由梨と上原先生
-5-
シチュエーション


「愛して……」

ない。愛している訳がない。

しかし今ココでそれを主張する事は出来ない。
彼女に今離れられては困る。

「それか、襟沢の売女に騙されてるか」
「そんな!」
「あ?」

思わず反論をしかけると、瞬間射るような視線が僕の体を貫く。

「いや何でもっ!」

ダメだ…。
僕は、自分を殺す事に躍起になる。
嘘だ…頑張って嘘をつくんだ……
………

そして。

「ハハハ、襟沢みたいな女に騙される訳がないじゃないですか。僕はあ、歩美せ…あゆみ一筋だよ!」

頭を振り絞って考えた、世にも白々しい台詞を吐いた。
こんな白々しい言葉に騙される人間が居るのか?
流石の歩美先生も僕の大根っぷりに、逆に疑念を持ってしまうのでは…

「何それ歩美、超嬉しい」

歩美先生は目をカッと見開き、真っ白な歯で真っ赤な下唇を噛んで笑顔を浮かべていた。
それは昔流行った『口裂け女』を連想させる、世にもグロテスクな表情だった。

「あ、いや!ハハハ!」

無理。
もう、無理だ。
笑う以外の選択肢がない。
最早笑う事しか出来ない。

「アハハハ…ハハハ…」

口が「ハ」を連発しながら、頭をフル回転させる。
これ以上の会話は僕には不可能だ。
もうこの流れだ。この流れで、勢いで持っていくしかない。

「歩美、もし良かったら明日の放課後、歩美の家に行って良いかな?愛する人の生活が知りたいんだ☆」
「オッケーマイダーリン愛してる!!」

歩美先生の絶叫は、職員室中に響き渡った。
明日から『公認カップル』として地獄の日々が始まるのは、間違いなさそうだった。

まず前提として、皆と共有しておきたい事実があるんだけど。
そう前置きして、藤本は僕達の前で断言した。

「はっきり言って、中島は頭がおかしい」

「「「……」」」

襟沢、高坂、僕の3人は、無言で首を縦に振った。
翌日の昼休み。
襟沢、藤本、高坂、僕の4人は、雁首揃えて中庭の芝生スペースに集まっていた。


事の発端は、先日の藤本の発言だった。

『歩美先生に、青柳先生が居る教室の鍵を持たせたって…』
『酷いミスだよ先生…あの抜け目の無い中島が、
天敵の襟沢が倒れた現場を見に行かない筈がない…』
『天敵?』
『中島は由梨と、青柳を取り合っていたんだ。
中島は付き合っていたつもりだったから、実際には由梨がリードしていたのに、
「糞ガキが私の彼氏に手を出そうとしてる」
って勘違いして、当時は由梨にちょくちょく嫌がらせしてたんだ』
『嫌がらせって』
『テストの点数改竄とか、おかしなデマ流したり…まあどれも犯罪レベルだね』
『歩美先生が…そんな人道に劣るような事を?』
『そうか中島か…アイツなら何やっててもおかしくありませんよ』
『何って』
『倒れた青柳を見て、中島は何を思うでしょうね』
『……襟沢に何かされたと思って、怒るとか』
『だけど2学期以降、由梨は一切手を出されていない』
『だったら』
『きっと「違う事」をしたんですよ、先生』
『……何だ?』
『何でしょう。調べてみる価値はある』
『どうやって調べるんだ』
『…上原先生』
『ん?』
『赤信号、皆で渡れば怖くない。って言葉知ってますか?』


という訳で。
前代未聞の藤本の提案で、僕達が集められたのだ。

『どうせだから由梨、みるりにも手伝ってもらいましょう』

と藤本は僕に二人を呼び出すように指図し、
僕は事情を掻い摘んで襟沢に説明し、襟沢は高坂に事情を説明した。
襟沢は最初、藤本の存在を知り驚き眉を顰めたものの、高坂からフォローがあったのか、
翌日現れた襟沢は、特に目立った動揺も見せずに僕の隣に立っていた。

