27.

 これじゃあまるで、ストーカーだ。
午後6時。俺は今、折戸の会社のそばにいる。
そばといっても、それほど近くにいるわけではない。道路を挟んで向かい側の、街路樹の陰にそっと潜んでいるんだ。
死ぬほど彼に会いたいけれど、電話をする気力は失われていた。携帯にかけても無視されそうだし、会社にかけるのも気が引ける。
だからこうしてノコノコやってきたのに、これ以上彼と距離を縮める事ができずにいた。
この前気まずく別れたから、いざ会いに来ても不安が募る。
なんとか会えれば自分の思いを伝えるつもりでいるけれど、うまく言えるかどうかが不安でたまらない。それでも絶対に、言わなければならない。

 そのうち折戸は、仕事を終えてビルの中から出てくるはずだ。今もすでに、ぽつぽつと退社する人の姿が見えている。
彼が出てきたら少しずつ距離を詰めて、その間に気持ちを整理したい。俺はそういう作戦でここにいた。
しかし寒くて仕方がない。大きな車が目の前を通ると、それは冷たい風を撒き散らしていく。そのたびに震えながら、ここで辛抱強く彼を待っていた。
それにしても、俺はこんなに臆病だっただろうか。彼との最初の夜を思い出すと、今の自分が信じられない。
よく考えてみると、あの頃が異常だったような気もしてくる。
酔った折戸を誘ってホテルへ連れ込み、彼の上にまたがった記憶が鮮明になると、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなってきてしまう。
本当に、よくあんな大胆な事ができたものだ。多分1回きりのつもりでいたから、どんな事でもできたんだと思う。
時間が経つにつれて、だんだんビルの中から出てくる人が増えてきた。
その人たちは、大抵すぐに駅の方へ向かって行く。折戸も多分そうすると思うけれど、俺は道路を挟んだ向かい側を、彼と平行に歩いていけばいいんだ。


 そして、その時がやってきた。
彼は外へ出てくると、一旦立ち止まって夜空を見上げた。
だから俺も、月を仰いだ。2人が離れた場所にいるとしても、今は同じ空を見上げている。そんな小さな現実が、俺にとっては嬉しかった。
ところがその後、すぐに地獄へ突き落された。次に彼を見た時、隣に赤いコートの女の人が立っていたんだ。
彼女の顔はよく見えなかったけれど、その華やかさがすごくショックだった。
彼女は遠くから見ても光り輝いていた。その人の周りだけがやけに明るくて、思わず幻惑されてしまいそうなほどだった。
あれはきっと、由利ちゃんだ。
それを悟った時、折戸が彼女と共に駅の方へ向って歩き始めた。
俺はその様子を目で追いながら、そこから一歩も動く事ができなかった。


 冬の風に吹きつけられても、寒さはすでに感じなくなっている。
折戸の姿は、もう肉眼では見えなかった。
今日は何のためにここへ来たんだろう。これでもかなりの勇気を振り絞ったのに、すべてが水の泡になってしまった。

昨夜は楽しかったです。
今度また誘ってくださいね。

 今頃になって思い出した。折戸の携帯電話には、由利ちゃんからのそんなメールが残されていた。
それを思い出すと、なんだか自信がなくなってきた。
彼女は俺よりもずっと早く折戸と知り合い、彼と楽しい時間を共有してきたんだ。あんなに華やかな人と一緒にいたら、絶対悪い気がするはずはない。
さっき2人は、何を話していたんだろう。これから一緒に、どこへ行くんだろう。
あれこれ考え始めると、不安がどんどん膨らんでいく。車のライトを見つめていると、ついそこへ引き込まれてしまいそうになる。
でもこんなふうじゃいけない。折戸を信じないと、話が前へは進まない。
彼は、由利ちゃんとは特別な仲ではないと言っていた。折戸は誠実な人だから、彼女を好きなら俺と寝たりはしないはずだ。
そうやって1つずつ安心するための口実を見つけ、自分に強く言い聞かせた。
今日は空振りに終わったけれど、今度来る時は必ず折戸に告白する。俺はもう一度決意を新たにして、ここを立ち去る事にした。
「仕方ない。帰るか」
独り言をつぶやいて、夜空の下をトボトボと歩き始めた。次々と見えてくる車は、俺の横をどんどん通り過ぎて行った。


 それからしばらく歩き続けると、後ろの方で大きくタイヤの鳴る音がした。どんな車かは知らないが、恐らく急ブレーキを踏んだんだろう。
夜のオフィス街は、意外なほど綺麗だった。
高層ビルの窓には所々に明かりが灯り、そこにまだ人がいる事を示している。
屋上に点滅する赤いライトは、冬の夜空に映えていた。それはクリスマスツリーの電飾を思い起こさせ、漠然と見ていると少しだけ心が和んだ。
「ねぇ!」
俺が赤の光を見つめている時、風に乗って誰かを呼びとめる声が響いてきた。 でもこんなところで自分を呼びとめる人などいないはずだから、俺はそれほど気にせずやり過ごしていた。
「ねぇ、幸也くん……!」
ところが今度は、周囲の雑音に混じって名前を呼ばれたような気がした。ただそれは半信半疑だったので、空耳だろうと思って歩く速度を少し緩めただけだった。
「幸也くん!」
しかし三度目の声は、はっきりと聞きとる事ができた。
そして俺は、ついに振り返った。すると視線のだいぶ先に、ヨタヨタしながら走ってくる女の人の姿があった。
その人は、あまり足が早くはなかった。
少しずつこっちへ近付いてはいるものの、なんとなく足元がおぼつかない印象だ。他にもこっちへ歩いてくる人がいたけれど、走る速度はその人たちとあまり変わらなかった。
それでも彼女は走り続け、俺の名前を呼んで大きく手を振った。最初はその人が誰なのか、俺には分からなかった。

 その姿が徐々に大きくなってくると、やっと気が付いた。
ひまわりのように微笑む、若い女の人。驚く事に、それは清美さんだった。俺はすぐに、彼女が妊娠している事を思い出した。
「……走るなよ!」
大きな声で叫びながら、自然とそこから駆け出した。風を切って走ると、また少し頬が冷えてくる。
俺が走り出すと、彼女はやっと立ち止まり、街路樹にもたれかかって俯いた。
すでに肩で息をしているのが、はっきりと分かる。体の重い妊婦が無理をして走れば、息が切れるのは当然だった。
なのにどうして走ったりするんだろう。俺の方から駆け寄れば、あっという間に追いつくのに。
「どうして走るんだよ。転んでも知らないぞ!」
俺が走ると、案の定すぐに清美さんのところへたどり着いた。
彼女の白い息が、俺の目前を曇らせる。刹那な霞の向こうには、明るい笑顔が存在していた。
「会えてよかった」
清美さんはそう言って、力強く俺の両手を握りしめた。その手はとても温かくて、驚くほど小さかった。