記憶は断片である。
自負するよりもずっと頼りなく、アテにならない。フー・ホワイ・ウェア・ウェン・ワット・ハウダニットなんざ、簡単に個々人の中で齟齬が発生しちまう。年が足りなきゃ信用にも足らず、ならばと年を食ってみりゃあ衰える。使い勝手の悪いにも程があるぜ。
だのに、俺達は自分が自分である指標として〈それ〉に頼らざるを得ない。それどころか望んで全幅の信用を寄せている。情けなくも笑える話だが、結局、俺達を隔てることができるものは究極それしかないのだろう。あなたと一つになりたい、なんて垢まみれの詩がどんな偉人から口ずさまれようと、他人と差別化されないほど恐ろしいことはないのだ。多くの凡庸な人間が平均の人生を求めるとしても、その目指すところはあくまで平均であり、同一ではない。
煩わしい事に、俺達はそういう……最後の矜持を忘れない。だから、もしそれが侵されるようなことが――記憶の欠片を勝手に組み替えられたり、入れ替えられたり、あるいは他の断片と全く同じものにされたりするような――あれば、それはもう、最高に身も蓋もなく抗議してやるだろう。
(お前も、か?)
……。
「ああ」
――俺は〈俺〉に、そう答えた。
先程虚空を落ちた俺は、地面に打ち据えられることはなかった。代わりに訪れたのは、水の無い濁流のただ中で揉みくちゃにされる感覚。はじめは状況を理解する気を放棄していた俺だが、しばらく流れに身を任せていると、これはどうやら情報の渦らしいということが薄ぼんやりと分かってきた。
流れの中で幾数もの世界の断片が目の前に現れ、消えていった。
これは俺の記憶か。
覚えのある記憶もあれば、何度も夢で悩まされた、知らない俺の記憶もあった。その全ての源泉。貯水湖のような場所、か。ここからざばざばと流れ出たものが世界の壁を割って、俺の頭に分け入ってきたってわけか。そして今もまた。
(やめろ)
ハルヒの思い出は……名残惜しいと言えば嘘になる。なる、が。
俺が経験していない俺の持ち物は、俺に返してやるべきだろう。俺は俺として独立する。知っておくだけでいいんだ。俺はどこかの可能性の場所で、こういうことを為しているのだと。
俺がはっきりと意思を示すと、波はゆっくりと勢いを弱めていった。
そうして足元が確かになった頃、残されていたのは……俺と〈俺〉だった。
「……だろうな。俺だってそうするさ」
俺の返答を聞いた〈俺〉は、屈託なく笑った。ふん。これでも自分のことだ、聞かずとも答えは出ていたんじゃないか。
「そうでもないんじゃないか? 例えば、仮にこっちのお前が破滅的につまらん生活を送っていたら、どうだよ」
どうも二動もあるわけねえ。どんだけしけた人生の中途にいたって、他人の人生を間借りするなんてごめんだね。
「ま、な。――お前の頭をちょいと混乱させちまったのは謝る。悪かったよ。と言っても俺に権限があったわけじゃないんだが。つか、俺はあくまでただの情報であって、今肉付けをしてるのはお前なんだ」
ん? お前は別の世界の俺だろ?
「そうとも言えるが、情報は情報でしかないのさ。つまり、この記憶を持った本体の俺は今ここにいる俺とは直接的な連続性は無い。俺はお前に茶々を入れる程度の役割だよ。今こうやって俺っぽく喋っていられるのは、お前の想像だ。想像」
え、そうなのか。じゃ、これ一人芝居か? 恥ずっ。
「うむ。まあお前の羞恥心なんてどうでもいいや。見てみろ」
〈俺〉が指差した先に視線を動かすと、すっかりその様相をぐちゃぐちゃにしちまった俺の世界があった。
俺と〈俺〉がいる目と鼻の先の場所で、まるで経線を可視化したかのように精緻な一本の線が地面を寸断していた。その線を境に、まったく二つの違う世界が展開されている。
線からこちら側は、有体に言って「宇宙」。頭上に広がる宙景は、イメージ映像や科学雑誌で見たものと比べるなんておこがましいほど深い、深い星々の空だ。自ら明滅する発光体から、アクリル絵具を垂らしたように色が飛びこんでくる。その景色に添えるように、地面に点々と廃れたオブジェクトが突き刺さっている。生命史が始まる頃はこんな一面だったのかもしれないと、溜息の出るパノラマだ。
対して線から向こう側は、完全に退廃していた。
恐らくは位置関係的に病院があったであろう場所は、ステーキナイフで不規則に細切れにされたかのような瓦礫がうら高く積まれている。視界が悪いのは塵や砂が吹きすさんでいるからで、空は感情を一切無くしたフラットな灰色を怠惰そうに主張するだけ。
そして、息吹の感じられない世界の中心点には――
「ハルヒ……?」
疑問形で呟いたのは砂塵で不確かだったのと――〈それ〉が人であるとは到底思えなかったからだ。
人の輪郭に縁どられ、瓦礫の上に亡霊の如く佇むそれは……禍々しい中身、玉石の超量の情報を溢れさせていた。
(あれが、ハルヒ……俺達の、世界での新しいハルヒ、なのか?)
