ありふれた悲劇

 あれから1週間がたった。はまだ目を覚まさない。
 善法寺先輩の言によると、「できる限りの治療はやったので、あとは本人の生きる気力に賭けるしかない」だそうだ。こうなってしまうと、俺にできるのはなるべくのそばにいてやることだけだ。
 さすがに授業をサボって四六時中張り付いているわけにもいかない。結局あの実習はまともに受けられるような状況じゃなかったし、補習を受けざるを得なかったからなおさらだ。委員会は木下先生や委員会のみんなに頼み込んでしばらく当番を代わってもらったけど、それだってこのままが目を覚まさなければずっと、というわけにもいかない。普段「生き物は最後まで面倒を見るべきだ」なんて言っているのに、という心苦しさもあった。
 もしこのままが目を覚まさなかったら――?
 ふと考えないようにしていた想像が頭をよぎった。そんなこと、考えただけでもぞっとする。


 その日も、俺は授業が終わると同時に足早に医務室へと足を運んでいた。
「……?」
医務室の中から誰かの声がする。確か四年生が今日は早めに授業が終わったとか言っていたから、善法寺先輩だろうか?
「ひょっとして、気がついたのかい?」
善法寺先輩が驚いたように誰かに声をかける。少し間を置いてから、中から何かをひっくり返したような物音が聞こえてきた。続いて聞こえてきた善法寺先輩のなんとも間の抜けた悲鳴に、しかし俺はそれどころではなかった。
 気がついた? 確か今、医務室の世話になっている生徒はだけのはずだ。夕べ訪れた際にはほかに誰もいなかったし、その前後に意識不明になるような怪我を負うような授業も行なわれていない。
 高鳴る胸を押さえながら医務室の前まで駆け寄るまでの間に、と先輩は二言三言何かを話していたようだったが、俺には内容までは聞き取れなかった。
 医務室の前に立つと、気を落ち着かせるために大きく深呼吸をする。ああ、に会ったらまず何から話そうか。まだ目が覚めたばかりで状況が分からないはずだから、その説明からしたほうがいいだろうか。すぐにあの話を蒸し返すと体に悪いだろうから日を置いたほうがいいかな。ぐるぐると頭の中をいろんな考えが駆け巡る。どうしよう、いざと話すとなるとどうしたらいいか分からなくなる。
「……え?」
自分の中で考えを整理するのに夢中で、善法寺先輩が怪訝な声を出すまで医務室の中の話を聞いていなかった。どうしたのだろうかと耳を澄ませても妙な沈黙が落ちるだけで、物音すら聞こえてこない。
「だから……」
ガラリと戸を開けた瞬間に、上体だけを起こしたが善法寺先輩に言いかけた言葉を途中で止めて俺を見る。まだあちこち包帯が巻かれて満身創痍の状態ながらも、まっすぐにこちらを見つめるの姿を見ると、今さらながらに実感とともに歓喜がこみ上げてくる。ああ、はちゃんと生きて目の前にいるんだ!
「あ、竹谷……」
、やっと起きたんだな」
戸惑ったような静止するような声を上げる善法寺先輩には構わず、俺はまっすぐにの隣に歩み寄って腰を下ろした。はどこか警戒するような視線を向けたまま無言で俺を見つめてくる。まだあのときのことを気にしているのだろうか? でも、それにしては何かがおかしい感じがする。
「どうかしたのか?」
「えっと……」
思い切って尋ねてみると、は戸惑ったように言葉を切って善法寺先輩と視線を合わせた。
?」
重ねて名前を呼ぶと、は少し迷うように視線を泳がせてから、申し訳なさそうな表情を浮かべてこんなことを尋ねた。
「誰だっけ?」
「――え?」
一瞬、が何を言ったのか理解できずに善法寺先輩に視線で助けを求めた。けれど先輩は沈痛な面持ちで首を横に振るだけで。
 これは――もしかして記憶喪失?
「伊作先輩、こいつ俺の知り合いなんですか?」
「え? ああ、うん。君が怪我した実習のときに一緒に組んでた子で……」
が困ったように俺を指差して先輩に尋ねる。その様子はとても先輩のことまで忘れてしまったふうには見えなくて、俺はさらに混乱した。
「え、ちょっと待てよ、お前まさか……」
俺のことだけ忘れちゃってるんじゃ。そんな最悪の考えが頭をよぎる。
「いや、ごめんね? なんか俺、崖から落ちたときに頭ぶつけちゃったみたいで、あの実習の前後と入学前の記憶だけきれいになくなっちゃってるみたいなんだぁ」

人の形をした絶望

 そして、苦笑いを浮かべた軽い調子のの答えはまさにそれを裏付けるものだった。