15.

 田村先輩の姿は月明かりに照らされていた。 いつも冷淡な彼の目が、その時だけは軽く微笑んでいるように見えた。
僕はちゃんと覚悟して雅春とベッドを共にしたのに、先輩の姿を確認した時にはどうしようもなく体が震えた。
その時は金縛りに遭ったようにまったく身動きができなかった。僕はただ不適に微笑む先輩の目を見つめている事しかできなかった。
でも雅春は僕とは少し違っていた。
彼はベッドの上で体を起こし、先輩が何か言うのを待っているようだった。
「困った人たちだな。今僕が君たちの事を先生に報告したらどういう事になるか分かってるだろうね?」
田村先輩が懐中電灯のスイッチを切ると、僕たちを照らす光は月明かりだけになった。
先輩は黒っぽいパジャマの上から自分の太もものあたりをポリポリと掻き、相変わらず不適に微笑みながら僕たちを見下ろしていた。 彼が舌なめずりをすると、体中がまたザワッとした。

 「亮太、ドアに鍵をかけてきて。それから向こうのベッドで眠るといいよ」
雅春は僕の顔を見て冷静にそう言った。彼が幾度か瞬きを繰り返すと、長いまつ毛が揺れ動いた。
僕は何も言えず、何も考えられず、少しも動く事ができなかった。
田村先輩は僕らの一方通行なやり取りを黙って聞いていた。彼は僕と同じように少しも動かずベッドの脇に立っていた。
「分かった。じゃあ、亮太はここにいて」
僕が動けずにいると、雅春はそう言ってすぐにベッドを下りた。その時、彼の白い背中がいつになく大きく見えた。
雅春は床の上をソロソロと歩いてドアに近づき、カチャッと音を鳴らして鍵をかけた。
田村先輩も僕も彼の真っ白な背中を目で追いかけていた。
雅春はドアに鍵をかけた後 ベッドの脇に立って田村先輩の顔を見上げた。
月明かりに照らされる雅春の横顔はいつもと変わらず綺麗だった。その時彼のスッとした鼻は真っ直ぐ先輩に向けられていた。
彼は先輩と見つめ合いながら2台のベッドを仕切る白いカーテンをゆっくりと引いた。
すると雅春と田村先輩の姿がカーテンの向こうに消え、2人の姿は黒いシルエットに変わった。

 僕はベッドの上からカーテンに映し出されるシルエットをただ眺めていた。 カーテンに浮かび上がる2人の動きはまるで影絵のようだった。
雅春の影がひょろっと背の高い田村先輩の腕をそっと掴んだ。そして先輩は雅春に誘導されてゆっくりと彼のベッドの上に 腰かけた。するとその時、カーテンの向こうからギシッと小さくベッドの軋む音がした。 そして部屋の中が静かになった時、雅春の影が先輩の前にひざまづいた。
「先輩…俺たちの事、見逃してください」
そのハスキーな声が部屋の中に響いた後、2人の影が重なった。僕は全身に鳥肌が立った。
「君はお利口さんだね。世の中の事をちゃんとよく分かっているようだ」
田村先輩はいつものように冷たい声でそう言った。 彼がモゾモゾと動いたのは、恐らくパジャマのズボンを下ろすためだった。
そして、彼の両手が雅春の頭をぐっと引き寄せた。
僕は2人の影を黙って見つめている事しかできなかった。耳に響く田村先輩の声はひどく興奮していた。
「上手だな。そこ、もっと舐めてくれ」
頭の中では用具室で見た光景とカーテンに映し出されるシルエットが完全に重なっていた。
目の奥からとめどなく涙が溢れ出し、頬の下の枕がどんどん濡れていった。
僕はまったく身動きができなかった。涙を拭う事もできなかったし、耳を塞ぐ事もできなかった。
「そんなに急ぐな。もっとゆっくりやってくれ」
田村先輩の手は何度も執拗に雅春の頭を引き寄せた。彼の頭はカーテンの向こうで小刻みに揺れていた。

