たったの一歩、おおきな一歩 5




「ナミさん、これ誰だか知ってる?」
 午後、主不在のダイニングキッチン。足を踏み入れると、待ってましたとばかりにビビがウソップのスケッチブックを差し出してきた。
「トニー君に訊かれたんだけど、私わからなくって」
 私物を勝手に見ちゃダメじゃない……。ドクトリーヌに教えられなかったのかしら。そういうことに、厳しそうな人だと印象を受けたけれど。
 そうは思いつつも、つい私も好奇心でビビの手元を覗き込んでしまう。
「わあ、懐かしい!」
「知ってるのか!?」
「カヤさんよ。ウソップの故郷……シロップ村って言うんだけど、そこの大富豪のお嬢様」
「へぇ、ウソップさんの」
「ウソップは金持ちのお嬢様と知り合いなのかー、すげェなー!……ハッ!まさかナミとお嬢様は泥棒と金持ちの敵同士の関係……!?」
「何でそうなるのよ」とデコピンを御見舞い。仲が良いらしい鼻の奴が、変なこと吹き込んだんじゃないでしょうね。
「私は海賊専門の泥棒だったっての」
「えっ、ナミさん泥棒だったの!?」
「あー、うん。昔の話よ」
 笑って流しながら。私とビビは、チョッパーの背丈に合わせるように無意識にしゃがみ込む動作をとった。三人で囲んでぱらぱらと捲る。風景画が大半を占める中で、一握りの人物画の多くはカヤさんで埋め尽くされていた。筆は伸びやかに、儚げに、凛と彼女を映し出す。真摯で優しい愛情が含まれていて、こっちまで微笑んでしまう。郷愁もあるのかもしれない。二人も絵が生み出す心地良い引力に、逆らえなかったのかもしれないと思った。
「メリーも元々はカヤさんの所有物だったの」
 あの頃はまだ、手を組むという協定に縛られてルフィたちと共に居た。ウソップが一人で海賊の旗をあげようとしているとき、ルフィは「おれ達もう仲間だろ」と当然のように言ってのけたのだ。そのときの私が、どういった顔で成り行きを見過ごしていたのかは思い出せない。ただ、なんて海賊なんだろうと思った。村を、人々の命を救って、仲間だなんて。
 苦くも愛しい過去を追想していると、いままさに。
「おー、お嬢様じゃねェか!」
 ぐんっと飛び込んできたルフィが嬉しそうな顔をして言う。
「あら意外。覚えてたのね」
「メリーくれた恩人だぞ。お前失敬だな」
「ルフィさんも知ってるの……って、船長さんなんだから当然よね」
「ああ、ウソップの好きなヤツだ」
 刹那、場がしんと静まり返ったのは気のせいではないと思う。
「……あんたいま何て言った?」
「? ああ、ウソップの好きなヤツだ」
 律儀にイントネーションまで反芻。こういう律儀さは別のところで生かしてくれれば助かるのに。
 って!そんなことはどうでもよくて!
 好き?好きと言ったの、この男は?能天気で雲のように飄々と掴めないルフィから出てきた言葉なのだろうかと、疑わずにいられない。だってルフィは、馬鹿みたいに真っ直ぐで、我武者羅な純真さで世界を駆け抜けて、高みを追い求める崇高な男で……そうして私ははっとした。ルフィの愛は、飾り気のないストレート。それに気づいた折には、私は何を勘繰っているのだろうと自身を恥じた。だって、ウソップはカヤさんが好きだし、カヤさんだってウソップが好きだ。ルフィの言うことに、何の間違いもないではないか。現に私だって、愛情をこの絵画から感じ取ったばかりだ。
 安堵感が包む答えに、ほっと胸を撫で下ろしかけたのに。
「ああ、どおりで」
 ビビが優しい表情を浮かべて、カヤさんへと瞳を下ろすものだから、私はまたも迷走しなければならなかった。
 どおりで?どおりでって何が?
 混乱を極めながらも、本当のところは理解していた。ルフィだけなら、誤魔化していられたのに。認める勇気がなかったのを私は認めねばならなかった。
 二人が言っているのは、恋のことだ。仲間や家族、友人に向ける愛情とは違うもの。
 この船は、一人を除いて、そういったことに驚くほど無頓着だった。男と女が一つ船で生活しているというのに、淫靡な空気が漂うことすらない。ウソップは世間一般的な興味はあるようだったが、そこに粘着質ないやらしさは、まったく感じないものだった。貴重な常識も通じる、気心知れた仲間だ。
 だから皆も恋愛に興味なんてないのだと。勝手な思い込みで安心しきっていたのだと。ルフィのたった一言で、思い知るはめになったのだ。
 けれど私は、恋なんてなくたって生きていけると思う。現に私は生きている。ベルメールさんの、ノジコの、ココヤシ村のみんなの、仲間の。愛があれば充分じゃない。だって私はいま、幸せに満ち足りている。
 そう思うのに、どうしてか疑念が晴れない。

