たったの一歩、おおきな一歩
太陽みたいなひとだと思ったんだ。
「ったく。こんなんでおれがいない間はどうしてたんだ?」
各自配分したメニューに、大皿に盛ったツナサラダが怒涛の勢いで消化されていく食卓をぐるりと見渡す。ココヤシ村を旅立って二日目、メリー号で迎える初の朝食。水準の消費量と人数が一致しないことは、昨日一日で身に沁みるほどわかっちゃいたが、それでも思わず口をついて出る有様だ。食わせ甲斐があるのは腕がなるが、こりゃ食糧管理、見直さなきゃなんねぇな。
先日思案した事項をもう一度噛み締めながら、「ほーははぁひはりらふらっら」と解読不能な応答を返すルフィのマナーの悪さを叱りつける。すると、チーズたっぷりのオムレツを食べ終えたナミさんが口を開いた。
「私が作ったこともあったわよね」
「有料でな」
「ンなっ!ナミさんの手料理!?……っかァ〜なんっつー羨ましい目見てんだてめェら!さぞかしスイートでまろやかでエネルギッシュでとろけるような至福の味がするんだろうなぁ……」
「……まぁ確かに美味かったけどよォ。仮にも食生活ともにしている相手に、金取るか?普通」
「ふふっ。貰えるもの頂けるのなら、今でも喜んで作って差し上げるわよ」
それは謹んでご遠慮申し上げますと長っ鼻が失礼なことをぬかしている途中、ぎゅんっと長く伸びた日に焼けた肌色が目の前を通過した。
「ってクラァ!それはナミさんのポタージュだ、てめェのもちゃんと用意してあんだろうが!」
「え〜〜〜もう飲んじまったよ。なんかナミのヤツのが美味そうな色してっしさぁ」
「色って何よ。こーんな美味しい料理、取られてたまるもんですか」
往生際悪く目の前でばたつかせているルフィの手をべちっと叩くと、ナミさんは残りのポタージュをズズっと飲み干した。……ズズって、レディ……と思いつつも、ナミさんの口から出た「美味しい」という感想の嬉しさに、デレデレと格好が崩れちまう。っといかんいかん。とりあえず、ブー垂れてるゴムにおかわりをついでやろうと、席を立った。
が、「ごちそうさま」とそのまま食器を片付けようとする彼女に慌てて駆け寄る。
「ナミさん!もう行っちゃうの?食後のお茶は?」
「んー、いらない。ちょっと片してしまいたいものがあるの。夕べ遅くまでやってたんだけど、終わらなくって」
「じゃあ後で部屋に持ってくよ。何かリクエストある?」
「うーん……いいわ、いらない。あと少しで終わりそうなの。それが片付いたら上がってくるから、そのときに頂くわ」
「あっ!ナミさん!」
ありがとうと言い置いて、さっさと去っていってしまう彼女に呼びかけるも、つれない背中は振り向かず。華やかな麗姿が消えあとに残ったものは、これくらい自分でできると言わんばかりに保持する彼女から半ば無理やりに受け取ったトレーと、マナーなんぞ何のその我武者羅に食いつく野郎三匹。思わず溜息だって洩れるってもんだ。……つーかナミさんと話してたのほんの数分だぞ。減りが早いにも限度があるだろ。
「甲斐甲斐しい奴だな」と呆れてぼやくウソップを尻目に、「ほっとけ」と返しながら、食器を洗うべくシンクへと向かった。
騒がしい甲板の様相を背に受けながら、朝一番の仕事を終えたダイニングキッチンを片付ける。整理整頓は得意なほうだ。キッチン周りの整理は、昨日のうちに済ませてしまった。使い勝手良く配置した収納場所に、それぞれの用途のものを片していく。バラティエの厨房に比べれば微々たるスペースではあるが、これはこれで一家庭の食卓を連想させるような居心地の良さがある。すべてが終了すると、やり忘れがないかチェック。「うしっ」と確認を取ると、咥えたままだった煙草に火をつけた。
昼食までにはまだ間があるな。外の空気を吸おうと、開けっ放しだった扉に向かう。と、
「こらっ、ルフィ!」
……上からゴムが降ってきた。鉄拳制裁にギャーギャー文句を垂れているが、位置関係からして、大方蜜柑を狙ったとかそんなとこだろう。あんにゃろ、ナミさんを困らせやがって。
それでも海中に何かを見つけたらしいルフィが「ナミ、あれ何だ!?」と問い掛ければ、ナミさんは面倒気な顔をしながらも降りてきて、次には笑顔を浮かべる。左手には、先刻淹れて差し上げた、オレンジベースのフルーツティ。一口飲めば、ナミさんの可愛らしい笑顔はより一層深まる。その拍子にふわりと靡いた潮風に横髪を口元にさらわれて、少しのしかめ面。手で払わずに、ぶんっと瞼を閉じて顔を振る様が、大変に愛らしい。
彼女のくるくると変わる表情を見ているだけで、自然と顔が綻んでくる。そんな自分を自覚し、相当参ってるなと一人苦笑した。
