16.

 月明かりに照らされる周りの景色が涙で滲んで見えた。
自分の泣き声が耳に響いてもう他には何も聞こえなくなった。
呼吸が苦しくて、体が震えて、手足がジンと痺れていた。
白いカーテンの向こうにはもう誰もいないはずだった。でも僕の目には時々そこに幻の黒い影が見えた。
それはもちろんベッドに座る田村先輩と彼の前にひざまづく雅春の影だった。
先輩の影は雅春の頭を何度も引き寄せた。そして雅春の頭はそのたびに小刻みに揺れていた。
「嫌だ。もうやめて!」
僕は幻の影に向かってそう叫び、頭から布団をかぶってガタガタと震えていた。
頬の下の枕は僕の涙を吸い込んでしっとりと濡れていた。体中から噴き出す汗は綿のパジャマを薄っすらと湿らせていた。

 僕はいっその事このまま消えてなくなってしまいたいと思った。
とても雅春に会わせる顔がなかった。秀才と言われた僕の頭脳はこんな時なんの役にも立たなかった。
雅春があんな目に遭っているのにただ指をくわえて見ているなんて、僕は最低な人間だ。
もしかして彼はずっと僕の助けを待っていたのかもしれない。そして助けにこない僕をひどい人だと思ったかもしれない。
あの時立ち上がって僕が先輩の相手をすればよかった。でも今になってそんな事を考えてももう遅すぎる…
僕は決して自分の手を汚そうとはしなかった。 僕は雅春を愛しているのではなく、ただ自分がかわいいだけだったのかもしれない。
頭が割れるようにズキンと痛くなった。口が渇いて呼吸がますます苦しくなった。
でも雅春はもっともっとつらい思いをしていたんだ。そう思うと、また次々と大粒の涙が溢れてきた。


 遠くの方でキィーとドアの開く音がした。そしてカチャッとドアに鍵のかかる音がそれに続いた。 その後誰かが床の上をソロソロと歩く気配がした。
雅春が戻ってきた…
僕は彼の姿を見なくても雅春の気配をすぐそばに感じていた。
「亮太、もう寝ちゃったのか?」
雅春のハスキーな声がすぐ近くで聞こえた。
彼はその時ベッドの脇に立って僕に話しかけていた。彼が立っている場所は、恐らくついさっきまで田村先輩が立っていた場所と同じだった。
僕は彼の呼びかけに返事をする事ができず、ただ布団をかぶってガタガタと震えていた。
その時僕は自分が何に怯えているのかちゃんとよく分かっていた。
いざという時何もできなかった僕は、雅春に嫌われる事が死ぬほど怖かった。
「本当は起きてるんだろ?」
雅春は穏やかにそう言って布団の下へ潜り込んできた。その時僕は真っ暗な布団の下で彼に背を向けた。
すると布団に潜り込んだ雅春が背中から僕に抱きついてきた。彼の態度はいつもとまったく変わりがなかった。
ただ首筋に触れた雅春の手が何故だかひどく冷たかった。僕は彼の手が肌に触れた瞬間 ビクッとして体を大きく震わせた。
その後、雅春の手が力なく僕から離れた。一瞬背中の後ろに感じた雅春の温もりが、遠慮がちにスッと僕から遠ざかっていった。
僕はまだ体の震えを止める事ができなかった。そして涙を止める事もできずにいた。

