕の持ってきた資料を見ながら、襟沢は不審げに眉を顰めた。

「青柳が…?」
「実は襟沢が学校を休んでる間に、青柳先生の家に行ったんだよ」

襟沢が学校を休んだ2日目の放課後、僕は青柳先生の自宅へと向かっていた。
先生3人に連絡した所、桜井先生も久保田先生も住居を変えたのか
電話が繋がらず、青柳先生の自宅だけに連絡がついた。
電話口で失踪した旨を説明されたものの「詳しく話を伺いたい」と、無理を言って翌日上がらせて貰ったのだ。

「それで…」
「青柳先生のお母さんに寄ると、失踪したのは、今年の7月15日」
「…」
「ちょうど終業式頃だね」
「終業式の日には、もう青柳は居なかった…」

襟沢は、真っ青な顔をしていた。

「話に寄ると、当日青柳先生は学校に行ったきり、そのまま帰って来なかったそうだ」

捜索届も出したそうだが有力な情報も見つけられず、今日に至ってるらしい。

「襟沢知らなかったのか?学校にも警察が来ていた筈だけど」
「分からない…少なくとも先生達は何も言ってなかった」
「そうか。夏休みと被っていたし、うやむやのうちに伝えられなかったのかもな…」

どうやら青柳先生の失踪は、本当に一部の人間の間でしか知られていないようだった。

「僕としては青柳先生が心配だし、君とも関わりの深い人だから、どうしても気になるんだ」
「7月15日…」
「襟沢、何か知っていないかい?」

僕の言葉に、襟沢はピクリと身動ぎする。
彼女は明らかに何かを知っている。
知っていて、僕に話すか迷っている。
かつての僕になら、彼女はそれを話さそうとは思わないだろう。
だが今なら、今の僕たちなら。

「…知ってる」

襟沢は僕の目を真正面から捉え、答えた。


「15日はテスト最終日だったんだけど、選抜クラスはテストの後に授業が入ってたの」

確かに襟沢のAクラスは、受験に向けて成績別に分けられた中でも、トップ組だと聞いていた。

「だから私も青柳も遅くまで残っていて、皆が帰ったのを見計らって呼び出したんだ」
「何で?」
「ちょうどその頃は、やっと青柳から脅しのネタに使えそうな声が録音出来て、いよいよ脅迫って時だったの」

サラリと襟沢は恐ろしい事を言う。
そして、脅しのネタに使えそうとはつまり…。
胸が苦しくて声に詰まるが、何とか襟沢の言葉に反応する。

「それで呼び出して…どうなったんだ?」

襟沢は当時を思い出すようにじっと一点を見つめ、感情を込めずに言った。

「殺されそうになった」

「こっ殺されそうにって…!」

衝撃の余り声が大きくなり、慌てて自分の口を抑える。

「脅迫したら私の身も危ないなんて、当たり前の事なんだけど」
「どういう事だ、何があったんだ」
「……『ダビングしたCDを友達数人に持たせてるから、私に何かあったらネット上に流して、
学校や親、各関係者に郵送で送りつける事になってる』って言ったら久保田の時は大人しくなったからいけると思ったの」

襟沢のやり口は冷酷で容赦がなく、逃げ道がない。
無表情で淡々と語る姿は、その心の闇を映し出すようだった。

「それでも、いつでも逃げ出せるようにドア側に立って。油断しないで」
「青柳先生は何を」
「青柳は逆上して、私の首を絞めたの」

「あ…」

彼女の声を聞いて、僕の脳裏に奇妙な情景が再生される。

北の土地に訪れる、短い夏の夜。
薄闇の中、男の目が光る。
黒髪が机に散り、闇の中で同化する。
小さな箱の中で。
少女は白い喉元を震わせ、息絶える。
彼女の瞳は何も写さない。
それは彼女がもう

『ガキの癖に騙しやがって』
『ぶっ殺してやる!』

「その声だけ、覚えてる」

襟沢の声に、ハッと現実に引き戻される。

「あ…その後はどうなったんだい?」

襟沢は眉を顰めながら、自身でも困惑げに顛末を話した。

「私は途中で頭を打ち付けて、気を失って」

気が付いたら家のベッドで寝てたの。

……。

「……飛んだな」
「記憶が全くないの、ホントに」
「親に聞いたら、みるりが見つけて送ってくれたみたいで」
「高坂みるり?」

ここで、思いも寄らぬ名前が出た。

「友達なの。幼なじみで親友なんだ」

そうだったのか…。
しかし高坂は、襟沢の事情を知っているのか。

「みるりに聞いたら、正門で待ってたけど、いつまで経っても私が来ないから教室まで迎えに来て見つけたみたい」
「その時の様子は…」
「教室には私以外誰も居なかったし、私に乱暴された跡も全く無かったって」

