たったの一歩、おおきな一歩 4




 彼にひどい言葉を投げかける、少し前の出来事。

「ほら、ここよ。狭いけどどうぞ」
「ええ、ありがとう。……きれいな部屋」
「またまた。こんなの比べ物になんないくらい豪華な王室も見慣れてるんでしょ?」
「見慣れてはいるけど……アラバスタを出たのは、十四歳の頃だから。この部屋もやわらかな雰囲気で、すごくきれい」
 着替えを物色しながら目をパチパチさせる。
「いまいくつなの?」
「? 十六歳だけど」
「嘘ォ!!」
 本気で仰天してしまった私は、手に抱えていた服をバサバサ落とすという古典的なリアクションをとってしまった。そんな私の反応に彼女も驚いたのか、目を瞬かせる。
「……そんなに老けてるかしら……」
「えっ!?いや、そういう意味じゃないけど!ほら、BWの潜入捜査してるとき、髪キツく縛ってたじゃない?そのせいだと思うんだけど、大人っぽかったからてっきり年上だと……」
 慌てて並べ立てる私に彼女は苦笑する。苦笑いだけど、ミス・ウェンズデーと名乗っていた頃の不敵な笑みや笑顔よりも、幾分幼い気がする。髪型を少し変えるだけで、こうも印象が変わるものなのね。それでもやはり、実年齢よりは随分大人びている。境遇がそうさせているのかもしれない。そんな感想を抱きながら問う。
「どうする?ビビも着替える?服貸すけど」
「ううん、私はこのままでいいわ」
「遠慮なんて働かせてると疲れるわよ。これから一緒に生活するんだから」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「そ?」
 ウイスキーピークでのあれこれで、すっかり汚れてしまったタンクトップを脱ぐ。選んだ清潔な生地に頭を通して、振り向くと。ビビは黙ったまま、ぼんやりとした表情でどこを見るでもなく突っ立っている。……イガラムさん、と言ったわよね。
 誰かが傍に居たほうがいいのか、一人のほうがいいのか迷ったけれど。私はまだ彼女と親しい間柄でないし、そんな私が居たって、逆に気を遣わせてしまうかもしれない。その私が出来る最善の方法は、船を進めることだ。着替えを済ますと、「用が出来たら呼ぶから、ゆっくりしてていいわよ」と言ったら、「ありがとう」と、またお礼。そんなに気を遣わなくてもいいのに。
「クエッ!」
「ひゃっ!」
 危ない、階段からずり落ちるところだった。ハッチを開けた途端、ぬっとカルガモの大きな顔が飛び出してきたのだ。
「カルー!もうっ、ごめんなさい、ナミさん」
「あーーービックリした……。大丈夫」
 どうしてこんなに心臓が小さいのだろう。はぁっと胸を撫で下ろしながら、ビビに答える。
「あんたも入りたいの?ほら、ご主人様の傍にいなさい」
 カルーと呼ばれたカルガモは言葉が理解出来るのらしい。「クエーックェ!」と嬉しそうな声をあげると、器用に階段を下りていく。その様子にビビも微笑を浮かべている。大事な存在だと伝わる微笑みだった。カルーが付いていれば、少しは気を安らげるかもしれない。今度こそ私は部屋を後にした。
 航路は順調、いまのところは気候も安定している。だからといって気は抜けない。この海の反則的な不規則さは、初航海で散々に味わった。
 涼やかな風を受けながら、ウイスキーピークでの出来事を整理する。一気に色々なことが起きてしまった。麦わら海賊団の一員になるということは、平穏な生活を放棄することだと理解していたけど、想像以上だ。油断をすれば、私の心なんて容易く置き去っていってしまう。一つ一つを振り返りながら。回想はある一場面で急停止されて、思わず眉をしかめた。歓迎を受けている最中に、視界の隅に捕らえた光景。飲み比べをしていた私と離れた場所で、たくさんの、本当にたくさんの女の子たちを口説いていた、一人の仲間。脳裏でくっきりと鮮明に再現された図は、殊更眉間にしわを寄らせる力を持った映像だった。
