プルルル……プルルル……。
携帯電話は尚も鳴り続けていた。
ヒューという風の音とプルルル……という電子音。僕の耳にはたしかにその両方の音が聞こえていた。
でも吹雪の中で立ち尽くしていると、しだいにその音が遠くなっていった。
体中が凍りつきそうなほど冷たくて、手足も耳も感覚が麻痺していた。
それでも目だけはやけにしっかりしていて、白い景色の中で光る赤の点滅がすごく眩しく僕の目に映った。
容赦なく降り続く雪が、僕の頭や頬を直撃した。シルバーボディーの携帯電話は、放っておくとすぐ雪に埋もれてしまいそうだった。
振り返ると、目の前に広がる景色に恐怖を覚えた。
僕たちはたしかに雪の中を歩いてここまでやってきたのに、屋上に降り積もる雪が強い風に吹かれて舞い上がり、僕らの足跡をかき消そうとしていた。 目線を遠くに置いてみても、屋上への入口のドアはまったく目に入らなかった。
僕は一瞬、今自分のいる場所は天国なのではないかと錯覚した。
恐怖の景色から目を逸らすと、やがて携帯電話が鳴り止んだ。 もう耳に電子音は聞こえていなかったけど、足元の赤い光が途絶えた事で、やっとそれを理解した。
僕はもう一度前を見つめた。でも前も後ろも景色はただ真っ白で、自分が今どっちを見ているのか分からなくなってしまいそうだった。
僕は反射的に足元の携帯電話を拾い上げ、見えないドアに向かって引き返した。 自分がどっちへ進んだらいいのかよく分からなかったけど、とにかく勘を頼りに歩き出した。
彼女が背負っていたフェンスは、彼女と共に突然僕の視界から消えた。 マミはフェンスと共に落下した。どう見てもそう考えるのが自然だった。
フェンスの向こうは急な斜面になっていた。あの斜面は、いったいどこまで続いているのか分からない。
校舎の中へ戻った後、僕はいったい何をすればいいんだろう……。
その時は動悸が激しくて、思考能力も判断能力もかなり低下していた。
もう何も考えたくなかった。周りの景色と同じように、頭の中を真っ白にしてしまいたかった。
下界へ続くドアを見つけた時、もう足取りはおぼつかなくなっていた。
ドアが内開きじゃなかったら、もしかして校舎の中へ戻る事はできなかったかもしれない。ドアの外には、それほど多くの雪が降り積もっていた。
ドアの内側へ立つと、今度は真っ暗闇に包まれた。僕は当然のように足を滑らせ、転がり落ちるように階段を下った。
再び廊下へ戻っても、まだ何も考えられなかった。
校舎の中は静まり返っていて、真っ直ぐ伸びる廊下の上には誰もいなかった。
僕はフラフラと歩いてどこまでも続く廊下をさまよった。頭に降り積もった雪がしだいに融けて、埃だらけの廊下にその雫がポタポタと流れ落ちていった。
2階の教室をいくつか回ってみても、先輩の姿は確認できなかった。廊下の窓は外側が雪で覆われ、足元はかなり薄暗くなっていた。
僕の体はちっとも温まる様子がなく、相変わらず感覚が麻痺していた。
ちゃんと一歩一歩廊下を踏みしめているはずなのに、体にはその振動さえ伝わってこなかった。
そして僕は、遂に廊下の真ん中でへたり込んだ。
気が付くと、階段から転げ落ちたせいかコートもズボンもすっかり汚れていた。
トントントン、という物音がしてふと辺りを見回すと、灰色のネズミが壁伝いに走り抜けていくのが見えた。
そのネズミはひどく太っていて体が重そうだった。どうやらここには、おいしいエサが転がっているらしい。
一瞬、寒気を感じて体がブルッと震えた。
コートのポケットへ手を突っ込むと、右の手に硬い物が触れた。それはさっきまで赤い光を放っていたシルバーボディーの携帯電話だった。
僕は震える手で二つ折りになっている携帯電話を開いてみた。
真っ黒な液晶画面は、どうやっても明るくなってはくれなかった。何度電源ボタンを押しても、そこに二度と明かりが宿る事はなかった。
顔を上げて前を見つめると、すべての景色が歪んで見えた。古い校舎の壁も、雪に覆われた窓ガラスも、滑稽なほどグネグネと曲がって見えた。
『先輩……柳田先輩……』
僕は大きな声で彼の名前を叫んだつもりだった。だけど耳には自分の叫び声がまったく聞こえてこなかった。
僕は立ち上がる事ができず、ただ冷たい廊下にへたり込んでいた。もう自分がどうしてそこにいるのかさえ理解できなくなっていた。
