9.
初音をぎゅっと抱きしめた時、突然部屋のドアがノックされた。
コンコン……
その音を聞いた瞬間に、俺たちはパッと離れた。
初音は急いで涙を拭き、俺はドキドキしながら白いドアを見つめていた。
「誠くん、ちょっときてくれる?」
少し間を置いた後、お母さんの声がドアの向こうから響いた。
その時は多少の驚きを感じて初音と顔を見合わせた。
彼が真っ赤な目をして頷いたので、俺はすぐに立ち上がった。
廊下へ出ると、初音のお母さんが俺をもう一度キッチンへ招いた。
彼女はまだ家事をしていたようで、空色のエプロンを身に着けたままだった。
「お茶を入れたから、お部屋へ持っていってほしいの。ちょっと座って待っててくれる?」
彼女は優しく微笑んで、ダイニングテーブルに納まっていた椅子をゆっくりと引いた。
俺は静かにそこへ腰掛けて、胸のドキドキを抑えようとしていた。
彼女はテーブルの上に黄色のトレイを置き、そこに小さな皿と紅茶の入ったマグカップを2つずつ並べた。
それから俺の向かい側に座って、2つの皿の上に星型のクッキーを乗せていった。
俺は彼女の指先に見とれていた。キラキラ光るピンク色の爪が、あまりにも綺麗だったからだ。
「これ、昨日私が焼いたの。味は保証できないけど、食べてみてね」
初音のお母さんは俺にすごく好意的だった。でも俺は、なんとなく彼女が苦手だった。
彼女と向き合うと、どうしても緊張した。初音にそっくりな彼女の目を、まともに見る事ができなかった。
「誠くんには本当に感謝してるわ。初音は人見知りが激しいから、高校へ入学してちゃんとお友達ができるかどうか心配だったのよ。
だから誠くんがあの子と仲良くしてくれてるのを知って、すごくほっとしてるの」
俺はその言葉に少なからず驚いていた。
初音が人見知りをするなんて、俺にはとても考えられなかった。
彼はいつでも誰とでも、すぐに打ち解けられる人だと思っていた。
「誠くんの事を話す時、初音はいつも楽しそうなのよ。あの子はきっと、あなたの事がすごく好きなんだと思うわ」
紅茶の香りが鼻に抜けた。お母さんは細い指でまだ皿の上にクッキーを乗せようとしていた。
俺は早くこの場を離れたかったのに、彼女はなかなかお茶の準備を終わらせてくれなかった。
彼女の爪が輝くたびに、胸のドキドキが大きくなった。
「初音と、ずっと仲良くしてあげてね」
「はい……」
「あの子は私の宝物なの。だから、絶対に悲しませたくないの。
時々ケンカをしても、心がすれ違っても、ずっと仲良くしてあげてほしいの」
そう言われた時は、頭を後ろからぶん殴られたような思いがした。
お母さんはいつも初音の事を気に掛けているから、彼の事がなんでも分かるんだ。
今夜彼が悲しみを抱えて帰って来た事も、彼女にはすぐに分かったんだ。
俺たちの間にすれ違いがあった事も、きっと全部お見通しだったんだ。
俺はすごく恥ずかしかった。
今まで俺は、初音を思う気持ちは誰にも負けないと思っていた。
それだけは、竜二にも他の誰にも絶対に負けていないと信じていた。
でもそれは単なる自惚れだったとその時に気が付いた。
俺は初音の悲しみに気付いてやれなかったし、傷付いているのは自分1人だけだと思い込んでいた。
自分が彼を諦めればすべてが終わると思っていた。初音の気持ちなんかまるで考えずに、勝手にそう思っていた。
俺はこの時、どうして彼女を苦手に思うのかがやっと分かった。
今の俺は完全に彼女に負けているからだ。
初音に対する愛情の度合いが、彼女と俺とでは比べ物にならないからだ。
「さぁ、これを持っていって」
お母さんはやっとお茶の準備を終えて、俺に黄色のトレイを託した。
気が付くと、その隅の方に透明なセロファンで包まれた一輪の花が置かれていた。
俺が不思議そうにそれを眺めると、彼女がフフッと鼻で笑った。
「一輪挿しのお花、そろそろ枯れる頃でしょう? いつもは私が取り替えるんだけど、今日は誠くんにお願いするわ」
俺はその言葉を聞きながら、テーブルの下で拳を握った。
その時はすごく悔しかった。
初音のお母さんは、白い花びらが散ってしまった事もちゃんと分かっていたのだった。
俺はトレイを持って立ち上がった。すると、彼女も同じように立ち上がった。
空色のエプロンがとても眩しかった。俺は彼女に負けないぐらい、もっともっと初音を深く愛したいと思っていた。
「じゃあ、失礼します」
俺は彼女に頭を下げ、逃げるようにキッチンを後にした。
結局俺は、最後までまともに彼女の目を見る事ができなかった。
トレイを持つ手がかすかに震えた。明るい廊下を歩くと、2つのマグカップがカタカタと音をたてた。
するとその時、俺の背中にお母さんの声が浴びせられた。
「誠くん、今日は泊まっていってね。後で廊下にお布団を出しておくわ」
背中でその言葉を受け止めた時、思わずトレイをひっくり返しそうになった。
実際にマグカップが傾いて、紅茶が少しだけこぼれてしまった。
彼女はなんでも分かっていた。本当に、怖いぐらいに初音の事をよく知っていた。