学校の昼休み。
君は机に突っ伏して眠っている。冬の日差しをたっぷり浴びて、気持ちよさそうに眠っている。
教室の中にはお喋りをする声や君の周りをバタバタ駆け回る足音が響き渡っているのに、君はビクともせずに熟睡している。
君は早起きだから、きっとこの時間になると眠くなってしまうのだろう。
本当は君を起こしていっぱいいっぱい話がしたい。
でも今は、ゆっくり眠らせてあげよう。
明日になれば、また2人きりの朝がやってくるのだから。
君が早起きしている事を僕が知ったのは、11月の朝の事だった。
いつもギリギリまで眠っている僕が、その日の朝は何故か早い時間に目が覚めたんだ。
早朝5時。まだカーテンの向こうに朝の日差しは感じられなかった。
どうしてこんな時間に目が覚めちゃったんだろう。僕はそう思いながら、両手を伸ばしてあくびをした後すぐに起き上がった。
11月の朝は寒かった。僕は肩に毛布をかけながら窓へ近づき、そっと厚いカーテンを開けた。
その時家の前を通りかかったおじさんは、温かそうなセーターを着て首にマフラーを巻いていた。外の空気はとても冷たそうだった。
僕は2階の窓からしばらく遠くの空を見つめていた。すると少しずつ少しずつ朝の日差しが街全体を照らし始めた。 僕の家の庭も、隣の家の塀も、そして僕自身も、少しずつ明るい光に照らされていった。
するとその時、明るく照らされた道の上を自転車でやってくる人がいた。それは新聞配達の少年だった。
彼は僕の家の前で静かに自転車を止め、朝刊を持って玄関の方へやってきた。
彼は温かそうな紺色のダウンジャケットを着ていた。だけど新聞を持つ手はとても冷たそうだった。そして、吐く息は白かった。
その後すぐに、カタン、という音が聞こえてきた。それは玄関の横に設置してある小さなポストに彼が朝刊を入れた音だった。
僕は一瞬顔を上げた彼をじっと見つめた。そして僕は驚いた。その人の顔に見覚えがあったからだ。
浅黒い顔と、印象的な二重の目。そして短く刈り上げた茶色の髪。
彼は、僕と同じクラスの萩原くんだった。
僕はその時、本当に驚いた。萩原くんは独特の雰囲気を持っている人だった。 はっきり言うと不良っぽくて、ちょっと近寄りがたい感じの人だ。 僕はその彼が早起きして新聞配達をしているという事実に、ものすごく驚いたんだ。
萩原くんはまだ配達が残っているようで、また自転車に乗ってどこかへ行ってしまった。 凍てつく空気の中を、背中にいっぱい朝日を浴びて。
僕はそれから毎朝早起きするようになった。それは萩原くんの姿を観察したいと思ったからだ。
自分がどうしてそんなふうに思ったのかはよく分からない。でもとにかく、僕はちょっと嬉しかった。 普段誰とも口を利かないクールな彼の秘密を知って少しワクワクしていたのかもしれない。
それから僕は毎朝定期的にやってくる彼の姿を見送った。
僕は同じクラスにいても彼とろくに口を利いた事がなかったけれど、なんとなく彼と小さな繋がりを持てたような気がしていた。
いつも先生に呼び出されて説教されている彼の別な一面を知った事は、本当に心から嬉しく感じられた。
自転車を止めるガン、という音。ポストに新聞が投函されるカタン、という音。そして朝日の中に消えていく彼。 僕は毎朝彼を見送るのが日課になっていった。
あれは、11月末頃だっただろうか。
その朝はひどい嵐だった。前の夜から大雨が降り、その夜は一晩中風の音が聞こえていた。
僕が目覚めてカーテンを開けた時、窓ガラスには雨粒がいっぱいついていて、外の景色が歪んで見えた。
外はとても暗かった。そして雨はまだ降り続いていた。電線は風に煽られて大きく揺れていたし、街路樹の葉はバサバサと音をたてて飛ばされていった。
僕は萩原くんの事がすごく心配になった。彼はこんな日でも自転車に乗ってやってくるんだろうか……
いつまでたっても明るくならないその朝。僕は落ち着かない気持ちで窓ガラスに張り付いていた。
その朝彼はなかなか姿を現さなかった。でも、どんな朝でも朝刊は配達される。 だから彼はきっとやってくる。僕はそう思い、強い風の音を聞きながら窓の外の嵐をずっと眺めていた。