「高橋!」
やがて僕は、自分を呼ぶ声と同時に背後から近づく足音を聞いた。先輩の足音が近づくたびに、頭がズキンと痛んだ。
さっきまでは体の感覚がほとんど麻痺していたのに、その時は先輩が廊下を踏みしめるたびにその振動が体中に伝わった。
「高橋、どうした?」
先輩が横にしゃがんで僕の肩を揺すった。彼の手の5本の指の感触が、肩にはっきりと伝わってきた。
「マミちゃんは?」
先輩は僕の顔を覗き込んでそう言った。何も知らない彼は、軽く笑顔を浮かべていた。
その時、僕の体は炎に包まれたかのように突然熱くなった。
「お前、マミちゃんがどこにいるか知ってる?」
先輩は続けてそう言った。どうやら彼も、マミを見つける事ができなかったようだ。
僕はその時、ぼんやりした頭の中から彼女の残像を探そうとしていた。でも頭に浮かぶのは、雪に包まれる真っ白な世界だけだった。
先輩はマミがどこにいるかを僕に聞いた。僕は先輩の問い掛けに首を振る以外方法がなかった。
だって、僕は何も見ていなかった。彼女がどこへどうやって消えたのか、一切見ていなかった。
その時、また背後でトントントンという音がして振り返った。するとすぐ後ろを太った灰色のネズミが駆け抜けて行った。
窓の外は雪に覆われていて、薄暗い廊下は寒々としていた。でもその寒さが体の火照りを和らげてくれた。僕の頭はその頃やっとフル回転を始めた。
再び先輩に目を向けると、彼は携帯電話を左の耳にあてて僕をじっと見つめていた。
彼がマミに電話をかけている事はすぐに分かった。でも僕は、その電話が決してつながらない事を知っていた。
役立たずな彼女の携帯電話は、今僕のポケットの中にある。 先輩がどっちの耳を使ってマミの声を聞こうとしても、その電話が彼女につながる事はない。
彼女はきっと、真っ白な雪の中にいる。
「さっきから電話してるのに、全然つながらないな」
彼はそう言って力なく携帯電話を閉じかけた。そして明るい液晶画面に浮かぶ時刻を目にした時、その顔色が曇った。
「もうここを出ないと、最後の列車に間に合わなくなる。今夜寮へ帰らなかったら大変な事になるぞ」
彼の息は白かった。そして頬は真っ赤だった。考える力を取り戻した僕は、何も言わずに彼の決断を待った。
僕が大事にしたいのは、先輩の気持ちだけだった。
彼がどうしてもマミを探すというのなら、一緒にそうするしかない。でも別な決断をするのなら、僕はそれに従うつもりだった。
「しかたない。もう行こう。マミちゃんは先にここを出たのかもしれないな。どっちにしても彼女はここに長く住んでたらしいから、困った時助けてくれる知り合いぐらいいるだろうし……」
先輩は自分に言い聞かせるようにそう言った。そして僕らはすぐに立ち上がり、薄汚い階段を下りて1階へ向かったのだった。
僕らが入口に使った窓は、もうすぐ雪に埋まりかけていた。先輩は窓を埋めようとする大量の雪を両手で必死に払い除け、そこになんとか人1人外へ出られるぐらいのスペースを確保した。
「俺が先に出てお前を引っ張り上げるから、ちょっと待っててくれ」
彼はそう言いながら冷たい雪の上を這うようにして外へ出た。その隙間から眩しい雪景色を見た時、一瞬めまいがした。 外から校舎へ入り込む冷たい風が、また僕の思考力を麻痺させようとしていた。
「ほら、来いよ」
眩しい光の差す方向に先輩がいた。コートも髪も真っ白になった先輩が、両手を僕に差し伸べていた。
僕はその冷たい手をしっかりと掴んだ時、自分の心にこう言い聞かせていた。
僕は真っ白な雪以外何も見ていない。強い風の音以外何も聞いていない。 彼女の背負うフェンスが落下した所も見ていないし、彼女自身が落下した所も見ていない。
マミはきっと、かくれんぼが得意なだけなんだ。彼女はきっと、誰にも見つからない場所に今もじっと隠れているんだ。
僕は先輩に引っ張られて外へ出た後、雪の中に建つ古ぼけた校舎を見上げた。
だけど視界は空から降りしきる雪によって遮られた。灰色の空を見上げると、大きな雪の粒が顔中に降り注がれた。
足元にぽっかりと開く窓が雪に埋もれるのは時間の問題だ。
外の激しい雪はどう見てもしばらくは止みそうにない。今夜一晩この雪が降り続いてくれたら……きっとすべてがうまくいく。