 「亮太、もう俺の事が嫌いになった?」
突然そう言われ、僕はひどく驚いた。あまりに驚いて、急に涙が止まった。
それはこっちのセリフだった。僕はもう雅春に捨てられてしまうと思っていたんだ。
布団を蹴って彼の方に体を向けると、悲しそうな雅春の顔がそこにあった。 雅春は決して僕の目を見ようとはしなかった。月明かりに照らされる彼の目は薄っすらと涙で濡れていた。
「雅春、手が冷たいよ」
白いシーツの上には彼の冷たい手が投げ出されていた。僕はしっかりとその手を握り締め、雅春の手を温めようとした。
でも強く握った彼の手はすぐに僕の手を離れた。雅春は冷たいその手で頬に零れ落ちる涙をそっと拭った。
僕は彼が泣くのを初めて見た。彼は震える手で何度も目を擦り、幾度か鼻をすすった。
僕はまたどうしていいのか分からなくなった。でもその時は冷静になってよく考えた。
僕が泣いてしまった時、雅春はどうしていただろう…
するとその答えは簡単に出た。雅春は僕がつらい時いつも優しく抱き締めてくれた。 だから僕も今は思い切り彼を抱き締めてあげたいと思った。
雅春は声もたてずに泣いていた。月明かりに反射して光る涙は宝石のようだった。
僕はその時、彼をすごく綺麗だと思った。最初からそう思っていたけど、その時の雅春はいつも以上に美しかった。
キリッとした唇をきつく噛み締める仕草も、長いまつ毛も、スッとした鼻も、スベスベな頬を流れ落ちていく涙も、 すべてが何よりも美しかった。
小さな手で彼を抱き寄せると、雅春は僕の胸に体を投げ出した。宝石のような涙でパジャマが湿っていく感触を、僕は死ぬほど愛した。
「俺の事、汚い奴だと思ってる?」
「え?」
「本当はもう触るのも嫌だと思ってる?」
雅春の言葉が僕の胸にズシンと響いた。
僕はその時になって初めて気がついた。僕が自分を責めていたように、彼も自分を責めていたんだ。

 僕は彼の濡れた頬に触れ、きつく噛み締められたその唇にキスをした。
でもその時の雅春はすごく消極的だった。僕が舌を絡ませようとしても、彼は全然ついてきてくれなかった。
雅春とのキスは、歯磨き粉の味がした。彼は田村先輩との行いを拭い去るように何度も歯を磨いたに違いなかった。
長いキスの後、僕は彼の冷たい手を両手でそっと握り締めた。その手に唇を寄せると、ほのかにせっけんの香りがした。
「俺…何度も手を洗ったんだ。でも手に染み付いた汚れがいつまでたっても取れない気がして…」
雅春は肩を震わせ、涙声でそう言った。彼の言葉は途中で途切れた。
彼の手はとってもいい香りがした。その手はスベスベで真っ白だった。
僕はせっけんの香りに包まれながら彼を愛しく感じていた。 僕が本気で彼を愛し始めたのは、もしかしてこの瞬間だったのかもしれない。
「ごめんね、雅春。君にばかりつらい思いをさせて」
雅春は僕の言葉に小さく首を振った。僕はその後自分がどれほど彼に愛されているのかを知った。
「俺、先輩の相手をしてる時つらくなんかなかったよ。これで亮太と安心して愛し合えると思ったから、全然つらくなんかなかったよ」
月明かりの下で雅春が穏やかに微笑んだ。その時の彼は本当に綺麗だった。
雅春はあんなにひどい目に遭っておきながら全然つらくなかったと僕に言った。
それは決して嘘ではなかった。だって、雅春は絶対僕に嘘を言ったりはしないから。
「でも亮太に嫌われるのはすごくつらい。お願いだから、嫌いにならないで」
彼は涙をいっぱいためた目で僕の手を強く握り、すがるようにそう言った。
僕は彼に愛されている。心から彼に愛されている。僕がその事を本当に実感したのはこの時だった。
彼はひどい屈辱に耐える強い精神を持っていた。その雅春が、僕に嫌われる事を恐れて涙を流していた。

