15.

 俺はマサトと共に一夜を明かし、彼とは日曜日の昼頃に別れた。
俺はその翌日の月曜日 学校をサボって彼の見送りをするために空港へ向かった。

 午前10時の国際線ターミナルはそれほど混み合ってはいなかった。
俺は誰かの呼び出しアナウンスが流れるターミナルの中をキョロキョロしながら彼の姿を探して歩いた。
チェックインカウンターには航空会社の制服を着た暇そうな女が2〜3人ぼーっと突っ立っていた。
スーツケースを引きずって歩く人はそれほど多くは見当たらなかった。 そして俺が見かけたそのすべての人がマサトではなく別人だった。
銀行を覗いても、カフェを覗いても、マサトの姿は見当たらない。
俺はターミナルの中をうろついて10分が過ぎた頃、彼に黙って見送りに来た事を後悔し始めていた。 人1人探すには、国際線ターミナルの中は広すぎた。
でも、俺はもう少し彼を探してみようと思った。携帯に電話をすれば彼の居場所はきっとすぐに分かったけど、せっかく黙って来たんだから、できれば自力で彼を見つけてびっくりさせてやりたかったんだ。
それでもなかなか彼を見つける事はできず、更に10分の時が流れた。

 彼が乗る飛行機は、13:10発 ロンドン行き。
出発便が表示されている黒い掲示板の前に立つと、彼と離れる時がどんどん近づいている事を実感した。
飛行機が一機飛び立つと、掲示板からその便名がすぐに消え失せる。 その表示の変化を見ただけで、胃をわし掴みされたかのような痛みが胸に走る。
早く彼を探さないと……『行ってらっしゃい』を言いそびれてしまう。

 その日は見事な秋晴れで、壁全面がガラス張りのターミナルには太陽の明るい光が降り注いでいた。
俺は彼を探してその光の中を走った。
売店には数人の客がいたし、喫煙所には黒い椅子と灰皿が並んでいた。
光の中に浮かぶ薄い雲のような 誰かの吐き出したたばこの煙の中を走り抜け、やっとマサトを見つけた時、彼はサッカー中継をやっている大型テレビの前に座っていた。
そこは出発するまで時間のある人たちがうたた寝したり本を読んで過ごすような、ちょっとゆったりした空間だった。
俺は椅子を6つぐらい潰して仮眠を取っている外人や手帳を広げて何か考え込んでいるサラリーマンの横をゆっくりと通り抜け、一歩一歩彼に近づいた。
彼はテレビの真ん前を陣取り、硬そうな椅子に深く腰かけ、黙ってサッカー中継を見つめていた。
彼は俺が近づいても気付かないほどサッカーに夢中になっていて……俺は彼の視線を釘付けにする大型テレビに嫉妬した。

 そっとマサトの隣に腰かけると、やっと彼がチラッと俺に目を向けた。
太陽の光がさんさんと降り注ぐターミナルの待合室で、俺たちはやっと会えた。
「優クン、来てくれたの?」
マサトは驚きを隠さなかった。
今日は月曜日。俺は普通なら学校へ行っている。だから、彼が驚くのも無理はない。
「学校は?」
「サボった」
マサトは続けて何か言いかけたけど、結局何も言わずにただ太陽の光の中で微笑んだ。 いつものように針で刺したようなエクボを頬にこしらえて。 でもいつも優しい彼の目は……少し瞼が腫れていた。

 それからマサトは椅子に座ったまま黒いハーフコートを脱ぎ、それをちゃんとたたまずに俺と彼の座っている椅子の間へ置いた。
そして彼は、コートの下で俺の手をぎゅっと強く握り締めた。 マサトの大きくて温かい手。俺もコートの下でその手をきつく握り返した。
俺たちは見つめ合う事もなく、他人には分からないように手をつないだまま2人ともただ俯いていた。 俺の視線の先にはその時、床に落ちている1枚のレシートがあった。
一昨日から昨日にかけての事が全部思い出され、彼の顔をまともに見る事ができない。 それはきっと……マサトも同じだった。
出発便の案内が次々とアナウンスされる中 お互いに床を見つめながら蚊の鳴くような声で会話を交わすなんて……ちょっと変な気分だった。
「優クン、すごくかわいかったよ」
またそんな事を言われ、頬が熱くなる。夕日や暗闇と違って、明るい太陽は真っ赤な頬を隠してはくれない。
「マサトも……素敵だったよ」
コートの下で握り締めた彼の手が汗ばんでいた。
薄っすらと汗をかいていた彼の胸を思い出す。情熱的な夜の記憶が頭の中に蘇る。
息が苦しくなるほどの長いキス。背中の下にある汗ばんだシーツの感触。
彼の指が体に触れると、頭が変になりそうなほど気持ちが良くなった。
マサトに比べるとずっと子供でひ弱な俺。でも、その俺の手が彼を満足させられると知った瞬間の幸せは……きっと一生忘れられない。