見たこともないのにやけに鮮明に想像できる、ブラックホール状の宙域を孕んだハルヒであった物体は、確かに世界と引き換えに生まれたのだろう。……俺が、俺達が望んで、生んでしまったのだ。
「あっち側はもう……ダメだな。お前達のせいじゃないさ。勿論ハルヒのせいでもない。元々不安定な場所だったんだ。物質の構成要素をわざと穴の多い記法で埋めて、情報の揺らぎを観測してやがった」
〈俺〉は苦虫を噛み潰す。
「ハルヒは多分、この星がおかしいことに気づいちまったんだろう。だからいなくなった。だからいないことにされた。……けど、お前らがいた。残存した『涼宮ハルヒ』の識別子を拾ったお前らが。ただ、それがお前と古泉じゃ違ったんだな。ダメ押しに近似座標にある時間平面の情報が大量に流れ込んできて……世界は壊れた。もともと連続体の族に入れない星だ。こうなるのは多分、時間の問題だった」
「ちょ……ちょっと待ってくれ」
同じ面を下げておいて、俺より随分と理髪そうな弁を振りかざす〈俺〉を制し、俺は真っ向から疑問をぶつけた。
「ダメってなんだよ……ここは……誰の思惑で『ここ』なんだ? まさか本当に、わけのわからん地球外生命の陰謀に曝されてるってのか?」
否定を望んで大仰に言ったつもりが、喉はいやに乾いてうまく発声できなかった。
「……」
〈俺〉の答えは、沈黙。
「……そう、なのか」
俺だって、この現実を前にしてまったく地球が正常であると主張する気は無い。……それでも、第三者(三者?)に告げられると、鈍器が圏外圏から脳天に落ちてきた衝撃がある。
そもそも、ここはちゃんとした地球なのか? 星という形を取れているのか? ……いや、今は頭のリソースをこれ以上驚きに割けそうにない。聞かないでおこう。
「あー……そうだな、『俺』も動かされてる側だから、気休めにもならないが……お前達が今となっても自律行動してるのは、奴らにしてみりゃかなり想定外だと思うぞ」
「その『奴ら』ってのはなんなんだ。胸糞悪い。俺達が右往左往してるのを高みから見下ろして、笑ってやがるのか? そのくせ星が一つぶっ壊れても、何もしてくれやしねえ」
言葉にすると余計に怒りが具体化される。
「……そうだな。俺もあいつらのことは限られたことしか知らん。胸糞が悪いのも同意だ。……分かってるのは、あいつらは一つの塊じゃないってことだ。俺達に友好的な――ごくごく異例の――やつもいるし、こんな風に生命をオモチャみてえに扱って、眉根一つ動かさん奴らもいる。眉、無いしな」
……そうか。
「とにかく、黒幕ポジションはそいつらなわけだな。分かった。あと、くだらん冗談はインターバルに入れんでいい」
俺の小言に〈俺〉はいやに大人びた苦笑を落とすと、
「ああ。俺から伝えられることはこのくらいだ」
と小さく告げた。
「じゃあ、それに一発かましてやりゃあ何か変わるかもしれないってことか……くそ。例え無形生物だとしたって殴りに行かなきゃ気が済まん。俺達の生きてきた時間はどうなる、俺もハルヒも……あ。……!」
憤怒を発散させるためにひとりごちると、もう一人ぶん殴っておきたい奴がいることを思い出した。
「そうだ、古泉、」
「はい」
「おうわあっ!?」
どこだ、と言葉を続ける前に手近から返事が返ってきた。
……古泉一樹がそこにいた。
「って、古泉!?」
「はい」
「はいじゃねえっ!」
心の臓を押さえつけながら、小突く、とはあまりにも離れた力加減で古泉に手を出した。
「いたっ」
「てめえ! 何してくれてんだ! 投身自殺なら永劫人目につかない所でやりやがれ!」
屋上から爽やかに身投げしたはずの古泉は、直前までの出来事を微塵も感じさせないきりりとした背格好でこちらを見下げていた。俺の被害妄想だろうがなんだろうが、見下げられているのだ。歯噛み。
