10.

 午後11時を過ぎた頃、俺たちはパジャマに着替えて楽な体制に入った。
床の上に一組の布団を敷き、そこに枕を並べて2人仲良く寝そべったんだ。
部屋の中は真っ暗ではなく、間接照明の光がわずかに天井の木目を照らしていた。
この時初音はギリギリ俺に触れない位置にいた。 横目に彼の姿が見え、程よい温もりが伝わる距離感が、なんだかたまらなく心地よかった。

 それから俺たちは、小さな約束をいっぱい交わした。
その頃初音はもういつもの彼に戻っていた。
彼のお母さんが入れた紅茶は、もしかして魔法の水だったのかもしれない。 初音はそれを一口飲むと落ち着きを取り戻し、あっという間に元気になったんだ。
「明日映画を見た後、オムライスを食べに行かない? 今日武志がおいしいお店を教えてくれたんだ」
「いいよ」
「その後は買い物に付き合って。もうすぐ父さんの誕生日だから、プレゼントを買いたいんだ」
「うん、いいよ」
「買い物が終わった後は、ボウリングをしに行こうか?」
「そうだね」
俺は天井の木目を見上げて彼の声に耳を傾けていた。
初音の言葉に頷くだけで、すごく幸せな気分になった。
それは決して破られない約束ばかりだったから。明日になったら、絶対に実行される約束ばかりだったから。

 そんな会話がしばらく続いた後、初音はやがて口を閉ざした。
彼が無言になると、俺も喋るのをやめた。
2人の声が消えると、部屋の中にはまた秒針の音が響き渡るようになった。
カチッ、カチッ、カチッ……
小さく息を吸い込むと、甘い香りを微かに感じた。すると自然に学習机の方へ目が向いた。
一輪挿しに飾られた赤い花。その花は、決して出しゃばらない上品な香りを放っていた。 俺は初音のお母さんがその花になって、そばで彼を見守っているような気がしていた。
カチッ、カチッ、カチッ……
初音は眠ってしまったのかな。
その音を何十回か聞いた時、俺はふとそう思った。
それを確かめるために横目で彼を見ると、すぐに初音と目が合った。
「もう眠い?」
少し掠れたその声が、小さく耳に響いた。初音の目は真っ直ぐに俺を見つめていた。
眠ったのかと思った彼に再び声をかけられると、心の中にわずかな緊張感が広がった。
「いや、そんな事ないよ」
俺は胸の高鳴りを抑えながらもう一度天井を見上げた。
その時は部屋中に響く秒針の音よりも、自分の心臓の音の方が何倍も大きくなっていた。
「ねぇ、手をつないでもいい?」
気持ちの整理がつかないうちに、今度はそう言われた。
その時はすごくドキドキしたけど、当然それを拒む事はできなかった。
俺はきっと、曖昧ながらも何らかの形でOKの意思表示をしたのだろう。 その自覚はほとんどなかったけど、初音はそれからすぐに俺に寄り添った。

 小さな手にそっと右手を掴まれると、急に掌が汗ばんだ。
もう1つの手が肩の下に置かれた時は、心臓の高鳴りが彼に伝わってしまう事を恐れた。
急激に緊張感が高まり、パレットの上で絵の具を混ぜた時のように天井の木目がグルグルと渦巻いた。 そして俺は、頬に一瞬温かいものを感じた。
「僕がこんなふうにするのは、誠だけだよ」
頬に触れた温かいものは、初音の唇だった。俺がその事実に気付いたのは、彼が恥ずかしそうにそう言った時の事だった。
それから彼は、突然竜二の名前を口にした。 俺たちが2人でいる時にどちらかの口から竜二の名前が出たのは、多分この時が初めてだった。
「誠も気付いてると思うけど……竜二、彼女と別れちゃったんだ」
「そうか」
「竜二はその事ですごく落ち込んでたんだ。いつも明るい竜二が、僕の前で泣いたんだ」
それを聞いた時は、少し胸が痛んだ。
好きな人を失うのは、誰にとってもつらい事だから。俺だって初音を失ってしまったら、やっぱりすごくつらいと思うから。
「僕、その時誠の事を考えたんだよ」
「え……?」
「竜二が落ち込んでる時、誠ならどうするかを考えたんだ。そうしたら、自分が何をすればいいかすぐに分かった。 誠は僕がつらい時、ずっとそばにいてくれたよね? だから僕も、竜二が元気を取り戻すまでそばにいてあげようって思ったんだ」
そんな事を言われると、胸の高鳴りがまた大きくなった。
彼はただ事実を語っただけなのかもしれないけど、俺はその言葉が何よりも1番嬉しかった。
視界の隅に、ぼんやりと初音の影が見えた。それでも俺は、まだゆっくりと渦巻く天井の木目を眺めていた。


 ずっと胸に抱えていた不安が、氷のように融けていくのを感じた。
俺はいつも竜二の影に怯えていた。初音の後ろには、常に彼の影が見えたんだ。
でもそれは俺の目にしか見えないものだったのかもしれない。 もしかすると、初音の目には決して映らないものだったのかもしれない。
俺が初音を好きになった時、彼の目には竜二の姿が映っていた。
初音はいつも竜二を目で追いかけていた。2人の距離が離れている時でも、彼は自分の目に竜二の影を映そうと努力していた。
でも今の初音は、もうあの頃の彼とは違うんだ。
「竜二が落ち込んでる時、誠ならどうするかを考えたんだ」
俺にとっては彼が語ったその事実がすべてだった。
初音は竜二と一緒にいる時でも俺の事を忘れずにいてくれたんだ。
映画館で目をつぶっている時も、竜二の泣き顔を目の当たりにした時も、初音のそばには俺がいたんだ。
いつも彼の後ろに見えたのは、本当は俺の影だったのかもしれない。
とても信じられないけど、それが真実なのかもしれない……

