16.

 僕たち3人が校舎の前へ辿り着いた時、雪はまだ小降りだった。
マミの通っていた小学校は木造2階建てで横に長い造りだった。 入口は厚い板で閉ざされていて、その半分ぐらいまでが降り積もった雪で覆われていた。
その板の上の方には先輩の言う通りに丸い形をした時計が残されていた。だけどそれも雪に覆われていて、時計の針が何時で止まっているのかはよく分からなかった。
「中に入れるかな?」
マミは入口から入る事を諦め、その横に並ぶ窓へと近づいた。
古めかしい窓は木枠に汚れたガラスが入っている物だった。そのガラスにも雪が吹き付けられていて、校舎の中はほとんど見えなくなっていた。
「中に入るのは無理じゃない?」
僕はその時寒くてたまらなかったから、早く引き返したくて彼女にそう言った。
雪は小降りだったけど風があまりにも冷たくて、僕の手はもう感覚を失いそうになっていた。
でもマミは懐かしい母校に未練があるらしく、それからしばらく校舎の中へ入り込む方法を模索しているようだった。
彼女は降り積もった雪に足を取られながらもう1つ向こうの窓へ近づいた。そして僕と先輩もしかたなく彼女の後を追った。
その時は僕だけじゃなくて先輩も足がすごく冷たかったはずだ。マミはブーツを履いていたけど、僕らはごく普通のスニーカーを履いていたんだから。

 窓枠はそれほど大きくはなかった。その時は地面にかなりの雪が積もっていたから、僕らは窓枠の1番下とちょうど同じぐらいの高さの所を歩いていた。
その時はとにかく窓が1枚開けばすぐに校舎へ入れそうな気配がしていた。
「あ……ここ、ガラスが割れてる」
マミは窓の前にしゃがんでほんの少しだけ割れているガラスを指さした。彼女はミニスカートを履いていたから、膝のあたりがやっぱり冷たそうに見えた。
彼女がガラスの割れた隙間に手を入れると、外の風を受けて窓全体がグラッと揺らめいた。
するとその時突然窓枠が外れて校舎の内側へ倒れ込み、ガラスの割れるガシャーンという音が僕らの耳に大きく響いた。 そして、僕らの目の前に校舎へとつながる小さな入口が出来上がった。
「やった! これで中に入れる!」
マミはその後喜び勇んで校舎の中へ入り込もうとした。古い窓枠は高さ1メートルほどしかなかったけど、彼女は器用に腰をかがめて中へ入る事にすぐ成功した。
「マミちゃん、ガラスの破片に気をつけて!」
先輩はそんな時にも彼女への配慮を忘れなかった。 でも僕は体中が冷え切っていて、人の事を考えている余裕なんかこれっぽっちもなかった。それでも僕たちは結局3人とも校舎の中へ入った。
埃のたまった木の廊下には壊れた窓枠と粉々になったガラスが散乱し、外から入り込む雪の粒がその上に降り積もりそうな気配だった。
「懐かしい……」
マミは真っ直ぐに伸びる長い廊下をじっと見つめ、嬉しそうにそうつぶやいた。
彼女のコートやブーツは雪で真っ白になっていたけど、マミはそんな事も気にせず昔懐かしい景色に酔っていた。
「2階へ行ってみる? 私が最後に過ごした教室があるはずだから」
彼女は頬を真っ赤にしながらにっこりと微笑んで僕らにそう言った。外があまりにも寒かったせいで、校舎の中はやけに暖かく感じた。
僕と先輩はそれから彼女の案内で長い廊下を歩いて行った。僕たちが歩くと古い板張りの廊下がギシギシと音をたてた。
その右側にはたくさんの教室が並んでいた。外されたドアからその中を覗き込むと、まだ黒板が残されているのが分かった。
でも机が1つもない教室はすごくガランとしていて、やけに寂しげな印象だった。
「教室がいっぱいあるけど、ここには生徒がたくさんいたの?」
先輩は僕らの前を歩くマミに向かってそんな質問をした。その時は彼の頬も真っ赤だった。
「私が通ってた頃は全校生徒が30人しかいなかったの。でもこの学校は戦争の時からあったみたいで、その頃は子供がたくさんいたって校長先生が教えてくれた。だからこんなに広いんだよ。ここ、かくれんぼにはピッタリでしょう?」
彼女の説明はたしかに頷けるものだった。
長い廊下を歩いて校舎の端まで行く間に僕らは10個ぐらいの教室の前を通り過ぎていた。たしかに田舎の学校にしては、ここはあまりにも広すぎた。