 サンジ君がナンパ師なのは、バラティエで、ココヤシ村で、わかっていたこと。だけど、あんな大人数を相手にするなんて。思っていた以上であっけにとられてしまった。いくら敵の罠だったといっても、彼はその状況を楽しんで受け入れていたのだから、事態は改善されない。何故ってこの船にはもう、女は私一人ではないのだから。本気でクルーに手を出すと疑っているわけではないけれど、あんな現場を目撃した後では、心配もしてしまう。それでなくとも彼女は、果たすべく大きな使命を背負っている。ビビは強い。強いからこそ、まわりが気を配るべきだと思った。出来ることなら少しでも負担を減らしてあげたい。
 だから先手を打ったのだけれど。待っていたのは、彼を傷つけてしまったという後味の悪いものだった。


 仲間としての彼と、男としての彼への距離感のバランスが掴めないと気づいたのは、いつだっただろうか。
 他の連中は気が楽だった。私は彼らをそういう目で見ないし、彼らも私をその手の対象として見ない。男女の性別なんて関係ない。そりゃ、私はたまに女である利点を利用することもあるし、何だかんだであいつらは、私を女として扱ってくれることもある。そういうときの彼らの行動の心魂にあるものは、心遣いという純粋な気持ちだった。振る舞いは粗野でも、心に響く丁重な想いこそが真実。性的な意味なんて一切含まれない。だから私はつい、ありのままにわがままを言ってしまう。心から気を許して向き合える存在。
 その中で彼だけが、異種の存在だった。彼は私を、日常的に女として扱う。純粋な気持ちだけではない手で。彼は乱暴を働かない。そんなことはわかっている。わかりすぎるほどにわかっている。だからこそ、彼がわからなかった。実行に移す気がないのなら、最初からそんな情欲なんて抱かなければいいのに。被害妄想だと言われても、どうしたって欲望が絡んでいるとしか思えなかった。視線にさらされていると思うと、乱暴に跳ね除けてしまいたくなる。仲間にそんな目で見られるのが、嫌でたまらなかった。
 だからといって、傷つけたいわけじゃない。それに、彼が心の中でどんなことを思い描いていようと、それは彼の自由だ。不快に思うのが私の自由なのと一緒に。人の思考を支配する権限まで、私は持っていない。だから私は、自ら距離をとることでバランスと安定を保とうしていたのに。

 ウイスキーピークでの事の顛末を聞き終えた彼の反応は、そんな後悔の後悔をしてしまうほどで、呆れる他ない。
「ナミさん、ちょっとジェラシー?」
「べつに」
 軽薄で無責任なビビへの騎士宣言だけでも腹が立つのに、直後にこれ。本気で頭にきて、いつものように軽く流す余裕もなかった。
 あんなやりとりを交わした後で、どうしてこんな軽々しい台詞が言えるのかわからない。
 何より、「まだおれの活躍の場が残っている」とは、どういう言い草だろう。それはつまり、ビビが苦しむ現況を打破出来ていないということだ。意気揚揚と言うべきことじゃない。彼が説明を聞いても、状況を把握出来ないような低脳なら、話は別だけど。そうじゃないのに。言った彼が腹立たしかった。失望するような怒りを覚える。こんなの、彼らしくない。
 その言葉が浮かび上がって、はたと我に返る。……彼らしくない?……怒りの矛先が違う気がする。
 では、彼らしいとはどんなだろうと考えてみる。そんな評価を下せるほど、私は彼を知らない。私が知っているのは、仲間で、コックで、仲間になる前はバラティエのコックで、サンジという名前で、女が好きで、強くて、足技を武器にしていて、オールブルーの発見という夢を持っていて……。
「ナミさん、栄養万点スペシャルドリンクをどうぞ。レディ限定、安らぎの花の風味も混ぜております」
 グッドタイミング、私にとってはバッドタイミング。思いつくまま思考を巡らせていると、彼が二人分のグラスを載せたトレーごと差し出してきた。もう片手には五人分。液体だって重いのに。どうやってバランスをとっているのだろうなんて、基礎的な疑問が浮かぶ。
「ありがと」