 「はぁ…はぁ…」
田村先輩の息遣いが僕の脳を溶かしていくかのように思えた。
白いカーテンの向こうには先輩の前にひざまづく雅春がいた。彼の背中が時々カーテンに触れると、重なり合う2人の影が ユラユラと揺れ動いた。
その時僕と彼の距離はたったの2メートルしか離れていなかった。 でも僕にはその距離がすごく遠く感じた。どんなに手を伸ばしても、決して雅春には触れられないような気がしていた。
僕のしてきた事はやっぱり間違っていた。僕は肝心な事は何一つ学んでこなかった。 カーテンに映し出されるおぞましい影絵を見つめた時、その思いが確信に変わった。
僕は小さい頃から当然のように塾へ通い、学校でも家でも勉強ばかりしていた。
僕は教科書に載っている事や先生が教えてくれる事ならなんでもよく理解する事ができた。 難しい方程式だって簡単に解く事ができたし、大人が読めないような漢字だってスラスラと読む事ができた。
周りの皆は僕を秀才だと言った。親も先生も友達も、皆が僕にそう言った。 なのに秀才と言われた僕はこんな時どうしていいのか全然分からなかった。
今、目の前で雅春がひどい目に遭っている。それなのに彼を助ける方法がちっとも分からなかった。
だって、そんな事は教科書に載っていなかったから。こんな時どうしたらいいのかなんて、今まで誰も教えてくれなかったから。
僕がこれまでの自分を悔やんでいる間も、雅春は屈辱に耐えながら先輩の相手をしていた。 それなのに僕は相変わらず声を殺して泣く事以外に何もできなかった。

 「うっ、あぁ…」
やがて先輩が果てた。僕は彼の声でその事を理解した。
田村先輩が気持ち良さそうな声を上げたのはほんの一瞬だけだった。彼はその後すぐにいつもの冷淡な口調に戻った。
「全部舐めろよ。隅々まで全部だぞ」
先輩は雅春に冷たくそう言い放ち、もう一度彼の頭を自分に引き寄せた。 その時先輩の息は弾んでいた。彼が呼吸を繰り返すたびにその肩は小さく上下していた。
雅春はきっとその時が1番つらかったはずだ。それは十分分かっていたのに、僕は最後まで何もできなかった。
「よし、お前たちの事は見逃してやる。でもやる時はちゃんとドアに鍵をかけるんだぞ」
先輩がそう言うと、雅春の影がおとなしく頷いた。
僕はその時やっと分かったんだ。 今夜僕が退学を覚悟して彼とベッドを共にしたように、雅春はこうなる事を覚悟して僕とベッドを共にしたのだ。
やがてカーテンの向こうで田村先輩が立ち上がった。そのシルエットは、とても大きく見えた。
先輩は僕に声をかける事もなく、何事もなかったかのようにさっさとドアへ向かって歩いた。 そしてその後あっさりと部屋を出て行ってしまった。
ドアの鍵が開くカチャッという音と、ドアが閉まるパタンという音。 その音が連続して耳に響いた後、田村先輩の足音が徐々に僕らの部屋から遠ざかっていった。
その時また雅春の背中がカーテンに触れ、彼の影が僕の目の前でユラユラと揺れ動いた。


 102号室の中に冷たい静寂が走った。
白いカーテンには雅春の影がはっきりと映し出されていた。
彼はまだ立ち上がる事ができず、そのシルエットは床の上でうずくまっているように見えた。
僕はただ涙を流して雅春の影を見つめていた。
僕はその時彼になんて声をかけたらいいのか分からなかった。僕はとにかく教科書に載っている事以外は何も分からなかった。
やがて雅春の影がスッと立ち上がった。彼の影は田村先輩の影よりもっともっと大きく見えた。
彼はその後、先輩と同じ道を辿った。
雅春は僕に声をかける事もなく、ゆっくりとドアを開けて部屋の外へ出て行った。 そしてドアが閉まるパタンという音がした後、彼の足音は徐々に僕から遠ざかっていった。
1人部屋に残された僕は声を上げて泣いた。柔らかな月明かりが、そんな僕を優しく照らしていた。