 たまらない気持ちになって彼を抱き寄せると、初音の鼓動が腕に伝わってきた。
今はすぐそばに彼の温もりを感じる。ここまでしないと彼との距離が分からないなんて、我ながらすごくバカだったと思う。
瞼の奥には、混ざり合う絵の具の残影があった。その絵の具が完全に溶け合うと、目の前が初音の色に染まった。
鼻がぶつかるほどの距離で2人が見つめ合うのは久しぶりだった。
明かりが少なくてはっきりとは見えなかったけど、初音の目の中に薄っすらと浮かぶ自分の影を見つけた。
初音と過ごした冬休みは、甘く切ない夢のようだった。
だからこそ、新学期が始まるのがすごく怖かった。
竜二がそばにいる日々が戻ってくると、初音の気持ちがまた彼の方へ向かっていくような気がしていた。
俺は単なる補欠であって、レギュラーの竜二が戻ったら戦力外にされてしまいそうな気がしていた。
初音を好きになればなるほど、日に日にそんな不安が大きくなっていった。
でも今夜限りで、そんな弱い自分とサヨナラしたい。
最初の夜と同じように、何度も彼と愛し合いたい。苦しんだ分だけ、不安になった分だけ、初音を何度も抱き締めたい。
「初音、好きだよ」
柔らかな頬にそっと触れた時、彼がわずかに微笑んだ。小さな唇の奥には、はっきりと白い歯が見えた。
「初めて好きって言ってくれたね」
掠れた声でそう言われるまで、俺はその事に気付いていなかった。心の中ではいつも、初音を好きだと叫んでいたからだ。


 俺はすべてを忘れて彼を求めた。
渇いた唇を重ね、2枚の舌を絡ませ合うと、興奮してすぐに体が熱くなってきた。
秒針の音も、甘い花の香りも、竜二の影も、もうまったく感じなかった。
すごくドキドキして、気持ちがよくなって、今までの不安が嘘のようにどこかへ飛んで行った。
最初のキスが終わった時、2人の息は上がっていた。
彼の上に圧し掛かると、初音は枕に頭を沈めてじっと俺を見上げた。
間接照明の淡い光が、彼の上気した頬を薄っすらと照らした。 もう一度キスをしたくてそれに顔を近づけると、俺の影がすっぽりと彼を覆った。
そっと短いキスを交わした後、初音が俺の背中に両手を回した。
2人ともパジャマを着ている事が、すごくもどかしかった。いずれこうなるのなら、最初から裸で寝ていればよかったと後悔した。
俺は夢中で初音のパジャマの下に手を入れた。すると、火照った肌の感触が掌に伝わった。
ウエストの緩いゴムが、わずかに手首を締め付ける。それでも俺は、構わずその奥へと手を伸ばした。
やがて人さし指が硬いものに触れた。初音はその時、身をよじって悩ましげな声を上げた。
「あぁ……ん」
俺の影の下で、大きな目がきつく閉じられた。そして彼の眉間に深くシワが刻まれた。
その様子を見ながら指を動かすと、初音が小さく息を呑んだ。

 「ダメ。ねぇ、待って」
背中に鈍い痛みを感じたのは、初音が爪を立てたせいだった。 彼は薄っすらと目を開けて、今度は泣き出しそうな声を上げた。
「奥の部屋で母さんが寝てるんだ。あまり大きな声を出したら、きっと聞こえちゃうよ」
彼の言う事はもっともだった。
もう甘い花の香りを感じる事はなかったけど、その花が遠ざかったとしても、やっぱり少しは配慮が必要だと思った。
「大丈夫。大丈夫だよ」
指の動きを止めて小さくそう言うと、初音が潤んだ目をして微笑んだ。
それから俺は、震える唇で彼の口を塞いだ。
もう遠慮せずに指の動きを早めると、初音の体が何度もピクッと動いた。
「ん……」
堪えきれないその声が、口の隙間から零れ落ちる。
知らないうちに背中の痛みが消えたかと思うと、小さな手がパジャマのズボンの中へ入り込んできた。
腰のあたりに、5本の指の感触が広がる。
この時初音の口は塞がれていた。だけど俺は、たしかに彼の声を聞いたんだ。
「僕がこんなふうにするのは、誠だけだよ」
それは俺の耳にしか響かない声だった。他の人には決して届く事のない、初音の心の声だった。

 初音が竜二を好きだった事実は、もうどうやっても変える事ができない。
だったらもう過去に怯えて生きるのはやめにしたい。
俺たちが愛し合う今も、過ぎ行く時と共に思い出に変わっていく。そしてそれは、絶対に変えられない過去になる。
そうやって2人の歴史を積み重ねていけば、後ろを振り返る事も怖くはなくなるはずだ。
俺の後ろには、いつも初音の影が見えるから。他の人には見えなくても、俺にはちゃんとそれが見えるはずだから。

終わり