 『僕も君と同じ事に怯えていたんだよ』
僕はそれを言う代わりにもう一度彼の唇を奪った。
雅春の頬に手をやると、彼の涙が僕の手を温めてくれた。そして口の中で絡み合う彼の舌が僕の体を熱くした。
僕はすぐに彼が欲しくなった。
僕は彼と舌を絡ませ合いながら涙で温められた手で彼の細い体を抱き締めた。
光沢のある生地の上からゆっくり背骨の上を指でなぞり、ちょっと遠慮がちにパジャマのズボンに手を入れてみる。 すると彼の体が一瞬大きく震えた。
僕は細身の彼を仰向けに寝かせ、急いでパジャマを脱がせていった。
でもボタンを1つずつ外していくのはすごくもどかしかった。 強引にパジャマの合わせを左右へ引っ張ると、彼の白い胸が月明かりの下に晒された。縦に並んでいたパジャマのボタンは見事に 弾け飛び、シーツの上にコロコロと転がっていった。
雅春の胸には薄っすらと汗が光っていた。一粒の汗を舌で舐めると、ちょっとしょっぱい味がした。
2つの胸の突起は硬くなって上を向いていた。彼に覆いかぶさってその先端にかじりつくと、雅春が小さく声を上げた。
「あ…」
胸の突起を舌で転がしながら右手でパジャマのズボンを脱がせていく。 僕の指が少しでも彼の肌に触れると、雅春はそのたびに声を上げた。
「あ…」
彼はきつく目を閉じていた。そして右手の指を僕の髪に絡ませた。
その頃僕の右手は雅春のパジャマのズボンを足首のあたりまで下ろしていた。 雅春は足首に絡みつくパジャマを勢いよく蹴ってベッドの下へ投げ飛ばした。
僕は彼の胸に頬を乗せ、鎖骨の下あたりに唇を這わせた。彼の白い肌を渇いた唇できつく吸うと、そこに小さなキスマークができた。
僕の右手が彼の柔らかい髪に触れると、雅春は薄っすらと目を開けた。僕と目が合うと、彼は表情を和らげた。
「雅春、綺麗だよ」
僕がそう言うと彼の目が少しだけ潤んだ。
少し薄らいだ月明かりが彼の目を光らせていた。僕はこの時どんな事があっても彼を離すまいと思っていた。
裸になった雅春は、パジャマを着込む僕を抱き抱えて体制を変えた。その時、ピンと張っていたシーツが少しだけ緩んだ。
僕の上になった雅春は、泣き腫らした目で真っ直ぐに僕を見下ろした。
彼の髪はすっかり乱れていた。頬には薄っすらと涙の跡が残っていた。それでも彼は誰よりも綺麗だった。
「大好きだよ」
雅春は真剣な目をしてそう言った。僕は彼の頭を引き寄せてその唇をもう一度奪った。
彼と舌を絡ませ合うと、心も体も温かくなった。
今こうしてここにいられるのは、雅春が僕を愛してくれているからだ。そしてもちろん、僕が誰よりも彼を愛しているからだ。
僕たちは大きな壁を乗り越えて、今たしかにここにいる。
僕たちがどんな思いをしてこの瞬間を得たのか。どんな思いをして2人の未来を得たのか。 その事を忘れずにいれば、きっとこの先どんな苦難があっても乗り越えられる。
『大好きだよ』 のキスはいつまでも続いた。
唇を重ね合う僕たち2人を、柔らかな月明かりが優しく照らしていた。


 学力至上主義のS学園。
S学園は北海道の田舎町にある全寮制のエリート男子校だ。
校舎と男子寮の付近には野原と山しかない。
どんなに頭脳明晰だとしても、都会の誘惑はエリート少年を堕落させる。というわけで、S学園とその男子寮は北海道のド田舎に建てられた。
周囲には、遊ぶ所もなければコンビニもない。
何もない所に、頭脳明晰な男子生徒が数百人。
これなら道を誤るはずがない。誤りようがない。S学園へ入学する事ができたら、息子の将来は安泰だ。
ママはそう思い、僕がこの学校へ入る事を望んだ。S学園へ入学するために、僕は小さい頃から勉強ばかりしていた。
僕がここへ来た事は決して間違いではなかった。僕がしてきた事は決して間違いではなかった。 僕は今夜、はっきりとその事が分かった。
僕はここで雅春と出会った。そして人を愛する喜びや人に愛される喜びを学んだ。 それはここへくるまで誰も教えてくれなかった事だ。
僕たちはここでこれからもっと多くの事を学ぶだろう。教科書に載っていない事を、きっとたくさん学ぶだろう。
いろんな事を吸収しながら、僕らは大人になっていくのだろう。
でも今は、体に感じる愛しい彼の温もりがすべてだった。
今夜僕たちは永遠の愛を手に入れた。僕たちはこの瞬間を自分たちの手で勝ち取ったのだ。
でもその事を知っているのは僕たち2人だけだった。
そして僕らは、今ここにいる。

終わり