読んだ。今はただ、待ち望んだ最終巻が刊行された喜び、ひとつの物語が終わったさみしさ、そして、作者ろくごまるにと絵師ひさいちよしきに何より感謝を。
現在、拙サイトをご覧の方で一番多いのは「オーフェン」関連の話題が目当てだと思われるので、「オーフェン」と同時代に富士見ファンタジア文庫から出たこのシリーズを、未読までも名をご存知だという向きもおられるやもしれぬ。既読の方は、今ごろおそらく私同様完結した喜びにひたっておられるだろうか。
未読だというそこなあなた、あなたは実に幸運。なにせ下巻発売まで6年待つ、とかそういう妙な苦行を体験しなくともよいのである。
物語は、道士から昇格したばかりの新米仙人、和穂がある事故で宝貝(ぱおぺえ。仙人によって作られた神秘の道具)を人間界にばらまいてしまったところからはじまる。その数、七百二十七。
しかも、そのすべてが欠陥品として厳重に封印されたものだったからさあ大変。このままでは人間界が大変なことになってしまう!
責任を感じた和穂は、自ら申し出て宝貝の回収に向かうことを決意した。これ以上の混乱を防ぐため、仙術を封印して――つまり、普通の人間と何ら変わりない身となって。
そんな和穂のお供をつとめるのが「殷雷刀」、刀の宝貝である。殷雷もまた欠陥品として封印されていたのだが、和穂の失敗につけこむことをよしとせず、逃亡しなかったのだ。ちなみに殷雷の欠陥とは、そういう「情の脆さ」である。
こうした殷雷のように、この作品の宝貝は意思を持って人間に変化できるものもいるのだ。そんな一癖も二癖もある宝貝たちと、その所有者。和穂と殷雷は大きな困難に立ち向かいながら旅を続ける。
ろくごまるにの軽妙な文体を賞味するもよし、見事な構成力に脱帽するもよし、深読みすると見えてくる理屈を考察するもよし、はたまた和穂のひたむきさに胸打たれ、殷雷の武器らしからぬ情の脆さに共感し、各巻の登場人物と宝貝たちが抱える業に思いを馳せるもよかろう。
つまり、このうえなく「どきどきわくわく」して読める小説だったのだ、この作品は。……ああ、過去形で語らねばならないのが、嬉しくもまた寂しいな。
(2月23日追記)以下は下巻についての感想。ねたばれるよん。
ろくごまるにという作家について「すげぇ」と驚嘆したのは「闇をあざむく龍の影」を読んだときである。普通ならば解決に2、3冊の分量をかけそうな風呂敷を広げておいて、さりげなくしかし見事に文庫本1冊の中で終わらせてしまう手管に茫然としたものだ。
くわえて、隠された設定の奥深さがたまらない。「復讐者(下)」を諦めはじめていたある日のこと。ネットでたまたま「封仙」の考察を読み、そこで初めて軽妙な文面の下に細かい理屈が織り成されていたことを知ったのだった。ここで私はあらためて思った。「ろくごまるに、すげぇ」と。
であるので、「大団円(上)」を読み終えたときも、結末についてさほど心配はしていなかった。ろくごまるにならば、きっとこの物語をきれいに着地させてくれるだろうと、信じて疑うことはなかったのである。
だからこそ、最後のページまで目を通しあとがきに涙をこらえ本を閉じたとき、私の心に浮かんだのはただただ感謝の念だけだ。
そして旅は続く。ずっと重く垂れ込めていた暗雲が取り払われ、さっとさしこんだ光があたりを照らし、だのに一抹の物悲しさがにじむ素晴らしいラストシーンだった。
和穂が抱きついたのが梅の木だったのは、もちろん龍華の隠喩であるのだろう。しかし、刊行されたのが2月だということを考えると、ちょうど読者たる我々の季節と重なりあってなお味わい深い。
もちろん残念なこともある。索具輪の秘密や夜手と龍華の関係など、いくつかの重要と思われる伏線が未回収であることはいかにも惜しい。無論、物語としてはきれいに終わっているのだけれど。
そしてもうひとつ、校正のずさんさがちと引っかかった。「封仙」に限らず、ライトノベルではままあることなのだが……。やはり重要なシーンで「ん?」と引っかかりを覚えるのは興が削がれてしまう。
しかし最終巻が無事読めたことに比べたら、些細なことだわな。
願わくは、何らかの形でろくごまるにの新作が読めますよう。