 受け取ったのに、彼はそこから動かない。まだ何かあるのだろうか。じっと傍に立っていられると、考えていたことを見透かされたようで、恥ずかしくなる。
「……ドリンク温くなっちゃう」
「あ……そうだな。うん、じゃあ、ビビちゃんによろしく」
 ビビにもこの会話は聞こえていると思うのだけど。デッキハウス前の端と端、目と鼻の先に居るのだから。
 彼の情報、一つ追加。不可解な言動、極めて多し。

 指針の示した先は、恐ろしく不気味な雰囲気の島だった。昔から怖いものは苦手だった。ベルメールさんがからかってきては、「大人気ないよ、ベルメールさん」とノジコの殊勝なつっこみを貰う、子どもみたいな私たち。実際私は子どもだったけれど。いまの私の背丈は、ベルメールさんとそう変わらないらしい。ゲンさんが言っていた。私の記憶にあるベルメールさんは、もっと大きな見上げて見上げてようやく届く人だったから、とても信じられなかったし、いまでもそうだ。でもゲンさんが言うことなのだから、生物構造的には確かな事実なんだろうと思う。ゲンさんにそう言わしめる身長に成長しても、怖がりな性格を克服出来ることなく、私は気が気でない。
 前進していると、突然響き渡る、薄気味悪い鳴き声。私は相手の思うツボのような悲鳴をあげてしまい、彼はそんな私を「かわいい」と頬を赤らめている。……こういう場合、騎士道を掲げているのなら無意味でしかない賞賛をする前に、守ったり安心させようとしたりするんじゃないの?
 やっぱり私には、彼を理解出来そうもない。きっと住む次元が違うのだ。

 ビクビクと怯えている私をよそに、勇敢な王女様は溌剌とした笑顔で地理不明なジャングルへと姿を消した。ジャングル内でもし何か間違いが起きたら、どうするのだろう。ルフィが付いているから、大丈夫だと思うけれど。
「はァ、二つ目の島がこれかよ」
 ずるずると船壁に凭れるように、ウソップがだらしなく座り込む。続けて「先が思いやられるぜ……」と重く苦々しい息。横暴なグランドラインに対してではなく、瞳に肩に全身を萎縮したウソップの様子が、自分自身への嘆きだとありありと物語っていた。だから私は何も言えずに、「ビビよ」と的外れな切り返しをしてしまった。
「は?」
「ビビ。ミス・ウェンズデーじゃない」
 ビビの出掛けに、ウソップはまだ異名で呼んでいた。変えづらいのかしら。そんな融通の利かない照れ屋な性格でもない気がするのに。呼び方なんて自由だけど、これはちょっと在るところが違う気がした。
「あァ、そうだったな」と何ともなしに呟く。リトルガーデン、私たち二人にこそぴったしに思える名称を持った島。大きな庭に囲まれた小さな庭で、ウソップの存在の大きさと有り難さを私はまた一つ覚えた。
 身震いで足が疲れていたので、私もウソップに同化するように足を抱えた。イガラムさんの最期を必死に唇を噛み締めて見送ったビビを見届けたときから、どんな小さなことでも力になりたいと心に決めていたのに、敵がいるかもわからない段階で、足が震えて船から出ることも出来ないなんて。情けない。でも、怖いものは怖いのよ。……私だって彼のこと、とやかく言えやしない。溜息が漏れた。
 更に情けないことに、リトルガーデンを出航した直後、私は高熱にうなされることとなる。ドクトリーヌの診断で、私の身体に病原体を撒き散らす原因を作ったのは、敵の所業のせいだとわかったけれど。自己不信に陥るのは否めなかった。あのとき、彼が強引にジャケットを渡してくるものだから、仕方なく受け取ったけれど、男物の服に袖を通すのはやはり気が乗らなく、せめてもの抵抗とばかりに前は広げっぱなしにしていた。もしちゃんと着込んでいたら、事態は防げたかもしれない。