 恋を知らないまでも、恋に落ちた男女がすることは知っていた。知識としても、肉体としても。
 まだ泥棒稼業が板についていない時期。ほんの小さなミスが、取り返しのつかない悪夢を引き起こした。盗みに入った船で海賊に見つかり、よってたかって身体中を弄りまわされて、気がついたときには素裸で浜辺に転がされていた。
 ベルメールさんが生きていた頃、貧乏な家庭だった為、数えるほどしか持っていなかったノジコと共同の絵本。きらきら輝く世界。幻の世界。触れたい衝動に駆られるたびに、近所のおばさん宅や、本屋に駆け込んだりして。ピンチの際に決まって現れる、幾度もおとぎ話で読んだ王子様なんて助けにこなかった。だけど、そんなことはとうの昔にわかりきっていたことだったのだ。もし本当に王子様が存在するのなら、八年前のあの日に、既に私の前に現れていたはずなのだから。まだ甘い夢を捨てられずにいた自分が馬鹿げて思えて、自分の足で切り開かなければと決意を新たにした。
 そうやって生き抜いてきたのが、いまの私なのに。大切な身近な仲間であるはずのビビが、ルフィが、遠い星の人のように、唐突に取り残された気持ちになる。自分がどこか歪なのだと、今更ながら知る。
 そしてどうしてだか、二人の言葉の持つ「好き」が、先日「好きだ」と言った彼と重なって。
 私の頭はもう、ぐちゃぐちゃに散らかって突然の事態に対処出来ない。
 ルフィが輪に加わってから間を置かず、ウソップが「ギャーーー勝手に見るなーーッ!!」と紅潮した顔でそれを掻き抱く突入を受けて、その場は解散した。勝手な被害意識で、束の間の休息を壊したくはなかったから。ウソップにひっそりと感謝した。その後表紙に張られたラベル、”ウソップ様専用スケッチブック・プライバシー侵害を犯した奴は辱め三日で勘弁して下さい刑に処する”は、絶対に守ろうと誓った。


 この日の焦燥も悲壮も、私はすべて戦いの養分へと変えた。峻烈な現実は、自己を奮い立たせるエネルギーになる。ビビの力になる手になりたい、その為にはどんなことだってする心積もりだった。そうして未来に広がったのは、彼女の愛を一心に受ける国。
 戦いを終えたアルバーナ宮殿での日々の中で、私はアラバスタを出航する日に想いを馳せていた。思い浮かぶ旅立ちは、ひどく辛さを掻き立たせるものだった。不謹慎だわ。平和を取り戻して、あの子はようやく晴れ晴れとした心で毎日を生きているというのに。私もその事実を慈しみたいと、心から願っているのに。ビビの笑顔を見るのは幸せ。幸福でいっぱいになる。この瞬間の輝かしさ、愛しさは一生心の真ん中に居座り続けるものだと確信している。
 しかしその一方で、切なさを否定出来ない自分がいるのだから、どうしようもない。ビビはきっと悩んでいるはず。メリー号で過ごす彼女には、束の間の笑顔がいつも存在していた。そんなときに私が泣き言を言えば、ビビの判断を曇らせてしまう。だから決して表には出さないから、せめて心の内だけでは、わがままを言わせてほしい。ビビは、この国を愛している気高い王女様だから。
 ビビが生きるアラバスタ王国の、乾燥した空気、逞しい人々の活気、目指す生き様を、身体に焼きつけておこうと思う。後悔しないように。ビビとの残りの時間を、めいっぱい大切に生きよう。

