この手を離さないで

 1.

 午後8時を過ぎた。カーテンの向こうはもう暗い。
僕はその時間、落ち着かない気持ちで明るいリビングの中をウロウロしていた。
テレビの画面に映るのは、幸せそうな4人家族。
ドライブに出かけた4人は車の中でたわいのない会話を交わしている。
ハンドルを握っているのはたくましいお父さん。助手席で微笑んでいるのは美しいお母さん。 そして後部座席ではしゃいでいるのは、半ズボンを履いた子供たち。
僕は子供の笑い声がどうにも気に触り、遂にテレビを消してしまった。

 フローリングの床を素足で歩くと、ペタペタいう足音が僕の耳に届いた。静かな部屋に響くのは、クーラーの風の音と僕の足音だけだった。
僕は小さく音を立てて床の上を歩きながらお兄さんの事を考えていた。
お兄さんは今夜僕の所へ来てくれるかな。
僕は昨夜、お兄さんの部屋へ泊まった。そして今朝、お兄さんの頬におはようのキスをした。
お兄さんはあの後、たしかに僕の独り言を聞いていたはずだ。
彼はちゃんと最後に僕の名前を呼んでくれた。
お兄さんは僕が誕生日プレゼントを用意している事を知っている。 そして僕は今、お兄さんがプレゼントを受け取りに来るのを待っている。

 「あぁ……もう限界」
午後8時15分。僕は力尽き、とうとうソファーの上に倒れこんだ。
もう疲れた。待ちくたびれた。
今日は夕方6時頃からお兄さんを待ってずっとドキドキし続けていた。2時間以上もドキドキが続くと、もう心臓がクタクタだ。
クーラーの風を浴びながら白い天井を見つめると、そこに張り付く小さな虫を一匹発見した。
そして……それから5分もたたないうちに瞼が重くなってきた。
僕はその時、体よりも心の方が疲れていた。お兄さんが今夜本当に来てくれるかどうか確信がなくてすごく不安だったからだ。
こんなに待つのがつらいなら、もっとちゃんと約束を取り付けておけばよかった。
お兄さんに面と向かって 『今夜は家へ来て』 とはっきり言えばよかった。

 ダメだ。このまま横になっていたら本当に眠ってしまう。
僕はあくびをしながら起き上がり、テーブルの上に置いてあるアルバムをめくった。
それはお兄さんに見せるために用意しておいた赤い表紙のアルバムだった。
そこに貼られた写真を見たら、彼は少しびっくりするかもしれない。
僕は小さい頃金髪だった。多分6歳か7歳ぐらいまではずっとそうだった。 髪の色はいつの間にか変化して今はわりと黒に近い色になったけど……その頃の自分を写真で見ると、まるで別人のようだ。
僕の肌が白いのはママのせいだ。目の色が薄いのも、髪の色が薄いのも、全部ママのせいだ。
だからどうという訳ではないけど、僕はお兄さんのような人にすごく憧れた。
お兄さんはたくましくて、真っ黒に日焼けしていて、すごく男らしかった。
彼は僕にない物を持っていた。お兄さんは僕が決して手に入れられない物を全部持っていたんだ。

 僕がしげしげとアルバムを眺めていた時、部屋の中にインターフォンが鳴り響いた。
その瞬間、僕は玄関に向かってすぐに走り出した。