ありふれた悲劇

 が俺のことを忘れてしまった。


 本人の口から出た言葉に目の前が真っ暗になり、気がついたときには、俺は善法寺先輩と一緒に医務室の外の縁側に立っていた。どうやら俺の様子を心配した先輩が連れ出してくれたらしい。
「竹谷、大丈夫かい?」
先輩の声色は本当に俺のことを心配してくれているようだった。その問いにも頷くだけで精一杯だったけれど、先輩はそれ以上何も言うことはなく、ただ俺が平静を取り戻すまで黙って付いていてくれた。
「あの、すみません……ご迷惑をおかけして。本当ならに付いていなきゃいけないんじゃ」
そういえば先輩は保健委員の仕事をしていたはずだ。仕事の邪魔をしてしまったことに今さらながら罪悪感が湧き上がってくる。
「いいよ。の場合は目を覚ますかどうかが問題だったんだから。それに、何かあったら呼べば聞こえるところにいるんだし、君が気にすることじゃない」
「でも……」
「でも、まさか竹谷があんなに取り乱すなんて想像もしてなかったから驚いたよ。あんまり仲良くなさそうだったのに、結構責任感が強いんだね」
「え」
「それにしても、入学前と竹谷のことだけ忘れてしまうっていうのも珍しいよね」
先輩が何気なく話題を切り替えようとして放った言葉に俺は言葉を失った。確かにここに来てからと2人で話す機会もなかったし、で遠慮してかあまり積極的に俺といようとはしてなかった。でも、それがまさかこんな誤解を生んでいただなんて。
 善法寺先輩はが記憶喪失になった原因が気になるのか、愕然とした俺に気づかぬまま推測を並べ始めた。
「崖から落ちる前に何かあったっていうんなら分かるんだけど……竹谷は、一緒に行動してたときにの様子に心当たりはない?」
「そ、れは……」
思わず言葉に詰まった。が俺のことを忘れてしまった出来事に関する心当たりなんて、1つしかない。
 そんな俺を見た善法寺先輩は、俺が自分が疑われているのかと動揺しているのかと思ったのか、慌ててぶんぶんと手を振りながら言葉を付け加えた。
「いや、別に竹谷が何かしたとか疑ってるわけじゃないんだ!
 ただ、入学前の記憶と一緒に竹谷のことも忘れてるなら、入学前に何かトラウマがあって、実習のときに竹谷と行動してるときに偶然それを呼び起こすような要素を見つけてしまったのかと……ごめん、本当に軽率だったよ。
 あんまり話する機会もない相手の過去なんて、そうそう知ってるわけないよね。クラスの友達とかに聞いたほうがよかったね」
その言葉を聞いた瞬間、顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
 善法寺先輩は本当に――本当に、心底申し訳なさそうな表情を浮かべて謝罪していた。それがたとえ俺の心を深くえぐるようなものであったとしても、俺たちの事情を全く知らない善法寺先輩にしてみればそんなことは分かるはずもないことだ。
 心の内でそう言い聞かせでもしていなければ、どうにかなってしまいそうだった。
 の過去を俺が知っているわけもないだなんてどうして言えるのか――そう叫んで何も知らない善法寺先輩の襟を引っつかんでやりたい衝動がこみ上げてくるのを、ありったけの理性をかき集めて抑えていた。
「竹谷? どうしたんだ一体、そんな青い顔をして」
どうして、どうしてどうしてどうして!! 俺とは血を分けた兄弟で、同じ日に生まれた双子で、誰よりも何よりも近しい存在だったはずだ。距離を隔ててすら互いを忘れた日などなかった。
 一体いつから俺たちはこんなに離れてしまったんだ? それともずっと一緒だと信じていたのは俺だけで、にとって俺はあっさり棄ててしまえる程度の存在だったのか?
「竹谷? ちょっと、大丈夫?」
善法寺先輩の呼びかけにも答えず、俺は再び医務室に向かった。戸を開けると迷わずのところへと歩み寄る。はさっき会ったときと変わらない様子で――いや、今なら分かる。は知らない人間を見るような目で俺を見つめていた。怯えるような、警戒するような視線。

名前を呼ぶとの体がびくりと震えた。それと同時に眉間にしわを寄せて警戒を強める。なぜこいつは自分の名を知っているのか、馴れ馴れしく呼び捨てにするのか。そんな不快感をあらわにして立ち尽くしている俺を見上げていた。
「俺のこと……本当に、覚えてないのか?」
「いや、悪いけど……」
即答だった。忘れてしまったことでできる空白について考える余地もないほどに、の中で俺の居場所はなくなっていたというのか。
 絶望って、こんな感じなんだろうか。
「……そうか。邪魔して悪かったな」
どうにかそれだけの言葉をひねり出すと、俺は力の入らない足を運んで医務室から出た。は俺が背を向けるのと同時に、安心したように細く息をつくと再び床について静かな寝息を立て始めた。ああ、寝つきがいいのは変わらないんだな。


「竹谷? 大丈夫…… !」
医務室の前で待っていたのだろうか。部屋から出ると善法寺先輩が何かを言いかけて、俺の顔を見た瞬間に表情を凍りつかせた。
「た、竹谷、新野先生にでも見てもらったほうがいいんじゃ……ひどい顔色だよ。まるで死人みたいだ」
死人、という言葉が心に引っかかる。確かに今の俺は死人も同じだろうさ。俺の弟と一緒に、の中にいた俺も死んでしまったのだから。いや違う、俺が殺したも同然だ。
「……大丈夫ですよ」
今度は言葉がするりと出た。善法寺先輩は納得がいかないようになおも言い募ろうとするが、俺はそれを無視して部屋に戻った。
 部屋に着くころには――先輩をまくことに成功したのか先輩が諦めてくれたのか、それとも俺を追っている途中で不運な目にあったのか、そのどれかは分からないが――善法寺先輩の姿はなかった。
 いつの間にか夕方になっていたのか、橙色ににじんだ光が障子越しに差し込んでくる。けれど昼間とは違い、部屋の奥のほうはすっかり夜の暗闇を潜ませていた。
「……っは、」
誰もいない部屋の中で、じっと暗くなった場所を見つめているとふいに乾いた笑いがこみ上げてきた。もう、笑うしかない。
「ふ、ふふふ、はははっ……あっはははははははははははははははははははははははは!!!!」
一度笑い出せば、もう止まらない。自分で自分がおかしくって仕方がない。だってそうだろう? 一度奪われたものを取り戻す機会がめぐってきたというのに、ほかならぬ自分のせいでそれを永遠に失うことになるだなんて、なんて間抜けなんだろうか。馬鹿馬鹿しすぎて笑うしかない。
 あまりに笑えるものだから、俺は堪えきれずに部屋の中を転げまわった。馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ! なんて馬鹿なんだ俺は!!
「ははは、は、はは……」
腹がよじれるほど笑い転げているうちに俺はすっかり疲れ果ててしまったらしい。部屋の隅で止まると、ふと頬に涙が流れたような跡があることに気がついた。笑いすぎて涙まで出てしまったのだろうか。きっとそうに違いない。

届かない手

 弟が死んでしまったことを悲しむ資格など、俺にはなかった。