「知っての通り。中島は桜井と付き合っていた頃は比較的マトモな奴だったけど、
1年の夏休み明け辺りからアイツは変わった」

藤本は、状況の整理と僕への説明を兼ねて、これまでの経緯を語り出す。

「逃げた桜井を追っかけて学校を休んだり、おかしな行動をとったり。
…まあそのロスタイムで久保田が助かったんだろうけどな」

久保田が助かった、という表現に首を傾げる僕。
それを見て藤本が言い添える。

「今回の上原先生でハッキリしたんだけど…中島はどうやら『教師』に異常な愛情と執着を持つみたいなんだ」

桜井・青柳・上原…、と襟沢がぽそりと呟いた。

「周りに男が居ないのか、何か固執する理由でもあるのか」

これまで付き合ってきた教師達への愛情は、常軌を逸している。

「最初は皆、仲の良いカップルだと思うんだよ。
多分男自身も。それが段々、おかしな事に気付いていく。
『あれ、何か気持ち悪いな』
『不自然だな』
ってな具合にな」

まあ上原センセは今までの奴より、大分気付くのが遅かったけど。

「それは…」

正直歩美先生の事は本当に苦手になってしまったが、
彼女が犯罪まがいの行動をしているという事までは、未だに信じる事が出来ない。

「だから桜井は逃げて、青柳は適当にあしらって次の女に行って…消えた」
「ロクな末路じゃないね」

襟沢は軽侮の念を込めて言葉を吐き出す。

「桜井はどんな目に遭ったのか、青柳は何処に行ったのか…知りたいですよね」
「勿論!」

当然だ!と僕が大きく頷くと、藤本はニッコリと僕に笑いかけた。

「じゃあ…」

そう、それは初めて見るような、藤本の爽やかな笑顔だった。

「という訳で今回上原先生には、皆と同じ末路を辿って貰います」
「は!?」

藤本は悪魔の様な言葉を僕に宣告した。

「ちょっと藤本君!何言ってんの!」

藤本が言葉を発した瞬間、弾かれたように襟沢が藤本に歩み寄った。

「このまま中島に先生を食わせろって訳!?」
「いや違う襟沢!」

僕は慌てて襟沢の手を掴んで引き寄せる。
ていうか何て事言うんだ襟沢。

「だって先生!」
「藤本にはきっと目的がある。今からそれを語ってくれるんだ。な?藤本」

口と頭の回る藤本なら、気の立った襟沢にうまく対応出来る筈だと藤本を見やる。
と。

「あっ…、あの、え、襟沢さんその、違うんです。訳があって…えっと」
「…藤本?」

敬語?襟沢さん?どもってる?
先程までの小賢しさが一変、藤本は顔を真っ赤にして俯いてしまっていた。

「アンタ…」

襟沢もびっくりしたように目を丸くしている。

「由梨ちゃん止めたげて、圭君緊張しぃなんだよ」

それまで沈黙を守っていた高坂が、よっぽど見かねたのか服の袖を掴んで襟沢を見上げる。

「う…」

その瞳を見て、流石の襟沢も言葉をつまらせる。
そうか、藤本お前…。
僕は思わず真顔で藤本に話し掛ける。

「藤本お前…本当に襟沢と疎遠だったんだな!」
「先生…先生の純朴さが今ほど身に染みる時はありませんよ…」

何故か泣きそうな顔で藤本はそう呟いた。

暫くして、漸く藤本は続きを話し始めた。

「要するに上原先生には、中島の巣。つまりアイツの家にあがってもらいたいんです。目的は2つ」

1つは、先生が実験体となって、中島が男に対してどんな行動を取るかを見極める。
2つ目は、中島から青柳の話を聞き出すなど、青柳の痕跡を探る事。

「これで仮に、中島が上原先生に殴りかかるような事があれば、2つ共いっぺんに解決しますけどね」
「藤本!!」

とうとう襟沢が、藤本を呼び捨てにし始めた。

「すっすいません調子乗りましたごめんなさい!」
「由梨ちゃん!」
「襟沢!」
「だってこいつが!」


そして。

「……」

軽妙なやり取りに一瞬気を削がれるも、
一転して重苦しい空気が僕達の間に流れた。
そう、言葉には出さずとも、誰もが考えていた事だった。

人気のない放課後。
先の見えない暗闇。
傷を負い、意識を失った青柳洋介。
中島歩美はそれを見て思う。
とうとう彼が自分のものになる。

青柳が桜井のように逃げたのでなければ。