「行くぞ」
吹雪の校庭に立つと、先輩がそう言って肩を抱いてくれた。
僕の体は再び冷たくなっていた。そして先輩の体ももちろん冷え切っているようだった。
僕たちは少しでもお互いの体を温めるために、しばらく寄りそって歩いた。
駅へ向かう途中、人とすれ違う事はなかった。そして車とすれ違う事もなかった。
時間を気にして急ぎ足で歩いて行くと、列車の近づいてくる音が遠くの方から微かに聞こえた。
でもその時まだ僕らの前に駅の姿は見えてこなかった。それでも僕らは諦めず、そこから思い切り走り出した。
ガタン、ゴトン、という列車の音が、徐々にゆっくりしたメロディーに変わっていく。
僕たちはこの後絶対に列車の中でその音を聞かなければいけなかった。 その列車に乗れなかったら後でどうなるかという事は、もう考えたくもなかった。
「駅が見えてきた! 急げ!」
少し前を行く先輩の声が僕の耳に響いた。
思い切り勢いをつけて走って行くと、彼の言う通り前方に民家のような駅の姿が薄っすらと見えてきた。
建て付けの悪い駅のガラス戸を開けた時、もうホームに列車が入っているのが分かった。
真っ青な列車のボディが目の前に見えた瞬間、僕たちは最後の力を振り絞って誰もいない改札口を駆け抜けた。
乗り込んだ列車は二両編成だった。
僕たちの乗り込んだ車両には他に誰も乗っていなかった。かといって隣の車両に誰かいるかと思えば、そんな気配も感じられなかった。
ガタン、ゴトン。
僕たちは走り出した列車の中でその音を聞きながら、通路に立って息を整えようとしていた。
「よく走ったな。大丈夫か?」
先輩は自分の事は二の次で、僕の体にまとわり付く雪を両手で全部払い落としてくれた。
誰もいない通路の上には、払い落とされた雪が瞬間的に積もった。 でも列車の中はすごく暖かかったから、通路に落ちた雪はすぐに融けて水になった。
息を整えて落ち着きを取り戻した僕たちは、倒れ込むように座席に腰かけた。
スニーカーの中に入り込んだ雪がその中で融けて、足も靴下もかなり湿っていた。外は相変わらず吹雪いていて、窓から見える景色はただ白かった。
先輩は少し重くなったハーフコートを脱いで、それを毛布の変わりに膝に掛けてくれた。 僕はその時、数時間前先輩がマミの膝にコートを掛けてやっていたのをふと思い出した。
僕と先輩は座席に並んで腰かけ、1枚のコートで体を温めた。その時2人はマミの名前を口にする事さえしなかった。
「疲れただろう? 眠っていけよ」
先輩の手が肩に掛かり、その手が僕をそっと抱き寄せた。彼の肩にもたれ掛かると、すごく幸せな気持ちになれた。
先輩も僕の肩に寄り掛かり、目を閉じて列車の揺れに身を任せていた。
でも僕はまだ眠ってはいなかった。僕は窓の外に見える雪景色を、それからしばらく観察していた。
このまま雪が一晩降り続いてくれたら、僕は運命に勝つ事ができる。
一晩中雪が降り続いたら、あの古い校舎は2階の窓まで雪に埋まってしまうだろう。降りしきる雪は、きっとすべての物を覆い隠してくれる。
長い間列車に揺られて行くと、外が少しずつ薄暗くなってきた。
肩にもたれ掛かる先輩の顔は、空の色に合わせて青く変わっていった。彼の寝息は、ちゃんと僕の耳に届いていた。
僕はその時、先輩の右側に座っていた。僕が少しぐらい寝言を言っても、今の彼にはきっと聞こえない。
だから先輩の耳に唇を寄せ、小さな声でそっと囁いた。
「僕……先輩の事が好き」
それだけ言うと、すごくすっきりした。
マミはもういない。僕はこれでやっと以前の自分に戻れる。
僕は柳田先輩とどうにかなろうなんて思った事はなかった。僕の先輩に対する思いが、禁断の恋である事をちゃんと自覚していたからだ。
これからも僕は、ずっと彼のかわいい後輩であり続けたいと思う。
今まで以上に彼の事を愛し、時々彼の布団に潜り込み、これからゆっくりと平和だった2人の関係を取り戻していきたい。
そう思って眠る体制に入った時、先輩が突然目を開けて僕の顔を見つめた。
その時、雪に濡れた彼の髪はひどく乱れていた。先輩は眠そうな目を大きく見開き、瞬きもせずに僕を見つめていた。
列車は大きなカーブに差し掛かり、スピードを落として尚も走り続けていた。
