たったの一歩、おおきな一歩 2
真っ青な世界が広がる。大好きな海。波は順調、気候も穏やか。まるで私の気持ちを表しているかのように、絶好の航海日和続きだった。天からの命あるものへの祝福のベールかもしれない。奢った考えだろうか。それでも降り注ぐ陽の光をいっぱいに浴びるコバルトブルーは、やわらかな優しい温度を纏っている。立てる波は、パシャっと軽快に飛沫を飛び上がらせるものでもなく、ザブンと荒立たしく世界を呑み込むようなものでもなく、とろりとヨーグルトを掬い落とすときのそれと酷似している。触れたくなるほどに愛しい。飛び込んだら気でも触れたかと疑われちゃうかしら、とくだらないことを思い付いて、そんなくだらないことに心を費やせられる喜びを噛み締める。一人で含み笑いなんて。こんなところあいつらに見られたら、本当に飛び込んでしまいそう。けれどその先にあるものは、面倒ながらも素敵なものに思えた。私は私を導いてくれる海が、私の存在で埋め尽くしてしまいたくなるほどに大好きだったけど、今は内側から溢れる熱で沸騰させちゃうかもなんて、いらない心配をしてしまうくらい。新たな自分を知ることが出来たその日に感謝する。
世界が生まれ変わる瞬間というものは実に不意打ちだ。こちらの準備なんてお構いなし。スコールだって、前兆を示してくれるくらいの親切心はあるのに。だから私は、その瞬間を、想いを、色彩を、温度を、生まれるあらゆるものを一つとして取り零さないように、精一杯に手を伸ばして慈しんで生きたい。
倉庫の扉を閉めると、ぐんと大きく伸びをする。洗い終えたばかりの清潔な手は、太陽の光を吸収して僅かに重みを増したように感じて、眩しい気持ちになる。振り向いて、その気持ちを表現したような蜜柑畑に心を焦がす。灌水を終えた直後の蜜柑の木が好きだった。普段にも増して、一層キラキラと輝いて見えるから。
眩しく目を細めていたのに、つい今しがたまではなかった金髪が見え隠れしているのに気づいて、ふわふわと浮遊していた思考が定着する。それはここ数十時間、大雑把にオレンジ色と緑色、茶色という枠に収められる色で彩られた場所で、もっとも多く目にする異色の色だった。あの夜の約束を、彼は勤勉すぎるくらいに律儀にも全うしてくれているのだ。
蜜柑畑の警備をしようかと申し出てきたのは彼のほうからだった。底なしの胃袋を抱え持つ大食らいの船長、船に新しく設けられた蜜柑畑によほど興味津々ならしく、隙さえあればそれをめがけて突進してくる。一つ二つなら大目に見てやろうという気持ちもなくはないのだが、ちょっとでも油断をすればすべて食らい尽くしてしまいそうな勢いに、さすがに頭を悩ませていたときに、「ナミさんの蜜柑守ってあげるよ」と弾む声で言った。最初は何を言われたのかわからなかった。蜜柑はベルメールさんとノジコと私を繋ぐものだったから。そこに他者が入り込むなんて思考は、認識する以前に思い付きもしなかったもの。だけど、そうなのだ、今の私にはもう、大切なものを共有出来る人たちがもっともっと沢山いる。それはココヤシ村を旅立つときには既に実感していたものだったのに、まだまだそれを確認する機会は散らばっているのだと教えられたようで、嬉しい発見でもあった。
大切なものを仲間に預けるという行為は慣れないもので、くすぐったいものであったけど(撃退する相手がこれまた仲間というのもおかしな話だ)、彼になら任せられると思って、私も喜んで申し出を受け入れた。気恥ずかしく、少しぶっきらぼうな言い方になってしまったのが気掛かりではあったけど、心の中は膨らむ暖かな気持ちで満たされていた。
そう、そのときは本当に嬉しかったはずなのだけれど。
「サンジ君」
階段を上りながら声を掛けると、何がそんなに嬉しいのか、ぱぁっと顔を崩して笑う。
「ナミさん!嬉しいなァ、ナミさんから声を掛けてくれるなんて!どうしたんだい?警備なら万事快調、ナミさんの大事な蜜柑には指一本触れさせませんのでご安心を。あ、それとも何か飲み物でも?」