 すべての物事は運命の定めによって巡る、どこだかの名のある思想家が唱えていた一説。そんな観念を受け止められるほど、私は達観出来ていない。それでも、偶然で交じりあった雪島に、いまや絶滅種に名を連ねるケスチアの抗生剤を持つ名医がいたこと。ルフィの真っ直ぐな想いが、二人の医者によって温められていたトナカイの深い傷をまた一つ解きほぐしただろうこと。きっとこの先多くの時間を共にしあう仲間と出逢えたこと。実証があるのではと、思わず悟りを開きそうになってしまう。でもそれだったら、今まで私が歩んできた道まで、成るべくしてなった運命に置き換えられてしまう。そんなこと、信じられないし、信じたくもない。チョッパーの存在が救いだった。

 深夜に目が覚めた。冷える夜なのに。まだ体内は熱を燻っているのか、喉が潤いを欲している。
 しばし努力してみたけど、その努力は別に生かすべきだと気づいてからは迷わずガウンを羽織った。階段を上る間際、ハンモックを見やると、規則的な寝息が聞こえてくる。彼女の騎士は、本日は男部屋にお泊りだ。だからいまこの空間に存在するのは、彼女と私だけだった。
 行儀良く身を沈めて、快い夢を見ているのか悪夢を見ているのか、その寝顔からは判断がつかない。……ごめんね。浮かび上がるのは、発病してから何度思ったか知れない、謝罪の言葉。過度に気に病むのは、逆に気を揉ませてしまうだろうから、明るく勤めていたけれど。いま一度、精一杯の誠意を込めて。
 あんまり見つめていると、気配を察知しないとも限らない。それでは本末転倒だ。せめて夢の中でくらいは、何の不安も恐怖もない幸せなひと時に浸かれていたらと祈りながら。謝罪もそこそこに、ビビを起こさないようにそっと部屋を抜け出した。
「……ふうっ」
 喉が乾燥しているときの水は何でこんなに美味しいのかしら。冷たい飲料水は、熱を撒布してくれる。心にまで行き届くように感じるから不思議。
 水分補給に満足して扉を閉めると、船首に人影が見えた。海面方向に向かって、船縁の上に座り込んでいる。……サンジ君だ。
 星空を仰ぎ見るように首を傾けると、お酒をラッパ飲み。明かりを差していなかったからか、キッチンに人が居るとは夢にも思っていない様子。目を限界まで凝らしてみても、黒い塊はいつものスーツにしか見えない。……一度も寝ていないのだろうか?不寝番はウソップのはずだし。さっき通ったときは、確かにいなかったはずなのに。
 合わない辻褄に首を捻っていると、彼の頭があるべき位置より下にさがった。その勢いが、まるで海に投身するようなやけっぱちさでひやひやする。落ちたって彼なら自力で何とか出来そうだけど。まだ冬島の海域を抜けきっていないのだから、夜の海に飛び込むなんて自殺行為も同然だ。
 そんなことを考えながら黒い後ろ姿を眺めていると、ふいにまだイーストブルーを航海していた頃、レインコートを引っ剥がして雨の中に身をさらけだした私に、やけに熱心な顔で「用心するに越したことはない」と注意されたことを思い出した。首の辺りが暑苦しくて、すぐ止むのはわかってたし、あのときは発熱なんてしなかったけれど。本当にその通りだわと、今更ながら彼の忠告を身に沁みた。
 足音が届いたのか、振り向く。月と星がきらめく夜だ。瞬いたのが夜目にもわかった。
「ナミさんっ!ダメじゃないか、まだ安静にしてなきゃ」
 慌てて駆け寄ってくる。
「水飲みにきただけよ」
「言ってくれたら……」
 さすがに私は呆れた。
「たかだかコップ一杯の水のために、男部屋に駆け込んで寝てるあんたを叩き起こそうとするほど神経図太くないわよ」
「え。そういうつもりじゃ……!」
「……わかってる」
 心配してくれたんでしょ。調子に乗られたら面倒なので、それは言わずにおいた。
 彼の忠言は真実だ。朝になれば困難な海の挑戦状が待ち構えている。病み上がりの地位に甘えていられる自信もないのだから、その為にも夜は充分に休息をとっておかなければならない。用もないし、と早々に女部屋に戻ろうとしたのに。重い溜息が吐き出されたかと思うと。
「……おれさ」
 明確に引き止める意味が組み込まれた呟き。
 さっき、安静にと注意してきたばかりなのに。それはつまり、早く温かいふとんに潜って、安らかな眠りに身を任せるべきという意味なのだと思うけれど。彼の言動は矛盾ばかりだ。
