章も変わり、語り手も変わった。舞台がトトカンタということは…これは海老男の出番か?部下が出たらどうしよう。ああ心臓に悪い。<そればっか
にしても秋田禎信。「誰も見ていないかもしれない」って…。どれだけのファンが毎晩PCの前でわくわくしながら更新を待ってるか知らないというのかー!!
この猛る思いをどうやって伝えれば。もしやいまこそ入会はしたがそれっきりコミュも入らず日記も書かずのmixiを活用すべきとき?ぐるぐる。
と、まあ毎夜テンション爆高でお届けする「あいつがそいつでこいつがそれで」感想文、そろそろひとに呆れられてる気もしつつ、今宵は一息ついて落ち着いてみる。まあ、爆発の原因、死の教師の出番が終わったからね。
「オーフェン」を知ったのは、まだライトノベルなどという単語もない時代、90年代の半ばだった。破天荒なコメディである「無謀編」から読みはじめたため、本編たる「はぐれ旅」の尋常でないシリアスな雰囲気には当初戸惑わされたものだ。しかし両方ともすぐ夢中になった。話そのものもよかったが、一番惹きつけられたのはやはりその設定。
ガス燈があり、上下水道が完備された街、ジーンズやスーツを着て行きかうひとびと、ジャージで運動会に参加する魔術士…。そうした近現代的世界観もさることながら、やたらと凝った設定で説明された魔術も魅力的だった。人間が魔術を使えるのはドラゴン種族との混血の結果だとか、神とは物理法則が生物化したものだ、とか。
思うに、アニメが反感を買った理由のひとつは、「オーフェン」が既製のファンタジーに異なる味つけをほどこしたのを無視したことだろう。つけくわえれば、アニメ誌にてチョーカーをつけ薔薇の花びらくわえたり、あまつさえ半裸で羽根が生えてて「あふーん」な表情をした主人公を見たときの気持ちは言葉では表せない。
「オーフェン」そして「スレイヤーズ」という二大看板を抱えたあのころは富士見ファンタジア文庫の絶頂期だっただろう。私もずいぶん読み漁った。当時の、今と比べると泥臭い、まだ「ライトノベル」ではなかった小説たちはもうほとんど残っていない。その中でもひときわ好きだった「オーフェン」がまた読者の前に姿を現した。しかもより広い世界を指し示す新章として。
もし連載が、ワニ娘話のようなすべてが終わった後のおまけエピソードだったら、嬉しいのに変わりはなくともここまで盛り上がらなかっただろう。われらが主人公、オーフェンを待ち受けているのは永遠に終わらない楽園ではなく、更なる困難に満ちた道行きだ。あの世界にふたたび触れられること、これを喜ばずしてなんとしよう。