律儀に恭しくお辞儀つきで。こちらが訊くまでもなくまくしたてるおしゃべりな口に、いつものこととはいえ苦笑する。
「うん、ありがと。あのね」
「うん?」
「蜜柑、もう守ってくれなくていいから」
用件を的確に告げると、彼の顔色がさっと変わったのがわかった。それがあまり、良い色ではない……といった風で。私はといえば、特に重大なことを言ったつもりはなかったので、少し怯んでしまう。
「……どうして?……おれ、何か気に障ることした?」
「そうじゃなくて。ほら、サンジ君だって大変でしょ?毎日五人分の食事を一人でこなさなきゃいけない上に、警備まで任せるのはやっぱ悪いかなって」
「……何だ、そんなこと……!そんなの全然平気だって!ナミさんの為ならむしろ……」
「それにルフィも落ち着いてきたし、もう必要ないかなと思って」
そう言った途端、とても寂しそうな顔をするものだから、こちらが戸惑ってしまう。
さっき言ったことも本心だ。コックという職業は私が認識していた以上に大変なもので、常に忙しなく動き回っている印象がある。分担出来ればまた違ってくるのだろうが、生憎彼はこの船でたった一人のコックだ。手伝うことくらいは出来ても、やはりメインの大半が彼の手に委ねられる。五人という船員数で言えば、たいしたことはないのかもしれない。それでも胃袋を倍抱えた状況の中で、毎日最高の食卓を用意してくれる。あまり舌が肥えてるわけではないが、それでも彼の作るものは、疲れた身体に安らぎを与えてくれる美味しい料理だとわかるものだった。そんな忙しい彼に任せたところには、彼の気迫に押されて承諾してしまったというのもある。
もちろんルフィだって、四六時中狙ってくるわけではないけれど、少しでも寛げる時間を取れるのなら休んだほうが良いに決まってる。いくら人並み外れた体力の持ち主だといっても、こんな生活を続けていたら、過労で倒れてしまうかもしれない。
それは確かに理由の一つだった。
「心配してくれてありがとう。でも、何か入用な事とかあったら……蜜柑の番以外でも。いつでも遠慮なく言って。おれ、ナミさんの為ならどんなことでも苦じゃないから」
「ほんじゃ、そろそろゴムが騒ぎ立てる頃だからおやつの準備でもすっかな」と。軽い口振りで言ったと思ったら、勢いよく階下へと飛び降りた。漆黒の裾がばさりと舞う。「今日は苺とクリームをふんだんに使ったババロアだから期待しててね」と、振り向いたときにはもう、見慣れ始めたいつもの彼の笑顔だったけれど。蜜柑畑に取り残された私は、何故だか先ほどの彼の寂しそうな顔が目に焼きついて離れなく、暫くそこから動けなかった。
それから二日が経過したというのに。どういうことだろう。
彼の姿がやたらと目に付くのだ。偶然かと訝ったけれど、キッチンにこもっている時間が多い彼にとって、他の場所で目にする時間はそう多くない。男連中はまた違うのだろうけど、別室に住む私にはそうだった。その彼をキッチン以外で目にする最たる場所が蜜柑畑だなんて、おかしいと思う。
潮風が少しきついので様子を見にきたら、今もそこに腰を下ろして、後甲板側に足をぶらぶらと投げ出して、煙草を吹かしている。その様子を目に止めたとき、知らぬ内に耐えていたものが一気に吹き荒れるような押し寄せる衝動を感じた。蜜柑畑と彼は紅色に焼け焦がれた空を背に受けて、一心同体に溶け込んでいるように。約束が違うじゃない、そう思わずにはいられなかった。
意を決して蜜柑畑に近づくと、やっぱり顔を崩して笑う。こちらの気も知らずに。
「どういうこと?」
「え?」
「警備。しなくていいって言ったはずだけど」
単刀直入に不満を告げる。思った以上に刺々しい口調になってしまい、少し恥ずかしさを覚えたけれど。私の剣幕に彼も驚いたのか、瞬きを数回繰り返すと、困ったように曖昧な笑顔を浮かべた。
「……あぁ。いや、うん、そうじゃなくてさ。なんつうか……落ち着くんだ、ここ」
「えっ?」
思いも寄らない言葉が返ってきて、思わず素っ頓狂な声が出た。
落ち着く?ここにいるのが?ベルメールさんの……私の蜜柑畑が?