そして翌日、もう青柳は出勤して来なかった。

「正直何が何だか分からなくて、今まで放置してた。怖くて忘れようとしてた」
「襟沢、気持ちは分かるよ。でも」
「分かってる…それっておかしいよね。絶対に、何かあったんだ…」

キュッと唇を結んで、襟沢は視線を床に落とす。

僕は襟沢の顔を両手で押し上げ、僕と視線を合わさせた。

「目を背けるのは簡単だ。だけど襟沢、これを解決出来たら、僕も君も自分を変える事が出来るかもしれない」
「変える…」
「今までのしがらみを捨てて、本当の自分を、また生きたいように生きる事が出来るかもしれない」
「……」

襟沢はポカンと僕を見つめていたが、すぐに目を逸らしてしまった。

「どうしたの」
「私…こんなに醜いのに、変われたりするのかな…」

襟沢は小さく震えていた。
僕の手を両手で掴み、縋るような瞳で僕に訴える。

「だってこんな話…軽蔑したよね、最悪だって、醜い女だって」

声に涙が混じる。
襟沢の手は、氷のように冷えていた。

「軽蔑なんてしてないよ」

僕は襟沢の手をギュッと握り返し、笑いかけた。

「襟沢がしてきた事は、先生側に過失があるにしても悪い事だ。だけど」

「必死で生きてきた人間を軽蔑するなんて、そんな資格は誰にもないよ」

彼女の冷えた手を擦ると、青白い肌に少し血が通った気がした。



「そうか、藤本が切りつけた可能性も」

青柳先生の件を考えながら帰り支度をしていると、不意にそんな発想が浮かんだ。

「藤本?」
「アイツ確か人を切りつけた事があるとか何とか…」

襟沢は僕の考え込む姿を訝しげに見つめている。
そうだ、あの藤本の事だから、その日現場に居たって何もおかしくはない。
アイツが何か知ってるんじゃないのか。

「なあ襟沢、藤本が何か青柳先生の件で言ってなかったか?」
「藤本って」
「ほら、君の幼なじみの」
「ああ藤本君…なんで?」
「何でって」
「確かに昔から近所だし、同じ学校に居るけど」

襟沢は本当にキョトンとした顔で、僕に真実を突き付けた。

「今は会っても挨拶位しかしない仲だよ?」

「―――」

一体どれが真実で、どれが虚構なのか。
僕は見極める時期に来ていた。

「という訳で俺のストーカー事情が露見してしまった訳ですが」
「自分で言うな…悲しすぎるぞ」


翌日、早朝7:00。

朝練中に顧問を介して呼び出すと、暫くして物凄く不機嫌な顔をした藤本が現れた。
今にも殴りかかってきそうな殺伐とした空気を漂わせていた藤本だったが、
テイクアウトの牛丼(ギョク付)が入ったビニール袋を突き付けると、一転してニヤリと笑顔を見せた。

「ていうか朝牛って、リーマンの発想ですよ」
「嫌なら食うな」
「で、俺に聞きたいんでしょ?青柳の件」
「…やっぱり昨日も居たんだな」

驚異の張り付き具合に、こいつのプライベートはどうなってんだと変な勘ぐりをしてしまう。

「はっきり言って俺、完全なストーカーですからね」
「僕はてっきり。事情もよく知ってるし、歩美先生からも幼なじみで付き合う寸前だと…」
「事情はストーキングと高坂と喋ってるトコを立ち聞き。中島には一度だけ『幼なじみだ』
って言った事があるんで、由梨を牽制する為にアイツが適当に吐いた嘘だと思いますよ」

また歩美先生か…。
名前が出ただけで、思わず頭を抱えてしまう。

「その様子だと、中島に結構やられたみたいっすね」
「…その件については、ちょっと放っておいてくれないか」
「まあ中島も、青柳には手痛くやられたっぽいですね」
「え」

思わず頭を上げると、藤本は相変わらずすました顔で牛丼をかき込んでいる。

「先生ー紅生姜もっと貰ってきて下さいよ」
「藤本それはどういう」

ジャー、ピチャピチャッ

「冷っ!?はっ?」

雨?え、あ?!