「監禁しているか、殺しているか、どちらかだ」

藤本が無機質な声音で、言葉の重さを背負った。

全員の意志が一致してから、話は迅速に進んだ。

「堂々と家へ侵入出来るのは、先生しか居ないんだ」
「僕が…探ってくればいいんだな?」
「じゃあ私達は何をすればいいの?」

「あっえっと」

襟沢がずい、と藤本に攻め寄ると、藤本は脂汗を流しながらもたどたどしく答える。

「ぼ、僕達にはそれぞれ役割があります」
「何よ」
「実は昨日、中島を尾けて家を見て来て、その!」
「藤本落ち着け、家を下見してきたんだな?」

僕が慌てて間に入ると、藤本はあからさまにホッとした表情に戻り。
そして言った。

「それで…見つかったんだ。限定一名、外から侵入する方法が」



「綺麗に咲いていますね」
「ああ、これは上原先生」

放課後。

曇天の下、僕は相変わらず花壇で作業をする平塚先生に声を掛けた。

平塚先生は花壇に、ビニールの囲いをせっせと設置している所だった。

「今日も精が出ますね」
「夜から強い雨が降るそうで…心配になって」
「ああ、大分酷いみたいですね」

天気予報では深夜から朝方にかけ、激しい雷雨の
恐れがあるらしく、警報必至の様相を呈している。
今日の歩美先生のお宅訪問は、出来るだけ早くあがった方がいいな…。
頭の片隅でそんな事を考えつつ、花壇の方に歩み寄る。

「そういえば上原先生、何かご用ですか?」
「あの実は…そこの秋桜を数輪分けて欲しくて…」

僕は、淡いピンクが揺れる秋桜の花壇を指さした。

「秋桜を?」

キョトンとした顔で平塚先生が僕を見つめる。

「あ、あのですね」

僕は何だか気恥ずかしくて、顔を赤らめながら平塚先生に事情を説明する。

「じ、実は今日歩美先生とデートというか、その、それで何も持たないというのは…」
「ハハハ!なる程ね」

僕の挙動不審な様子が余程おかしかったのか、
平塚先生は「良いモノを見た」とでもいうような笑顔で笑い出した。

「どうぞどうぞ何輪でも。上原先生の恋路のお役に立てるなら」
「笑わないで下さい!」

平塚先生はくつくつと笑いをかみ殺しながら、
プチプチと秋桜を数輪切り取り新聞紙にくるんで僕に渡した。

「どうぞ、一番育ちの良い場所のやつです」
「すっすみません!」
「形は不格好ですが、きっと上原先生のお気持ちは伝わりますよ」

平塚先生は穏やかな笑顔を浮かべて、そう言い添えてくれた。

「そうだと良いのですが…」
「でもまあ今日はデートも早めに切り上げた方がいいですね」

大事をとって生徒たちの部活動も切り上げさせましたし、と平塚先生は空を見上げる。

「酷く荒れなければいいんですが」





「隆さん!ようこそ我が家へ!」
「あ、ありがとう…」
「勿論親は急な旅行で今日は帰りませんから☆」

急な旅行って…まさか無理やり追い出したんじゃないだろうな。
夕闇の中、嵐の前の緩い風が頬を撫でる。
秋桜の簡素な花束を携えて。
上機嫌の歩美先生に連れられ、僕は中島家にお邪魔していた。

「しかし…大きな家ですね」

藤本から話は聞いていたものの、予想より立派な門構えに些か驚いてしまう。

「両親は只の教師なんですけどね。祖父が不動産をやっててちょっと」

歩美先生の親も教師をやっているのか。
何でもないように喋っているが、実際なかなかのお金持ちの家の娘らしかった。

「どうぞ、入って下さい♪」
「じゃあ…お邪魔しまーす…」

ガチャリ。

靴を脱ぎ、歩美先生に連れられてリビングへ向かう。

「わあ…広い…ってテレビでか!!」
「ふふ、そんな事ないですよ〜。あ、お茶入れてきますねっ」

歩美先生はニコニコと軽やかな足取りでキッチンに向かう。

「…凄いな」

玄関に入った瞬間、強烈な芳香剤の薫りが鼻をつく。
靴箱を見やると、高そうな生花の漬かった芳香剤が、幾つも置かれていた。

なる程…。

リビングはソファ、テーブル、テレビと、スタンダードな配置になっていた。
窓も大きく取り付けられ、見晴らしがいい。
玄関で見た間取りから考えるに、1階にリビングや和室、
2階に歩美先生の自室や寝室があるようだ。

