小さなボストンバッグを片手にリビングへ戻ると、お兄さんは黙って椅子から立ち上がった。
僕はその時、お兄さんの姿をじっくり眺めた。
白いポロシャツとゆったりしたズボンを履いたお兄さんはすごく着痩せしていた。 短い髪は黒々としていて、小さな目は優しく微笑んでいた。
本当にパパも昔はこんなふうだったんだろうか。
僕は若い頃のパパに似た人を好きになった自分が不思議に思えてならなかった。
僕たちはその後しっかりと手を繋いで家を出た。
外へ出ると、頬に少し涼しい風を感じた。
お兄さんは水のオブジェの横に止めた自転車の籠にボストンバッグを詰め込み、それから僕とちゃんと向き合って話をしてくれた。
見上げた空には満天の星が輝いていた。
「ママは何か言ってたか?」
お兄さんは僕の手を決して離さず、そして笑顔を絶やさなかった。
「新学期が始まる前に帰ってきなさいって言ってた」
僕がそう言うと、お兄さんは声を上げて笑った。きっと彼はママが僕を離さない事を分かっていたんだと思う。
「やっぱりそうだろう? たった1人の息子だもんな。お前を簡単に人にくれてやるはずなんかないさ」
「ママは、お兄さんの事かっこいいって言ってたよ」
彼は僕よりずっと大人で、世の中のいろんな事をよく分かっていた。
でもママがそう言った事はどうやら予想外のようだった。
「……ふぅん」
急に小声になって小石を蹴るお兄さんの耳は真っ赤だった。僕はそんな彼をすごくカワイイと思った。
閑静な住宅街はとても静かだった。そこにはオブジェに流れる水の音がサラサラと小さく響くだけだった。
お兄さんがもう1つ小石を蹴ると、アスファルトの上を転がる石の音が耳に大きく響いた。
僕はその時、顔を上げられずにいるお兄さんとどうしてもキスをしたいと思った。
僕が彼の手をそっと離すと、お兄さんがやっと少し顔を上げて僕の目を見つめた。
僕はその瞬間に少し背伸びして両手で彼の頬を包み、柔らかいその唇をすぐに奪った。
お兄さんは最初はちょっと腰が引けていたけど、やがて彼の腕が強く僕を抱き寄せた。そして僕たちは星空の下で長く濃厚なキスを交わした。
乾いた風が僕らの頬をなでていった。遠くの方でバイクの走る音が微かに聞こえた。
その時人が通りかかる可能性は十分にあったけど、その時の僕たちは人の目なんか気にならないほど強く求め合っていた。
重ね合った唇の奥で彼と舌を絡ませ合うと、だんだん体が熱くなってきた。そして両手で包むお兄さんの頬も少しずつ少しずつ熱くなっていった。
僕はその時すごく幸せだった。星に見守られてお兄さんとキスを交わすなんて……これ以上の幸せはないと思っていた。
だけど、僕はキスの途中で大事な事を思い出した。それは僕が遊園地に置いてきた忘れ物の事だった。
僕はその事を思い出して急にキスを中断し、軽く閉じていた目をパッと開けた。
するとその時、ものすごく近い距離でお兄さんと目が合った。
僕は突然体の力が抜け、彼の頬を包んでいた手をゆっくりと下ろした。するとお兄さんの手もつられたように僕の体から離れた。
「どうした?」
お兄さんのその声と、オブジェに流れる水の音が重なった。
僕はその時、遠い昔にママから聞いた話をはっきりと思い出していた。
それはママがたった一度だけ僕に話してくれたパパとの思い出話だった。
パパとママが初めてデートした日 ママは観覧車の中でキスしたい、とパパに言ったのだった。
でもその日はすごく風が強くて、観覧車は運転を見合わせていた。
結局風のいたずらで2人は観覧車に乗る事ができず、ママの望みが叶う事はなかった。
ママはその事で少し落ち込んだけど……その後パパがキスの変わりに指輪をプレゼントしてくれたと言っていた。 そしてママはその時にパパとずっと一緒に生きていく事を決意したようだった。
僕はパパとママの素敵な恋の話を聞いた時、子供心にすごく感動した。 でも僕はママに聞いたその話を今の今まですっかり忘れていた。
僕がお兄さんにママと同じ事を望んだのは、きっと頭の隅にその話の記憶が残っていたからだ……
僕は遊園地に大事な忘れ物をした事を彼に告げた。 ママにそっくりな僕は、その時お兄さんからキスの変わりに何かをプレゼントしてほしかったのかもしれない。