遠心力に引っ張られ、体が大きく先輩の方へと傾いた。その時彼は、その勢いを借りて突然両手で僕を抱き締めた。
ガタン、ガタン……。
さっきまでとは違う音が、列車の中に大きく響いていた。そして僕の横には、さっきまでとは違う先輩の姿があった。
僕の頬には先輩のセーターの感触があった。彼があまりにも強く抱き締めるから、少し胸が苦しかった。
「今言った事、本当?」
先輩の声が耳元でそう囁いた。
僕はその時、心臓がドキドキして何も言えなくなった。
先輩は右の耳が聞こえないはずだ。彼にはさっきの僕の声は聞こえていないはずだった。
大きなカーブを抜けると、列車はまたスピードを上げて走り始めた。 すると、僕を抱き締める先輩の手はそれに合わせて力が抜けた。
先輩は右手で僕を抱き寄せ、もう片方の手で僕の濡れる髪を撫でた。先輩の指の感触がはっきりと頭皮に伝わって、ますますドキドキしてきた。
彼はその時窓を背負っていた。窓の外はさっきと変わらず吹雪いていた。
列車の中は暖房が効いていて、冷たい足元がポカポカと温まってきた。でも本当に僕の体を温めてくれたのは先輩だった。
「俺の耳はとても不思議なんだ。大事な事だけが聞こえる不思議な耳だ。その事に気付いてくれたのは、お前だけだったよ」
柳田先輩は僕の目を真っ直ぐに見つめ、言葉を絞り出すようにそう言った。もちろん僕には、彼の言っている事の意味が分かっていた。
「お前は……マミちゃんの事を好きなんだと思ってた」
「え?」
「だって、お前はマミちゃんにすごく優しかったから……」
「違います。そんなの、絶対違います」
僕はその時、多くを語る事ができなかった。
先輩がそんなふうに思っていたなんて知らなかった。 彼に自分の気持ちを悟られる事も予想外だった。そしてその後の事は、もっと予想外だった。
僕は人気のない車両の中で、先輩に唇を奪われた。それはいつも頭の中で想像していたものと同じ情熱的なキスだった。
先輩の指が髪に触れ、頬に触れ、それから腰に触れた。
僕の舌が遠慮がちに彼の舌に触れると、先輩は一瞬舌の動きをピタッと止めた。 でも彼が動きを止めたのは、ほんの一瞬だけだった。その後続く激しいキスで、先輩に舌を噛み切られるんじゃないかと心配になった。
僕は彼についていくのが精一杯で、その温かい胸にしがみ付く事しかできなかった。
舌を吸い尽くされて、だんだん意識が遠のいていく。彼はその後毛布代わりにしているコートの下に手を滑り込ませ、大きく反応を示す僕自身をズボンの上から乱暴に触った。
列車の揺れも、外の雪も、もうすべてがどうでもよくなった。
体が熱くなり、背中を一筋の汗が流れ落ちていく。火がついたように体が熱いのに、僕の体は小刻みに震えていた。
先輩の唇が僕の唇を離れ、今度は首筋に温かい舌の感触が走った。
「お前が好きだよ」
先輩がそう言うのをたしかに聞いた。あまりにも嬉しくて、気持ちが良くて、ますます意識が遠のいていった。
僕が先輩に愛されるなんて、本当に予想外だった。
やがて彼の手がコートの下で僕のズボンのジッパーを下ろした。
もちろん僕はその先の行為を強く望んでいた。でもその前に、先輩にどうしても聞いておきたい事があった。
「先輩、待って」
本当は今すぐ先輩の手が欲しいのに、その時しっかりと彼の目を見つめてそう言った。 僕が彼に目を向けると、彼も優しい目を真っ直ぐ僕に向けてくれた。
僕は震える両手で彼の頬を包み、とても大事な事を尋ねた。
「ねぇ先輩、もうマミちゃんとの事はいいの?」
僕はちゃんと先輩に自分の声が届くように、わざと左の耳に向かってそう囁いた。
だけど先輩は、僕がそう言っても何も反応を示さなかった。 彼は僕を見つめたまましばらく間を置き、それから僕の耳元で小さくこう言った。
「今お前が言った事……よく聞こえなかった」
ガタン、ゴトン……。
列車はスピードを上げて走り続けていた。窓の外は吹雪だった。
僕の願いは柳田先輩が好きな人としっかり結ばれる事。たった今、その願いは叶った。僕にはもう他に望む事なんか何もない。
ポケットの中の携帯電話は粉々にして雪に埋めてしまおう。もう余計な事は全部忘れてしまおう。
このまま雪が一晩降り続いてくれたら、僕たち2人は運命に勝つ事ができるんだから。
終わり