そして僕が見ているこの窓の向こうには…

「〜〜っ!」

不意に窓からヒョコリと黒髪の頭が見えて、心臓が跳ね上がる。
頭はすぐに引っ込んだが、心臓は収まることなくバクバクと早鐘のように鼓動を打ち鳴らす。

ア、アイツら…本当に大丈夫なのか?
…だが、やるしかない。

拭いきれない不安を胸に、僕は歩美先生に呼び掛ける。

「歩美先生」
「はい?」
「あの、トイレってどこですか?」



「藤本!アンタ背高いんだからもっと屈みなさいよっ」
「はいっすいません!」
「圭君、メール来たよ」

私達は藤本の指示通り、中島の家の窓の外で待機していた。
高塀のお陰で外から見咎められる事はないだろうが、
それでもかなり危険な行動を私達は取っている。

メールを開いた藤本は、小さく頷く。

「…よし、予想通りの間取りだな。例の窓も開いているようだ」

例の窓、という言葉にビクリとみるりが反応する。

「けっけい君…あの作戦、本当に…」
「大丈夫だみるり、自分の体型を信じろ」

体型を信じろ、という言葉に一層「ひうううぅ…(泣)」とみるりは涙目で怯えた。

「移動だ」

と、私達は藤本と更に家の裏に回る。

「藤本、アンタみるりに何かあったら只じゃおかないよ」

ドスを効かせて軽く脅しつけると、藤本は脂汗を流しながらコクコクと頷く。

ったく…ホントに情けない男だ。
私をストーキングするような奴は、大体こんな意気地無しばかりだ。
先生は私がストーカーに動揺していない事を不思議がっていたけれど、
正直こんな奴が憑いているのが日常茶飯事過ぎて、何の感情も抱けない。

「ここだ」

藤本が指をさした所は、3メートル程上に取り付けられた小さな窓だった。

「上原のメールと窓の位置・サイズから想定するに、
多分階段の途中で換気用に設置された小窓だと思う」
「確かに開いてるわね」
「1階から入れば流石にバレるし、2階の窓は高すぎる」

確かに入るならここがベスト。但し。

「見ての通り、子供が入れるギリギリのサイズだ」
「だから何で皆みるりを子供扱いするの!?」

もう目にいっぱいの涙を浮かべ、殆ど泣いている状態で、みるりが最後の抵抗をする。

「みるりにやってもらいたい事は1つ。
皆で中島を1階に引き付けている間に、2階の中島の部屋を探ってきて欲しいんだ」
「探るって結局、何を探せばいいの?」
「運が良ければ腐乱した本人が見つかるかもな」
「ヒッヒィイイイイ!」
「無駄にみるりを怯えさせないで!」
「すいません!すいません!すいません!」



そして結局、みるりが折れた。

「う…怖いけど…みるりこんな事でしか役に立たないし」

みるりはビクつきながらも、中へ侵入する事を決意したようだった。

数分後。

「ちょっと藤本!靴脱いで乗りなさいよ!」
「あっごめんなさい!」
「たっ高いいぃ!」

私は、何故か四つん這いになって藤本に乗られるという、屈辱的な役割を果たしていた。
簡単な話で、藤本の目算よりも窓が高かったのだ。

ガラ

藤本に高々と上げられたみるりは、窓を全開に開けて中の様子を窺っているようだった。
四つん這いになっているせいで様子が窺えないが、
微かにカタ、ゴト、と物音が聞こえる事からみるりが侵入を試みている事が分かった。
と。
不意に物音が止まり、小声で藤本とみるりが言い争う声が聞こえてきた。

