12.

 僕は自分の部屋に明かりを灯し、今日でサヨナラするすべての物に別れを告げた。
お兄さんと愛し合ったベッドやずっと使い続けてきた学習机。
彼らに心の中でサヨナラ、と言うと彼らも僕にサヨナラ、と言ってくれているような気がした。
僕は皆に別れを告げた後、クローゼットのドアを開けて中から数枚の洋服を取り出した。
コンコンとドアがノックされてママが僕の部屋へやって来たのは、何枚かの洋服をベッドの上に放り投げた直後だった。
僕はピンク色のパジャマを着たママと正面から向き合った。僕の目と同じ色をしたママの目は、少し潤んでいるような気がした。
ママは何も言わずにベッドの上に正座してそこに放り出された洋服をていねいにたたみ始めた。 そして僕は、ベッドの下からボストンバッグをひっぱり出していた。
「赤いティーシャツも持って行きなさい。それから、黒いズボンもね。あれはトモのお気に入りだったでしょう?」
ママは洋服をたたみながら静かにそう言った。
僕はママに言われた物をクローゼットの中から取り出し、それをそっとベッドの上に置いた。
ママの金色の髪は電気の光が当たってキラキラと輝いていた。
その時、ベッドの上に座るママがすごく小さく見えた。
幼い頃はいつもママの腕に抱かれていたのに、僕はいったいいつママの背丈を追い抜いてしまったんだろう。

 「トモは……パパの事が好きなのね」
ママは僕に背を向けたままでそう言った。
僕はポツポツと語り始めたママの言葉を床の上に立ってぼんやりと聞いていた。
「トモはパパの事が好きでしょう? だって……トモのお兄さんはパパにそっくりだもの」
ママはそう言ったけど、僕にはあまりピンとこなかった。
パパはわりと太っているし、肌の色も白いし、お兄さんとは似ても似つかないような気がした。
「アメリカのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんはパパとママの結婚に反対だったのよ。でも、パパが2人を説得してくれたの。 絶対にママを幸せにするから結婚を許してほしいって……そう言ってくれたの」
僕はその話を聞いてすごく驚いていた。それはまるっきり初めて聞く話だったからだ。
それにお祖父ちゃんとお祖母ちゃんはパパにも僕にもすごく優しくて……とても2人の結婚を反対していたようには思えなかった。
「今は少しくたびれちゃってるけど、昔のパパはすごくかっこよかったのよ。トモのお兄さんのように……すごくかっこよかったのよ」
僕はママに背を向けてベッドの端に腰かけた。
するとその時、ベッドの足の横に赤いリボンが落ちているのが見えた。
「この前あんたに言われた事、すごく堪えたわ。ママね、家出して実家へ帰った時、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんにすごく怒られたの。 子供を置き去りにして家出するなんて母親失格だって……そう言われたの」
僕は床の上に手を伸ばして赤いリボンを拾い上げた。それは僕とお兄さんの運命の赤い糸だった。
「ママは実家に帰ってる時怒られてばかりだったわ。昔は結婚に反対したくせに、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも今はパパの味方ばかりするのよ。パパほどいい人はいないから早く帰って仲直りしろって……そればかり言うのよ」
ママの声がだんだん涙声になってきた。
僕はその時、ママに何を言ってあげたらいいのかよく分からなかった。
「お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもあんたも、皆パパの味方なのよね。どうせ誰もママの気持ちなんか分かってくれないのよ」
僕は静かに振り返ってママの背中を見つめた。その時ママの背中がとても淋しそうだった。そしてその背中は微かに震えていた。

 僕は幼い頃いつもママの背中を追いかけていた。
ママがキッチンに立っている時や電話をかけている時、いつもママの背中にしがみ付いて離れなかった。
僕がママを追いかけなくなったのはいったいいつ頃だったんだろう。
はっきりとは覚えていないけど、きっと僕の髪の色が金色から茶色に変わった頃のような気がする。
僕は昔、ママにそっくりだと人によく言われた。でも、そう言われなくなったのもちょうど髪の色が変わった頃のような気がする。
でも……髪の色が変わっても僕自身は何も変わっていない。
淋しがり屋ですぐ泣くところとか、後先考えずに家を飛び出したりするところ。ママと僕はそんなところがそっくりだ。
「僕は……きっとママに似てるんだよ」
「え?」
「だって、ママはパパの事を好きになったんでしょう? 僕はママと好みが似てるから、パパによく似たお兄さんを好きになったんだよ」
僕はこの時、自分がママの立場だったらどうしてほしいかを必死に考えていた。
僕はママが本当はパパと仲直りしたがっている事をちゃんと分かっていた。
僕は悲しくて泣いている時、大好きなお兄さんに抱きしめてもらいたいと思う。 僕にそっくりなママだって、きっと同じように思うはずだ。ママはきっと、今すぐパパに抱きしめてほしいはずだ。
でも、パパはここにはいない。僕だって、昔みたいにママの背中にしがみ付く事はできない。
だったらせめて……近くにいる僕がママに優しい言葉をかけてあげなくちゃいけない。
僕がこういう事を分かるようになったのは、きっとお兄さんのおかげだった。
そして僕は、ママの手に赤いリボンを握らせた。
それはついさっき床の上から拾い上げた運命の赤い糸だった。
「これ、ママにあげる。僕とお兄さんは運命の赤い糸で結ばれてるんだ。僕にはその糸がちゃんと見えてるから、もうリボンはいらない。 ママとパパもきっと赤い糸で結ばれてるんだよ。でもママにはそれが見えなくなってるんでしょう? だけど、どんなに目が悪くてもそのリボンならちゃんと見えるはずだよ。 パパが帰ってきたら、ちゃんとそれをパパの手に結んであげて。そうすればきっと……もう一度パパと仲良くなれるから」
それがママにとって優しい言葉だったのかどうかは分からない。でも、この時僕がママに言える言葉はそれしか浮かばなかった。

 ママは僕に背を向けたまま一度も振り向かなかった。
その後ママは綺麗にたたんだ洋服をベッドの上に残して立ち上がり、黙って部屋を出て行こうとした。
「ママ、1人で淋しくない?」
僕はドアの前に立つママに声をかけた。ママはもうドアの取っ手を掴んでいて、今すぐ僕の部屋を出て行ってしまいそうだった。
「そう思うなら……新学期が始まる前にちゃんと帰ってきて。お兄さんの所へはここから通えばいいでしょう?」
ママはそれだけ言い残して部屋を出て行った。一度も振り向かず、決して僕に涙を見せずに。
きっとそれがママのプライドなんだ。僕はその事をちゃんと分かっていた。
そして一度も振り向かずに行ってしまったママの手には、しっかりと赤いリボンが握られていた。