近代名工のひとりコレリー・カラプスは、かつてある人斬りのためだけに一振りの剣を鍛えあげた。剣は重さ、バランス、柄の太さまでその男の指に合わせて作られたばかりか、コレリーは彼が手にかけた死体をひとつひとつ検分し、人斬りが最も好んだ太刀筋を最大限活かすように刃の曲線、厚みを設計した(この手法、「シャンク!」のゴダードに通じるものがある)。そうして完成した剣を男に渡す際、刀匠はこう告げた。「さぁ、渇きを癒すが良い」――
「鋏の託宣」を読み終えたとき、どこからかこの言葉が聞こえたようにさえ思う。もっとも、記念企画としてものされた「キエサルヒマの終端」はまだしも、サルアの登場は断じてファンを喜ばせるためなどではなく、物語を進めるうえである役割を担っていたからなされたのだが。それにどちらかといえば、渇きを癒せと言って両の手足をふん縛って海に放りこまれたといおうか、はたまた飴玉でできた弾丸を乱射されてるといおうか。
私が「鋏」を読んだのは、限定版組から遅れること約三週間後、二月も半ばのことであった。読み終えたばかりのころは取り乱すばかりであったが、いや実は今もって取り乱しているのだが、やや落ち着きを取り戻して、ふとまもなくすれば咲きはじめる水仙のことを思った。
水仙を目にしたとき、はたして平静でいられるだろうかと本心から案じたわけでは無論ない。それでも重たいものが胸によぎることは間違いないと思われた。もし出くわしでもすれば、メッチェンの死、サルアの怒り、オーフェンの「失望」、そうしたものを連想せずにはいられないからだ。私も、刊行をリアルタイムで追っていた十代ではない。そのころのように、読んだ本の登場人物がどんな目に遭おうとひどく落ちこむということはなくなってしまった。だがやはり思春期を共に過ごし、ひとかたならぬ愛着を抱いた作品ともなれば、登場人物たちは旧い友人のようなものである。ましてやサルアへ過剰なまでの思い入れを寄せている私のような酔狂な人間ともなれば。
そうした目で読むとき、どうしてもうひとつの水仙について「なぜ」と問わずにいられよう。葬儀の場面だけならば、ある程度の落としどころは見出せる。けれどもボリーさんに尋ねたい。「どうしてよりによって水仙だったの?」
地下二千メートルの土牢に閉じ込められたボリーさんは、エッジの魔術(灯明の魔術!)を奪い、暗闇に白くほの光る水仙を咲かせた。他人の魔術に干渉し、書き換える能力を思えば、攻撃でも脱出でもいかようにでもできたはずなのに、ボリーさんがしてみせたのはそんな小さな「憂さ晴らし」だった。召喚による確実な脱出を粛々と待ち、しかもそれはオーフェンたちに止める手立てはないとわかっていたから、大仰なことは必要ないと――囚人の身にとって大事なことである「優しい気持ち」を求めて咲かせたのだろうか。
もちろんたいした意味ありはせず、ただ単に私の頭がアレがアレでアレであるからこそ引っかかりを覚えているのかもしれない。水仙は字面からもわかるように「仙人」と縁のある名だそうで、そうしたしゃれはいかにも秋田らしいとも思える。清らかな水辺に咲く花を、古代中国では仙人がたたずむ姿になぞらえて名づけたそうだ。普通の視点ではどのように見えたのだろうと(明らかに私は普通でないからして)、ネット上で感想を探してみたり聞いて回ってみたりした。それによれば、おおむね一般的な解釈は「もしあえて意味を取るならば、ボリーさんからオーフェンへの嫌がらせ」というものだった。オーフェンが葬儀を――サルアとの決別を連想せずにはいられないからだろうと推測するのは自然なことだ。しかし登場人物の思考/行動レベルでの意味合いはないと私などは思う。つまりここは、逆に考えるべきなのだ。ボリーさんが水仙を咲かせるためにこそ、葬儀で水仙が捧げられていたのだと。