「自殺? とんでもない。僕は手探りの状況なりに、あの場から脱出できる方法を思いつき賭けたまでです。すなわち、均整を失った世界の嵐に飲み込まれる前に、その世界自体から自身の存在情報をドロップアウトさせればいいのではないか、とね。当然、肉体的に死亡して後がない可能性も――正味五分五分といったところでしたが、あのままあの場にいれば百分(ひゃくぶ)で自我を失うであろうと直感しました。僕個人のファイブ・センスに依るところでしたから、流石にあなたに心中をもちかけるのは自重しておきましたが」
……お前、それで俺が嵐とやらに巻き込まれてどうにかなったらどうするつもりだったんだよ。
「可塑性の無い仮定は、言い切りましょう、不毛です。今現在刹那の事実として、あなたはここにいる。それがあなたの選択した全てです。それ以外は有り得なかった。有り得ないことになったのです」
ほーう。クソ詭弁だな。
「詭弁ですよ?」
……開き直った根暗ほど、怒髪をこう、チリチリ昇らせるもんはないね。
「それで? その『ここ』とやらは一体どういう位置付けなんだ? 俺はどうやって助かったのかさっぱり分からんぞ」
俺は〈俺〉に説明を求め、目線を投げたのだが――
〈俺〉は消えていた。
「……」
平らな世界の空中に目を泳がせる俺を、不思議そうに古泉は見つめる。
「……僕の意見を述べても?」
「あ? ……ああ」
おい、今ここに〈俺〉がいなかったか? とは――なんとはなしに聞けず。俺の沈黙は話の先を促すものとして受け取られた。
「……では。線で分かれたこちら側は、向こう側――本来の世界に介入させる情報、または不要になった断片をプールしておく場所、とは考えられないでしょうか。あちらの世界で消えた質量がどこへ行っているのか興味があったのですが――この芥。町の建物に似ているものもありますね。先日まではここに流す処理がきちんと実行されていたと言えそうです」
……んーと。理屈はお前の好きにつけりゃいいが、とにかくあっちから弾かれたものはこっちに来るってことか?
「全てではないでしょうけどね。取得する情報の選別セッションも壊れているおかげで、僕達が入ってこれたのかも」
古泉は古泉の納得するように理論を詰めていく。俺はそこまで順序だった論理を重視するオツムではないので、まっすぐに今の無事を喜ぶことにする。
だが、おちおち我が身を甘やかしてもいられない。
「これからどうするか、……だよな」
助かったのはいいが、無事であるかと言われると大いに首を捻る。ここが安全な地帯かも分からない。
「そうですね。僕は、本当の涼宮さんがいるとすればここではないかと思うのですが。これで総当たりしても外れなら、もはやこの星にはいないということになるでしょう」
あっちで知りうる限りいなかった以上そうなるが。探すったって、どんだけの範囲をローラーすればいいんだかな。
「僕は別に、しらみ潰しでも構いませんよ」
考えただけで辟易している俺と対照に、久しぶりに冗談めかした風に古泉は笑った。最もその奥は、冗談の気に包んだ本気でしかないのだが。
「……歩いてみるか……」
会話も手詰まりになったところで、半ば心優しき第三者がストップをかけてくれることを期待しながら俺は吐いた。だが現実は非情であり、返ってきたのは古泉の「そうしましょうか」という死の行軍決行の合図だけである。
マジかよ。と俺の声なき声が伝わったのか、古泉はあの懐かしくも憎らしい余裕の笑みを放ってきた。それは意外にもきちんと(そう、きちんと、だ)俺を腹立たしくさせるものだった。先程までハルヒに向けていた最下等な破壊的微笑ではなく、自然体に近いその顔で。
それに少し安堵してしまったのは、どうしてか分からない。
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