「同次元上の同座標上に二つの物質が同時に存在することはできない。普遍の定理です。さて、それを捻じ曲げることが可能であったとき、世界に何が起こるでしょう?
 ――今回は対象の対消滅、に近似した反応が表れたようですね。あの黒球です。あれが現れた場所には、二つの物質、つまり情報が同位置に重なって存在する矛盾状態が起こったと推測されます。二つ、とは、あなたもお察しのことと思いますが、片方は『涼宮さん』がいる状態のことです。そしてもう片方なのですが――これは、『涼宮さんがいない状態』ではない、と僕は主張します。それならば今までとなんら変わりは無いのですから。
 ならば何だと聞かれますと、もう一方の状態、これも『涼宮さん』がいる状態である。と僕は考えるのです」
 
 出会い頭からよくまあフルスロットルで口が回るもんだ、と舌を巻いてやりたいところだが、またの機会にしておこう。あるならな。
 
「……てめえ」
 得意の演説はいいから、この状況を説明しろ。この涼宮……ハルヒ、ハルヒは、お前はどうして、
「質問は多々おありと思いますが。まずは僕の話を聞いてやってはくれませんか」
 古泉は鬼気迫る俺の心気を察してか、片手を差し出してこちらを制止した。
 
「二つの涼宮さんがいる世界。一つは無論、今までこの世界で生活していた――はずの、ですが――涼宮さんがいる状態です。もう一つは、……あなたのほうがよくお分かりかもしれませんね?」
 古泉の自虐的な笑いはますます深く、暗い地金を晒していた。
「その両方が衝突したとき、涼宮さんは消滅せず、折衷して、というのでしょうか、そうしてこの世界に再び現れてくれたのです。きちんと人としての形を持って――それを願ったのは僕達かもしれません、いえ、そうなのでしょう。
 ならば、今ここにいる涼宮さんは『どういった』涼宮さんなのか? あなたの関心はそこですね。
 ――あなたが来るまでにお話をさせて頂いて分かりました。この方は僕が捜索していた涼宮さんではありません。さんざ探していた彼女ではないのです」
 名を出されたハルヒは、僅かに不安げな顔を上げた。その出で立ちは、全く俺の想像の上のそれだ。
 
「最も、あなたにとっては喜ばしい事なのでしょうが?」
 ……待て。……なんでお前がそれを、
「なぜ僕があなたの心境を解しているのかといったお顔ですね。簡単ですよ。僕とあなたの見ていたものが同じであろうから、です」
「……何の話だ」
「お分かりになりません? 涼宮さんのことですよ。以前涼宮さんを夢に見る、という話をしましたよね?
 あなたもだったのでしょう? なんとはなしに分かりましたよ。あなたはそうは思っていなかったようですが。残念ながらと言うべきか、僕が会えた涼宮さんは……正確にはこの次元の涼宮さんではなかったのでしょうね。
それでも、あんな笑い方をする涼宮さんに夢の中だけでも相見えたことを感謝するべきでしょうか。
 そこにはあなたがいて、僕の見知らぬ、けれど何故か懐かしい人達がいた。それは未知の出会いに心躍らせる夢見ではありましたが、同等に死を覗くほど僕の胸を痛ませるものでもありました。
 ただの夢とは思えない説得力を持って迫る情景が、僕の望んだものでなかった悲しみ。僕の望んだ人がいない寂しさ。内なる世界に僕がいない侘しさ。
 ――僕の知らない僕が幸せそうに生きる、その理不尽。
 あなたなら分かるでしょう。自分の底の底にある幼稚な願いを暴いたかのように、空寒いほど溌剌とした陽の世界にいるのは己ではないのです。分かるでしょう? この辛さが。
苦しい。僕は苦しいのです。涼宮さんに会えてもなお。いや、〈これ〉は涼宮さんですらない」
 利己的な取り繕いすらやめた古泉の言葉は針山のようだ。
 
「……そんな言い方無えだろ、こいつは」
 指示語の先にあるハルヒは、朧の中で何べんも見せてくれた満面の笑みなど何処吹く風の曇り顔だ。俺がここに来るまでの間どんなやりとりを交わしていたか、後ろ向きな予想がつくってもんだ。
「お前は、ハルヒ……涼宮ハルヒだろう?」
 俺はハルヒに縋るように問うた。恐らくはさっきまで俺と話していたハルヒと同一人物であるこのハルヒは、弱弱しく首を縦に振った。
 
「その根拠はどこから湧いていると思います? もう一つの、他の次元の記憶でしょう? 二つの情報が重なるのは僕達にも適用されていたようで。今あなたが涼宮さんを涼宮さんと認識する依り所は、別のあなたが経験した交々なのですよ」
 男は笑う。
 