 「嫌だ。くもの巣がはってる」
2階へ続く階段の前に着くと、マミが幅の広い木の階段を見上げて泣きそうな声を出した。
たしかにそこにはたくさんのくもの巣がはっていて、そのまま突き進むのはちょっとつらそうだった。
「平気だよ、ほら」
柳田先輩はそう言って、両手でくもの巣をかき集めながら先頭に立って階段を上っていった。
僕とマミはその後に続いて2階へ向かったけど、古い木の階段は今にも崩れ落ちそうだった。 僕はできるだけソロソロと静かに足を進めた。
そうやって2階へ辿り着いた時、先輩の手には綿菓子ほどのくもの巣が絡み付いていた。僕がそれを見て笑うと、先輩もちょっと恥ずかしそうに笑っていた。
それから僕たちはマミがここで最後に過ごした教室へと向かった。
そこには横開きのドアが付いていて、ガタガタ言いながらもドアはちゃんと開いた。
「わぁ……」
マミは感慨深げにそう言って、ゆっくりと教室の中へ足を踏み入れた。
彼女が歩くと埃のかぶった床の上に小さなブーツの靴跡が次々と刻まれた。僕らがその後を追いかけると、床の上の靴跡が3人分に増えた。
「もう一度ここへ来られるなんて思ってなかった。嬉しい……」
マミは教室の真ん中に立って懐かしそうにその中を一周グルッと見回した。
そこは僕が知っている教室の風景とあまり変わりがなかった。
黒板があって、窓があって、棚があって掲示板がある。 たしかに木造校舎は古びていたけど、それなりに味があって素敵だった。
教室の中をゆっくりと見回すマミは、今までで1番綺麗だった。
雪に濡れた髪はキラキラと輝き、子供のような目は微かに潤んでいて、その表情はなんとも言えずかわいらしかった。
「私の席は窓際の1番前だったから、きっとこの辺り」
彼女はそう言って静かに窓の方へと近づいた。その時窓の外側は雪で覆われていて、教室の中は薄暗かった。
彼女が立った辺りは木の床が少し沈んでいて、その手前にはストーブの置かれていたような跡が残されていた。
「ここ、ストーブがあったの?」
「うん。だからこの席は真冬でもすごく暑かった。でもストーブから離れてる席はすごく寒いんだよ」
先輩の問い掛けに、マミの明るい声がそう答えた。
先輩はコートのポケットに両手を突っ込みながら、嬉しそうな彼女の顔をすぐ側でじっと見つめていた。
僕は軽く微笑む彼を横目で見つめ、また少し胸を痛めていた。
「それにしても広いね。ここ、教室はいくつあるの?」
先輩は彼女に続けて質問をした。マミは濡れた髪を両手で撫でながらちょっと首を傾げていた。
「数えた事ないけど、いくつかなぁ……」
彼女はそう言ってチラッと黒板に目をやった。それからマミは何かを思い出したようににっこり微笑み、僕らにこんな提案をした。
「ねぇ、かくれんぼしようよ」
「え?」
僕と先輩は同時にそう言って顔を見合わせた。
「柳田くんがオニだよ。オニは100数えるまでここを出ないでね!」
それは、あっという間の出来事だった。マミは突然僕の手を引っ張って教室を抜け出そうとした。
僕は先輩の事が気がかりで彼を振り返った。先輩はその時、呆気に取られたような顔をして窓の横に立ち尽くしていた。

 「マミちゃん、どこ行くの?」
「いいから私について来て!」
彼女は僕の手を引っ張って2階の長い廊下を走り続けた。
僕はもう一度後ろを振り返ったけど、先輩の姿は廊下にはなかった。
僕たち2人が走り続けると木の廊下がギシギシと激しく音をたてた。そして足元に埃が舞った。 外の風のヒューヒューという音が、やけに大きく耳に響いた。
「ここなら絶対見つからないよ」
廊下の端へ辿り着いた時、マミはそう言って怪しげに微笑んだ。
彼女は錆びた取っ手の付いているドアを内側に引っ張り、僕にその中の様子を見せた。 そこには幅の狭い階段があり、その上の方は真っ暗で何があるのかよく分からなかった。
「来て。ここから屋上に出られるの」
「え? 本当?」
「もちろんだよ。行ってみよう」
僕はマミに強引に手を引かれ、暗闇に向かってギシギシ言う階段を上り始めた。その時僕の手を握る彼女の手はとても冷たかった。
そして、彼女がこの階段を下りる事は二度となかった。