 私は仕方なしに、歩みを止める。それなのに彼は、「あ……ごめん」と今度は追い返す意味をドリップして黙り込んでしまった。卑怯な手口だ。
「……何」
 私は堪えかねて促す。
「謝る暇があるなら言ってよ。言いたいことがあるから引き止めたんでしょ。余計に気になるじゃない。それとも何、それ戦術?」
 ……どうしてこんなに刺々しくなってしまうんだろう。自分が優しい人間なんて思わないけど、意味もなく嫌味な言い方だって、他の人相手ならしていないと思うのに。
 急かされるなんて、よほど意外だったらしい。彼は異形な人種でも見るような目つきで数秒まじまじ私を観察したかと思うと、何だかもっとしゃきっとしなさいと背中を押したくなる苦笑いを浮かべて、壁に凭れかかった。そしてもう一度「おれさ」と言って。
「……全部投げ出して、ぶち壊しちまっても構わねェから、ナミさんを一刻も早く治すことだけ考えていたかったんだ。……ナミさん嬉しくねぇよな、そんなの」
 今度は私が彼をまじまじと見つめる番だった。髪に隠れて表情が窺えない。だけどそれは、今まで彼が贈ってきたどんな献身的な所作よりも、ずっと実直な轟かせる何かを持っていた。
 予告なくぶつけられた本心に、言葉を失う。私はそこで初めて、彼の様子がいつもと違うことに気がついた。
「最高速度でって、ビビちゃん、最初紛らわしい言い方したろ?おれ、そんときビビちゃんに……がっかりしたんだ。ビビちゃんは、厳しい状況にも耐えて、ナミさんの体調も管理してくれて、島付いたときも頭悪ィおれのせいで撃たれて。精一杯してくれたってのに、葛藤も思いやれねぇで。おれはギャーギャー喚くだけで、何も出来なかったってのに」
 ビビが撃たれた。初耳だった。
 私は動転して馴染んだビビの姿をなぞる。けれど、どこを探ってみても、脳裏に描かれるビビは傷を負っている様子も見受けられなければ、日常生活も滞りなく送っている。何かを掬い忘れているのだろうか。だとしたら、私はこんな役立たずな脳なんてぶちまけてしまいたい。でも、ビビたちがお城に着いてからは、ビビはずっと私の看病をしてくれていたのだから、ドクトリーヌの内診を受ける暇もなかったと思うのだけれど……。メリーについてからチョッパーの診察を受けたの?無理をしているの?
 彼に尋ねればいいことなのに、私は埒の明かない不安で心臓が押し潰されそうになる。すると、彼が突然「あっ」と跳ね起きたような声をあげた。
「撃たれたっつうかっ、弾がビビちゃんの腕をかすっただけで、まぁそれがおれを止める為でなんだが……。とにかく、大丈夫だよ、ビビちゃんは。何の心配もいらない……って、心配はあるか。あー、も、何言ってんだろ、おれ。……ごめんな」
 ほっとすると同時に、かぶりを振る。よかった……大事に至らなかったんだ。
 そして、済まなさそうな顔を浮かべる彼に、私は申し訳ない気持ちになる。彼にも、ビビにも。たぶん、自惚れではなく、私の病気が理由で彼は熱くなったのだと思うから。
「ナミさんが倒れたときも、にわかに信じられなかったんだ。あ、気を悪くしないでくれると嬉しいんだけど……。病人食作ってるときとかさ、ナミさんはすげェ強い人なのに、おれなんかで本当に大丈夫なのかって。……不安で」
 自信がなさそうに夜に溶けた語尾は、しっかりと耳にも心にも届いていた。伝える手段を試してるくせに小さくなりを潜めてしまうのは、それが何より深いところに根付いている部分だからかもしれない。
 ……酔ってるの?彼の告白を聞き終えて抱いた感想は、大変に失礼な勘繰りだった。そんなひどい感想を持ってしまうほどに、私が知っているはずの彼との、あまりの差。
 珍しい彼のまっさらな本音を前にしながら、私は何だか場違いな記憶が脳裏を掠めていた。以前にも、こうして彼と夜、話をした。そう、蜜柑畑の番を頼んだとき。話というには、いまは彼が一方的に喋っているだけだけれど。お酒をラッパ飲みしているのも一緒。これも、あのときは私だったけれど。ちぐはぐに絡み合う過去と現在で、決定的に違うのは、私は未来に希望を膨らませていて、彼は過去に落ち込んでいるということ。いまの私はどちらでもない。自己嫌悪と、立ち向かう為に追いついていない心の準備と。