一瞬、何が起こったのか分からなかった。
藤本は。

「上原先生、アンタには本当に殺したい位腹が立ってるんですよ」

藤本は僕の頭上で紙パックを握り潰し、無表情で飲料水を浴びせかけていた。

髪が萎れ、水滴が滴る。

「なっ何を!」
「何が守るだよお前はどっかのヒーローか。古いんだよウザいんだよキモいんだよ!」

藤本は、これまで溜まっていた鬱積を晴らすかのような怒声を張り上げていた。

「そ…そんな事言われても」
「またそれだ、何が純粋だよ、いい人ぶんな。この偽善者!」
「……ッ」

藤本は、僕にナイフを突き付けたあの時の表情をしていた。
久々に生徒に罵倒を浴びせられ、体が竦む。
だがここで萎縮してしまう様では情報は得られない。

僕は藤本に負けない位の気迫で言い返す。

「偽善でも何でもいいじゃないか!」
「何の開き直りだよっ」
「僕も君も、襟沢の事以外で大事な事なんて無いだろ!」

その言葉に、ピクリと藤本の表情が動いた。

「何が言いたいんだ」
「僕の言動なんか、君の気持ちなんか、どうでもいいって事だよ」

そして僕は、自分なりに至った境地を吐露した。

「襟沢をどうやったら救えるか、僕達が考えなきゃいけないのは、たったそれだけの筈だろ?」
「……」

饒舌な藤本が、初めて沈黙した。


「ウザいとか目障りとか、偽善者とか。だからどうした。偽善でも襟沢が救えるならそれでいいんじゃないのか?」
「……」
「お前のつまらない感情で、チャンスを潰すなよ」

僕の言葉に、ギリ、と歯を軋ませる藤本。

「クソが」

敵意は消えない。和解はない。だが。
藤本は頭は悪くない。

「青柳は……」

口火は切られ、事態はまた動く。

「確かに由梨を殺そうとしていた」

何か揉めているような声は聞こえてた。

『放して!何しっ……』
『ぶっ殺してやる!』

最初に聞こえてきたのは、そんな悲鳴と罵声だった。

俺はすぐに扉を開けて中に踏み込んだ。

『お前が!お前が!』

教室の中で青柳は、机の上に由梨を押し倒して首を絞めていた。
本当だ。アイツ、生徒を殺そうとしていたんだよ。
それを見た瞬間頭が真っ白になって、青柳が振り返った所をそのままナイフで切りつけたんだ。

場所?
勿論心臓なんか狙ってないよ。
何だかんだ言ったって、俺は只の臆病なガキなんだ。
カッとなったからって人を殺す事なんて出来ない。
胸を切りつけた。こっちに向かって来たからぶん殴って、何回も何回も気絶するまで殴る蹴るを繰り返した。
女相手じゃ有利だったんだろうけど、あんなひょろい奴、一瞬だったぜ。
…ああ大丈夫、あんなもんじゃ死なない。

気絶させてから初めて、由梨を見た。
幸か不幸か由梨は気絶してて、俺は考える時間を与えられた。
勿論興奮状態で考えるもクソも無かったけどさ、それでも考えたんだよ。

警察には間違っても通報出来なかった。
言ってしまえば由梨も青柳も俺も、皆加害者だからな。
それに俺が由梨をおぶって、アイツん家まで行っても不審過ぎる。
だから、高坂みるりにメールしたんだよ。

え?何で高坂って?
知ってるだろ?アイツは由梨の幼なじみで親友だって。
いつも一緒に帰ってるから、その日ももしかして学校に残ってるんじゃないかと思ったんだよ。
そしたら案の定、

『正門で待ってるのに約束の時間にまだ来ない』

って返ってきたもんだから、シメたと思った。
適当に事情を話して、由梨をおぶって、みるりと由梨ん家の近所まで行った。
そんで家に入る段になって、みるりにバトンタッチした。んだ。

何、襟沢はみるりから何も聞いてない?
そりゃそうだよ、口止めしたもん。
由梨とは疎遠になっちまったけど、みるりと俺は近所同士、昔から仲が良い。
その程度の事なら黙っててくれたんだろ。

由梨も馬鹿だな。よく考えたら、身長141センチのみるりが160センチの由梨を背負える訳がないなんて事、分かる筈なのに。
…ん?ああ、みるりは141センチだよ。中2以来1ミリも変わってない。

そんでその日は一日中、戦々恐々としていた。

明日朝起きたら警察が来てるんじゃないのか?
青柳が仕返しに来るんじゃないのか?
そんな事ばかり考えて一睡も出来なかった。
翌日、教室は綺麗に片付いていた。
自分の犯罪がバレないように、青柳が戻したんだと思った。
青柳は学校に来ていなくて、学年主任の平塚に訊いたら『体調不良』と言われた。
『体調不良』のまま夏休みが始まり、青柳はそのまま帰って来なかった。
警察も来なかった。
夢かなんかみたいに全部過ぎ去って、新しい学期が来てそして

「アンタが来たんだ」
「……」

話を聞き終わり。
僕は今、初めてこの学校においてのスタートラインに立った気がした。

何もない田舎の片隅の、抑圧された小さな箱の中で営まれる、逃げ場のない愛憎と凄惨な悲劇。
感覚の鋭敏な子供の目には、それがどのように映っているのだろうか。
僕には検討もつかなかった。
それは僕がこの土地の者でないからなのか、僕が「大人」だからなのか。
しかし僕が外の人間で、大人だからこそ。
停滞したこの状況を動かす事が出来るんだ。