「不気味だとは思いませんか? いつか、僕らが積んでいないはずの人生を当たり前にそこにあったと、最初からそうだったのだと思い込んでしまう日が来るのだとしたら。気持ち悪いじゃないですか。
 言ってみれば、これは望まぬ置換ですよ。自己の置換。全てが収束した時、僕らは元の僕らでいられるのでしょうか? 自分の中に違う誰かが入ってくる。……どこの誰とも知れた馬の骨が……。
 ねえ、僕はですね、不慮の事故かなにかで全く違う人格になってしまうほうがまだいいと思いますよ。
 自分に自分を殺されるほど惨めなことはありません。それより後も命火が燃えゆくならなおのこと、です」
 ……古泉の言っていることも理解はできた。今俺がハルヒに感じている望郷とか、慈しみとか、らしくもない情念は全部俺生来のものではないのだ。……それでも俺は、見知らぬ土地に身一つで放り出され途方に暮れているような目の前の女を放ってはおけない気がした。
 
「……なんでハルヒだけが、こんな……」
「――涼宮さんが特別というより、僕達があまりにも取るに足らない情報だったのでは? 僕らを俯瞰している第三者なるものが存在しうるとすれば、の話ですが。涼宮さんにはなんらかの力を介入させる価値があり、それ以外の飛沫には無かった。それだけのこと」
 どこまでも己を突き離して古泉は語る。
 そこで沈黙を貫いていたハルヒが、そろりと口を開いた。
 
「あんた達、は……何者なの?」
「……それは僕の方がご教授願いたいですね。一体今の僕はなんなのでしょう? あなたを知らないはずなのに知っている。会いたかったけれど会えなかった。しかし会えた。嬉しくて嬉しくない。やるせないのに昂っている。
――まったく感情が破瓜しています、人格不全です。
 一つ言えることは、あなたは……もうすぐ全てを思い出すことでしょう。あるいはこの街と引き換えに。その内容は知るも知らぬも、あなたは新しいあなたとして生まれるのです。選ばれなかったこの場所で。偽りだったこの世界で」
 偽り――だと?
「ええそうです。僕は初めから知っていたのかもしれません。認めたくなかっただけだ。
 ジョン・スミスはここから消えたのではない、帰ったのだと。あるべき場所に戻り、ここに用が無くなっただけ。ここはただの、残された廃棄物だと」
 どうしてそんなことが言える。仮にも、
「過ごした時間があるのに、なんて大した理由にはなりませんよ。情があったって分かってしまうものは分かってしまうんです。
 ああ、思い出してきましたよ。あの時のこと。全てがいらないものと化したのであろう、あの時。彼の帰還の瞬間。僕は……ああ、ほら、」
 古泉は指先を躍らせた。その先で黒い球が弾けるような動きを見せたかと思うと、分裂したまま面積を増幅させる。そうしてこの街を、市をうずめていく。
 
「あまり時間は無いようですね。お別れです、涼宮さん」
 顔色を無くした男は無情に告げた。
 意味も受け取らぬまま怒声をあげようとすると、俺の頭に鈍痛が走る。景色が揺らぐ。足先の感覚がおぼつかなくなる。なんだ、やめてくれ。俺はまだこいつに、何か、言わなきゃならん。
「……っ、これは、止まらねえのか? だったらどうなる?」
「さあ。僕らでは止めることはできないでしょうね。どうなるんでしょう。あまりよくない予感がします。意識が霞んできました」
 どこか遠くの国の政情でもリポートしているかのように淡々とした状況報告が返ってくる。
 
「しかし、ここで自分を失うよりは……」
 続く言葉は古泉の口の中で溶けて、聞きとれなかった。
 だが、俺は脳天から爪先まで嫌な線がひとつ走るのを感じた。
「いいから逃げるぞ、ハルヒ、古泉」
 呼びかけても二人とも反応が鈍い。ハルヒには周りの惨状がはっきりとは見えていないのかもしれない。
「どこへです?」
「どこでもいいだろ! 早く、」
「この平面上には無いでしょう、逃げられる場所は。――僕は行かなくては」
「どこに」
「『涼宮さん』に、会いに」
 
 吐きだすように告げた古泉は笑った。それは久しく見ていなかった――シニカルでえらく涼やかな笑顔だった。その病的な色素を除いては。
 
「お前、」
 ぐらつく頭をもたげながら声を絞り出す。
 
「それでは。巡り合わせが良ければ、また」
 古泉が手を振ると同時に、空が一面に漆黒に染まった。不穏な闇が天末線までも覆うように広がり、俺達を抱きしめるように降りてくる。
 古泉はそれにすら一寸も心動かされずといった、しっかとした面持ちで――
 背後のフェンスに飛び上り、足を勢いよく掛け――
 飛んだ。
 
「ば、」
 
 馬鹿野郎。
 言葉になって思考できたのはその一言までだ。後はどう神経を伝達させたかよく覚えていない。
 手を伸ばしたところで間に合わない距離なのは分かっていたはずなのに、俺はフェンスに縋り遮二無二手足を動かした。バランスを取ることも考えず乗り越え、重力のまま体は浮遊する。
 奈落に降る直前、こちらに向かってくるハルヒの姿が見えた。
(ハルヒ、)
 悪いな、せっかく出てきてくれたのに。俺はあいつに一発喝でも入らいでか、そうじゃないとお前もむかつくだろ?
 刹那の間に俺は長くひとりごちて――
 ご都合な奇跡でも起きて古泉共々浮いてくれたりしないかと考えてみるも、あ、地面だ、と思った次の間、体中が破裂するような衝撃を五臓六腑に感じ――
 意識は光に溶けた。