「……観覧車の中でキスするのを忘れちゃった」
僕はそれを言う時しっかりとお兄さんの目を見つめていた。お兄さんは小さくため息をついてにっこり微笑んだ。
「キスなら今しただろう?」
「だって……観覧車の中でしたかったんだもん」
「じゃあ今度遊園地へ行った時にすればいいだろう?」
「……初めてのデートの日にしたかったんだもん」
彼にそう訴えた時、僕の目に涙が浮かんだ。通りかかった車のライトが、涙の向こうで滲んで見えた。
「そんな事で泣くなよぉ」
お兄さんは泣いてしまった僕を見つめ、すごく困った声を出した。
僕はいつも彼を困らせてばかりいた。
少し前まですごく幸せな気分だったのに……こんな時に泣いてしまう自分が大嫌いだ。
でも、きっとこれもママの血だ。ママはパパとの初めてのデートで観覧車に乗れなかった時、きっと今の僕と同じように泣いたんだ。
僕の肌が白いのも、目の色が薄いのも、お兄さんのような人を好きになったのも、そして小さな事ですぐに泣いてしまうのも、きっと全部ママの血なんだ。
僕はハンカチの代わりにお兄さんのポロシャツで涙を拭いた。こんな事で泣いてしまう自分がすごく恥ずかしかった。
この時僕はもっと強くなりたいと思った。 肌の色や目の色を変える事はできないけど、努力すればもう少し強くなる事はできるはずだ。
「もう泣くな。お前は笑ってる方がカワイイんだから」
優しいお兄さんは穏やかな声で僕にそう言った。
僕はもう一度彼の手をしっかりと握ってそんな彼の顔をじっと見上げていた。
「わがまま言ってごめんね。僕、もう泣かないよ」
精一杯強がりを言うと、お兄さんがもう一度僕を抱きしめてくれた。そして彼は僕の耳元でこう囁いた。
「今から俺が魔法を使って夜空の星を全部流れ星に変えてやるよ。だからお前は流れ星にいっぱい願い事をするんだぞ。分かったか?」
僕は彼のたくましい腕に抱かれながら頭上に輝く星たちを見上げた。
その時はまだお兄さんの魔法がどんなものか僕にはよく分からなかった。
お兄さんは僕を荷台に乗せてゆっくりと自転車を走らせた。
そして僕らの乗る自転車が急な坂道に差し掛かった時、お兄さんがキキーと大きな音をたてて自転車にブレーキをかけた。
歩道の上で止まった自転車の横を、車がどんどん走り抜けていった。
自転車にまたがったまま振り向くお兄さんの顔は走り去る車のライトで照らされていた。
「トモ、これから夜空に魔法をかけるから、お前はちゃんと星を見てろよ」
僕の両手はその時お兄さんの腰に回していた。彼はその後右手で僕の手を握り、左手で自転車のハンドルを掴んで思い切りよくペダルを踏んだ。
「この手を離す時が魔法のとける時だ。それまでしっかり星を見てて」
お兄さんはそう言って右手に力を入れた。彼の手が離れる時はきっと自転車にブレーキがかかる時だ。
僕はお兄さんの背中にしっかりとしがみ付いてじっと星空を見上げていた。
自転車が風を切って坂道を下り始めると、頭上に輝く星たちが見事に全部流れ星に変わった。
それは、すごく感動的な瞬間だった。
「すごい!」
「今のうちに願い事をしろよ!」
風に乗ってお兄さんの声が僕の耳に届いた。
夜空に輝く星たちは猛スピードで坂を下る自転車と同じ勢いで僕たちを追いかけてきた。
真っ黒な空に光るたくさんの星たちは、きっと僕らと同じ風を感じていた。
僕は次々と流れ行く星たちにいっぱいいっぱいお願い事をした。
お兄さんとずっと一緒にいられますように。
お兄さんといっぱいキスができますように。
ママとパパが早く仲直りできますように……
僕たちの乗る自転車はどこまでも走り続けた。お尻の下に感じる振動がとても心地よかった。 そして僕の手を握る彼の右手の感触はもっと心地がよかった。
そして流れ星はどこまでも僕たちを追いかけてきた。
お兄さんはいつも僕に元気をくれる。
流れ星もいいけど、僕は今夜お兄さんにもう一つだけ決してとけない魔法をかけてほしい。 重ね合った僕たちの手が二度と離れないようにしてほしい。
お兄さんの手が僕の手をずっと握っていてくれたら、僕は涙を拭う事もできなくなってしまう。
でも……お兄さんと手を取り合っていれば、僕はもう決して泣いたりしないだろう。
終わり