 私はひたすら前を向いていた過去の自分を追想することで、初心に帰るような気持ちになる。
 船長を筆頭に築かれる、擬似家族ともいえるこの空間は、困るほどに居心地が良くて、匙加減の絶妙な甘さで包み込んでしまうから、弱い心が顔を覗かせてしまうのだ。厳格であり高潔である志を持つものが集まったからこそ、この空間を生み出していることを忘れちゃいけない。受け入れなければ、前へも進めない。
 サンジ君が初めて、面と向かって私に本心をさらしている。いつだって戯けたがる彼が、どうして突然こんな弱音を打ち明ける気になったのかはわからない。私も弱っていたからかしら、と思ったけれど、さっきの彼の言葉を踏まえると、それも違う気がする。不思議な共鳴でもあったのかもしれない。私も、きちんと対面する決意を固めて。
「さっき、ビビにがっかりしたって」
「……あァ。自分が嫌んなるよ」
「私も」
 驚愕をあらわにした目を向けてくる。視線にさらされていると思うと落ち着かなくて、数歩前へと出た。
「一刻も早くアラバスタへって最初に言われたとき、私もショックだった。そう望んだはずなのにね」
 どう答えればいいのかわからないのか、後ろから戸惑った気配が届く。慰めなんて望んでなかったので、構わず先を続けた。
「でも実際は、あの子は私よりも、ずっとずっと先を信じて見据えてた。一番辛いビビが辛い現実を受け入れてるってのに、私は気遣って優先してくれるんじゃないかって、心のどこかで期待して。ビビの言葉で気づいたの。……最低ね」
「……そんな……弱ってたら誰だって……!」
「そうね」
「え……?」
「そりゃ、いつだって強くありたいと思うけど。現実はなかなか上手くいかない。ときには弱るし、嫌な考えだってしてしまう。今回だって、微生物に侵食されただけで成す術もなく、お手上げ。泣きたいくらい普通の人間よ」
 世の人間なんてみんな普通なのかもしれない。流れに身を任せるか、自堕落に落ちるか、我武者羅に足掻くか、たったそれだけの差かもしれないと思う。
「サンジ君は」
 ちょっと、それはまだ言うべき台詞じゃないわよ。頭に浮かんだ言葉が勝手に口から飛び出してきて、続きなんか考えてなかったので戸惑う。でも、もう口にしてしまったのだから、後戻りは出来ない。背後から先を促すような視線を感じて、まるっきり困り果ててしまった。思い込みかもしれないけれど。私は、一呼吸ついて。
「……サンジ君は、……そう、蜜柑。教えてくれたでしょ、ルフィが蜜柑狙ってるわけじゃないって。あの場所が、落ち着くって。私、言われて初めて気づいたのよ。サンジ君が教えてくれなかったら、ルフィの心遣いなんて一生知らなかったかもしれない。配慮に気づけるのは心を配れる愛情があるからだわ。……それに、そう、いつも心のこもった料理を作ってくれる」
「それは……だって、おれの役割だし……」
「当たり前って思ってるなら、それはすごいことよ。あんたは自分なんかでって言ったけど、私は毎日、あなたから栄養を貰って生きてる」
 一語一語噛み締めるように、言葉を紡ぎながら、私は自分のどこにこんな風に彼を語れる情報があったのだろうと内心で驚いていた。彼に傾けているはずの言葉は、まるで私自身に言い聞かせているような、他人の声にすら聞こえて。発してるのは私なのに。
 順序を逆に、言葉から記憶の海を辿ると、どれも一度は感じたものであることが発覚し、自分に呆れる始末だった。日常の中で培っていたこと。私は男としての彼を億劫に思うあまり、仲間としての彼を置き去りにしていたのだ。私はいま初めて、少しだけ彼という人間が理解出来たような気がした。
「ナミさん」
「……っ!」
 思いも寄らない近さから聞こえてきた声に、弾かれたように振り向く。目の前に広がるのは、暗闇。