「じゃあお前が知ってるのはそれだけか?」

衝撃的な内容ではあったが、青柳先生の失踪に一歩踏み込むには情報が足りない。

「あー…どうだったかな」

いつの間にか時刻は8時を回ろうとしていた。

「先生、準備いいの?」
「ああまだ…」

今聞いた話を考えながらグラウンドの方を眺めていると、裏門の方に一台のタクシーが止まったのが見えた。

「あれ、タクシー」
「ああ」

藤本はそれを見て、まるでよく知っているものであるかのように、ニヤリと口元を歪めた。
そして不意にとんでもない質問をぶつけてきた。

「先生さー、中島フってから今日で何日目だっけ」
「あ、6日目かな…ってええっ!今何を」
「ああ、じゃあそれそろか」

藤本は嘲笑を含んだ口調で言葉を吐き出した。

「いよいよ『歩美様』ご登場って訳だな」


歩美様。
藤本のその言葉を理解するのに、そう時間は掛からなかった。

「あっ?え?ちょっ歩美先生!?」

タクシーから降りてきた先生は。
大きな大きなサングラスをしていた。

「……!?」

加えて服が、毛皮のコートにミニスカピンヒール。
絶望的な事に、車を出ると歩き煙草をしながら、グラウンドを闊歩していた。
何というか、スローモーションの映像効果に、BGMにはゴージャスな曲が掛かってそうな迫力すらあった……。

「……『歩美様』!?」
「男にフられたり、嫌な事されると、文字通り『グレる』んだよね。アノ人」
「おい藤本!あれ最早別の物体だぞ!」
「先生相当衝撃受けてるね……あれ」

動揺しまくる僕をニヤニヤ見ていた藤本が、不意に表情を真顔に戻した。

「何だ?」
「そういや…あの日、帰り際に中島に会った」

藤本の顔が青白く、血の気を失った。


「どういう事だ、それはどんな状況だったんだ?」
「待てよ。そうだ、すっかり忘れてた…」

藤本は頭を両手で押さえ、考える素振りを見せる。

「そうだ。由梨を背負って、教室の鍵を閉めて。帰り際廊下で中島に会った」
「それで何かあったのか?」
「『何で襟沢さんを背負ってるの』とか訊かれたけど、その時は適当に返事したんだ」
「それで?それだけか?」
「それで、俺は由梨を背負った姿を教師にこれ以上見られたくなくて、だから」

藤本は言葉を止め、とんでもない過失を犯したかのように、呆然と僕を見つめた。

「『職員室に返しといて下さい』って、2−Aの教室の鍵を渡した」

僕に与えられた役割は、あまりにも荷が重いものだった。
だが、やらねばならない。逃げてはいけない。
逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…

「あっっあーゆみ、先っ生!」
「……」

職員室、お昼前の4限目。
僕は6日ぶりに、歩美先生に声を掛けた。


「…何ですか」

予想通り、歩美先生はこちらを振り向こうとはしなかった。

「うっ」

香水の匂いのキツさに思わず顔をしかめる。

…いやこんなものに負けてはいけない。僕には果たすべき役割があるんだ。

「あの、その先日は失礼しました」
「そうですか」

暖簾に腕押し状態の問答に冷や汗をかきつつ、めげる事なく質問を繰り出していく。
とにかく会話しなければ話にならないんだ。

「えっと…体調の方はもう大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ」
「あのそれで「私は怒ってるんですよ」

僕の声を割って、歩美先生は漸くこちらに向き直った。

「……」

歩美先生はいつもの何倍も派手なメイクだったが、同時に変に雑だった。
取れかけの付け睫毛や、少し歪んだ赤い口紅が、妙に痛々しくて直視出来ない。

「怒ってる…それは当然ですよね」

なにせラブホテルに女性1人、置いてきてしまったのだ。
男性としてはあるまじき、配慮や常識に欠けた行為だ。

「はい。上原先生の天の邪鬼に付き合うのは大変ですよ」

すると歩美先生は僕の予想に反して、奇妙な返しをしてきた。
天の邪鬼?

「天の邪鬼って…」
「あれから考えたんですよ。

何度も何度も何度も何度も何度も何度も」
人も疎らな職員室内で、歩美先生の語調は次第に強くなっていく。

「何で隆さんは、あんな嘘を言ったんだろうって」

嘘…?何を言ってるんだ歩美先生は。
嫌な予感がする。
鈍感な僕にさえも気付けるような危険が、背筋が凍りつくような悪寒が

「そしたら分かったんです」
「分かったって」

「先生はイジワルでそんな事言ってるだけで、本当は私の事を愛してるんだって!」

歩美先生は幸せそうに、化粧の崩れた顔で弾けるような笑顔を浮かべた。
悪夢はまだ続いていた。








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