 階段を上り詰めると、そこにはもう1枚のドアがあるようだった。
マミは真っ暗闇の中で器用にそのドアを開け、僕らは明るい屋上に躍り出た。
「うわっ! すごい!」
屋上へ出た時、僕は思わずそう叫んだ。
そこは校庭と同じように膝のあたりまで雪が降り積もっていた。更にいつの間にか外は吹雪になっていて、ほとんど視界はゼロに近かった。
彼女に手を引かれてザクザクとその中を歩くと、すぐに足が冷え切ってしまった。 そして僕の頬は、本当に感覚がなくなりそうだった。
「マミちゃん、戻ろうよ。これじゃ右も左も分からないよ」
「もう少しだけ付き合って」
マミは僕の静止を聞かず、更に屋上を歩き続けた。
彼女の手の感触はたしかに僕の手に伝わっていたけど、その時はすぐ前を歩く彼女の背中さえはっきりとは見えないような状況だった。
頬を吹き付ける風の音が辺りに大きく響いていた。僕の手はかじかみ、とうとう足も感覚を失いつつあった。 それでも前を歩く彼女の揺れる髪だけはなんとか僕の目に映し出されていた。
頭の上に雪が降り積もって、頭皮も耳もすごく冷たくなった。僕はもう気が遠くなりそうだった。
「ねぇ、どこまで行くの?」
僕がそう叫んだ時、やっと彼女の足が止まった。僕たちの手はそれと同時に離れた。
その時周りはただ真っ白で、そこが屋上のどの辺りなのかはまったく分からなかった。
「ねぇ高橋くん、ちゃんと私を見て」
そう言って彼女が振り返った時は、目を凝らしてやっとその顔がはっきりと見えるぐらいの状況だった。
多分僕らの距離は2メートルも離れていなかったと思う。
ふと彼女の足元を見つめると、マミのすぐ後ろにフェンスのような物が見えた。だけど屋上にはたくさんの雪が降り積もっていて、フェンスと積雪の高さは大差なかった。
「マミちゃん、危ないよ。こっちへ来て」
吹雪の中に立つ彼女に向かってそう言った。でも彼女は長い髪を振り乱しながら黙って首を振った。
僕は目を細めながら雪の向こうに見える真っ赤な頬を凝視していた。
「あのね、昔からここで告白すると両想いになれるっていう言い伝えがあるんだよ」
その声は、風に乗って僕の耳に届いた。僕はもう体中が冷たくて、口を利く事さえ困難だった。
「私、高橋くんの事が好きになっちゃったの」
それは、彼女が決して口にしてはいけない言葉だった。
その時僕の体はすごく冷たかったけど、頭の中だけが急激に熱くなっていくのを感じた。
マミは今まで僕がどんな思いでいたのか、まるで理解していなかった。 僕がどれほど先輩を愛しているのかという事も、まったく分かっていなかった。
その時、僕の頭に一瞬にして様々な思いがよぎった。
彼に負い目を感じながら携帯電話の履歴を盗み見た時の事。
幸せそうに彼女を見つめる先輩の横で胸を痛めていた時の事。
そして……やっと気持ちの整理をして2人の幸せを願った時の事。

 雪は激しく降り続いていた。その後彼女は更に言葉を続けた。
「高橋くんは、私の事どう思ってる?」
吹雪の中の彼女は髪が乱れ、顔中雪だらけでとても醜く感じた。
そのまま雪の中に呆然と立ち尽くしていると、どこからか小さく電子音が聞こえてきた。 それがマミの携帯電話の着信音だという事は、僕にもすぐに分かった。
マミは髪を振り乱しながら面倒くさそうにコートのポケットから携帯電話を取り出した。 すると、プルルル……という着信音がさっきよりも大きく僕の耳に響いた。
「もう、こんな時に邪魔しないでよね!」
目の前の醜い女は、不機嫌そうな声を出してその音をプツリと途絶えさせた。それが柳田先輩からの電話だったという事は明らかだった。
僕はもうこれ以上我慢ができなかった。これ以上自分の感情を抑える事はどうしても無理だった。
僕は感覚が失われつつある両手の拳を握り締め、目を閉じて大きく外の冷たい空気を吸った。 そしてそれを吐き出す時には、彼女をたっぷり罵ってやろうと思っていた。
その時、耳にはヒューヒューと風の鳴る音だけが聞こえていた。でも目を閉じた瞬間に、あっ……という女の声を聞いたような気がした。それは、本物か幻かよく分からないほど儚く小さな声だった。
やがて僕は、マミを睨み付けるつもりでゆっくりと目を開けた。でもその時、目の前に彼女の姿はなかった。
降りしきる雪の下で何度も目を凝らしてみたけど、視界に入ってくる物は空から舞い落ちる横なぐりの雪だけだった。
その時僕は、手品を見ているかのような心境だった。
今までそこにあった物が突然見えなくなる。それはどう考えても手品でしかなかった。
だけど、そんなはずはなかった。しばらく注意して前方を眺めていると、さっきまで見えていたフェンスが消えてなくなっている事がやっと分かった。
まさか……。
僕は心の中でそうつぶやき、ゆっくりと一歩前へ足を踏み出した。
屋上には最初から手品師なんかいなかった。
そこにはただヒューヒューと強い風が吹き荒れていた。 そして目の前にあったはずのフェンスは、普通に考えると落下したとしか思えなかった。
「……マミちゃん?」
僕は彼女の名前を小さく呼んでもう一歩足を踏み出した。
そしてさっきまでフェンスがあった辺りから下を覗いてみたけど、そこには真っ白な雪景色が広がっているだけだった。
そこはどうやら校舎の裏手だった。目を凝らして下を見た様子では、そこは急な斜面になっているようだった。
僕は吹雪の中に1人佇み、冷え切った体を風に晒していた。だけど頭の中だけはカッと熱くなっていた。
プルルル……プルルル……。
その時、僕の側でさっきと同じ電子音が鳴った。
ふと足元を見ると、雪の上に投げ出された携帯電話が着信を知らせる赤い光を放っていた。