 いよいよ出航を目前に控えた夜のことだ。
「ナミさん」
 タオルで湯上りの髪を拭いながら廊下を歩いていると、後ろからサンジ君が走り寄ってくる。彼もいつものスーツではない、羽織っただけのゆったりした服装。
 何だか久しぶりの声な気がした。日常的に聞いているはずなのに。おかしな懐かしさを覚えながら、足を止める。
「あー、あのさ」
「何」
「……さっきの」
「だから、何」
「……風呂での、アレ」
「風呂?」
 歯切れの悪い言葉の一節を追いかけながら。……あぁ。大浴場で。女風呂と男風呂の仕切り、きらめく大理石を汚すゴミが飛び出していたものだから、出欠大サービス、脱いで追っ払ってやったことを思い出した。思い当たる節はそれしかないから、恐らくそのことだろう。でも、だから何だというのだろう。
 ふと、嫌な考えが脳を過ぎってしまい、身構えてしまう。表向きは何てことのないように返事した。
「それがどうしたのよ」
「どうしたって……。やぁー、ちっと問題行動じゃねぇかなぁ、と」
 どこまでも不真面目な態度。私はそんな彼の態度に、いらいらしてくる。戦乱を阻止することに必死で忘れていた、呪縛のように彼に感じていた不穏な感情が、いつぶりかに胸に根ざしたのだ。あの日、仲間としての彼に少しだけ近づけたという確信はあった。けれどやはり、バランスをとるのはそう上手くいかない。だって他の皆は、あんなことはもう、気にも留めていないのに。
 わずらわしさが思いきり表情に表れていたのではないかと思う。
 アラバスタで迎える最後の夜なのに。台無しにしたいのだろうか。
「率先して覗きにきといてよく言うわよ」
「っそれは……悪かったと思ってる。だけど、あんなことするなんて予想の範疇にもなかったっつーか……。……あれは良くないよ、ナミさん」
「あんたにそんなこと言われる筋合いない」
「おれが、とかじゃなくて」
「ああもう!」
 いきなり声を荒げると、彼は目を丸くして立ちすくんだ。一瞥して、吐き捨てるように言った。
「だから変に怖気付いたりするから付け入る隙を呼ぶのよ。手軽そうな私と清純そうなビビだったら、どうとでも出来そうな私は後回しにして迷わずビビを選ぶでしょ。そういうことよ。堂々としてれば向こうだって怯むし。そういう女だって思われたほうが相手に油断も出来るし、よっぽど安全よ。私の身を心配してくれてるのなら逆効果だから、これ以上余計な口出ししないで」
 一気にまくしたてると、息が荒く乱れて肩が上下する。いやだ、全然余裕がない。彼を振り払う為とはいえ、どうして防御手段を他人に暴露しているのだろう。知られてしまったらお終いじゃない。
 わかっているのに、私の唇は意思とは無関係に言葉を作り上げる。いつもそうだ。彼と居ると私は醜い自分ばかり目にしなければならなくなる。
「……それがナミさんの身の守り方?」
「そうだって言ってるでしょ。あぁ、男のあんたには理解しがたくて当然ね。力でどうとでも出来るものね」
「……それはつまり、おれたちも警戒してるってこと?」
「……」
「だったらもう、しないでくれ」
 今まで聞いたことがないような、強く静かな口調で。去っていく彼を背に受けながら、私は立ち尽くしたまま動けない。
 そんなことを言うくらいなら、最初から覗きなんてしなければいいじゃない。怒るくらいなら、あいつらを蹴散らすくらいすればいい。なのに彼は、悪かったと言いながらも、たいした反省も見せずに、私に非があるように責める。私は自分の身を守っているだけなのに、彼にはそれが心配の種に映るのだと。だけど、そう言う彼こそが、私にあけすけな視線を送っている張本人であるのに。
 勝手にもほどがあるではないか。
「……意味わかんない」
 無意識に呟き漏れた声はひどく掠れていて、私を驚かせる。けれどそれ以上に、口内に広がったしょっぱい味に、心が大きく動揺する。

 …………涙……?

 認識した途端、堰を切ったように次々と零れてきて混乱する。慌てて掌で拭っても、あとからあとから雫は追いかけてきて、視界がぼやけるのを止められない。
 この味は、つい先日にも味わったものだ。あのとき、時計台でビビの悲痛な叫びを聞いたとき、私は涙を抑えることが出来なかった。誰よりも心を痛めているであろうビビが必死で足掻いているというのに、そんなビビの想いが辛くて届いてほしくて、見ていられなくて、あいつらに当り散らして、みっともないことこの上ない。きっとあのときに涙腺が壊れて、箍が外れてしまったんだ。いまみっともなく涙が溢れて止まらないのも、そのせいに決まっている。
「……っ……ふ、っ……」
 けれど、並べれば並べるほど無理に取り繕った言い訳にしか思えなくて、わけのわからない涙が零れる。
 魚人たちに拘束されていた頃、何度も一人で泣いた。もう泣かないと決めたのに、誓いすら守れない弱い自分が悔しくて、悔しくて、でも泣いた分だけ頑張るのだと、前向きに思えたのに。なのに今は、泣きじゃくることしかできない。どうして涙が出てくるのかわからないのだから、止める術だって見つからない。嗚咽まで漏れて、こんなとこ誰かに見られたら、と思うのに、心に反して背中を丸め込むようにしゃがみ込まずにはいられなかった。
 自由を取り戻してから、その日初めて、私は一人で泣いた。




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[ 2007/08/30 ]