やがて萩原くんがやってきた。いつも通り、自転車に乗って。
彼はその朝赤いウインドブレーカーを着ていた。雨をよける為に、ウインドブレーカーのフードをかぶっていたんだ。
彼が来たのは、いつもより15分ぐらい遅かっただろうか。外は嵐だったから、きっといつもの朝と違って配達がスムーズにいかなかったのだろう。
僕は風に飛ばされそうになりながら新聞を持ってくる彼をハラハラしながら見つめていた。 前の晩から降り続いた雨のせいで道路はぬかるみ、彼の足は一歩歩くごとに泥の中へ埋まった。
今日の朝刊はいりません、と新聞屋へ電話を入れれば良かった。僕は嵐の中の彼を見て、初めてそんなふうに思った。
その日は風の音が強かったので、カタン、とポストが鳴る音は聞こえなかった。 でも僕はその代わりにガラガラバタン、という大きな音を聞いた。
なんだろうと思って見ると、それは家の前に止めた彼の自転車が倒れた音だった。
僕は思わずあっ、と声を上げた。萩原くんは慌てて自転車に駆け寄り、雨に当たりながら泥に埋まった自転車を起こした。 でもその瞬間前の籠に入っていた新聞が全部零れ落ち、彼は手袋もはめていない両手で一生懸命それを拾い集めていた。
僕はその時、何もできなかった。外へ駆け出して彼を助ける事だってできたのに、結局ただ黙ってその様子を見つめていた。
雨の当たらない部屋の中で。温かい毛布に包まりながら。
その日の事は、はっきり覚えている。
萩原くんはその朝、学校へ遅刻した。1時間目の授業が終わって休み時間に入った時、突然教室のドアが外から開き、ムスッとした顔をして彼がやってきた。
同じクラスの皆は、彼が来た途端急にお喋りをやめた。
彼は自分の席に座るとぐったりした様子で机に突っ伏し、すぐに居眠りを始めた。
彼の背中は疲れ切っていた。その時もう雨は止んでいて、雲の隙間から顔を出した太陽が大きな背中を照らしていた。
一瞬静まり返ったクラスの皆はまたすぐ何事もなかったかのようにお喋りを始めた。
その朝萩原くんがどんな思いをしたのかという事は、きっと彼と僕以外誰も知らなかった。
「萩原、職員室へ来い」
帰りのホームルームが終わると、担任の山岸先生が彼の肩をたたいてそう言った。
山岸先生は生活指導の先生でもあり、生徒をよく殴る事で有名だった。
白髪頭の山岸先生と茶色い頭の萩原くんが顔を突き合わせて睨み合いをした事で、一瞬教室の中に緊張した空気が流れた。
その時は窓の外から入り込む冬の光なんかなんの役にもたたなかった。
先生と萩原くんが教室を出て行くと、帰り支度を始めた皆が口々にこう囁いた。
「あいつ、どうせ遅刻して呼び出されたんだろう? 授業中はいつも居眠りしてるしさ」
ベージュのブレザーを着たクラスメイトたちは、すぐに萩原くんの事なんか忘れて教室を出て行った。
誰もいなくなった教室には、不揃いな机が不揃いに並んでいた。
開けっ放しになった教室のドアの向こうを、たくさんの生徒たちが笑顔で通り過ぎていった。
僕は教室に降り注がれる太陽の光を睨み付ける事ぐらいしかできなかった。
もう少し早く天気が回復してくれたなら、萩原くんはあんなひどい目に遭わなくて済んだのに。
僕は彼のために何かしたかった。でも無力な僕は何もできなかった。
僕はしばらく教室に残って萩原くんが戻ってくるのを待ったけれど、結局途中で諦めてトボトボと下駄箱へ向かった。
だって、彼に何を言ったらいいのか分からなかったから。
僕が毎朝彼を観察していた事を知ったら変に思われるかもしれないし……その時の僕は彼に嫌われる事がすごく怖かったのかもしれない。
薄暗い下駄箱へ行くと、もうそこには誰もいなかった。 授業が終わってしばらく時間が経過していたから、ほとんどの生徒はもう帰ってしまっていたのだろう。
僕はなんとなく割り切れない思いで自分の靴箱の中からスニーカーを取り出し、その代わりに上靴をしまい入れた。
靴箱のフタをカタン、と閉じると、毎朝聞いているポストの音を思い出した。
その時僕の靴箱の5つ隣に 『萩原』 と名前が書いてあるのを知り、ふと何気なくそのフタを開けた。