小声過ぎて聞こえないが…このクソ重いのを我慢してるってのに、アイツら何やってんだ。

暫くして漸く諍いは収まったようで、コト、コトとまた音が伝わり出す。

フワッ。

すると同時に、何かが空から降ってきて私の頭に被さった。

「え、何?何?」

するとみるりが中に入りきったのか、藤本がゆっくりと私の腰から足を下ろした。

藤本は何故か複雑な表情をしつつも、達成感溢れる表情で断言した。

「よし、思わぬ難関があったが侵入成功だ」
「難関ってアンタ…さっき何揉めてたのよ」

私は痛む腰を押さえつつ起き上がり、頭に降ってきた物体をつまみ上げる。
瞬間、目が点になった。

「…ぶらじゃー?」

悲しい程小ぶりで、白いレースのブラジャーが私の頭に乗っかっていたのだ。

「何これ…もしかしてみるりの?」
「変に見栄を張るから」

藤本は心底呆れた顔で、ブラジャーを指さした。

「ブラに詰め物しまくってたせいで、窓に肩を突っ込んだ時に引っかかったらしい」

誠意ある交渉の末、彼女には一時女性を忘れてもらう事にした。
そう大真面目で語る藤本の頭を、私は全力で殴りつけた。

「あら?今何か音がしました?」
「そうですか!?ぼっ僕には聞こえなかったなぁ!」

白々しく大声を張り上げ、僕はコーヒーを一気に胃に流し込んだ。

おいおい、あんな物音を立てるなよ…。

緊張の連続に、僕の心は折れ掛けていた。
だが、状況的には順調この上ない。
歩美先生の自宅に侵入。
間取りと、階段の窓が開いているかチェックのメール。
そして高坂みるりの侵入。

高坂の侵入は、歩美先生が2階へ直行した場合は中止の予定だったが、
歩美先生が暫くリビングに腰を据える様子だった為に、決行となった。
まあ、襟沢を使って歩美先生を1階に足止めしている間に
2階で僕が捜索する、パターンBよりはリスクが少ないもんな…。

「隆さん聞いてますっ?」
「あっすいません!何でしたっけ」

僕が慌てて現実に引き戻ると、歩美先生はほっぺを膨らませて僕を睨んでいた。

「もー。先生が歩美の事知りたいって言うから色々話してるのに」
「ええと今は」
「ふふ、元カレの話ですよ」

歩美先生はネイルの施された指でスプーンを摘み、コーヒーに継ぎ足したミルクをかき混ぜる。
その所作は本当に静かで穏やかで、まるで激情に走った時とは同一人物のようには思えない。

茶けたセミロングを揺らし、歩美先生は小さく首を傾げる。

「それにしても隆さんが、桜井先生や青柳先生のお話を知ってるなんて」
「やっぱりちょっと気になって…生徒たちから仕入れてきました」
「あら、じゃあ色々聞いたんですね」
「ま、まあ…」

何だか調子が狂う。
家に入るまでは、いつも通り異様なテンションの歩美先生だったのに、
リビングでお茶をし出してからというもの、歩美先生はすっかり落ち着きを取り戻していた。
そうまるで、初めて出会った頃のように。

「桜井先生はね、カッコイイだけじゃなくて優しい、とても素敵な人だったんです」

歩美先生はミルクが混ざりきった後もスプーンをくるくるとかき回し、
手を遊ばせながら僕の質問に答える。

「私オクテで、お付き合いとか初めてで。でも親と同じ『先生』だから大丈夫かなって」
「そうだったんですか!歩美先生モテそうなのに」
「父親が教師なだけに、異性関係に厳しくて」

恋愛とか、男の人と何かするって、凄く悪い事のように感じていたんです。
と、照れながら話す歩美先生。
カランカランと、スプーンが回る。

「でも桜井先生なら大丈夫。『先生』は正しい事が出来る人だから、って」
「…歩美先生は、教師という仕事を信頼しているんですね」
「ええ」

僕は妙な所で、歩美先生の教師に対する真っ直ぐな想いに感銘を受けてしまった。

良くも悪くも歩美先生は素直で、真っ直ぐだ。
それが常に良い方に向かっていれば…。

「でも、桜井先生は正しい事が出来なかったんです」
「正しい?」
「最初は小さな事だったんです。約束を忘れてたとか、少し乱暴な物言いをしたとか」

カラン。

「でもそのうち、桜井先生は色んな事を忘れるようになりました。ズボラになっていきました」

歩美先生は、キラキラと銀色に光るスプーンを眺めている。

「お早うのメールを忘れました。
お休みのメールを忘れました。
電話をするのを忘れました。
約束の時間に来なくなりました。
私が毎日240通メールを送っても、50回電話をしても、
2時間に1回約束の日時を指定しても、現れなくなりました」

スプーンが回る。
1秒に1回スプーンを回しているとすると、かれこれ840回、歩美先生はスプーンを回している。

「学校でも避けられて、話もして貰えなくて」

それって正しい事じゃないですよね?