秋田作品でほかに「花」が印象的に用いられているものといえば、もちろん「エンジェル・ハウリング」だ。しかしフリウの見出したそれが名もなき花であったのに対し、なぜボリーさんの場合は水仙でなければならなかったのか。現に召喚されたボリーさんの場面では光る花とあるだけで、何の花であるかは明言されていない。
ボリーさんが水仙を咲かせた「意味」は、フリウが世界に取り戻した小さな花と、ほぼイコールで結べるだろう。ボリーさん自身、それは優しい気持ちであると語っている。むろん、ボリーさんがいかに本心から述べた言葉であっても、そしてほのかな光が真にそのあらわれであったとしても、人間にとっての「優しい気持ち」と同じだとは限らない。葬儀の場で参列者が故人に捧げた花。召喚機から現われたボリーさんがこれ見よがしに踏み消した行為に現われているように、ジェイコブズを、巨人種族を見捨てる象徴としての花。つまり水仙が「別れ」の花という性格を持たされているのは明らか。人と人との縁を切る「鋏」の意味がこめられているのだ。
そもそも第四部において「鋏」は重要なモチーフだ。当初はチラ見せの予定だった「約束の地で」でもボリーさんの台詞の中に出てきている。反復が特徴である秋田作品に、繰り返し登場する語句は注視すべきものだろう。
まずボリーさんが語った、「魔剣」オーロラサークルの別名としての鋏。鋏を英語で「scissors」といい、通常複数扱いされる。それは刃が二枚あるからだと聞いたのだが、だとすればもうひとつの「刃」はいったい何を指すのだろう。コンスタンスが購入したもの(本物だとすれば)やフォルテが所有していたものを考えると、世には複数存在しており、単純に「ふた振りのオーロラサークル」をいうわけではないようにも思える。それにオーロラサークルは形ある魔王術であるらしいので、ボリーさんやオーフェンがその気になればぞこぞこ出現するのではなかろうか。キー・アイテムとして登場した剣が、「世にたった一振りのものではない」といえばもちろん、バルトアンデルスの剣を連想する。ゆえに私は、オーロラサークルもまた複数存在するとみている。
「魔術学校攻防」に掲載された次回予告では、マヨールがヒュプノカイエン(魔王殺しの剣、とルビがふられていた)を持ち、ベイジットがオーロラサークル(こちらは魔王の剣、と読ませるらしい)を持つと書かれていた。蓋を開けてみれば、往年の「ジャンプ」もびっくりな嘘予告だったわけだが、兄と妹を「一対の刃で構成された鋏」とみなすことはできるかもしれない。
であれば、オーロラサークルを名乗るカーロッタ一派はオーフェンらと対に位置づけられるだろうか? もっともこちらは魔王いうところの「鋏」としてではなく、人間の読んだ「天世界の門」として自称したものだ。
魔王術もまた、鋏でもってたとえられる。常世界法則(システム・ユグドラシル)に、世界の事象の根に鋏を入れて切り取る術、「あるはずのものを、なかったことにする」わざだ。魔王術はおそらく、真の意味で対象を「取り戻しえないもの」にしてしまうのだろう。逆に言えば、忘れてしまえさえすれば「まるごと取り戻せる」のだが。秋田禎信が創造し、われわれ読者が魅せられたこの宇宙にはいくつかのルール、常世界法則よりもさらに上位に位置するルールがある。そのうちのひとつが「壊れたものは元には戻せない」というものだ。壊れたものを元に戻せたら、それは「壊れていない」のと同じに、つまり「壊れている」という状態の意味が消失してしまう。魔王術は、その「最後の不可能」を侵す。
そしてやはり、別れの花としての「鋏」だ。イマジネーションを繋げていくと、鋏という「切り取るもの(scissorsの語源はまさにこれだ)」に「優しい気持ち」がゆるやかに結びつけられているのがわかる。