心のざわめきがひどくなるのを感じた。理由はわからない。けれど、彼の発言は、私が大切に育んできたものを脅かそうとしているものに思えたのだ。
「ルフィも」
私に醜い言葉を作らせない為に計ったようなタイミングで掛かった声音に、はっと我に帰る。
「あいつもさ、おれと同じなんじゃねェかなァ。聞いた訳じゃねぇんだけどね。下から麦わらが見えたもんだから、懲らしめてやろうとそっと近寄ったんだけど、目の前にある最高の美味の果実に手ェ出さずに、ボーっと空見てんの。あの一つ場所に止まることを知らねェ食欲魔人が。ちょい笑っちまった」
俯き加減に吐き出される彼の言葉に、そういえばと。振り返ってみれば、確かに思い当たるものがあり、心の中心をピンと弾かれたような衝撃を受けた。突進してくるルフィを追い返すばかりで気づかなかったけれど、実際にルフィが手をつけたのなんて、最初の二、三個くらいな気がする。
でも、そうなのだ。よくよく考えてみれば、私が本気で嫌がっているようなことをルフィがするわけがないのだ。
「やっぱずっと海で暮らしてっと、土や木々の匂いや感触みたいなもんって、恋しくなるんだよな。……それに何より、ナミさんの愛情が目一杯つまってる場所だし。あいつ、野生の感だけは働く……っつか、野生の感で生きてるような奴だから。生意気にもそういうの感じ取って、居心地良い場所だーって認識してんのかも」
この彼の言葉は、ざわざわと響く葉擦れの音色に乗って、すんなりと心に入り込んでくるものだった。先ほどの波立った嵐が嘘のように、静まり清められていくのを感じる。ルフィが、仲間が私の場所に安堵感を感じ、身を置いてくれている。それはどこか不思議で、心地良いむず痒さを覚えるような新鮮な感覚で、けれどこの上ない幸福を引き連れて、私は知らない内に微笑んでいたらしい。
サンジ君がじっとこちらを見つめているのに気づいて、何だか後ろ暗い気持ちになってしまい、目を逸らしてしまった。
「……まぁそんでも、あいつの腹が理性や常識が通用するような優良器官なら、苦労はしねェからさ。本気で狙ってるとこに、おれがたまたま居合わせたら、ナミさんの大事な蜜柑をみすみす見逃す訳にはいかねェから、蹴り御見舞いするのは許してほしいんだけど。……それもいけないかい?」
「……いけなくは、ないわ」
「……ヨカッタ」
本当に大袈裟に、胸をなでおろしながら。くしゃりと表情を崩すから、私は何故だか泣きたい気持ちになる。どうしたらいいのかわからなくなる。
逃げるようにその場を後にした。
ちょっと意識を向けてみればわかりやすいもので、何てことはない、彼の存在はそこを彩るほんの一部に過ぎなかったのだ。ゾロですら、一度そこで昼寝をしているのを見掛けたときには、驚いてしまった。人の気配を纏っていない時間のほうが少ないくらいで。まったく大繁盛だ。
今もさんさんと朝日が降り注ぐなか、スケッチブック一式を抱えたウソップの姿がそこに見えた。構想でも練っているのか、空より数段濃い青色の鉛筆を頭上でくるくる回しながら、ごろりと横たわっている。少し前までキッチンでウソップ工場を広げ武器製作に励んでいたが、息抜きなのだろうか。その場所に蜜柑畑を選んでくれたのかと思うと、妙にくすぐったい。
私は軽やかな足取りで、ウソップの前にしゃがみ込むと、にっこり笑顔を作って片手を差し出した。
「ハイ、ウソップ」
「あ?何だ」
「蜜柑畑の貸し出し料金、締めて十万ベリーとなります」
「ブーーーーーーッ!ンなっ、なななななッ………!?」
……そういう反応を狙ったわけではあるけど、ちょっとあんまりではないだろうか。掌に収まったそれがバキッと音を立てたかと思うと、血の気を無くして、今にも泡を吹きそうな形相に、勝手にもむっと眉を顰めてしまう。
「冗談に決まってるでしょ。大袈裟ね」
「おめェのは冗談に聞こえねェんだよ!……あーーービビッた。鉛筆一本無駄にしちまったじゃねぇか」
「んもう。あ!ね、じゃあ蜜柑の木を描いてよ。それくらいいいでしょ?」
「はぁ?何だってんなモン……おれ様は忙しいんだっての。ま、気が向いて覚えてて暇だったら描いといてやるよ」
憎まれ口を叩きながらも、目の前の優しい嘘つきは、きっと一日が終わる頃には瑞々しい小さな世界を生み出しているのだと知っている。……日陰に横たわって居眠りをする私付きという、気恥ずかしいオプション込みだったのは、予想外だったけれど。
こんな風に大切な場所で仲間とじゃれ合ったり、何てことのない会話を交わすのも、一人で寛ぐときとはまた違う、幸せな時間を得られるのに。それを最初に教えてくれたのは、他でもない彼なのに。
面積の大半を占める真っ黒なスーツと、対照的な輝く金色の髪をそこで目にすると、やはり得体の知れない何か不穏なものが胸のあたりを漂い、剣呑に騒ぎだすのだ。正体が不可解なそれは、日に日に肺の隅々までも食い潰すかのように広がっていき。ふと目が合った瞬間、脊髄反射で大きく振ってくる手や、次々と寄せられる甘ったるい言葉たち、背を向けていても絡みついてくる視線。女尊男卑が甚だしい程度の意識でしかなかった彼の身の振り方が、次第に苛立たしさを募らせる要素へと変化するのに時間は掛からなかった。理解に苦しむ自身の気持ちも、快活な生活に水を差す、億劫なものでしかなくて。
ひどく傲慢で嫌な言い方だけれど、彼にその場所に居てほしくないのだと、……ふさわしい人物ではないと思っているのだと。気づいたのはそれから数日後のことだった。
その原因は、未だわからないでいる。
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[ 2007/07/25 ]