 自然の黒とは違う、人間の色。
 たった、それだけなのに。
「近寄らないで」
 私は出来得る限りの、身体中に秘められているありったけの力を総動員させて、自分を抑えた言い方で言ってやったつもりだ。でも、どんな音量だったのか、どんなニュアンスだったのか、喚き声になっていたのか正直なところはわからない。
「ご、ごめん」
 数歩下がる彼の謝罪がそれほど誠意がこもったものでない気がしたから、私は工作が成功したのだと安心した。俯いているからどんな顔をしているのかわからないけど、きっとそうだ。
 寒空の中の穏やかな空気なんて一瞬で遠のいていた。たったいま、探り出すように彼を語り、探り当てた発見に喜びを噛み締めていた自分はどこへやら。けれど、取り乱さずにすんでいるのは、その前提があったからかもしれない。そして深夜に男に背を預けるなんて、と今更ながら愚鈍な行動に舌打ちを打つ思いだ。やっぱり私はどこか温くなってしまっている。
 早く彼に去ってほしかった。私がいま世界中で何よりも欲しているのは彼の「おやすみ」という四文字だ。それに比べたら、豪華な宝石なんて石ころの価値もないほど大きな意味を持つ言葉なのに、どうして言ってくれないんだろう。うずくまってしまいたい。月と星の輝かしさを憎らしく思ったのは生まれて初めてだった。
「ナミさん、おれ……好きだ。……ナミさんが、好きだ」
 永遠とも思える時間のあと、彼の口から出たのは、私の切なる願いとまったくの正反対の内容だった。
 闇に埋まった声に、静寂。泣きそうだった心が、急速に冷えていくのを感じた。
 真っ暗だった焦点はくすんだ甲板を捉えていることを自覚し、腕を抱きかかえ唇を強く噛み締めていることに気づいた。視覚が戻る、痛覚が戻る。
 ……どうしてこのタイミングで、こんな言葉が出てくるのだろう。真面目な話をしていたのに。
 怒鳴らなかったのは奇跡だと思う。
 それでも、落ち着きを取り戻したという点では、感謝するべきかもしれないと、心の片隅で思った。そうでなければ、私は彼が去る頃まで虚勢を張ったままでいられたのか自信がなかった。
「ハイハイ。じゃあ私もう戻るから。……サンジ君も、冷えるんだから早く寝たら。まだノスタルジックから抜けきれてない船医に、余計な心配かけさせたくないでしょ」
 私らしい物言いにそっけなさ。私は安心して足を動かすことが出来た。
 ちらりと、去り際に恐る恐る横目を流すと。なんと彼は空に少し首を傾けて、掌で顔を覆っていた。……泣いてるの!?
 仰天したあまりすっかり足は本来の目的を忘れてしまう。さっきとは違った理由で声が出ない。金魚みたいに口がぱくぱく。……な、泣き上戸とか……?私は本当は自分のことだけで手一杯なのに、彼を置き去りにすることも出来ず、かといえ手を引っ剥がして顔を覗き込んで確認することも出来ず、棒立ちのまま弱り果ててしまった。
 間もなくして下ろされた手は早とちりだということを教えてくれて、なんて紛らわしいポーズで立っているんだろうと突っかかりたくなった。勝手に勘違いして焦ってしまった失態に顔が熱くなる。……でも、よかった。それなら見られていないはず。それに、意外な動揺を誘われたおかげで、心がすっかりそっちに持っていかれてしまった気がする。変な話だけど。
 彼は私が自分を凝視しているとは夢にも思わなかったのか、視線が絡まると不躾にパッと外されてしまった。……何なの?やはり様子が変だと不審に思ったけれど、ボロを出す前に退散するべきだと判断したので忠実に従う。
「……おやすみ、ナミさん」
 倉庫の扉を閉めきる間際、あれほど切望したあいさつが随分と遅れて届いたものだから、私は返すタイミングを失ってしまった。大声なんて出せないもの。せっかちな自分を、少しだけ叱咤した。




    

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[ 2007/08/30 ]