28.

 夜の景色が、足早に通り過ぎていく。
タクシーの揺れは心地いい。流れるネオンも、とても綺麗だ。それが全部流れ星だったら、次から次へと願い事をしたい気分だった。
口にはまだ甘ったるいコーヒーの味が残されている。でも、耳には苦々しい話が焼き付いている。
清美さんはいつものように笑っていたけれど、彼女の言葉は俺を揺るがした。


 オフィス街の裏路地に、ぽつんと1つ自動販売機が光っていた。
清美さんは小銭を取り出して温かい缶コーヒーを2本買うと、そのうちの1本を早速俺に手渡した。彼女の背後には古ぼけたビルがあり、風が吹くたびに小さな窓ガラスが揺れていた。
「寒いのに引き止めてごめんなさい」
缶コーヒーだけでは足りないと思ったのか、彼女は身に着けていたマフラーを素早く外し、そっと冷たい首にかけてくれた。
しかし俺は、すぐにそれを返した。フワフワした温かそうなマフラーは、俺なんかよりも妊婦の首に巻いた方がいいと思ったからだ。
ただ清美さんは、マフラーを突き返された時一瞬すごく悲しそうな顔をした。彼女は再びマフラーを身に着ける事はせず、さっとバッグの中へ納めてしまった。
路地には帰宅を急ぐ人たちが溢れていた。そこは引っ切りなしに車も通るから、辺りは静寂とは程遠い環境だった。しかし通りかかる人たちは、俺たち2人にまったく無関心だった。
「2人きりで話すの、初めてだね」
清美さんはすぐに笑顔を取り戻していた。自動販売機の強い光が、その目を明るく照らしている。
「私の事……嫌いだよね?」
小さな声でそう言われて、俺は少し戸惑った。彼女はきっと、マフラーを突き返された事で薄々感じていたその思いを確信に変えたんだ。
でも俺は、清美さんが嫌いというわけではなかった。兄貴との結婚話を聞いた時はすごくショックを受けたけれど、俺が憎んだのは彼女ではなく兄貴の方だった。
「幸也くんは、私にお兄さんを盗られたと思ってるの?」
いきなりそう言われて、体温が急上昇するのを感じた。
彼女はコーヒーをたっぷり飲んで間を取った後、真剣な目をして俺をじっと見つめた。その目には、ある種の覚悟が宿っているような気がした。
「だとしたら、誤解だよ。あの人は、私を愛してなんかいないから……」
清美さんは思い切って発言したのかもしれないけれど、その言葉を聞いてもあまり驚きはなかった。兄貴が清美さんを愛していない事は、なんとなく想像がついていたからだ。
ただ、彼女がそれに気付いていたのは予想外だった。
俺はその時、嘘でもいいから驚いたフリをして、すぐにその言葉を否定するべきだった。でもその判断が一瞬遅れて、沈黙のまましばらく時間が流れてしまった。
彼女は俺が驚きもせず、何も言わない事で、薄々感じていた思いをまた1つ確信に変えただろう。そんな清美さんの胸の内を考えると、心が壊れそうなほど大きく揺らめいた。
それでも、残酷な沈黙は続いた。今更驚いてももう遅いし、かといって他の方法で彼女をフォローする手段も持っていなかったからだ。
自分に向けられる真っすぐな視線に耐えられず、俺は静かに俯いた。
すると、漠然と彼女の腹に目がいった。ゆったりとしたロングコートに包まれてはいても、そこが大きく膨らんでいる事だけはよく分かった。
「あの人は、子供ができたから責任をとろうとしてるだけなの。本当に、ただそれだけ」
彼女の声は穏やかすぎた。それが返って怖くて、もう顔を上げる事ができなくなった。
俺は瞬きする事も忘れてしまい、しばらくすると乾いた目に薄っすらと涙が浮かんできた。気持ちを落ち着かせるためにコーヒーをすすってみても、特に効果は感じられない。
「私とあなたは同志なのよ。2人とも、あの人に裏切られたわ。だから私たち、きっと仲良くなれると思うの」
その時はかなり混乱していたけれど、これだけははっきりと分かった。
清美さんは、俺と兄貴の関係を知っている。彼女はそれを知った上で結婚し、それを知った上で子供を産もうとしているんだ。
「ねぇ、そろそろ家に戻ってくれないかな? あの人、幸也くんがいなくてすごく淋しそうにしてるのよ。私はあなたたち2人の事に干渉するつもりはないわ。ただ、もうあの人の淋しそうな顔を見るのが嫌なの。だから、1日も早く戻ってほしいのよ」
俺たち兄弟の関係を尊重する。彼女は寒空の下でそう宣言した。それは俺にとって、衝撃的な瞬間だった。
まだ見ぬ赤ん坊を撫でるかのように、冷たい風が彼女のコートを揺らした。
清美さんは、俺と兄貴が絡み合うのを、見て見ぬフリをするという。
兄貴と清美さんの子供は、腹の中で今の話を聞いていたんだろうか。そんな事を考え始めたら、あまりにも恐ろしくて足がブルブルと震えてきた。
俺が何も言わずに立ちすくんでいると、清美さんがコーヒーの缶をゴミ箱の中へ投げ入れた。その時俺は、彼女の話が終わった事を覚った。

 その後俺たちは、黙って別れた。
彼女はタクシーを停めて俺1人を乗せ、幾らかの金を手に握らせて、ドアが閉まると微笑みながら小さく頷いた。
俺は清美さんも同乗するものと思っていたけれど、彼女はそうせずに俺の乗ったタクシーを見送った。
清美さんは、強引に俺を連れ帰ろうとはしなかった。きっと彼女は、しばらく考える時間を与えてくれたんだ。


 まだ少し体が熱い。
俺はシートに身を任せて、ゆっくりと目を閉じた。
頭の中には、さっき見た自動販売機の光が1番近い記憶として残されている。そしてその中に浮かぶのは、ひまわりのような清美さんの笑顔だ。
兄貴が清美さんを家に呼んで、2人が結婚する事を告げられた時、俺はショックを隠せなかった。
でも今は、彼女の言葉にそれ以上のショックを受けている。それは、あの人の痛みが分かるからだ。
俺もそうだったけれど、好きな人の裏切りを知っただけでも相当なダメージだ。
それでいて兄貴を憎む事もできず、敵であるはずの俺には歩み寄って、なんとか上手くやっていこうとする姿があまりにも痛々しい。
彼女はこの結論を出すまでに、いったいどれほど悩んだんだろう。
あの人の笑顔には、まったく嫌みがない。きっといい所のお嬢さんで、何不自由なく幸せに暮らしてきた人なんだと思う。
そんな人が、何故よりによって兄貴みたいな奴に引っかかってしまったんだろう。あいつになんか出会わず、もっと誠実な男と恋をしていれば、彼女の未来は全然違ったものになっていたはずなのに。
それを思うと、本当に心がはち切れそうになる。

 兄貴に会おう。
いつかそうしなければならないのなら、それは今だという気がした。
何しろもう時間がない。赤ん坊が産まれる前に、すべての事にカタをつけたい。
今までは自分の事で精一杯だったけれど、俺はやっと気が付いた。これは、俺と兄貴だけの問題ではないんだ。
清美さんの事や、これから産まれてくる子供の事。それをちゃんと考えて、1番いい答えを導き出さなければならない。
清美さんには言えない事も、俺なら兄貴に言える。だから今こそ兄貴と会って、とことん話し合おう。
本当はあいつに会うのが怖いけれど、今はそうするしかないんだ。