ナミさんと二人きりで話したことは、まだ一度もない。あいつらの前でさえ、必要用途に迫られた会話以外を交わしたことは数えるほどしかないくらいだ。ラブコールだけはアホみたいに送っちまうが、おれが常にまくしたててるからいけないのか、……あまり考えたくはないが、彼女に返す気がないのか、会話というものが成り立っている瞬間が他の奴らと比べて極端に少ない気がする。出逢ってから日が浅いというのが起因しているのかはわからない。それが原因なら、少しでも早く隙間を埋めたいと思うし、そうでなくとも一秒でも多く彼女と接していたい。チャンスを無駄にしたくねぇ。と、思っているのに、近いとはいえない距離から彼女の様子を感じ取れるだけでも、何故だか無性に満たされる気持ちになるのだ。彼女の笑顔はおれに向けられているものではない、それでも彼女が笑っているという事実が、ひどく安堵を誘う。声は掛けたい。だが今声を掛ければ、おれはまた彼女への愛に耐えられずに、あれこれあれこれ余計なことを口走っては呆れさせてしまうかもしれない。これまでの経験上から言えば、確実にそうなるのは目に見えている。気は引きたいが、生き生きと動いている彼女を眺めているのだって、同じくらい幸せだ。それならば、昼食の仕込みに入るまで、もしくは我らが航海士様の号令が掛かるまで、今だけはこの幸福に浸るのも悪くない。できれば穏やかな航海であればいいと吹き抜けていく潮風に願いながら。
願いが通じた海原は、一日の幕を下ろした今も緩やかに波打っている。既に深夜も遅い時間だ。コック業を終え、デッキハウスから出る間際、船首に見えた人影に驚き思わず動作が止まってしまったのは、極自然の反応だろう。
暗闇で霞んではいるが、この船であんな優雅なオーラを備え持っている人は一人しかいない。おれは残り僅かだった煙草を船外へと投げ捨てて、迷わず彼女の元へと足を向けようとした。しかし、月明かりが彼女を照らし、僅かに明確に輪郭を描いたのを目にとどめたとき、このまま声を掛けていいものだろうかという思考が頭をよぎった。
なんせ彼女の故郷を後にしてから、まだ三日と経っていないのだ。それは彼女が戦ってきた重すぎる歳月から、まだ数えるほどしか過ぎていない、とも同意義で。昼間、彼女が陰りを見せたことは一瞬として無い。むしろ明るすぎるくらいに、彼女は生き生きと輝いていた。その小さな身体で壮絶な八年間を過ごしてきただなんて、知っていても信じられないほど、彼女は前を見つめる光で溢れていた。力強い拳で男連中を制圧し、何者にも恐れず船を導く凛とした姿からは、とても無理をしているとは感じられない。感じられないけれど、結局のところ、心の内までは誰にもわからないのだ。
彼女の悪夢は確かに終幕を告げたが、終わったからこそ思うことだってあるだろう。まして彼女は、まだ年端もいかないか弱い女の子だ。いくら気丈な心の持ち主だといっても、喧騒溢れる船が寝静まった夜には、昼間は押し込められている闇が心を襲うこともあるのかもしれない。
話相手になることで彼女の心を和らげられるのなら、自分は喜んでその役を買う。できることなら、全部受け止めてあげたい。だけど、一人になりたいときもあるだろう。僅か五人という少人数でありながら、常に騒がしいこの船で、一人になれる時間なんて限られている。まして静かな空間に身を置くなど、こんな深夜にでもなければできないことだ。彼女と話したいという手前勝手な理由だけで、彼女が自分を解放できる時間を邪魔することだけは避けたい。
そう思うと自然と足音を潜めてしまう。しかし、身勝手な欲求はなかなか消え去ってはくれず、彼女の姿がはっきりと目に映る距離へと近づいても、まだ心は定まらない。後ろ姿だけで判断を下すことは困難で、やっぱり部屋に戻るべきかと考えあぐねているなか、ついいつものくせですっとマッチを擦ってしまい、その音につられて彼女が振り向く。……おれのバカ。
「こんばんは」
「……こんばんは」
ここで踵を返すほうが変なので、当初の思案通り彼女の隣へと並んだ。
後ろからではわからなかったが、女部屋に設けられたバーから持ち出したのか、瓶ごとワインを煽っていた。「飲む?」と差し出されたけれど、飲む気分ではなかったのでやんわりと断った。……一瞬でも間接キス!?と胸を高鳴らせちまった自分にほとほと呆れつつ。
ほんのりと頬を染め話を繰り出す彼女は、静かな夜には不自然なくらいに上機嫌に見えた。アルコールが入っているからか、おれの口数が少ないからか、はたまたその両方からか、出逢って少ない日数のなかでおれと対面したどの時よりも、彼女は饒舌に語る。それに反しておれはと言えば、普段の軽い口説き文句は言うべきじゃないと判断した脳は、情けないことに他の上手い切り返しが一向に出てこねぇ状態を引き起こした。互いの口数も調子も、昼間とは完全に逆転している。