するとそこには、僕の靴よりサイズが大きい白いスニーカーが入っていた。
そのスニーカーは泥だらけだった。それはきっと、彼が新聞配達をする時に履いていた靴に違いなかった。
靴底に付いた泥はまだ少し湿っていた。だけど靴紐のあたりに付いた泥はもうだいぶ乾いているようだった。
僕はその後、両手で彼の靴を磨いた。
僕はその時お気に入りの白い手袋をはめていたけれど、それが真っ黒になるまで靴を磨いた。
僕にできる事は、こうして彼の靴をピカピカにしてあげる事ぐらいしかなかったからだ。
僕はそれからもずっと朝の彼を見つめていた。
教室にいる時の彼はほとんど眠ってばかりだけれど、朝の彼はもう1人の彼だった。
いつも自転車を飛ばして、キビキビと動いて、ポストをカタン、と鳴らした後朝日を浴びながら去っていく。
自転車に乗って去り行く彼の背中はとても大きくて、力強くて、髪は朝日に透けていて……僕はそんな彼がとても好きだった。
12月のある日。僕の身に驚くような事が起こった。
それは学校の授業が終わって、薄暗い下駄箱へ行った時の事だった。
僕はいつものようにカタン、と音を鳴らして自分の靴箱を開けた。するとそこに、見慣れない物が入っていた。 それは小さな黒いビニール袋で、その中には何か柔らかい物が入っているようだった。
なんだろう……。僕はそう思い、周りに誰もいない事を確認してからそっとその袋を手に持った。
そして恐る恐る袋の中の物を取り出すと、僕は一歩も動けなくなった。
そこに入っていたのは、新しい手袋だった。しかもそれは僕が気に入っていた白い毛糸の手袋と同じだった。
あの手袋は萩原くんの靴を磨いた後、すぐに捨ててしまった。もう真っ黒になって、とても汚れが落ちそうになかったからだ。
彼はあの時、僕が靴を磨く様子をどこから見ていたのだろう。どこかで見ていたのなら、どうして声を掛けてくれなかったのだろう。
でも、その答えはすぐに分かった。
彼も僕と同じなんだ。僕だって、毎朝彼を見つめているくせに決して声を掛けたりはしない。なんとなく恥ずかしくて、声を掛ける事なんかできやしない。
僕は薄暗い下駄箱に1人たたずみ、新しい手袋をぎゅっと握り締めた。
それは萩原くんがプレゼントしてくれた物に違いなかった。 もしかして彼は、手袋を失った僕の両手が冷え切っている事を知っていたのかもしれない……
次の朝。僕はワクワクしながら彼を待っていた。
その日はとても寒く、窓ガラスに息を吹きかけるとすぐに曇ってしまうほどだった。
僕は曇った窓ガラスに手をついて、ずっとずっと彼が来るのを待っていた。
少しずつ少しずつ東の空が明るくなってくる。毎朝彼が通る道も、少しずつ少しずつ明るく照らされていく。
彼はいつもの時間にやって来た。その日は天気がよくて風も穏やかだったから、配達がスムーズにいっていたようだ。
紺色のダウンジャケットを着た彼が、自転車に乗って僕の前を通り過ぎた。
彼はとても寒そうだった。
彼は朝刊を小脇に抱え、白い息を両手に吹きかけながら僕の家の玄関へやってきた。
もうすぐポストがカタン、と音をたてる。
でもその朝はちょっと様子が違っていた。僕は斜め下に見える彼が朝刊を小脇に抱えたまま缶コーヒーを手にしている姿をじっと見つめていた。
僕はほっとした。彼はちゃんと気付いてくれたんだ。
手袋をはめない彼の手はいつも冷たそうで、僕はその事がすごく気がかりだった。
だから僕は今朝、ポストの中に温かい缶コーヒーを入れておいたんだ。
やがていつものようにポストがカタン、と鳴り、彼が自転車を止めた場所へ引き返していくのが見えた。
でも彼はすぐに自転車には乗らず、温かい缶コーヒーをそっと冷たい頬に当ててにっこり微笑んだ。
その笑顔はとても子供っぽくて、とてもかわいらしかった。
僕はその後、朝日の中に消えていく彼の背中を笑顔で見送った。
また明日会おうね、と心の中で小さくつぶやきながら……
終わり
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