 マサトは突然俺の手を放し、それから立ち上がってもう一度ハーフコートを羽織った。
彼の白い肌は太陽が当たって……透き通って見えた。でも、その顔色は冴えなかった。
その後すぐに俺も立ち上がり、彼に促されてしばらくターミナルの中を歩いた。 俺たちはその間、空港職員や搭乗待ちの人たちと随分すれ違った。 でもターミナルの端の方まで行くと、すれ違う人は次第にいなくなった。
やがて彼に背中を押されて太い柱の前を遮り、隅の方にある長い通路の奥へ進むと突き当たりに男子トイレがあった。
そこは本当にターミナルの隅っこで、近くに待合室も何もないせいか、ほとんど人気がなかった。
2人とも無言でトイレに向かい、最初の時と同じように長く並んだ個室の1番奥へ辿り着くとマサトは俺をそこへ押し入れた。
彼が後ろ手に鍵を閉めるカチャッという音を聞いた時、俺はそこが2人きりの空間になった事を理解した。
国際線ターミナルのトイレはさびれた駅のトイレとは違って、壁の落書きなど一切見当たらなかった。
白いドアを背にして、マサトが俺をきつく抱きしめる。
俺の背中の後ろには便器があるし、床にはトイレットペーパーのかけらが散らばっている。 でも……マサトと2人きりになれるなら、どんな場所でも構わない。
「大好き……」
そう言って彼の胸に飛び込んだ途端、そんなつもりはないのにまた涙が出てきた。
ちゃんと笑顔で行ってらっしゃいを言うと決めていたのに。 そのためにあの晩最後の一滴がなくなるまで涙を流し続けたのに……

 背中に彼の両手の温もりを感じる。10本の指の感触がはっきりと伝わってくる。
本当はもう離れたくない。このまま時が止まってしまえばいいのに。
「優クンは泣き虫だなぁ」
彼のそんな小さなつぶやきが、頭全体に響いた。
そんな事ないよ、と反論したかった。 俺はいつでも誰にでも甘えたり涙を見せたりしているわけじゃない。 マサトにしか甘えられないし、マサトの前でしか泣けないんだ。
でも……何をどうやってもすぐに泣き止む事は困難だった。
本当にこれで半年間会えなくなってしまう。そんなの、つらすぎる。
「泣いちゃダメだよ。僕だって……本当は泣きたいけど我慢してるんだから」
そう言われた時、耳の奥に母さんの声が響いた。
「お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」
俺は弟が生まれて以来ずっとその言葉に縛られて生きてきた。でも、もう嫌だ。俺は……自分を解放したい。 だけど、俺の変わりに今度はマサトがこの言葉に縛られるとしたら……そんなのは絶対に嫌だった。

 温かい胸を離れ、涙を止められないままマサトの顔を見上げると、彼は悲しそうな目をして唇を噛み締めていた。
きつく噛み締められたマサトの唇。俺はその柔らかい唇をこの手で解放し、早くキスがしたかった。
俺は右手を彼の頬に当て、涙のベールの向こうに見える彼の目を見つめた。
「泣いてもいいんだよ。お兄ちゃんだからって我慢しなくていいんだよ。悲しい時は……俺の前では泣いてもいいんだよ」
俺はマサトを見つめていながら、自分にそう言っていた。
「マサトが悲しい時は、俺が側にいて慰めてあげるよ。ちゃんと俺が……マサトを守ってあげるよ」
俺がそう言った瞬間、背中に強く感じていた彼の手の感触が突然緩やかなものに変わった。 それと同時にマサトの頬に大粒の涙が零れ落ち、強く噛み締められていた唇が解放された。
マサトが昨夜1人でたっぷり泣いた事を、俺はちゃんと分かっていた。 彼は俺と一緒にいる時……いつも大人だった。 何があっても決して取り乱したりしなかったし、泣いたりもしなかった。
でも、俺と一緒にいる時は何も我慢してほしくない。 だからこれでいいんだ。マサトには1人ぼっちで泣いてほしくなんかない。
「向こうに行って誰かにいじめられたら、すぐに俺を呼んで。そいつをやっつけてやるから」
マサトは泣きながら笑って二度三度と頷いた。
彼の涙の行き先を見届けようとして視線を落とすと、喉ぼとけの横に2つ並ぶキスマークを見つけて……またちょっと恥ずかしくなった。
「優クン……」
彼が何か言いかけた。その時、通路の向こうからこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
俺は唇に人差し指を当てて彼を黙らせ、それから少し背伸びをして彼に『行ってらっしゃい』のキスをした。
始まりのキスは、ちょっとしょっぱい味がした。

 長いキスはいつまでも続いた。
俺たちは遠く離れてもお互いの温もりを忘れないように、何度も何度も唇を重ねた。
これまで彼と過ごした時間が再び頭に蘇る。最初に会った時から今までの出来事は、永遠に2人だけの秘密だ。
俺はもう二度と女に生まれてくればよかったなんて思ったりしない。 そしてマサトの側にいる女に嫉妬したりもしない。
彼に初めて会った時、マサトは俺の手を引いて卑猥な落書きがいっぱいのトイレへ連れて行った。 なんともムードのない出会いだった。
でも、あの日彼がためらいもなく俺の手を引いて行ったのは、俺が男だからだ。 今こうしてこの場所でキスを交わす事ができるのも、俺が男で彼も男だからだ。
彼はこのままの俺でいいと言ってくれた。 1人じゃ何もできないし、かっこ悪いし、泣いてばかりだけど……そんな俺でいいと言ってくれた。
だから俺も、ありのままのマサトを愛していきたい。 優しいだけのマサトじゃなくていい。怒ってもいいし、泣いてもいい。甘えたっていい。 俺はどんなマサトでも、きっと変わらず大好きだ。

 行ってらっしゃい、マサト。
俺は君と離れても、いつでも君の事を想ってるよ。
半年後に君が帰って来た時。その時は……またこの場所で『愛してるよ』のキスをしようね。

終わり