秋田箱を読了して早くも1週間が経過した。感想文がまとまらないので、twitterでメモがわりに思いつきを書きつらねている。
今回は、市長が亡兄の名を街につけた、ということがじわじわキているという話を書こうと思う。
最初は「あー付けたのねー」程度の認識だったのだが、時間が経つにつれてもかもかしたものが溜まってくるようになってきた。冷静になって考えるとさほど重大なことではない。しかし、「背約者」や「キエサルヒマの終端」で書かれたラポワントに対するサルアの心情などを思い返すと、いったい何を考えて命名したのかと言いたくなる(爆)。
たとえば、サルアが教会に変革を起こそうとした動機は本人曰く「退屈」だったから、という。退屈とはいっても、そこには閉塞し先行きの見えない教会に対する憤りや危機意識などがこめられている(退屈呼ばわりしているのは「そうして斜に構えたほうがかっこいい」と思っているからに違いない)。死の教師として、外輪街や大陸各地を直接目にする機会があったことも大きいだろう。
が、教会に反旗を翻そうとしたその根底にあるものは、つきつめれば兄に対するコンプレックスである。
文武両道に秀で、人格も非の打ち所のない優秀な兄の下、劣等感とお手手つないで仲良く成長したことは想像に難くなく、家と自分は関係ないという態度からもそれは窺える。そうしたことが家、ひいては街の外に出たいとサルアに思わせたのではないか。
さらにそういう心根をおそらくラポワントは見抜いていたように読める。反乱活動を危険な遊びと諭す様は、弟の動機が子どもっぽいものであることを察していたとも取れる。諭すだけで真剣に止めなかったのはラポワント本人も教会の状態を認識していたという可能性もあるが。
そしてラポワントは弟をかばって殺される(つけくわえておくと、サルアがラポワントの死体を材料にしてカーロッタと取り引きしたように読めることが見逃せない)。変革が失敗したことも含め、これについてサルアが何を感じたかは本編中では描写されていない。意外とさばけているようですらある。
……と思っていたところに「あそこそ」が始まった。読者は、私はサルアがきちんと兄の死を負っていたことをここで始めて知った。
つまりそういった諸々の心情が命名した裏側にあると思うと、実に、実にブラコンであるとしか言いようがない(爆)。
ベタな選択としては、たとえば産まれた自分の子供に親族の名をつけるというものがあるが、それが不可能だとはいえ、自らが市長を務める街に、よりによってコンプレックス抱きまくりのお兄ちゃんから名前を取る、というのは余程アレではなかろうか?
はたしてメッチェンはその案を聞いたとき何を感じたのやら……いや、ラポワントに対してはせいぜい「同僚の兄」くらいの認識でそんなに付き合いはなかったようだから、特に何も思わないような気がする。住民も大方はキムラック教徒であり、教師長の名前がついたとか市長が兄の名をとったとか、そのレベルの認識だろう。むしろ受けがよかったかもしれない。対外的にも完璧だ。
ってえことはだ、そこらへんの情念はすべてサルア一人の胸の内ということになる。うわあ、実にもかもかするなあ(笑)。
未承認 2013.05.17 Edit
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