……やっぱりおれは、ここに来るべきではなかったのだろう。遅すぎる判断と後悔に苛まれながら、おれにできることといえば、彼女の話に相槌を合わせることだけだった。
それから何分経っただろうか。ずっと見ていたからだろう、「何?」と首を傾げる。
「眠れないのかなと思って」
きょとんとした顔をする。咄嗟に口をついてしまった言葉に、あァまずったかなと思った。彼女の境遇、今現在の状況、言葉少ななおれの態度。言葉の指し示す意味に聡明な彼女は容易に気づくだろうし、だからといって彼女はこんな風に遠まわしに、窺うように気遣われるのは嫌いなタチだろう。……くそ、なんだか今夜ははずしてばかりだ。
招いてしまった重い沈黙に、どうすれば彼女を和らげられるだろうと頭をフル回転させる。肝心なときに役に立たない脳みそに、心中で地団太を踏んでいると、「サンジ君」と、とても小さな、けれどその音量には不釣合いな空気を澄ますような強さを含んだ声音で呼ばれて。
「私はたくさんのものを失ったけれど、見失ったものは何一つないわ」
「え?」
予想だにしなかった言葉に、今度はこちらが目を丸くする。彼女の言う意味が汲み取れず、何も返せないでいると、「見て」と前方を指して。
「この船の先……この辺の海域は把握済みだけど、ここから続くずっと奥に進んだところには、まだまだ私の知らない未知数の世界がたくさん広がっているのよ。初めて触れるもの、様々な色を持ったものを、身体全部でいっぱいに感じるの。そうして触れたものを一つの形として、私は自分の手で地図に起こす。子どもの頃から夢見ていたことが、この先に確かに存在しているの。……まあ、まさかそれが海賊船の上でとなるとは夢にも思わなかったけど。でも、そんな想定外も悪くないわ。きっとこれから先、もっともっと思いも寄らないことが待ち受けている。生きているって幸せって実感できることが、きっとどんどん増えていく。もっとも、あいつらと一緒じゃ想定外どころか真剣に身の危険にさらされることばっかり起こりそうで、不安もあるんだけどね。でも、そういう部分も含めて、どきどきする。わくわくする」
「すっごく幸せ」
言葉が出なかった。
心を作っているんじゃ、とか。安心させたい、とか。力になりたい、とか。それは確かに彼女を想ってからくる感情だったはずなのに、まるで彼女という人間を見くびっていたように思え、自分をひどく恥じてしまうほど、彼女の紡ぐ言葉も覆う空気も、すべてが真っ直ぐで計り知れないほど強く大きく輝いていた。今は真夜中だというのに、彼女のまわりだけが晴れやかに澄み渡っている錯覚に陥るほど、彼女の存在は絶大に誰にも犯すことのできない光に溢れていた。あまりにも眩しい、太陽のような笑顔だったんだ。
「とりあえず今のところ、幸せいっぱいの私を不幸のどん底に落とす要因があるとしたら、あれね」
口を尖らせて、今は黒に染まっている蜜柑畑に目を向ける。ならうようにおれも顔をそらした。
「ルフィのやつ、これでも辛抱してんだっていったいどの口が」
「お、おれがっ!……おれがナミさんの蜜柑守ってあげるよ!」
「へ?」
う、うわ、何言ってんだおれ……。格好悪ィ。貝になっていた口がようやく開いたと思ったら、守ってやるよって……なんでそんな偉そうなんだ。言うにしても、せめて警備とか、もっと他に言いようがあるだろ。
おれがあたふたして先を繋げないでいると、ナミさんは目をぱちくりさせて、意味を嚥下したのか怪訝に眉を顰める。
「いいわよ、そんなの。今のはちょっと大袈裟に言っただけで、ルフィ撃退なら私一人で充分やれてるから」
「っ、でもっ!……ほらっ、あいつアホみたいに食うし、伸びるから隙ついてパッと獲ってっちまいそうだし、ナミさんの手伝いができるんなら、おれも嬉しいし。それにほら、おれ、蜜柑の世話してみたいなと思ってたんだ、うん。ナミさんさえよければそれもお願いしたいし……」
「でも」
「つうか、おれが、やりたいんだ。……ダメかな?」
縋りつくと思案顔になる。おれはなんでこんな必死になってんだろと自分自身に戸惑いながら、早鐘のように鳴る心臓にも戸惑って、だけど駆け上がる心拍数はちっとも止まりそうにない。
「……じゃあ、お願いしようかな」
小さく笑って紡ぎ出された言葉に、おれの心臓は泣きそうなくらいに悲鳴を上げた。蜜柑の警備を任された、たったそれだけのことなのに。そんな自分にやっぱり戸惑いを隠せなくて、彼女と別れてからも、跳ね上がる動悸は一向に収まらなかった。
→
――――――――――――
[ 2007/06/29 ]