「それは…桜井先生が自分の意志をキチンと伝えていなければ、確かに…」

桜井先生は恐らく、怯えきっていたのだ。
歩美先生の愛情に、正しさへの拘りに。

「私は桜井先生の『返事』が欲しかっただけなんです。だから、辞めた後も、追い掛けた」

その時期が、藤本が言っていた久保田先生が赴任してきた頃か。

「追い掛けて…見つかりましたか?」
「見つかりましたよ」

歌うように朗らかに、歩美先生は言った。

「見つけた時、可愛い女の子と歩いていました。だから聞きました。『その子は誰』って」
「誰と」
「『新しい彼女』だと」

カランカランカラン。
カップからコーヒーが溢れ出す、零れていく。

「やっと返事を貰いました」

歩美先生は変わらず笑みを浮かべていた。
僕は桜井先生と彼女がどうなったのか、訊かなかった。



「青柳先生ですか?」

そして桜井先生の話の後。
漸く僕は核心に触れようとしていた。
高坂が侵入してから20分、何か情報は得られただろうか。

「ハイ、彼とはどうだったんですか?」
「もう隆さんったら知りたがり屋さんですね〜」

カランカラン。

歩美先生はまた照れるようにして、顔を赤らめた。
それだけなら可愛らしい妙齢の女性そのものなのに、
彼女の周りにはコーヒーの雫が点々と飛び散っていた。

「青柳先生は」

ビシャリとスプーンがコーヒーを撒き散らす。

「桜井なんかと違って大人で、」

ガチガチとスプーンが打ち鳴らされる。

「凄くカッコよかった。カッコよくて、変な女にまで手を出されて凄く困ってたんです」

歩美先生の様子はあからさまに異常だった。
話が進むにつれ、目の焦点がぼやけ、スプーンが機械的に回り続ける。
カップの中のコーヒーは殆どが飛び散り、底に溜まった澱を一生懸命かき混ぜ続けている。

ガリ、ガリ、ガリ、ガリ。

体が、凍り付いたように硬直してしまって、動けない。
頭だけがくるくると思考を巡らせる。
連絡は?高坂は?襟沢は?

「困って…どうしたんですか」
「ある日、青柳先生が酷く乱暴に私を扱いました」
「乱暴な言葉を吐いて、私を殴りました」

すると歩美先生は不意に顔を上げ、僕を見つめた。
いや、僕でない。

歩美先生は、僕の膝に置いた秋桜の花束を見ていた。

「ソレ、綺麗ですね隆さん」
「あ…」

膝に置きっぱなしにしていたせいで、花は少し萎れ、元気をなくしていた。
僕は慌てて花束を歩美先生に差し出す。

「すみません、すっかりお渡しするのを忘れていました。良ければ花瓶にでも」
「ふふ、秋桜。もうそんな時期なんですよね」

漸くスプーンを捨て、歩美先生は花束を受け取った。

「とっても綺麗だわ」

花の薫りをすんすんと嗅ぐ彼女からは、すっかり先程の狂気が霧散してしまっていた。

「あの先生、先程の話の続きを」

張り詰めた空気が途絶え、とんでもなくホッとするが、
それでも現状から逃げる訳にはいかない。
恐怖心を抑え、話に戻ろうとする僕に、歩美先生は真顔で答える。

「ちゃんと話してますよ」
「いや花じゃなくてですね」

状況は停滞していたが、決して悪化していた訳ではない。
計画は概ね上手く進行していたのだ。
この時までは。

どこからか声がした。


「ヒッ―――」


あ。
微かな微かな、か細い女の声。
幻聴で無ければそれは。
高坂みるりの声だった。

「……あ」

ヤバい。

素早く歩美先生を見やる。

「あら」

歩美先生は明らかに声に反応した。

「今何か聞こえませんでした?」

ヤバい、誤魔化せ。

「ああ、きっと外に誰か居るんですよ」

僕は必死で笑顔を取り繕う。

「にしては室内で聞こえてきたような…」
「もう〜、恋人の僕の事が信じられないんですか?」

奥の手、必殺キーワードを口にした途端、歩美先生の疑いの表情が一変した。

「まさか!隆さんの言う事を疑うなんて!歩美がそんな事する訳ないじゃないですかっっ」
「ハハハハありがとう、じゃあちょっと僕はトイレに」
「どうぞどうぞ!」

誤魔化せたのか?
僕はいてもたっても居られず、リビングを飛び出した。

リビングの入り口のすぐ側に、2階へ通じる階段がある。
その奥に洗面所と脱衣場が。
僕はトイレの明かりを点け、扉を閉める。
これで数分は凌げる筈だ。
僕は足音を立てないように細心の注意を払い、階段を登りだした。

1段、
2段、
3段…

ギシリ、と階段が軋む音がした。
うっかり強く踏んでしまったのか。
気を付けないと…。

………
……いや?