鋏の託宣――鋏を入れ(人と人との別れ)、宣(すなわちことば)を託す。それは神によって告げられた言葉であり、同時に神ならぬ身の人間が、自分以外の、やはり神ならぬ誰かに託したものなのだ。これこそを優しい気持ちという。しかし優しい、とは「親切」とか「ジェントル」のような意味とは断じて違う。さらにきびしく、激烈だ。魔王スウェーデンボリーの足音に惑わされてはいけない。
フリウの見出した花は「世界にないはずのものが、ある」硝化の森に咲いていた、「硝化の森にこそないはずのもの」だった。ささやかながら世界に取り戻された愛の言葉であり、フリウ=ハリスコーそのものでもある。居場所のない絶対破壊者とされた少女が世界に結びついた証として、その小さな花は咲いたのだ。まさしく大地に根づくことにより。
何色の花であったのかは文中には明示されていない。この場面では「色彩を有している」だけで充分であり、具体的な色を書く必要はないからだ。ただ「エンジェル・ハウリング」10巻表紙でフリウは一輪の白い花を手にしている。これは、イラストを担当した椎名優によるとフリウのイメージが「黄色→白/植物」であることに関係している(wikipedia調べ)ように思われる。
花が世界との結びつきであるならば、水仙は鋏の象徴であるという話といかにも矛盾して聞こえるかもしれない。けれども「鋏」における水仙はいずれも切り花であり、ひとつとして地に咲いたものはなかった。ましてやボリーさんが出現させたのは、植えられた種から芽吹き、育ったものとは断じて異なる。結びつくもの、切り離すもの。「だがどちらも同じこと」。
そして水仙はふたつの色を持っている。白と黄の組み合わせで「オーフェン」読者が思い出すものといえば、やはりあの黄塵が舞う地だろう。白が魔術の光であり、神人種族であるボリーさんの領域を表す色ならば、黄は巨人種族の領域といえようか。旧シリーズでは白が教会のフォーマルカラー、黄が女神とともにやってくる死んだ砂だったことを考えると、ちょうど逆転しているといえる。
月並みなやり口だが、花言葉を並べてみるとしようか。水仙それじたいは「うぬぼれ・自己愛・エゴイズム」、白は「神秘・尊重」、黄は「私のもとへ帰って・愛に応えて」となるようだ。どれもボリーさんにかすったイメージを思い起こさせる。ただここに、「白=神人種族、黄=巨人種族」という図式を当てはめてみると、黄水仙はサルアがメッチェンに贈った花だという面がクローズアップされる。……死者に捧げる花に託された言葉としては、これ以上のものはない。
オーフェンはボリーさんに失うことが得意と評されたけれども、サルアもなかなかに喪失にまみれた道のりを歩んできた(おそらく次はラポワント市を失うのであろう)。とはいえ、この小説の登場人物たちは皆なにかしら失った結果としての姿を、そしてこれからも失いつづけるだろう姿をさらしているのだが。水仙には「別れ/鋏」の意味が持たせられていると同時に、「私のもとに帰って」という切れた縁を結びたいと願う声をも秘めていた。しかし前述したように、作中で咲いていた水仙はみな「世界とつながっていない」。それこそ、はぐれ者の孤児だったのだ。
たったひとりで全てを為す者が「超人」であるならば、「人間」は自分以外の誰かと縁を結び、それによって何かをなす者をいうのであろうか。チャイルドマン教師は、それを組織することと言っていたか。
剣を贈られた人斬りには後日談があることは、「オーフェン」読者であればご存知であろう。根っからの殺人狂として知られたその男は、剣を手にして以降二度と人を斬ることはできなかった。技(アート)を完璧に理解する者がいたことで、彼の渇きは存分に癒されたのだ。
コレリーの言葉から「スレイクサースト」と銘をつけられたこの剣の逸話が語られるのは「我が神に弓引け背約者」である。しかし「我が心求めよ悪魔」でオーフェンは由来をより詳細に語っている。そんなことを知っていたのはサルアが得意げにべらべらしゃべって聞かせたのはまず間違いない。私はそう信じている。