繰り返す。
僕は細心の注意を払って階段を登っている。

「」

自然に呼吸が止まった。
電気の点けられていない階段は真っ暗で、足を闇に浸けているようだ。
どこかで雷の音が聞こえた。
ゴロ…と猛獣のような低い唸り声。
そう。
嵐が来るのだ。

「あ」

歩美先生は頭がおかしい。
しかし同時に。
頭がよく回る。

閃光の様に雷鳴が、階段の闇を切り裂いた。


「隆さん、どこへ行くんですか?」

僕の後ろにピタリと、歩美先生が張り付いていた。


「―――」

躊躇いもなく、僕は中島歩美を階段から突き落とした。

ゴッゴッゴッ

背後から、人間が頭と体を強打しながら滑り落ちる音がした。
それでも僕は振り返らずに、階段を駆け上がる。

バリバリッ

「テメェ!」

後ろで硝子の割れる音が聞こえ、罵声が耳をつんざくが、それをも無視して2階へ到達する。

2階にはドアが4つあり、そのうちの1つが僅かに開いていた。
そしてすぐ、異変に気が付く。

「ウッ」

何か、強烈な臭いがする。

「ッ高坂!!」

僕は胃から湧き上がる嘔吐感を抑え、僅かに開いたドアを開け放った。

そして。
僕は、一生忘れることの出来ない光景を見る事となる。


強烈な腐臭で、一瞬にして鼻が麻痺する。

「げほっ…うっ…ヒクッ」

高坂みるりはベッドの側で四つん這いになって、嘔吐していた。

「…ッ」

僕自身も一気に胃がせり上がって来るが、歯を食いしばり目の前にあるモノを直視する。

ベッドの下の収納棚の中に、死体が入っていた。

が、髪が短い事から辛うじて男である事が判断出来るだけで、
男の体は部位という部位から肉が削げ落ち、目に見えて骨格が浮き上がっていた。
僅かに残った黒く変色した肉の中からは、白い蛆が湧きかえり、
辺りには羽化した蠅が縦横無尽に飛び回る。
とりどりの虫達の蠢く音色が細波の様に重なり、
生命誕生の「歓喜の歌」を、絶望的な様相で奏でる。

正に地獄絵図が、そこにあった。

何故この臭いに気が付かなかったのか。
陳列された芳香剤が頭をよぎる。

気の狂うような恐怖に駆られながらも、僕は高坂に手を掛ける。
高坂の吐瀉物が足に触れるが、構わずに呼び掛ける。

「高坂!大丈夫か!」
「せっせんせ…ひぅっ…げぼっ…」

高坂は目に涙を溜め、必死で僕の背広を掴む。

「コレっ…青柳…」
「喋るな!」

僕は高坂の背中をさすりながら、目を背けたくなるのを堪え、死体を見つめる。

この死体は男だ。
が、本当に青柳なのか。
青柳に決まってる、早くこの場から出て行きたい。
そんな気持ちを抑して、目を皿のようにして死体を観察する。

目立った特徴などはない。
服も肉と共に腐り落ちたのか、辛うじて背広を着ていると判断出来る位だ。
背広…やはり青柳なのか。
にしては、ここまで白骨化するなんて腐敗が早過ぎる気もする。
夏だったからか?
その時僕は、死体の側で、微かに光る小さなプラスチックを見つけた。

「…」

恐る恐る拾い上げ、電球に透かして見る。

「…あ」

ネームプレートには『桜井』と書かれていた。

「青柳じゃない」
「え?」

初めて高坂が顔を上げた。



「高坂、部屋は全部見たのか?」
「みっみたよ…沢山あったから時間が掛かったけど…その分キチンと調べた筈だよ」

漸く吐き気が治まったのか、もう吐くモノも無いのか、
高坂は涙を流しながらも的確に僕の質問に答える。

「でも…これがあった」

高坂は吐瀉物の側に散らばる、ファイルや紙を指さす。

「これは…」

それは、僕が探していた青柳先生の資料だった。

「歩美先生が盗んでいたのか…」

という事は、やはり青柳先生も歩美先生の手に…。

「他に死体はなかったんだな」
「ない!ない!!」

絶叫するように高坂は否定する。

「じゃあ出るぞ!」

僕は高坂を抱き上げ小脇に抱え、階段を下った。








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